【斎藤道三と岐阜城】道三の居城「稲葉山城」と徳川家康の恐怖

皆さんは「斎藤道三と岐阜城の関係」を、ご存知でしょうか?

 

実は、「道三と岐阜城が、どういう関係なのか」について、ご存じない方は、けっこう多いようです。

 

この記事では「斎藤道三と岐阜城の関係」を、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。

 

今は「道三と岐阜城」について、漠然としか知らなかったとしても、これを読めば、誰かに説明できるほど、「道三・岐阜城」に詳しくれるはずです。

 

この記事で、「斎藤道三と岐阜城」の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。


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この記事を短く言うと

 

1,稲葉山城とは、「岐阜城」の別名。【1201年】に、鎌倉幕府「十三人の合議制」のひとりだった「二階堂行政」がつくった砦が基礎となった

 

2,稲葉山城は、「斎藤道三」が本拠地として、本格的に築城した。【1567年】、織田信長が「道三」の孫「斎藤龍興」を追い出して、稲葉山城を奪取。岐阜城と改名した

 

3,【1601年】、「関ヶ原の戦い」の翌年、「徳川家康」によって「岐阜城」は廃城となった。天下人にちなむ「岐阜」という名前を恐れたという逸話がある。

斎藤道三の城「稲葉山城」の歴史

「稲葉山城」とは、現在の「岐阜県岐阜市」の「金華山」にそびえ立っている城「岐阜城」の別名です。

《岐阜城》
『引用元:松波庄九郎さんによる写真ACからの写真』

戦国武将「斎藤道三」は、この「稲葉山城」を居城として、美濃(岐阜県南部)を支配していました。

《斎藤道三》
「引用元ウィキペディアより」

「稲葉山城」は、【1201年】に、「二階堂行政」という武将がつくった「砦」が始まりです。(「二階堂行政」は、鎌倉幕府「十三人の合議制」の一人)

 

その後【1400年代の中頃】、「稲葉山城」は、美濃国の守護代だった「斎藤利永」の居城となります。


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斎藤道三と「岐阜城」の関係を、わかりやすく解説

1525年】、斎藤道三の父「松波庄五郎」こと「長井新左衛門尉」が、美濃国守護代の「斎藤氏」から、「稲葉山城」を奪い取り、居城とします。

 

父から「稲葉山城」をゆずりうけ、拠点としたのが、「斎藤道三」です。

 

1539年】、道三は稲葉山の山頂に、本格的な「城」をつくり始めます。

 

「難攻不落の要塞」となった「稲葉山城」は、道三の死後も「斎藤義龍」「斎藤龍興」ら斎藤家の当主の拠点として、「織田信長」の猛攻を何度も退けました。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

難攻不落の「稲葉山城」は、天才軍師「竹中半兵衛重治」によって、わずか数十人の攻撃で陥落したものの、その後「斎藤龍興」が奪い返し、その後も「斎藤氏」の居城とされています。

《竹中半兵衛重治》
「引用元ウィキペディアより」

 

「岐阜城(ぎふじょう)」

 

1567年】、「稲葉山城」を斎藤龍興から奪い取った「織田信長」は、「稲葉山城」を改築し、その名を「岐阜城」と改名します。

 

「岐阜(ぎふ)」という名前の由来は、古代中国の名君「武王」と、その弟で大政治家の『周公旦(しゅうこうたん)』それぞれの拠点である「岐山(きざん)」と「曲阜(きょくふ)」から一字ずつとったもの。

 

この「岐阜城」を拠点として、天下統一へ大きな一歩を踏み出すこととなります。

 

(曲阜は、儒教の「孔子」が生まれた地でもあります)


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岐阜城の数奇な運命!徳川家康は「岐阜城」を恐れていた

天下の名城「岐阜城」は、築城からちょうど「400年後」の【1601年】に、「徳川家康」の命令で「廃城」となっています。

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」

1600年】、「関ヶ原の戦い」の前哨戦で、西軍「石田三成」に味方していた「岐阜城」は、「福島正則」ら東軍の攻撃によって、わずか一日で陥落します。

 

その翌年、「関ヶ原の戦い」に勝利した家康が、「岐阜城」を破壊するようにと命じたのです。

 

家康は「岐阜城」という名前を嫌った・・・という噂があります。

 

「岐阜城」という名前は、織田信長が「武王」「周公旦」たちの本拠地からつけた名前です。

 

実は「武王」という君主は、「岐山(きざん)」という地で挙兵しているのです。

 

「武王」は、かつての自分の主君であった暴君「紂王(ちゅうおう)」を倒し、天下を奪い取っているのです。

 

「関ヶ原の戦い」で、事実上「天下人」となった徳川家康にとって、「武王」や「織田信長」が「天下を奪い取る出発点」とした「岐阜」という名前は、縁起の悪いものでした。

 

もしかすると、家康の天下を奪う者が、この「岐阜」から出てくるかもしれません。

 

「徳川家康」は、「岐阜城」を恐れ、廃城としたのです。


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『岐阜城』について「ひとこと」いいたい

「天下の名城」と呼ばれた「稲葉山城(岐阜城)」ですが、織田信長によって落とされた後は、あまり活躍していません。

 

信長の拠点であったためか、敵に攻撃されることがなかったからですが、理由はそれだけではありません。

 

「関ヶ原の戦い」の前哨戦で、「岐阜城」を守っていたのは「織田信長」の孫「織田秀信(幼名・三法師)」です。

 

「池田輝政(いけだ てるまさ)」

《池田輝政》
「引用元ウィキペディアより」

織田信長の乳母の息子「池田恒興」の次男である、この「池田輝政」は、「岐阜城」を攻撃する直前、城の防御がまだ整っていないことを見抜き、即座に攻撃を仕掛けます。

 

輝政の判断によって、堅城「岐阜城」はあっけなく陥落。

 

これが、「関ヶ原の戦い」における「東軍」の勝利を、決定づけたと言っても過言ではないのです。

 

岐阜城は、「難攻不落」と言われていましたが、おそらく何かしらの「弱点」があったのでしょう。

 

「岐阜城」をよく知っていた「池田輝政」は、その弱点を知っていたため、1日で陥落させられたのだと考えられます。

 

天下の名城「岐阜城」も、時代の流れには逆らえず、「鉄砲」や「大砲」を駆使して戦った「戦国時代末期」には、その防御力は低下していたと考えられます。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,稲葉山城は、「岐阜城」の別名。【1201年】に、鎌倉幕府の重臣「二階堂行政」がつくった砦が基礎となった

 

2,稲葉山城は、「斎藤道三」が、本格的に築城した。【1567年】、道三の娘婿「織田信長」が、「道三」の孫「斎藤龍興」を追い出し、稲葉山城を奪い本拠地とした。そして「岐阜城」と改名した

 

3,【1601年】、「関ヶ原の戦い」に勝利した「徳川家康」は、「岐阜城」を廃城とした。「武王」や「織田信長」などの天下人を生み出した「岐阜」という名前を恐れたと言われている

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

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