この記事では「織田信長の天下統一」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「信長が天下統一に成功した理由」と「天下統一にいたる流れ」を、カンタンに理解できます。
「織田信長」は「圧倒的な経済力」で「天下統一」を成功へと導いたのです。
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この記事を短く言うと
1,「織田信長」が「天下統一」目前まで勢力拡大できた理由とは?
「織田信長」は「経済力」や「商業」を重視して、「商業振興策」をたて続けに行い、そこから得た莫大な資金で、強力な軍団を形成し、それにより領土を拡張、天下統一目前までいった。
2,「信長」が「天下統一」へ至った「経緯・流れ」とは?
「織田信長」は「今川義元」を「桶狭間の戦い」で撃破し、「美濃国」を支配して土台をかため、「足利義昭」を連れて京都周辺を支配し、さらに各地へと軍を派遣し領土を拡大させていった
3,「織田信長」と「天皇・朝廷」そして「征夷大将軍」との関係とは?
「信長」は「朝廷・天皇」と「征夷大将軍」の権威をつかって敵対勢力を攻撃する口実をつくり、勢力を拡大していった
織田信長が「天下統一」事業を、ほぼ成功させることができた理由とは?
「武田信玄」も「上杉謙信」も出来なかった「天下統一」。
織田信長がその「天下統一」目前にまで勢力を拡大させられた理由は、「経済力」を重視し、「財力」によって強力な軍団を形成したためだと考えられます
当時、日本の産業は「農業」が主軸でした。
しかし信長は、「楽市楽座」や「関所撤廃」、「道路整備」などで「物流」を活性化し、商業を発展させて、そこから生まれる莫大な資金を手に入れたのです。
この資金で、大量の「傭兵」を雇い、「鉄砲」などの最新兵器を買い、「材木」で「砦」をつくり、「豊富な兵糧」を買い込み、圧倒的な物量で敵を倒し続けたのでした。
商業が活性化していれば、資金はいくらでも入ってきます。
それを使って雇った「傭兵軍団」ならば、たとえ全滅しても、即座に雇い直して復活出来ます。
信長の軍団は、弱かったと評判でした。
その弱さは「鉄砲」などの最新兵器で補ったのです。
何度でも復活できる軍団と、最新兵器、圧倒的な物量と、それを支える資金力。
それが、信長が天下統一へ一気に飛躍できた理由です。
とはいえ、信長は天下統一目前で「本能寺の変」によって亡くなっています。
「天下統一」には、ギリギリで届かなかったのです。
信長の「統一事業」の流れを「年表」で解説
「織田信長」が「天下統一」をすすめていった流れを、「年表」を使って解説します。
信長は
「尾張国(愛知県西部)の半分」
を支配する大名から
日本のおよそ半分にあたる
「東は下野国(群馬県)から、西は備中国(岡山県)まで」
を支配する大勢力へと成長していきます。
1534年(信長の年齢・・・1歳)
織田信長・誕生
1546年(13歳)
元服、「織田三郎信長」と名乗る。
1548年(15歳)
信長、道三の娘「帰蝶(濃姫)」と結婚。
1552年(19歳)
父「織田信秀」死去、信長が家督を継承。「織田上総介信長」と名乗る。
1554年(21歳)
「安食の戦い」で「織田彦五郎信友」を撃破
1555年(22歳)
叔父「織田信光」とともに、「織田大和守家」の当主「織田彦五郎信友」を討ち取る。これにより「清洲城」を手に入れた信長は、本拠地を「那古野城」から「清洲城」へ移す
1556年(23歳)
信長の弟「信勝(信行)」が兄に対して挙兵。
「稲生の戦い」で信長が弟の信勝を撃破。信長の母「土田御前」の願いにより、信長は弟「信勝」「柴田勝家」らを許した。
1558年(25歳)
弟「信勝(信行)」、再び信長に謀反を企てる。信長は病を装い、清州城に信勝を呼び出し殺害。
これにより、織田家の勢力は信長のもとに統一された。
1560年(27歳)
5月19日、「信長」が「桶狭間の戦い」で「今川義元」を討ち取る。
1562年(29歳)
信長、清州城で「松平元康(家康)」と「清洲同盟」を締結。
1565年(32歳)
信長、犬山城主「織田信清」に勝ち、尾張統一を達成。甲斐の「武田信玄」と同盟を結び、姪を養女として信玄の四男「勝頼」に嫁がせる。
信長、「滝川一益」の援軍を得て伊勢に侵攻。「神戸具盛」らを屈服させ、北伊勢を平定。
1566年(33歳)
信長、美濃「斉藤龍興」との戦闘を再開するも龍興に敗北。
1567年(34歳)
