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織田信長の統一事業をわかりやすく解説!勢力拡大できた理由とは?

この記事では「織田信長の天下統一」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「信長が天下統一に成功した理由」と「天下統一にいたる流れ」を、カンタンに理解できます。

 

「織田信長」は「圧倒的な経済力」で「天下統一」を成功へと導いたのです。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,「織田信長」が「天下統一」目前まで勢力拡大できた理由とは?

「織田信長」は「経済力」や「商業」を重視して、「商業振興策」をたて続けに行い、そこから得た莫大な資金で、強力な軍団を形成し、それにより領土を拡張、天下統一目前までいった。

 

2,「信長」が「天下統一」へ至った「経緯・流れ」とは?

「織田信長」は「今川義元」を「桶狭間の戦い」で撃破し、「美濃国」を支配して土台をかため、「足利義昭」を連れて京都周辺を支配し、さらに各地へと軍を派遣し領土を拡大させていった

 

3,「織田信長」と「天皇・朝廷」そして「征夷大将軍」との関係とは?

「信長」は「朝廷・天皇」と「征夷大将軍」の権威をつかって敵対勢力を攻撃する口実をつくり、勢力を拡大していった

織田信長が「天下統一」事業を、ほぼ成功させることができた理由とは?

「武田信玄」も「上杉謙信」も出来なかった「天下統一」。

 

織田信長がその「天下統一」目前にまで勢力を拡大させられた理由は、「経済力」を重視し、「財力」によって強力な軍団を形成したためだと考えられます

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

当時、日本の産業は「農業」が主軸でした。

 

しかし信長は、「楽市楽座」や「関所撤廃」、「道路整備」などで「物流」を活性化し、商業を発展させて、そこから生まれる莫大な資金を手に入れたのです。

 

この資金で、大量の「傭兵」を雇い、「鉄砲」などの最新兵器を買い、「材木」で「砦」をつくり、「豊富な兵糧」を買い込み、圧倒的な物量で敵を倒し続けたのでした。

 

商業が活性化していれば、資金はいくらでも入ってきます。

 

それを使って雇った「傭兵軍団」ならば、たとえ全滅しても、即座に雇い直して復活出来ます。

 

信長の軍団は、弱かったと評判でした。

 

その弱さは「鉄砲」などの最新兵器で補ったのです。

 

何度でも復活できる軍団と、最新兵器、圧倒的な物量と、それを支える資金力。

 

それが、信長が天下統一へ一気に飛躍できた理由です。

 

とはいえ、信長は天下統一目前で「本能寺の変」によって亡くなっています。

 

「天下統一」には、ギリギリで届かなかったのです。



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信長の「統一事業」の流れを「年表」で解説

「織田信長」が「天下統一」をすすめていった流れを、「年表」を使って解説します。

 

信長は
「尾張国(愛知県西部)の半分」
を支配する大名から
日本のおよそ半分にあたる
「東は下野国(群馬県)から、西は備中国(岡山県)まで」
を支配する大勢力へと成長していきます。


1534年(信長の年齢・・・1歳)

織田信長・誕生

 

1546年(13歳)

元服、「織田三郎信長」と名乗る。

 

1548年(15歳)

信長、道三の娘「帰蝶(濃姫)」と結婚。

 

1552年(19歳)

父「織田信秀」死去、信長が家督を継承。「織田上総介信長」と名乗る。



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1554年(21歳)

「安食の戦い」で「織田彦五郎信友」を撃破

 

1555年(22歳)

叔父「織田信光」とともに、「織田大和守家」の当主「織田彦五郎信友」を討ち取る。これにより清洲城」を手に入れた信長は、本拠地を「那古野城」から「清洲城」へ移す

 

1556年(23歳)

信長の弟「信勝(信行)」が兄に対して挙兵。

「稲生の戦い」で信長が弟の信勝を撃破。信長の母「土田御前」の願いにより、信長は弟「信勝」「柴田勝家」らを許した。

 

1558年(25歳)

弟「信勝(信行)」、再び信長に謀反を企てる。信長は病を装い、清州城に信勝を呼び出し殺害。

これにより、織田家の勢力は信長のもとに統一された。

 

1560年(27歳)

5月19日、「信長」が「桶狭間の戦い」で「今川義元」を討ち取る。

 

1562年(29歳)

信長、清州城で「松平元康(家康)」と「清洲同盟」を締結。

 

1565年(32歳)

信長、犬山城主「織田信清」に勝ち、尾張統一を達成。甲斐の「武田信玄」と同盟を結び、姪を養女として信玄の四男「勝頼」に嫁がせる。

信長、「滝川一益」の援軍を得て伊勢に侵攻。「神戸具盛」らを屈服させ、北伊勢を平定

 

1566年(33歳)

信長、美濃「斉藤龍興」との戦闘を再開するも龍興に敗北。

 

1567年(34歳)

