「鳴かぬなら・鳴くまで待とう・ホトトギス」
忍耐強く、いつまでも待ち続けるのが得意だったという「徳川家康」
実はとてつもなく「短気」で「怒りっぽい」人だった!
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この記事を短く言うと
・徳川家康は、「粘り強い」「我慢強い」わけではなく、実はかなり短気だった
・関が原の戦いで、家康はブチ切れて家臣に刀をふるったと言われている
・家康は「忍耐強い」のではなく、「臆病」だったから我慢するしかなかったのではないか
徳川家康は、非常に短気だった?
鳴かぬなら、鳴くまで待とう、ホトトギス
この俳句は、家康本人がつくったわけではなく、後世・・家康の生き様を表したものとされています。
織田信長と同盟し、その無茶な要求にも「我慢強く」従い続け
豊臣秀吉に屈服し、生まれ故郷である「三河」や、苦労して手に入れた「遠江・駿河・甲斐・信濃」を取り上げられて、関東へ国替えさせられ
それでも我慢して、最期には天下を取った・・・・。
そんな「忍耐強い」「我慢強い」「待ち続ける気長な人」というイメージがある「徳川家康」・・。
実はかなり短気だったと言われています。
「鳴かぬなら、鳴くまで待てない、ホトトギス」
けっこうキレちゃったりしてたみたいですよ。
家康の性格を表すエピソード
家康が短気だったことを表すエピソード・・・・関が原の戦いにおいて、ブチ切れて「部下を相手に刀を振り回した」と言われています。
関が原の戦い・・・・家康が本陣で騎乗して戦の情勢を見守っていた際・・・家康の後ろから「伝令役」が馬に乗って走り抜けていきました。
その「伝令役」の馬が、家康の馬と接触。伝令はそのまま逃げるように走り抜けていきました。
これに怒った家康は、なんと刀を抜いてその「伝令」に向けて振り下ろしたのだとか・・・。
しかし伝令役はその刀をギリギリかわし、走り去っていきます。
家康の怒りはおさまらず、左側にいた兵士の旗指し物を刀で切り倒したと言われています。
・・・・かなり過激ですね。関が原の戦いは、徳川家の命運がかかっていたため、プレッシャーはすごかったとは思いますが・・・それにしても刀を振り回すとは・・・温厚なイメージが強い家康・・・結構意外です。
一説によると、この短気過ぎて刀を振り下ろしたのは、家康本人ではなく、家康の影武者だったとも言われていますが・・・。
家康は元々短気で、彼が持っていた軍配は、「歯型」でいっぱいだったのだとか・・・それに家康には「爪を噛む癖」があったとも言われています。かなりイライラ・・・かなりの短気者・気短かだったんじゃないでしょうか。
忍耐強かったのではなく、臆病だった?
家康は、別に忍耐強かった・・・我慢強かった・・・わけではなく、「ただ臆病だった」だけなのではないでしょうか。
どういうことか?
家康は信長や秀吉に、随分こき使われています。
浜松城築城や、遠江国の内政に忙しかった時期に、家康は信長に援軍を要請され、当時の最大動員兵力「5000」を率いて「浅井・朝倉連合軍」との「姉川の戦い」に出陣。
生まれ故郷「三河」や、長年苦労して奪い取った「甲斐・信濃・駿河」などの領地を、秀吉の一言で取り上げられてしまい、北条氏の威光が強く残る「関東」へ国替えを命じられました。
佐竹義宣という、常陸の国を治めていた武将が、戦国時代が終わった時に、面白いことを言っています。
「信長・秀吉・家康の三者のなかで、最強は信長、次が秀吉、最期が家康である。
秀吉は、信長に忠誠心から従っていたのではない。
家康もまた、秀吉に忠誠心から従っていたわけではない。
『こいつと戦っても勝てない』
とわかっていたから、家康や秀吉は、大人しく従っていたのだ。
秀吉が信長に忠誠心を抱いていたのなら、信長の息子たちにした仕打ちは説明がつかない。
また、家康が秀吉に本気で忠誠を尽くしていたのなら、『秀吉の子・秀頼』を殺害するはずがない」
と・・・。
つまり「秀吉」も「家康」も、主君に対して「忠誠心」から従っていたわけではなく、勝てないから仕方なく従っていただけ、ということです。
家康が「我慢」を続けたのは、「我慢強い」からではなく、「我慢するしかなかった」からなのでしょう。
つまり家康は「臆病だった」と言えるのではないでしょうか。
諸説ありますが・・・家康は長男「信康」を、信長に命令されて切腹を命じた・・・と言われています。
それでも信長との同盟を続けた家康・・・。
信長には勝てない・・・だから従い続けた・・・我が子を奪われても、信長に従い続けた・・・。
かなりの臆病者だったのではないでしょうか。
だからこそ生き残れた・・・とも言えますけどね。
「徳川(松平)信康の最期」については、以下のリンク記事をご利用下さいませ。
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まとめ
本日の記事をまとめますと
・家康は非常に短気だったという説がある
・関が原の戦いで、些細な事でブチ切れて、家臣に対して刀を振り下ろしたことがある
・我慢強かったのではなく、実は臆病だったのではないか
以上となります。
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