信長、美濃「斉藤龍興」を攻撃。これにより稲葉山城陥落。「斎藤龍興」、伊勢の長島へ落ち延びる。
美濃を平定
信長は「稲葉山城」を拠点とし、その名を「岐阜城」と改名。
1568年(35歳)
9月、信長、「足利義昭」とともに上洛を開始。
これにより、信長は「南近江」や「山城」「大和」「摂津」など畿内の大部分を制圧
信長、義昭からの幕府要職への就任を頑なに拒み、尾張に帰還。
1569年(36歳)
信長、北伊勢に続き、南伊勢も平定。
1570年(37歳)
4月、信長、越前「朝倉義景」を攻めるが、北近江の同盟者「浅井長政」が裏切り、「明智光秀」、「木下秀吉」の殿(しんがり)によって辛くも京都に逃れる。
信長、「徳川家康」とともに「朝倉義景」「浅井長政」と近江国「姉川」で激突、勝利。(姉川の戦い)
「石山戦争」開始
「朝倉軍」が織田軍を攻撃するも信長はこれを撃破。朝倉軍「比叡山」へ逃走。
「長島一向一揆」勃発
信長、「浅井・朝倉」と和睦。
信長、「浅井長政」「朝倉義景」の両名に手をついて屈服。
1571年(38歳)
5月、信長、「長島一向一揆」討伐のため出陣するも攻めあぐねて撤退。
信長、比叡山に逃げ込んだ朝倉軍引き渡しを「延暦寺」に依頼。延暦寺は無視。
約1年間の引き渡し要求を無視し続けた「延暦寺」に、最後通牒。延暦寺側はこれも無視したため「比叡山焼き討ち」を計画。
9月12日、信長、「比叡山焼き討ち」を開始。比叡山、灰燼に帰す。被害者数は数千人。
光秀、近江国「坂本」に築城開始。
1572年(39歳)
「徳川家康」が「三方ヶ原の戦い」で「武田信玄」に敗北。
1573年(40歳)
2月、武田軍、三河へ侵攻。野田城を奪取。
「武田信玄」信州駒場で死去、武田軍三河から撤退。
「槇島城の戦い」で「足利義昭」を撃破。
信長は義昭を京都から追放。【1336年】から「237年間」も続いた「室町幕府」滅亡。
8月、信長、「朝倉義景」を攻め滅ぼし、ついで「浅井長政」を攻め滅ぼす。
北近江・越前を支配
1574年(41歳)
「長島一向一揆」を討伐。
「越前国」が「一向一揆」に奪われる
1575年(42歳)
「長篠の戦い」で「織田・徳川連合軍」が「武田勝頼」に圧勝。
8月、「越前一向一揆」討伐。越前国を奪い返し、「柴田勝家」に「越前国49万石」が与えられる
四国の「長宗我部元親」が、土佐国統一に成功。「長宗我部元親」が「織田信長」と同盟締結。
1576年(43歳)
1月 「安土城」の築城開始。
1577年(44歳)
8月 「松永久秀」、信長に反旗を翻す
松永久秀、「信長」からの降伏勧告に応じず、天守閣に火を放ち自害。
1578年(45歳)
3月13日、「上杉謙信」急死。享年49歳。混乱に乗じて、信長は「越中(富山県)」に侵攻。
7月 毛利軍が「上月城」を攻略
信長の家来だった摂津国「荒木村重」が信長に反抗を開始。
1579年(46歳)
6月 「明智光秀」、「丹波・丹後」を平定。
9月 「荒木村重」、有岡城を出て尼崎城へ移るが、2ヶ月後に有岡城落城。
「備前国」「美作国」の大名「宇喜多直家」が、「織田信長」に臣従。
1580年(47歳)
3月 相模国(神奈川県)の大名「北条氏政」、信長に従属を申し出る。信長の支配地域、関東まで拡がる。
石山戦争が終結。「本願寺顕如」が本拠地「石山本願寺」を退去。「和泉国」平定
柴田勝家が「加賀国」を平定。「能登」「越中」への侵攻開始。
羽柴秀吉によって、「但馬国」平定。その後「因幡国」も平定
1581年(48歳)
信長、「荒木村重」の残党をかくまい、「足利義昭」と内通した「高野山」を包囲。
1582年(49歳)
3月 「甲州討伐」、「武田勝頼」死去、武田家滅亡。(天目山の戦い)
「信濃」「甲斐」「下野」を攻略。「駿河国」は徳川家康に与えられる。
これにより、「徳川家康」は「三河・遠江・駿河」の三カ国を支配するに至る。
「備中高松城攻め」を行っている「羽柴秀吉」から援軍要請があり、信長は光秀に援軍を命じる。
6月2日 未明、「本能寺の変」。織田信長、自害。【享年49歳】
6月13日 「山崎の戦い」で「羽柴秀吉」は、「明智光秀」を撃破。光秀が死去。
1590年(-)
「豊臣秀吉」の「小田原征伐(北条征伐)」開始。
「北条氏政」・「伊達政宗」・「津軽為信」が秀吉に屈服。
「天下統一」が達成される。
「織田信長」について、さらに詳しい「年表」は、以下のリンク記事をどうぞ。
信長が利用した「朝廷・天皇」と「征夷大将軍」
織田信長は、「征夷大将軍」や「朝廷・天皇」の権威を利用し、一気に勢力を拡大することに成功しています。