信長、美濃「斉藤龍興」を攻撃。これにより稲葉山城陥落。「斎藤龍興」、伊勢の長島へ落ち延びる。

美濃を平定

信長は「稲葉山城」を拠点とし、その名を「岐阜城」と改名。

 

1568年(35歳)

9月、信長、「足利義昭」とともに上洛を開始。

これにより、信長は「南近江」や「山城」「大和」「摂津」など畿内の大部分を制圧

信長、義昭からの幕府要職への就任を頑なに拒み、尾張に帰還。

 

1569年(36歳)

信長、北伊勢に続き、南伊勢も平定



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1570年(37歳)

4月、信長、越前「朝倉義景」を攻めるが、北近江の同盟者「浅井長政」が裏切り、「明智光秀」、「木下秀吉」の殿(しんがり)によって辛くも京都に逃れる。

信長、「徳川家康」とともに「朝倉義景」「浅井長政」と近江国「姉川」で激突、勝利。(姉川の戦い

「石山戦争」開始

「朝倉軍」が織田軍を攻撃するも信長はこれを撃破。朝倉軍「比叡山」へ逃走。

「長島一向一揆」勃発

信長、「浅井・朝倉」と和睦。

信長、「浅井長政」「朝倉義景」の両名に手をついて屈服。

 

1571年(38歳)

5月、信長、「長島一向一揆」討伐のため出陣するも攻めあぐねて撤退。

信長、比叡山に逃げ込んだ朝倉軍引き渡しを「延暦寺」に依頼。延暦寺は無視。

約1年間の引き渡し要求を無視し続けた「延暦寺」に、最後通牒。延暦寺側はこれも無視したため「比叡山焼き討ち」を計画。

9月12日、信長、「比叡山焼き討ち」を開始。比叡山、灰燼に帰す。被害者数は数千人。

光秀、近江国「坂本」に築城開始。

 

1572年(39歳)

「徳川家康」が「三方ヶ原の戦い」で「武田信玄」に敗北。

 

1573年(40歳)

2月、武田軍、三河へ侵攻。野田城を奪取。

「武田信玄」信州駒場で死去、武田軍三河から撤退。

「槇島城の戦い」で「足利義昭」を撃破。

信長は義昭を京都から追放。【1336年】から「237年間」も続いた「室町幕府」滅亡。

8月、信長、「朝倉義景」を攻め滅ぼし、ついで「浅井長政」を攻め滅ぼす。

北近江・越前を支配



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1574年(41歳)

「長島一向一揆」を討伐。

「越前国」が「一向一揆」に奪われる

 

1575年(42歳)

「長篠の戦い」で「織田・徳川連合軍」が「武田勝頼」に圧勝。

8月、「越前一向一揆」討伐。越前国を奪い返し、「柴田勝家」に「越前国49万石」が与えられる

四国の「長宗我部元親」が、土佐国統一に成功。「長宗我部元親」が「織田信長」と同盟締結。

 

1576年(43歳)

1月 「安土城」の築城開始。

 

1577年(44歳)

8月 「松永久秀」、信長に反旗を翻す

松永久秀、「信長」からの降伏勧告に応じず、天守閣に火を放ち自害。

 

1578年(45歳)

3月13日、「上杉謙信」急死。享年49歳。混乱に乗じて、信長は「越中(富山県)」に侵攻。

7月 毛利軍が「上月城」を攻略

信長の家来だった摂津国「荒木村重」が信長に反抗を開始。



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1579年(46歳)

6月 「明智光秀」、「丹波・丹後」を平定。

9月 「荒木村重」、有岡城を出て尼崎城へ移るが、2ヶ月後に有岡城落城。

「備前国」「美作国」の大名「宇喜多直家」が、「織田信長」に臣従。

 

1580年(47歳)

3月 相模国(神奈川県)の大名「北条氏政」、信長に従属を申し出る。信長の支配地域、関東まで拡がる。

石山戦争が終結。「本願寺顕如」が本拠地「石山本願寺」を退去。「和泉国」平定

柴田勝家が「加賀国」を平定。「能登」「越中」への侵攻開始

羽柴秀吉によって、「但馬国」平定。その後「因幡国」も平定

 

1581年(48歳)

信長、「荒木村重」の残党をかくまい、「足利義昭」と内通した「高野山」を包囲。

 

1582年(49歳)

3月 「甲州討伐」、「武田勝頼」死去、武田家滅亡。(天目山の戦い)

「信濃」「甲斐」「下野」を攻略。「駿河国」は徳川家康に与えられる。

これにより、「徳川家康」は「三河・遠江・駿河」の三カ国を支配するに至る。

「備中高松城攻め」を行っている「羽柴秀吉」から援軍要請があり、信長は光秀に援軍を命じる。

6月2日 未明、「本能寺の変」。織田信長、自害。【享年49歳】

6月13日 「山崎の戦い」で「羽柴秀吉」は、「明智光秀」を撃破。光秀が死去。

 

1590年(-)

