織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の関係や人柄・性格をエピソードで簡単解説

三英傑「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」

三人の人柄と性格を、エピソードを交えて簡単解説致します。

この三名は、なぜ天下を取ることが出来たのか?


スポンサーリンク


歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

織田信長は、人情味と冷徹さを併せ持つ合理主義者

豊臣秀吉は、残酷で器が狭いところもあるが、スケールの大きさを併せ持つ、器用な人たらし

徳川家康は、短気で無口、慎重な人物。大胆さも併せ持つ


織田信長

「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」

尾張の大うつけ「織田信長

人柄・性格

一説によると「サイコパス」とも言われており、冷徹なる超合理主義者。

「比叡山焼き討ち」「長島一向一揆の虐殺」など、残忍な性格をしていると考えられているが、日常では、例えば「秀吉」に「妻を大切にせよ」と諭したり、娘を政略結婚の道具とせず、大半を家臣に嫁がせたりと、人間味ある様子が伺えます。

合理主義者で、現実主義者。

自らの目で見たものしか信じず、しかもあらゆる手を駆使して目的を達成する人物

俗に言う「マキャベリスト(目的のために手段を選ばない人のこと)」


スポンサーリンク


エピソード

信長がまだ、尾張一国の領主であった頃の話。

領内の池に「龍が住んでいる」という噂が広まり、信長はこの池を視察に来ました。

すると信長は、池に龍がいるかどうか確かめてくる、と言い、脇差しを口にくわえて水中へ(信長は水泳がめちゃくちゃ得意だった)。

何度となく潜り続け、龍を探し続けましたが、全く見つからず、「龍はいない」と結論づけて、激怒。

「風説の流布」を禁じて帰ったと言われています。

 

ルイス・フロイスが初めて信長とあった時の話・・・。

信長は当時、二条城の建築を自ら指揮していました。

すると、その建築現場に、笠をかぶる町娘の顔を覗き込み、笠をめくり上げてイタズラする兵士が、信長の目につきました。

一直線に兵士の元へ走っていった信長・・・。

問答無用でその兵士を惨殺!

領民に危害を加える者は処刑する・・・という法を破った罪で、即極刑としたのです。

 

武田信玄の父・信虎・・・・出陣する際、農道で昼寝している農民を発見し、礼をしない農民を処刑したのだとか・・・。

対して信長・・・・同じく出陣の際に昼寝する農民を見つけ、家来たちが激怒していると、それを制して一言。

「俺はあんな光景が好きだ。

ああいう光景を日常のものとするためにも、早く平和な世を築こう」

度量の大きさが伺えるエピソードですね。


スポンサーリンク


豊臣秀吉

「鳴かぬなら 鳴かせてみしょう ホトトギス」

「人たらし」と呼ばれた人心掌握術の天才「豊臣秀吉

人柄・性格

派手好き・賑やか好きのお祭り男。

人を楽しませることにおいては天下一と言っても過言ではない「人たらし」。

度胸があり、ある程度の器の広さもあるものの、小心者な側面もある人。

処世術に長けており、気難しい信長とうまく付き合った人物。

天下人となった後・・・調整役であった弟「豊臣秀長」を失ってからは、「秀次処刑」など自らの首を絞める行為を繰り返し、徐々におかしくなっていきます。


スポンサーリンク


エピソード

秀吉が大切にしていた「鶴」を、家臣の一人が逃してしまった時のこと。家臣は死罪を覚悟で正直に告白。

すると秀吉は笑って一言。

「何処に逃げても、日本はもはや私の庭。気にするな」

の一言で許したと言われています。

 

優秀な若武者を好み、優秀な人物を求めること人一倍だったと言われています。

秀吉は、半農半兵の武士「木下弥右衛門」の息子だったので、他の武士と違って「譜代の家来」を持っていないのです。

そのため、「福島正則」「加藤清正」など、自分の親戚から優秀な若者を引き取って育て、参謀「黒田官兵衛孝高」の息子「黒田長政」をかばい育て、寺の小僧だった「石田三成」をスカウトし、「大谷吉継」やその娘婿「真田幸村」のような若者を小姓として登用しています。

家康の次男で秀吉の養子「結城秀康」など、実の父・家康から嫌われた反面、養父であった秀吉に可愛がられ、秀吉に忠誠を誓っていたとも言われています。

「秀頼公に何かあったら、俺は真っ先に大阪城に駆けつける」

と結城秀康は、豪語していたとも・・。

晩年まで子宝に恵まれなかった秀吉は、その反面、子供や若者に優しかったと言われています。

 

器量の大きさをアピールするものの、誇り高く、自らを軽く扱うものに対しては残酷な刑罰をすることも・・。

聚楽第の壁に悪口を落書きされた時、犯人を見つけ出して、かなり残酷な処刑をしたと言われています。

実はそれほど器が大きかったわけではなく、器が大きいふりをしていただけなのかもしれません。


スポンサーリンク


徳川家康

「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」

最期に天下を取った「海道一の弓取り」こと「徳川家康

人柄・性格

非常に忍耐強く、温厚であると言われていますが・・・実はかなり短気だったとも言われています。

信長にこき使われ、秀吉には故郷の領地「三河国」を取り上げられて関東へ追い出され・・・・。

それでも忠実なふりを続けて絶好のタイミングをまち、信長が死んだ直後には「天正壬午の乱」と呼ばれる「信濃・甲斐」の争奪戦を勝ち抜いて飛躍。

更に秀吉の死後には、法律として定められていた「大名間での婚姻は、届出が必要」という法を破って縁組をしまくったため、詰問されるとサラリと一言

「コロッとわすれていた」

また大坂の陣で、和睦条件の「外堀の埋めたて」を破り、外堀だけではなく内堀も埋めてしまい、抗議されると

「うっかりしてた・・」

と一言。

後世「たぬきおやじ」と揶揄されるのも頷ける狡猾さです。

実は口数が少なく、家来から「何を考えているのかわからない」と言われていたようです。

慎重な性格で、言葉を慎重に選んでいたのでしょう。


スポンサーリンク


エピソード

幼いころ、人質として預けられていた今川家で、当主の今川義元に謁見。

その時、対面が終わると庭先で突然放尿をし始めました。

それを見た今川義元は

「肝に毛が生えた子供だ」

と褒めそやしたと言われています。

子供の頃は大胆不敵な子だったようです。

 

