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レキシル史郎|歴史専門の調査・編集ライター/大河ドラマ研究家/経営者視点の歴史分析
歴史学者ではありませんが、一次史料・学術書を読み比べて複数説を公平に整理する編集者として活動しています。大河ドラマほぼ全作品の視聴経験をもとに史実と演出の違いを分析。経営経験から、歴史上の決断を現代ビジネスに接続する解説を得意としています。大阪城・名古屋城・岐阜城・犬山城・関ヶ原・比叡山延暦寺などへ複数回訪問、京都市内(京都御所・本能寺跡地など)にも何度も足を運んでおります。
織田信長の官位について、結論から申し上げます
織田信長の官位は、若い頃の「上総介」「尾張守」を自称したことに始まり、1577年には「右大臣・右近衛大将(うだいじん・うこのえのだいしょう)」の地位に到達しました。これは武家としては平清盛以来の極めて高い官位です。さらに本能寺の変の直前には、朝廷から「征夷大将軍」「関白」「太政大臣」のいずれかへの就任を打診された、あるいは信長側が打診させたとする「三職推任問題」が論じられています。本記事では、織田信長の官位の歩みを年表と諸説併記、そして編集者視点の独自考察でわかりやすく整理いたします。
織田信長 官位の年表|上総介から右大臣・右近衛大将まで
織田信長の官位は、上総介・尾張守・弾正少忠・弾正大弼・参議・権大納言/右近衛大将・内大臣・右大臣と、約30年かけて段階的に昇進しました。

「Wikipediaコモンズ」より引用
織田信長の官位の移り変わりを、年表と一覧表で整理いたします(出典:Wikipedia「織田信長」)。
| 西暦 | 年齢(数え) | 官位・出来事 |
|---|---|---|
| 1534年 | 1歳 | 織田信長誕生。幼名「吉法師」 |
| 1546年 | 13歳 | 元服し「織田三郎信長」を名乗る |
| 1549年頃 | 16歳頃 | 上総介(かずさのすけ)を称する |
| 1566年 | 33歳 | 尾張守(おわりのかみ) |
| 1568年 | 35歳 | 弾正少忠(だんじょうしょうちゅう) |
| 1570年 | 37歳 | 弾正大弼(だんじょうのだいひつ) |
| 1574年 | 41歳 | 参議(さんぎ) |
| 1575年 | 42歳 | 権大納言・右近衛大将 |
| 1576年 | 43歳 | 内大臣・右近衛大将 |
| 1577年 | 44歳 | 右大臣・右近衛大将 |
| 1578年 | 45歳 | 右大臣・右近衛大将を辞任 |
| 1582年 | 49歳 | 本能寺の変で死去(無位無官) |
「上総介」は、上総国(千葉県中部)の次官という意味の官位で、信長は当初これを「上総守」と自称した後、上総国は親王任国で「守」が存在しないことに気づき、「介」に改めたと伝わります。父・織田信秀の官位「弾正忠(だんじょうのちゅう)」の系譜を意識し、武門の家としての格式を整える狙いがあったと考えられます。
筆者は、織田信長を「権威に無関心な革新者」と捉える通説には少し違和感を覚えます。むしろ信長は、官位を軽視したのではなく、「利用価値がある限り積極的に活用する現実主義者」だったのではないでしょうか。1574年の参議昇進以降、短期間で右大臣まで昇った経緯から、信長が朝廷の官位序列を政略において戦略的に用いていたとする見解があります。一方、足利義昭が征夷大将軍に就任した際、信長は副将軍や管領職を打診されても断っています。朝廷からくだされる権威ある官位は必要としたものの、幕府という組織に組み込まれることは、嫌ったということです。幕府の位をもらうことで、足利義昭と明確に主従関係を結ぶことになります。そうなることで、いらざる義務を課されて身動き取れなくなることを、嫌ったのでしょう。
1574年に「参議」に就くまで、信長の官位はかなり低い位置に留まっていました。これは、征夷大将軍・足利義昭を旗頭に担いでいたため、自ら高い官位を得る必要がなかったためです。1573年に足利義昭を追放し室町幕府が事実上滅ぶと、信長は「武士のトップ」という政治的旗印を失い、その穴を埋めるべく朝廷との交渉を加速させていきます。
「朝廷とは何か」「幕府との違い」を一気に押さえると、信長の官位戦略がぐっと立体的に見えてきます。
朝廷とは何か?幕府との違いを世界一わかりやすく簡単に解説
続いては、信長の生涯最大の政治ミステリー「三職推任問題」を整理いたします。
三職推任問題とは?信長 官位最大の謎をわかりやすく整理
三職推任問題(さんしょくすいにんもんだい)とは、本能寺の変の直前に、朝廷が織田信長へ「征夷大将軍・関白・太政大臣」のいずれかへの就任を打診した、または信長側が打診させたとされる一連のやりとりです。
1582年(天正10年)4〜5月にかけて、朝廷の使者・勧修寺晴豊が信長と接触したことが、晴豊自身の日記『晴豊記(晴豊公記)』に記録されています(出典:Wikipedia「三職推任問題」)。ところが、信長がどの官位を選ぶつもりだったかを明言する前に、6月2日の本能寺の変で命を落としたため、結論は永遠に失われました。