「豊臣秀吉」の「小田原征伐(北条征伐)」開始。

「北条氏政」・「伊達政宗」・「津軽為信」が秀吉に屈服。

「天下統一」が達成される。

 

「織田信長」について、さらに詳しい「年表」は、以下のリンク記事をどうぞ。



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信長が利用した「朝廷・天皇」と「征夷大将軍」

織田信長は、「征夷大将軍」や「朝廷・天皇」の権威を利用し、一気に勢力を拡大することに成功しています。

 

信長は、「足利義昭」を15代征夷大将軍に就任させて、自らの権威の後ろ盾としました。

 

「征夷大将軍」は「武士のトップ」に位置する位であり、全国の武士に命令する権限を持っていました。

 

さらに、「征夷大将軍」は言うことを聞かない敵勢力を討伐する権限も持っていたのです。

 

信長は、「足利義昭」に「信長に臣従せよ」という命令を出させ、それに従わなかった「朝倉義景」のような戦国武将たちを、「征夷大将軍の命令に従わなかった」という名目で討伐していきます。



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そうすると、信長の支配地域は拡大し、その軍事力はさらに増大していきます。

 

そうして信長は、軍事力を拡大させていったのです。

 

「足利義昭」を追放し、「室町幕府」が滅亡したあと、信長は「朝廷・天皇」を後ろ盾にします。

 

信長は朝廷や天皇から「天下静謐(天下をへいわにする)」ための執行権を与えられ、天皇・朝廷を後ろ盾にして、逆らうものを討伐していきます。

 

つまり、信長に逆らうものは「天皇や朝廷」の敵、つまり「日本国の敵」ということになるわけです。

 

信長は「天皇」や「征夷大将軍」のような権威を最大限に利用して、敵勢力を滅ぼす名目・理由を手に入れます。

 

そして、圧倒的な経済力で構築した最強軍団で、敵を滅ぼし領地を奪っていったのでした。

 

もしも信長が敗北してしまったら、そのときこそ「朝廷・天皇」や「征夷大将軍」の権威の真の力を発揮するときです。

 

「戦争をやめよ」と「天皇」や「征夷大将軍」から命令させることで、信長は何度も窮地を脱しているのです。

 

「権威」と「財力」、この2つが、織田信長の勢力拡大を支えていたのです。



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ちなみに、「何の名目もなしに、いきなり敵勢力へ攻め込めばいいじゃないか」と考えられる方もおられるでしょう。

 

しかし、何の理由もなしに、いきなり隣の国に攻め込んだら、信長は民衆やその他の勢力から、鬼のような批判を浴びてしまうでしょう。

 

民衆を味方にしてこそ、信長は圧倒的な資金を手に入れていたのです。

 

民衆を敵に回したら、信長は一気に勝てなくなるはず。

 

実は「信長」は、自らの「評判」に、とても気を使った人でした。

 

悪事の限りを尽したようにいわれる信長ですが、実は民衆からの人気を気にしていたのです。

 

「征夷大将軍とは何か」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

「朝廷とは何か」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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「本能寺の変」、天下統一目前で散った「織田信長」

天正10年(1582年)6月2日未】、織田信長は京都「本能寺」に宿泊していたところを、重臣「明智光秀」に滅ぼされてしまいます。

 

「本能寺の変」です。

 

信長は、天下統一目前の状態でした。

 

東は「関東」一帯の支配者「北条氏政」を臣従させ

 

「四国」をほぼ制圧していた「長宗我部元親」を滅ぼすための軍団を送りこみ

 

「中国地方」の覇者「毛利輝元」を降伏寸前にまで攻めたて



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「北陸」の「上杉景勝」を崖っぷちまで追い込み

 

まさに天下統一目前の状態でした。

 

九州でも、その大半を支配していた「島津氏」と、臣従させたに等しい関係をつくっていました。

 

東北では、「伊達政宗」の父「伊達輝宗」が、信長と外交関係を結び、すでに臣従に近い状態でした。

 

もしも「本能寺の変」がなかったら、信長は「2~3年」で天下統一を成功させていたはず。

 

信長が亡くなった8年後の【1590年】、豊臣秀吉によって天下統一は果たされます。

 

しかし、信長が死ななかったら、秀吉よりも遥かに早く、天下は制覇されていたはずです。

 

「本能寺の変」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

「明智光秀」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「織田信長」は「経済力」や「商業」を重視して、「商業振興策」をたて続けに行い、そこから得た莫大な資金で、強力な軍団を形成し、それにより領土を拡張、天下統一目前までいった。

 

2,「織田信長」は「今川義元」を「桶狭間の戦い」で撃破し、「美濃国」を支配して土台をかため、「足利義昭」を連れて京都周辺を支配し、さらに各地へと軍を派遣し領土を拡大させていった

 

3,「信長」は「朝廷・天皇」と「征夷大将軍」の権威をつかって敵対勢力を攻撃する口実をつくり、勢力を拡大していった

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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