【織田信長】官位の移り変わりを年表で解説!太政大臣に就任予定だった?

この記事では「織田信長の官位」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「信長が、どのような官位についていたのか」を、カンタンに理解できます。

 

「織田信長」は「上総介」から「右大臣・右近衛大将」までを歴任していたのです。


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この記事を短く言うと

 

1,「織田信長」は、どのような官位についていたのか?

信長は「上総介」、「尾張守」、「弾正少忠」、「弾正大弼」、「参議」、「権大納言・右近衛大将」、「内大臣・右近衛大将」、「右大臣・右近衛大将」を歴任していた

 

2,「三職推任問題(さんしきすいにんもんだい)」とは何か?

信長は朝廷との交渉の末に、「征夷大将軍」「関白」「太政大臣」のどれかに就任する予定だった、と言われている。どれに就任する予定だったかは不明

 

3,「信長」は「太政大臣」に就任する予定だったのか?

「三職推任問題」で、一説によると「太政大臣」に就任する予定だったと言われている。先祖「平清盛」にならって「太政大臣」を目指したという説がある

織田信長の官位!その移り変わりを【年表】で解説

戦国時代の覇者「織田信長」は、どういった官位についていたのでしょうか?

 

「年表形式」で、信長の「官位の移り変わり」を解説いたします。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

織田信長その「官位の移り変わり」は、以下のとおりです。


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  • 【1534年】、「織田信長」誕生。幼名「吉法師(きちほうし)」
  • 【1546年】、元服(成人)。「織田三郎信長」を名乗る。
  • 【1549年】、上総介を名乗る。(当初は「上総守(かずさのかみ)」という官位名を勝手に名乗ったものの、「上総守」という官位が存在しなかったことに名乗った後で気づき、「上総介(かずさのすけ)」へ変更)
  • 【1566年】、尾張守
  • 【1568年】、弾正少忠
  • 【1570年】、弾正大弼
  • 【1574年】、参議
  • 【1575年】、権大納言・右近衛大将
  • 【1576年】、内大臣・右近衛大将
  • 【1577年】、右大臣・右近衛大将
  • 【1578年】、右大臣・右近衛大将を突然辞任

実は織田信長、【1574年】に「参議」という官位につくまでは、かなり低い官位に身をおいていました。

 

なぜ低い官位に身をおいていたのかというと、理由は簡単で、征夷大将軍「足利義昭」を旗頭にしていたため、「高い官位」を必要としなかった、ということです。

 

ところが、【1573年】に主君だった「足利義昭」を追放して「室町幕府」を滅ぼしたあとから、信長は「高い官位」を求めるようになるのです。

 

「征夷大将軍」という、「武士のトップ」の称号をもつ「足利義昭」を追放してしまったため、全国の武士たちに命令する権限を失ったのです。

 

そのため信長は、「征夷大将軍」を失った穴を埋めるために、朝廷に掛け合って、「高い官位」を求めるようになったのです。

 

足利義昭を追放してわずか4年後の【1577年】、信長は「右大臣」という、極めて高い官位を手に入れています。

 

「朝廷」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『【朝廷とは】世界一わかりやすく簡単に解説!幕府との違いはなに?』の記事はコチラ

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信長が残した大いなる謎【三職推任問題(さんしきすいにんもんだい)】とは?

実は「織田信長」は

  • 「征夷大将軍」
  • 「関白」
  • 「太政大臣」

 

この3つの官位のうち、1つに就任する予定だったと言われています。

 

しかし、どの官位に就任するつもりだったのかは、全く不明なのです。

 

なぜ不明なのかというと、理由は簡単です。

 

どの官位に就任するかを決定する前に、織田信長が「本能寺の変」で亡くなってしまったからです。

 

これを「三職推任問題(さんしきすいにんもんだい)」と呼んでいます。

 

朝廷は信長に対して、この3つの官位のうちどれかに就任してほしいと要請した

または

信長が、この3つの官位のうち1つに就任したいと希望した

 

といわれています。

 