温厚な性格である・・・と言われているようですが、そんなことはなく、非常に苛烈な性格をしていたと考えられます。

関ヶ原の戦いにおいて、使番の馬が自分の馬にぶつかって、そのまま走り去っていったところ、家康は怒って抜刀し、近くの旗指し物を切り倒して八つ当たりしたのだとか。

相当に短気で、自らが使用していた采配の手元は、歯型でいっぱい・・・。

しかも爪を噛む癖があったと言われています。

神経質な性格をしていたのかもしれません。

とはいえ、豪胆な性格でもあったらしく、上洛して秀吉に臣従した時、秀吉の陣羽織が欲しいと言い出したそうです。

この理由を家康は

「関白殿下(秀吉)に具足羽織は二度と着せません。

殿下の戦は、全てこの家康が代わりに致します」

と言ったそうですが、そもそも主君に物をねだる行為はあまりに非礼。

この言葉の裏には

「公家の官位である関白になった秀吉に、もはや武士の代物・陣羽織は無用。

今後、武家の棟梁はこの家康が代わりに務めます。」

という隠れた、挑戦的な真意があったのかもしれません。

また、実の息子「信康」を処刑するという厳格な一面も見せています。

温厚というのは、後世の人々の勝手な思い込みかもしれません

徳川家康の息子・信康」については、以下のリンク記事で詳しくご説明させていただいております。

「徳川信康はなぜ切腹したの?家系図からわかる井伊直虎との意外な関係」の記事はコチラ

スポンサーリンク


織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の関係とは?幼馴染だったり兄弟だったり

「三英傑」と呼ばれた「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」。

この三人は、それぞれどういう関係だったのかを、わかりやすく解説いたします。

「織田信長」と「豊臣秀吉」の関係!主君と優秀な家来

「織田信長」と「豊臣秀吉」は、一言でいえば「主君」と「家来」の関係です。

特に信長にとって「秀吉」は、家来たちの中でも特に優秀な部下でした。

信長は「明智光秀」と「秀吉」という、優秀な2人の部下を特に気に入っていました。

秀吉は、「織田家」のなかでも「明智光秀」に次ぐ、優秀な部下だったのです。


スポンサーリンク


「織田信長」と「徳川家康」の関係!幼馴染で同盟者

「織田信長」と「徳川家康」は、一言でいってしまうと「同盟者」という関係です。

同盟者であると同時に、2人は『幼馴染』でした。

幼い徳川家康が、織田信長の「織田家」に、人質として預けられていたことがあるのです。

2人は成長し、「桶狭間の戦い」で今川義元が亡くなったことをきっかけに、同盟を締結します。

「織田家」と「徳川家」による「清洲同盟(きよすどうめい)」です。

清州城という、織田信長の居城で締結されたこの同盟関係は、裏切りが当たり前だった戦国時代には珍しく、その後20年以上も守られ続けます。

この同盟のおかげで、織田信長は「天下統一」に向けて、大きく飛躍することができたのです。


スポンサーリンク


「豊臣秀吉」と「徳川家康」の関係!義理の兄弟関係だった

「豊臣秀吉」と「徳川家康」の関係は、「義理の兄弟」でした。

秀吉の妹が「家康の妻」となっているのです。

もともとは、「家康」のほうが立場は上でした。

家康は、秀吉の主君である「織田信長」の同盟者。

たとえて言うなら、秀吉にとって家康は、自分が務めている会社の社長(織田信長)の提携先の社長。

しかし、「本能寺の変」で信長が「明智光秀」によって殺害されると、それをきっかけに立場が逆転します。

秀吉は、信長の後継者となって、一気に天下統一を目指すことになります。

そして家康は、そんな圧倒的な勢いをもつ豊臣秀吉に降参。

家康は秀吉の部下となるのです。

このとき、秀吉は自分の妹「旭姫」を、家康の妻として嫁がせています。

こうして「秀吉」と「家康」は、義理の兄弟となって関係を深めたのです。

しかし・・・家康は、秀吉が亡くなると豊臣家を徐々に弱らせて、最終的には滅ぼしてしまいます。

家康は、秀吉のことを、あまり良く思っていなかったのです。


スポンサーリンク


まとめ

本日の記事をまとめますと

・織田信長は、目的のために手段を選ばないマキャベリストであるが、反面人情味ある人物

・豊臣秀吉は、人たらしと呼ばれるお祭り男。大物を装っているが、実は器量の狭さも垣間見える

・徳川家康は、温厚だと言われているが、実は短気で神経質。その反面豪胆さも併せ持つ

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


スポンサーリンク


「織田信長」関連記事

よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

「【織田信長】最後の言葉と辞世の歌は?亡くなる時の詳細な様子を紹介」の記事はコチラ
「織田信長の嫁の名前一覧表!正妻は「帰蝶」ではなく生駒吉乃?」の記事はコチラ
「【織田信長】家紋の意味や花の由来!読み方を画像付きで簡単解説!」の記事はコチラ

スポンサーリンク


「豊臣秀吉」関連記事

よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。


スポンサーリンク

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

2020年10月
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031  
ページ上部へ戻る