信長は、「足利義昭」を15代征夷大将軍に就任させて、自らの権威の後ろ盾としました。
「征夷大将軍」は「武士のトップ」に位置する位であり、全国の武士に命令する権限を持っていました。
さらに、「征夷大将軍」は言うことを聞かない敵勢力を討伐する権限も持っていたのです。
信長は、「足利義昭」に「信長に臣従せよ」という命令を出させ、それに従わなかった「朝倉義景」のような戦国武将たちを、「征夷大将軍の命令に従わなかった」という名目で討伐していきます。
そうすると、信長の支配地域は拡大し、その軍事力はさらに増大していきます。
そうして信長は、軍事力を拡大させていったのです。
「足利義昭」を追放し、「室町幕府」が滅亡したあと、信長は「朝廷・天皇」を後ろ盾にします。
信長は朝廷や天皇から「天下静謐(天下をへいわにする)」ための執行権を与えられ、天皇・朝廷を後ろ盾にして、逆らうものを討伐していきます。
つまり、信長に逆らうものは「天皇や朝廷」の敵、つまり「日本国の敵」ということになるわけです。
信長は「天皇」や「征夷大将軍」のような権威を最大限に利用して、敵勢力を滅ぼす名目・理由を手に入れます。
そして、圧倒的な経済力で構築した最強軍団で、敵を滅ぼし領地を奪っていったのでした。
もしも信長が敗北してしまったら、そのときこそ「朝廷・天皇」や「征夷大将軍」の権威の真の力を発揮するときです。
「戦争をやめよ」と「天皇」や「征夷大将軍」から命令させることで、信長は何度も窮地を脱しているのです。
「権威」と「財力」、この2つが、織田信長の勢力拡大を支えていたのです。
ちなみに、「何の名目もなしに、いきなり敵勢力へ攻め込めばいいじゃないか」と考えられる方もおられるでしょう。
しかし、何の理由もなしに、いきなり隣の国に攻め込んだら、信長は民衆やその他の勢力から、鬼のような批判を浴びてしまうでしょう。
民衆を味方にしてこそ、信長は圧倒的な資金を手に入れていたのです。
民衆を敵に回したら、信長は一気に勝てなくなるはず。
実は「信長」は、自らの「評判」に、とても気を使った人でした。
悪事の限りを尽したようにいわれる信長ですが、実は民衆からの人気を気にしていたのです。
「征夷大将軍とは何か」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
「朝廷とは何か」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
「本能寺の変」、天下統一目前で散った「織田信長」
【天正10年(1582年)6月2日未明】、織田信長は京都「本能寺」に宿泊していたところを、重臣「明智光秀」に滅ぼされてしまいます。
「本能寺の変」です。
信長は、天下統一目前の状態でした。
東は「関東」一帯の支配者「北条氏政」を臣従させ
「四国」をほぼ制圧していた「長宗我部元親」を滅ぼすための軍団を送りこみ
「中国地方」の覇者「毛利輝元」を降伏寸前にまで攻めたて
「北陸」の「上杉景勝」を崖っぷちまで追い込み
まさに天下統一目前の状態でした。
九州でも、その大半を支配していた「島津氏」と、臣従させたに等しい関係をつくっていました。
東北では、「伊達政宗」の父「伊達輝宗」が、信長と外交関係を結び、すでに臣従に近い状態でした。
もしも「本能寺の変」がなかったら、信長は「2~3年」で天下統一を成功させていたはず。
信長が亡くなった8年後の【1590年】、豊臣秀吉によって天下統一は果たされます。
しかし、信長が死ななかったら、秀吉よりも遥かに早く、天下は制覇されていたはずです。
「本能寺の変」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」は「経済力」や「商業」を重視して、「商業振興策」をたて続けに行い、そこから得た莫大な資金で、強力な軍団を形成し、それにより領土を拡張、天下統一目前までいった。
2,「織田信長」は「今川義元」を「桶狭間の戦い」で撃破し、「美濃国」を支配して土台をかため、「足利義昭」を連れて京都周辺を支配し、さらに各地へと軍を派遣し領土を拡大させていった
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。
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ありがとうございました。
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