論点は大きく2つあります。
- 朝廷側から打診したのか、信長側が要求したのか
- 信長が「征夷大将軍」「関白」「太政大臣」のいずれを選ぼうとしていたのか
筆者が史料を読み比べると、近世以降の研究では「朝廷主導説」と「信長主導説」が並立しています。今谷明氏らの研究では、信長の圧迫から朝廷が官位授与を提案した「自衛的説」が論じられ、橋本政宣氏や金子拓氏の議論では、信長側が将来構想として打診させた可能性も指摘されています。出典:『晴豊記』、橋本政宣・金子拓ほか各種学術論文。決定打となる史料は今のところ存在しません。
信長は、亡くなる4年前の1578年に「右大臣・右近衛大将」を辞任していました。そのため本能寺の変の時点では、信長は形式上「無位無官(前右府)」だったのです。三職推任問題は、辞任から4年越しの「次の地位」を巡る交渉だった、という見方もできます。
「征夷大将軍」と「関白」、どちらが上で、どう違うのか。秀吉が関白を選んだ理由まで知ると、信長の選択肢の意味がより鮮明になります。
征夷大将軍と関白の違いをやさしく解説|秀吉が関白を選んだ本当の理由
続いては、「信長は太政大臣を狙っていた」という根強い説の背景を見ていきます。
信長は「太政大臣」になる予定だった?平清盛との関係
三職推任問題で信長が選ぼうとしていた官位については、武士として初めて太政大臣に就いた平清盛にならい、「太政大臣」を目指していたとする説が根強くあります。ただし、これも諸説あります。
織田家は、自家の出自を「平氏」と称していました。これにならい、信長は平清盛と同じ意匠(揚羽蝶紋など)を意識した旗を一部で用いていたと伝わります。武士でありながら「正一位太政大臣」にまで昇り、朝廷の頂点に立った清盛は、信長にとって意識せざるを得ない先例でした。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、信長の死後の書状で、亡き信長を「大相国(だいしょうこく)」と呼んでいます。「大相国」とは唐名で「太政大臣」を指す尊称です。秀吉が当時、何らかの形で信長の官位就任に関する構想を聞き及んでいたとする推測もなされています。

「Wikipediaコモンズ」より引用
一方で、「信長は征夷大将軍を選ぼうとした」とする見解も根強く存在します。1582年5月、武田勝頼を滅ぼした直後の信長に対して、朝廷が「将軍宣下」を視野に入れた打診を行ったとする読み方もあるためです。さらに、「信長は三職すべてを辞退する意思だった」とする説もあります。革新的な信長が、既存の朝廷官位の枠組みを超えた新たな地位を構想していた可能性まで含めると、選択肢は四方向に広がります。
筆者は京都御所を何度か訪ねたことがあります。広大な京都御苑の中に位置する御所は、当時の人々が日常的に天皇のお姿を目にできる場所ではありませんでした。幕末、孝明天皇が火災で避難した際、その姿を見た人々が思わず柏手を打って拝んだという逸話も残ります。当時の天皇は、民衆にとって神に近い存在でした。そのような絶対的な権威から授かる「右大臣」「太政大臣」という官位が、信長の命令を社会的に貫徹させる装置として大きく機能した可能性は十分にあると、筆者は考えます。

