【織田信長】なぜ「天才」と呼ばれるのか?そのすごいところを解説!

この記事では「織田信長は、なぜ天才と呼ばれているのか」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「織田信長の凄さ」を、カンタンに理解できます。

 

「織田信長」は「決して諦めない不屈の精神」と「発想の転換」ができるからこそ、あれほどまでに勢力拡大することが出来たのです。


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この記事を短く言うと

 

1,織田信長が「天才」と呼ばれる理由とは?
信長は「誰も考えつかなかったアイディアを積極的に採用して、人並み外れた功績」を残すことに成功した

 

2,信長の「すごいところ」とは何か?
信長は「戦争」にはそれほど強くなかったが、「発想の転換」によって、「いくら負けても、即座に復活できる」ように軍団を構築した

 

3,「弱かった」のに、勝利し続けることができた理由とは?
「豊富な資金」によって、信長は何度負けても、何度でも復活することができた

信長が「天才」と呼ばれる理由とは、何か?

「織田信長」が「天才」と呼ばれる理由は

「誰も考えつかなかったアイディアを積極的に採用し、誰も成し遂げられなかったことを達成したから」

ではないでしょうか。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

織田信長は、それまでの戦国武将たちが「常識」としていたことを、次々と否定し、新しいアイディアを採用していきます。

 

たとえば、戦国時代の「兵士」たちは、農作業が一段落した季節の農民を兵士として採用する「半農半兵」が主流でした。

 

しかし信長は、「豊富な資金」を基礎として、「戦闘専門の傭兵集団」を組織し、城下に住まわせていたのです。


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この「傭兵集団」は、「危なくなったら即座に逃亡する」という弱点がありました。

 

その「弱点」を、これもまた「豊富な資金」で用意した「鉄砲」という強力な最新兵器で補い、「24時間365日戦える、圧倒的な戦闘専門の集団」をつくりあげたのです。

 

織田軍は、この「戦闘専門の集団」を、徹底的に鍛え上げ、強敵たちを次々と撃破。

 

「武田信玄」や「上杉謙信」すらも成し遂げられなかった「天下統一」へ、信長はあと一歩のところまで行ったのでした。

 

信長が天才と呼ばれる理由は

「それまでの常識を超えたアイディアと工夫を、恐れることなく採用し、誰も成し遂げられなかった成功を手に入れたこと」

なのではないでしょうか

 

「織田信長の功績」について、以下のリンク記事をどうぞ。

『織田信長がやったことや功績をカンタン解説!信長は何をした人なの?』の記事はコチラ

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信長の「すごいところ」とは?実はそれほど強くなかった!

信長の「すごいところ」、それは「発想の転換」が上手なことではないでしょうか。

 

実は信長、それほど強くありません。

 

「織田信長」は生涯に約「100回」ほどの戦いを経験していますが、敗北は「20回」

 

「上杉謙信」は生涯「約70回」の戦いにおいて、敗北は「2回」。

 

「武田信玄」は生涯「約70回」の戦いにおいて、敗北は「3回」。

 

信長は、「それほど戦に強くなかった」のです。

 

信長が出陣していたわけではありませんが、「手取川の戦い」で織田軍団と戦った「上杉謙信」は、圧倒的な勝利を得た直後に、こう言っています。

「織田軍は弱い」

 

そのとおりです。

 

織田軍団は、弱いことで有名だったのです。

 

ところが、その「弱い」はずの織田軍団が、「強い」はずの「上杉軍」や「武田軍」も成し遂げられなかった「天下統一」へ、もっとも近づいたのでした。

 

なぜでしょうか?


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その理由は「信長の発想の転換」があったからです。

 

実は「織田軍団」には、他の軍にはない「特徴」がありました。

 

それは「負けても負けても即座に復活することができる」ということです。

 

「織田信長」は、他の軍団にないものが2つありました。

 

1つが先程ご説明いたしました「農民兵ではなく、傭兵をつかっている」ということ。

 

 

もう1つが「とてつもなく豊富な資金」です。

 

信長は、当時主流だった「農業」よりも、「商業」を重視しました。

 

つまり、「領地の作物から得られる収入をアップさせることよりも、領内で行われている商売で得られる税金を増やすことに力を注いだ」ということです。

 

これにより、織田家は日本中のどこよりも「豊富な資金」を手に入れることができました。

 

その資金を使って、「傭兵」を雇ったわけですが、「傭兵」は資金があればいくらでも雇うことが出来ますので、いくらでも補充ができます。

 

つまり織田軍団は、「いくら負けても、その豊富な資金で、いくらでも復活できる」ということです。

 

古代中国において、軍神「項羽」に勝利して皇帝となった「劉邦」は、「項羽」と戦うたびに敗北していました。

 

しかし、劉邦は宰相「蕭何(しょうか)」が、限りなく「補給」をしてくれたおかげで、何度も何度も復活し、最期には「項羽」に勝利できたのです。


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戦国武将たちは、「絶対に勝利できる方法」を探り続けていました。

 

ところが織田信長は「絶対に勝利できる方法などないから、いくら負けてもいくらでも復活できる方法」を考え出し、織田軍団を最強の軍団に仕立て上げました。

「発想の転換」

これが、信長のすごいところなのではないでしょうか。

 

余談ですが、「劉邦」に敗北した軍神「項羽」とは、人気漫画「キングダム」に登場する名将「項燕」の孫にあたる人物で、「秦」を滅ぼした猛将です。

 

