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【豊臣秀吉】ひょうたん馬印の由来と意味!稲葉山城攻めが発祥だった

今回のテーマは豊臣秀吉とよとみひでよしです。

 

この記事では豊臣秀吉の馬印うまじるしについて、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば秀吉の馬印を、カンタンに理解できます。

 

秀吉の馬印は、瓢箪ひょうたんなのです。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,豊臣秀吉の馬印とは?そもそも馬印とは何なのか?

秀吉の馬印は千成瓢箪せんなりびょうたんと呼ばれるもの。馬印とは、それをかかげることで、戦場での自分の存在と手柄を、主君にアピールするためのもの。

 

2,豊臣秀吉の瓢箪ひょうたんの馬印は、どのように誕生したのか?

秀吉の馬印は、【1567年】の稲葉山城いなばやまじょう・攻略戦で手柄をたてた秀吉が、織田信長おだのぶながからもらったものといわれている。

 

3,馬印・千成瓢箪とは何か?

秀吉は、戦いに勝利するごとに、馬印に瓢箪ひょうたんを加えて増やしていき、いつしか千成瓢箪と呼ばれるようになった。しかし秀吉は、千成瓢箪を馬印には使っていないという説もある。

目次

豊臣秀吉の馬印は瓢箪ひょうたん!馬印とは何を意味するのか?

天下人・豊臣秀吉の馬印は、ひょうたんの形をしています。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)
「引用元ウィキペディアより」

その形は、槍の穂先にひょうたんを逆さまにくくりつけられた形。

《せんなりびょうたん》
「引用元ウィキペディアより」

中心の巨大なひょうたんのまわりに、小さなひょうたんを配置した、千成瓢箪せんなりびょうたんと呼ばれるものです。

 

豊臣秀吉は、このひょうたんを馬印として使用していたのです。

 

馬印うまじるしとは、自らの存在をアピールするためのもので、戦場でかかげられた物です。

 

この馬印を高々とかかげて、良い活躍をしていることを、主君に手柄をアピールしていたのです。

 

→→→→→【豊臣秀吉とは何した人なのか】についてくわしくはこちら

 


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ひょうたんの馬印が誕生したエピソード!稲葉山城攻めと槍のひょうたん

秀吉の馬印はひょうたんですが、これは織田信長から与えられたものです。

《織田信長》
クリックすると拡大できます
「引用元ウィキペディアより」

【1567年】、織田信長は宿敵である美濃国みののくにの斎藤家と戦っていました。

 

この戦いで手柄をたてた秀吉は、ひょうたんの馬印を与えられたのです。

 

斎藤家当主・斎藤龍興さいとうたつおきの城・稲葉山城を攻撃していた織田信長は、部下の木下藤吉郎秀吉きのしたとうきちろうひでよしに対して、稲葉山城いなばやまじょうへ潜入するように指示します。

 

秀吉は稲葉山城に潜入し、内部からの破壊工作に成功します。

 

破壊工作に成功した秀吉は、成功を信長に知らせるための合図として、槍の穂先にひょうたんを逆さまに刺し、それを振り回してエイエイオーと勝鬨かちどきをあげたといわれています。

 

その後、稲葉山城に移り住んだ織田信長は、この城を岐阜城ぎふじょうと改名したのでした。

 

現在、岐阜城がそびえ立つ金華山きんかざんには、秀吉の馬印【千成瓢箪】発祥の地が残されています。

 

→→→→→【秀吉の天下統一までの道のり】についてくわしくはこちら

 


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戦うごとに増えるひょうたん!いつしか千成ひょうたんに!

金のひょうたんを馬印とした秀吉は、織田信長の重臣として、数々の戦場に出撃。

 

勝利を重ねるごとに、馬印のひょうたんは数を増やしていき、いつのまにか千成瓢箪せんなりびょうたんと呼ばれるようになった、とのことです。

《千成瓢箪(せんなりひょうたん)》
「引用元ウィキペディアより」

しかし実は秀吉、この千成ひょうたんを馬印にしていないという説もあります。

 

当時、馬印には大馬印おおうまじるし小馬印こうまじるしというものがありました。

 

大馬印を使うことができるのは、総大将のみ。それ以外の部隊長たちは小馬印を使用するというわけです。

 

たとえば、指揮官である秀吉は大馬印をつかい、秀吉の部下である侍大将たちは小馬印をつかったのです。

 

以下に馬印の画像を用意いたしました。

「右から3番目が織田信長の馬印・左から2番目と5番目が秀吉の馬印」
【引用元Wikipediaより】

左から5番目にある金のひょうたんは、秀吉の小馬印。

 

左から2番目にある【さかさま軍配ぐんばいあかの吹き出し】が、秀吉の大馬印。

 

千成ひょうたんの馬印で有名な秀吉ですが、実は秀吉、千成ひょうたんを馬印には使っていないという説があります。

 

秀吉が千成ひょうたんを使ったのは、船印。つまり秀吉が乗っていた船に、それを知らせる目印として千成ひょうたんをつかったというのです。

 

確かに【金ひょうたん】や【軍配に吹き出し】よりも、千成ひょうたんのほうがインパクトありますからね。

 

秀吉のトレードマークとして千成ひょうたんが有名になった理由もわかる気がします。

 

余談かもしれませんが、馬印の画像の右から3番目・金の唐傘からかさは、織田信長の馬印です。

 

画像にはありませんが、徳川家康の馬印は、金の扇子せんす

 

また、馬印の他にも旗印というものがありました。

 

たとえば、武田信玄は風林火山ふうりんかざんの旗印で有名です。

 

徳川家康といえば、厭離穢土おんりえど欣求浄土ごんぐじょうどの旗印。

 

上杉謙信うえすぎけんしんといえば、毘沙門天びしゃもんてんの【毘】の一字の旗、または懸り乱れ龍かかりみだれりゅうの旗、などが有名です。

 

上の画像の一番右にある永楽通宝えいらくつうほうの旗印は、織田信長の旗印として有名ですね。

 

織田信長は貨幣、つまりお金を旗印としたのです。

 

→→→→→【織田信長の旗印】についてくわしくはこちら

 


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,豊臣秀吉の馬印は千成瓢箪と呼ばれるもの。馬印とは、それをかかげることで、戦場での自分の存在と手柄を、主君にアピールするためのもの。

 

2,秀吉の馬印は、【1567年】の稲葉山城・攻略戦で手柄をたてた秀吉が、織田信長からもらったものといわれている。

 

3,秀吉は、戦いに勝利するごとに、馬印にひょうたんを加えて増やしていき、いつしか千成瓢箪と呼ばれるようになった。しかし秀吉は、千成瓢箪を馬印には使っていないという説もある。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。

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