信長の家系図と先祖、平清盛との関係をひと記事で押さえたい方はこちらが便利です。
織田信長の家系図と子孫|濃姫との子供と平氏自称の謎をやさしく解説
次では、注目度の高い関連質問の4問にコンパクトにお答えします。
織田信長 官位まわりでよく検索される4つの疑問
Q1:信長の最高官位は何ですか?
A. 1577年に任じられた「正二位 右大臣・右近衛大将」が最高位とされます。武家として平清盛以来の高位で、織田信長以降は豊臣秀吉が関白・太政大臣、徳川家康が征夷大将軍・太政大臣に就いています。なお信長は1578年に右大臣を辞任しているため、本能寺の変の時点では「前右府(さきのうふ)」と呼ばれ、形式上は無位無官でした。
Q2:信長の肩書は?
A. 一般的に知られる肩書は「右大臣・右近衛大将」「弾正忠」「上総介」などです。「弾正忠」は父・織田信秀から受け継いだ家格を象徴する官途名で、信長自身も若い頃に弾正少忠・弾正大弼を歴任しています。書状や同時代史料では「上総介信長」「弾正忠信長」「右府」などと呼ばれており、肩書は時期によって変化しました。
Q3:織田信秀の官位は?
A. 織田信長の父・織田信秀の官位は「弾正忠(だんじょうのちゅう)」「備後守(びんごのかみ)」と伝わります(ただし「備後守」の授与については一次史料の確認が必要で、諸説あります)。尾張守護代・織田大和守家の三奉行筆頭から実力で勢力を拡大した信秀は、朝廷へ多額の献金を行ったことで官位を得たとされ、信長の「官位を活用する政治手法」の原型は父・信秀にあったと見ることもできます(出典:Wikipedia「織田信秀」)。
Q4:評価軸により異なる、戦国武将の強さとは
A. 「最強の戦国大名」は評価軸(戦術・戦略・経営・領国経営)によって変わるため、一概に特定はできません。戦の強さでは武田信玄や上杉謙信、領国経営では北条氏康や毛利元就、天下統一の総合力では織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が筆頭に挙げられます。本記事の主題である「織田信長 官位」の観点でいえば、官位を最大限活用して中央政権を樹立した点で、信長は政治力・軍事力の両面で抜きん出た存在だったと評価できます。
もしも信長が征夷大将軍になっていたら?歴史IFを大河ドラマで楽しむ
もし信長が「征夷大将軍」となって「織田幕府」を開いていた場合、嫡男・織田信忠が後継者として将軍職を継ぐ体制が検討されたのではないかという歴史的関心が寄せられることもあります。ただし、これはあくまで歴史IF(もしも話)であり、断定はできません。
征夷大将軍は、自ら「幕府」と呼ばれる軍事政権を組織する権限を持っていました。徳川家康は征夷大将軍となり、嫡男・徳川秀忠に職を譲ることで「徳川幕府は織田家・豊臣家とは違う、世襲のシステム」であることを天下に示しました。信長が征夷大将軍を選んでいた場合、同様に織田家の将軍職世襲=「織田幕府」が生まれた可能性があったとする見解もあります。
一方で、信長が天下統一後に国内支配だけで満足したかは別問題です。豊臣秀吉による朝鮮出兵の構想については、信長の海外進出構想を引き継いだとする説が古くから指摘されることもあります。信長が大陸進出を志向した場合の歴史は、現代の研究者・小説家・大河ドラマ脚本家の想像力をかきたてるテーマであり続けています。
筆者は、1992年大河『信長 KING OF ZIPANGU』で緒形直人さんが演じた信長、1996年大河『秀吉』で渡哲也さんが演じた信長、2020年『麒麟がくる』で染谷将太さんが演じた信長、そして2023年『どうする家康』で岡田准一さんが演じた信長を見比べてきました。同じ右大臣就任のシーンでも、作品によって「朝廷を見下す傲慢な革新者」と「朝廷を尊重する戦略家」のどちらに寄せて描くかが異なり、官位観の解釈の幅広さを実感します。
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染谷将太さんが演じた『麒麟がくる』の信長と朝廷の駆け引き、岡田准一さんが演じた『どうする家康』の苛烈な信長像、そして2026年大河『豊臣兄弟』で描かれるであろう信長後の天下――同じ官位を巡る場面でも、俳優と脚本によって解釈が大きく変わります。U-NEXTでは大河ドラマや戦国時代劇が幅広く配信されており、31日間無料トライアルがあるため、まずは気になる回だけを試聴し、信長の官位観を見比べてみるのも一つの選択肢です。
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征夷大将軍の制度・朝鮮出兵の真相まで知ると、信長の官位IFがより楽しく読めます。
・征夷大将軍とは何か?子供にもわかるやさしい解説
まとめ|織田信長 官位の歩みと、その先に読みたい関連記事
本記事のポイントを整理いたします。
- 織田信長の官位は、上総介・尾張守・弾正少忠・弾正大弼・参議・権大納言/右近衛大将・内大臣・右大臣と昇進し、1577年に任じられた「右大臣・右近衛大将」が最高位とされます。
- 本能寺の変直前の「三職推任問題」では、征夷大将軍・関白・太政大臣のいずれかへの就任が議論されましたが、信長が結論を出す前に倒れたため、真相は今も諸説あります。
- 信長が「平清盛にならい太政大臣を狙った」とする説は根強く、一方で征夷大将軍説・三職辞退説も存在します。信長は権威を否定したのではなく、「どの権威を、どう使うか」を冷静に選別した戦略家であったと、筆者は考えます。
「織田信長 官位」の理解をさらに深めたい方には、次の3記事が特におすすめです。
・織田信長がしたことを年表でわかりやすく|天下取りの流れを総まとめ
・信長は本能寺の変で死んでない?真実と黒幕説をやさしく解説
参考資料
- Wikipedia「織田信長」
- Wikipedia「織田信秀」
- Wikipedia「三職推任問題」
- Wikipedia「右大臣」
- Wikipedia「太政大臣」
- NHK大河ドラマ『信長 KING OF ZIPANGU』『秀吉』『麒麟がくる』『どうする家康』『豊臣兄弟』公式情報
- 『晴豊記(晴豊公記)』『信長公記』ほか
レキシル史郎|歴史専門の調査・編集ライター/大河ドラマ研究家/経営者視点の歴史分析。歴史学者ではなく、一次史料・学術書を読み比べ、複数説を公平に整理する編集者として執筆しています。大河ドラマほぼ全作品の視聴経験をもとに、史実と演出の違いを分析。大阪城・名古屋城・岐阜城・犬山城・関ヶ原・比叡山延暦寺などへ複数回訪問、京都市内(京都御所・本能寺跡地など)にも何度も足を運んでおります。
最終更新日:2026年4月29日

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