「信長の戦い」について、以下のリンク記事をどうぞ。

『織田信長の有名な戦いを年表で一覧にして紹介!信長は戦に弱かった?』の記事はコチラ

「項燕」については、以下のリンク記事をどうぞ。

『【項燕とは】信を倒した覇王の祖父!【呪われた予言】と壮絶な最期』の記事はコチラ

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弱かったのに勝利できた理由!「諦めない精神力」と、「用意周到な準備力」

「織田軍団は、負けても即座に復活できる」と申しましたが、それだけではありません。

 

信長は、「決して諦めない不屈の精神」と、「用意周到な準備をする用心深さ」をもっていました。

 

さらにいえば、「圧倒的な行動力」も持ち合わせていたのです。

 

1552年】、父「織田信秀」が病死し、19歳で織田家の家督を継承した「織田信長」。

 

このとき、信長の周囲は敵だらけでした。

  • 「清州城」の「織田彦五郎」。
  • 「守山城」の弟「織田信勝」。
  • 「駿河」の「今川義元」。

唯一味方だった美濃国の岐阜「斎藤道三」も、【1556年】に息子「斎藤義龍(高政)」に殺害されてしまい、「美濃国」も敵になってしまうのです。


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しかし、信長はこれらの敵を、順番に撃破していきます。

  1. 「織田彦五郎」
  2. 「織田信勝」
  3. 「今川義元」
  4. 「美濃国・斎藤家」

そしてそのために、信長は用意周到な準備を欠かしませんでした。

 

  1. 信長は、叔父「織田信光」と協力して、「織田彦五郎信友」を罠にはめて討伐。
  2. 弟「織田信勝」を、「病気」と偽っておびき出して暗殺。
  3. 「今川義元」は、それまで徹底的に鍛え上げた「馬廻衆・母衣衆」という、信長直属の親衛隊で急襲し討伐。
  4. 宿敵であった「斎藤義龍(高政)」の後継者「斎藤龍興」は、外堀を埋めるように敵将を次々と寝返らせることにより美濃から追放。

 

信長は、常に「最善」と「最悪」の両方を想定し、どちらになっても対処できるように、普段からの準備を欠かしませんでした。

 

そうであるから、信長は常に「素早い」のです。

 

そして、その「準備」を実行に移す「実行力」もバカにはできません。


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信長は当時「不可能」と考えられていた「今川義元」の討伐に向けて、本気で準備を整え、本当に成功させてしまっています。

 

さらに凄いことに、信長は「桶狭間の戦い」で「10分の1」の兵力で敵を撃破したにもかかわらず、二度と同じことをしませんでした。

 

一度「大逆転」に成功したものは、二度目も「大逆転」できると過信し、失敗するものです。

 

しかし信長は、「桶狭間の戦い」で圧倒的な数の敵軍に攻められたことを忘れることなく、「桶狭間の戦い」以降の戦いでは、常に「敵よりも多い数の軍」を用意して挑んだのです。

 

これもまた、信長の「用意周到」で「用心深い」という特徴をあらわしているのでしょう。

 

信長が弱かったのに勝てた理由、それは

「家督継承したとき、周囲が敵だらけでも、諦めなかった不屈の精神」

「勝利におごらず、用心深く用意周到な準備を欠かさなかったこと」

なのではないでしょうか。

 

「桶狭間の戦い」と「今川義元」については、以下のリンク記事をどうぞ。

『【桶狭間の戦いとは】簡単にわかりやすく解説!隠されていた真実に驚愕』の記事はコチラ
『今川義元のすべてを徹底解説!家紋や首の行方・墓の場所など完全網羅』の記事はコチラ

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天才と呼ばれる真実!結果が出たから「天才あつかい」されているだけ?

現代に生きる我々は、「織田信長」という人を天才扱いしていますが、それは「信長が天下統一目前まで勢力拡大に成功した」という、異形を達成したことを知っているからでしょう。

 

しかし、もし信長が「勢力拡大」に失敗して、「本能寺の変」で亡くなる前に命を落としていたら、これほど「天才扱い」されていたでしょうか?

 

「織田信長」という人は、「天下統一目前まで勢力拡大に成功した」からこそ、「天才」と呼ばれているのです。

 

「天才」だから「天下統一目前にまでいけた」のではなく、「天下統一目前までいった」から「天才」と呼ばれているのでしょう。

 

例えば「今川義元」は、紛れもない名将ですが、「桶狭間の戦い」で敗北するという「マイナスの結果」を残したことで、長く「無能」あつかいされてきました。

 

最近の研究で、信長はそれほど「革新的な天才ではなかった」と言われています。

 

「源義経」も、長く「名将」やら「天才」やら言われてきましたが、近年の研究では「天才でも名将でもない」という意見が、度々されているようです。

 

この記事では「信長はすごい人」「天才」と評価してきました。

 

しかし「信長の研究」が進むにつれて、その「評価」も変化してくるのかもしれません。

 

信長はもしかすると「本物のうつけ」だったのかもしれません。

 

「源義経」については、以下のリンク記事をどうぞ。

『源義経の性格は最悪だった!悲惨で無残な最期は【性格】が原因?』の記事はコチラ

「織田信長の簡単まとめ」は、以下のリンク記事をどうぞ。

『【織田信長について】わかりやすく簡単まとめ!どんな人で何した人?』の記事はコチラ

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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,織田信長が「天才」と呼ばれる理由は「誰も考えつかなかったアイディアを積極的に採用して、人並み外れた功績」を残すことに成功したこと

 

2,信長は「戦争」にはそれほど強くなかったが、「負けても負けても、即座に復活できる」ように軍団を構築し、勝利を重ねた

 

3,信長は「豊富な資金」によって、負けても負けても、何度でも復活することができた

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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