朝廷のほうから言い出したのか、信長が言い出したのか、どちらが「3つの官位のうち1つに就任するように」言い出したのか、わかっていません。

 

まったく不明なのです。

 

信長が、「征夷大将軍・関白・太政大臣」のうち、どれになろうとしていたのかは、未だに謎となっています。

 

信長は亡くなる4年前に「右大臣・右近衛大将」という官位を、突如辞任しています。

 

そのため「本能寺の変」で亡くなったとき、信長は「無位無官」だったということになります。

 

「征夷大将軍と関白の違い」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『征夷大将軍と関白の違いを簡単に解説!秀吉が関白を選んだ理由とは?』の記事はコチラ

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信長は「太政大臣」になる予定だった?

「三職推任問題」について、信長が、どの官位につこうとしていたのかは、ハッキリわかっていません。

 

ただ、一説によると「太政大臣」になろうとしていた、といわれています。

 

実は「織田信長」、「平清盛」の子孫・末裔を自称していたのだとか。

 

そのため、「平清盛」と同じ旗を使っていたのです。

 

その「平清盛」は、武士として初めて「太政大臣」という最高の官位に就任した人物です。

 

その過去の功績にならって、自分も「太政大臣」になろうとしていた、というのです。

 

「羽柴秀吉」は、信長の死後、手紙で信長のことを「大相国」と呼んでいます。

 

「大相国(だいしょうこく)」とは、「太政大臣」のことです。

 

もしかすると「秀吉」は、人々から「信長が太政大臣に就任しようとしていた」ことを聞いて、知っていたのかもしれません。

 

しかし、「信長は征夷大将軍に就任するつもりだった」という説も、かなり根強く残っています。

 

実際のところ、「信長がどの官位に就こうとしていた」のかは、不明です。

 

実は「全て辞退しようとしていた」可能性すらも残っているのです。

 

「織田信長の家系図と先祖」「平清盛との関係」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『織田信長の家系図と子孫を解説!「きちょう」こと濃姫との子供とは?』の記事はコチラ

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もしも信長が「征夷大将軍」になっていたら、歴史はどう変わっていたのか?

もしも織田信長が「征夷大将軍」になっていたら、やはり「幕府」を開いて、自らの嫡男「織田信忠」に将軍職を継承していたでしょう。

 

「征夷大将軍」は、「臨時政府」とも呼べる「幕府」をつくる権限を持っていました。

 

信長が将軍になったら、間違いなく「幕府」をつくっていたでしょう

 

そして「徳川幕府」のように、「織田幕府」をつくって、織田家で代々日本を支配していたと思います。

 

ただ、信長が天下統一を実現したあと、おとなしく「国内の支配」だけで終わっていたとは思えません。

 

おそらく「海外遠征」を行なっていたでしょう。

 

「豊臣秀吉」は「朝鮮出兵」を行なっていますが、これは信長の構想を真似したものだとも言われているのです。

 

もしも信長が「朝鮮出兵」をしていたら、もしかすると秀吉以上の戦果をあげていたかもしれません。

 

「征夷大将軍」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『征夷大将軍とは何か?簡単にわかりやすく子供でもわかるよう解説!』の記事はコチラ

「朝鮮出兵」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『【豊臣秀吉】朝鮮出兵の理由を簡単解説!結果は失敗どころか大成功だった』の記事はコチラ
『豊臣秀吉が朝鮮出兵した理由を考察!結果は大失敗だったのか?』の記事はコチラ

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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「織田信長」は、「上総介」、「尾張守」、「弾正少忠」、「弾正大弼」、「参議」、「権大納言・右近衛大将」、「内大臣・右近衛大将」、「右大臣・右近衛大将」を歴任していた

 

2,「三職推任問題(さんしきすいにんもんだい)」で、信長は朝廷との交渉の末に「征夷大将軍」「関白」「太政大臣」のどれかに就任する予定だった、と言われている。どれに就任する予定だったかは不明

 

3,「三職推任問題」で信長は、一説によると「太政大臣」に就任する予定だったと言われている。先祖「平清盛」にならって「太政大臣」を目指したという説がある

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

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ありがとうございました。


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