この記事では「織田信長の軍師」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「織田信長には軍師がいたのか?いなかったのか?」、そして「いたとしたら、どんな人だったのか」を、カンタンに理解できます。
「織田信長」には「沢彦宗恩」という軍師がいたのです。
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この記事を短く言うと
1,「織田信長」に、軍師はいたのか?
信長には、「沢彦宗恩(たくげんそうおん)」という軍師がいたといわれている
2,「沢彦宗恩」とは、いったい「何者」なのか?
「沢彦」は、臨済宗の僧侶で、信長の教育係だった「平手政秀」に要請されて、幼い信長の学問の師となった人物
3,「沢彦宗恩」の功績とは?
沢彦は、織田信長に対して「天下布武」と「岐阜」という言葉を考案して使わせ、その取るべき道を指し示した
「織田信長」に「軍師」はいたのか?
「織田信長」には、「沢彦宗恩(たくげんそうおん)」という名前の「軍師」がいました。
ただし、「三国志」の「諸葛亮孔明」や、「羽柴秀吉」の軍師「竹中半兵衛」のように
「戦争で、兵士を配置して、鮮やかに巧みに勝利をおさめる」
というような、「戦争のための軍師」ではなかったと考えられます。
「戦争で信長に戦術をまかせられ、勝利に導く軍師」ではなく、「戦略を示した参謀・ブレーン」であったといえるでしょう。
「竹中半兵衛」は「羽柴秀吉」に、「この戦争をどのように戦えば勝てるのか」を発案し、勝利に導いたといわれています。
しかし「沢彦宗恩」は、信長に戦争の戦い方をいちいち解説した「竹中半兵衛」タイプの軍師ではありません。
三国志の軍師「龐統」は、主君の「劉備」に対して、「蜀の国を攻め取れ」と、その進むべき道を指し示しました。
おなじく「曹操」の軍師「荀彧」は、「皇帝を保護して、後漢の国を再興されよ」と、取るべき方針・目標を示しました。
「沢彦宗恩」は、「竹中半兵衛」タイプではなく、「龐統」や「荀彧」のようなタイプの軍師、いわゆる「ブレーン」タイプだったのでしょう。
「沢彦宗恩」は、織田信長の教育係だった「平手政秀」の要請により、信長の教育係・学問の師となっています。
弟子の「信長」が成長すると、沢彦はそのまま「信長」の軍師となり、その戦略を影で支えたといわれています。
「平手政秀」が、信長の「うつけ(バカ者)ぶり」を注意するために、切腹したという逸話があります。
信長は「平手政秀」の供養のために「政秀寺」というお寺を建立し、「沢彦宗恩」にその寺を任せたのだそうです。
今川義元には、その師でもあった「太原雪斎」という軍師がいました。
「沢彦宗恩」も、信長にとっての「太原雪斎」のような存在だったのでしょう。
「今川義元」と「太原雪斎」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
「沢彦宗恩」とは、いったい何者なのか?
「沢彦宗恩」は、臨済宗の僧侶で、京都にある「妙心寺」というお寺の「第一座」という地位にいた、非常に優秀なお坊さんでした。
武田信玄の師といわれている僧侶「快川紹喜(かいせんじょうき)」の義兄弟でした。
沢彦宗恩については、詳しい資料がないため、どこの何者なのかが、ハッキリとはわかっていません。
ただ、織田信長が幼名の「吉法師」と呼ばれていた頃からの付き合いであったといわれています。
織田信長が使ったことで有名な印「天下布武」や、「岐阜」という言葉を考案したのも、「沢彦宗恩」だといわれています。
「岐阜」と「天下布武」!沢彦宗恩が信長を「天下人」へ押し上げた
沢彦宗恩は「岐阜」という地名・城名と、「天下布武」という言葉を考案し、信長に使わせたといわれています。
「岐阜」とは、織田信長が斎藤龍興から奪い取った「稲葉山城」の新しい名前です。
信長は、「稲葉山城」を攻め落としたあと、そこへ本拠地を移動して、「岐阜城」と解明しています。
「岐阜」とは、「岐山」と「曲阜」という地名から、一文字ずつ取って、組み合わせた名です。
古代中国にあった「周」という国の名君「武王」が、暴君「紂王」の支配する国「殷(商)」を討伐する際に挙兵した地「岐山(きざん)」。
そして、「武王」の弟であり大政治家「周公旦」が支配した地であり、その「周公旦」を尊敬していた儒教の「孔子」の故郷「曲阜(きょくふ)」
この2つの地名から「岐阜」と名付けたのでした。
つまり「沢彦宗恩」は、「武王のように天下を支配せよ」、「周公旦や孔子のように、理想の国づくりをせよ」と、信長に言いたかったのでしょう。
それだけではありません。
「沢彦宗恩」は、信長が使ったことで有名な「天下布武」という言葉を、信長に教えているのです。
「天下布武」とは、「日本全国を武力で制圧する」という意味だと考えられていますが、真実は違います。
これは「畿内を平和にしてみせる」という意味なのです。(畿内とは、現在の大阪府・奈良県・京都府の一部・兵庫県の一部のこと)。
言いかえると「天下布武」とは、「室町幕府を再興するぞ」という意味にもなります。
つまり「沢彦宗恩」は、「織田信長」に「室町幕府を再興しなさい」とその進むべき方向性を指し示した、ということになります。
「岐阜」と「天下布武」。
沢彦宗恩は、織田信長を「岐阜」と「天下布武」という2つの言葉で、「理想の国づくり」と「平和」という、今後目指すべき道を指し示したと言えるのです。
「天下布武」の意味について、詳しくは以下のリンク記事をどうぞ。
「沢彦宗恩」のその後
沢彦宗恩は、【1587年】に亡くなっています。つまり弟子である「織田信長」が「本能寺の変」で亡くなったあと「5年」、沢彦は生きたことになります。
沢彦は、岐阜県岐阜市にあった「瑞龍寺」というお寺に住んでいました。
おそらく信長が「岐阜城」に拠点をおいていた間は、信長から頼りにされていたことでしょう。
しかし、信長が「安土城」へ移動した【1579年】頃からは、信長と疎遠になったことでしょう。
【1582年】、織田信長は「甲州征伐」で「武田勝頼」を滅ぼしています。
そのとき、「甲斐国」の「恵林寺」という、武田信玄のお墓があるお寺で、「沢彦宗恩」の義兄弟「快川紹喜」を焼き殺しています。
このことを、沢彦宗恩はどのように感じたのか・・・。全くわかっていません。
信長に対して反発する心があったのか、それとも信長を育てた自分を責めたのか・・・。
「甲州征伐」の3ヶ月後、【1582年6月】、「織田信長」は「本能寺の変」によって、「明智光秀」に討たれています。
沢彦宗恩は、信長が亡くなった後も、目立った動きを見せずに、5年後に静かに亡くなっているのです。
ちなみに「沢彦宗恩」を描いた小説「信長の軍師」という小説が有名です。
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また、「沢彦宗恩」が「拳法の達人」として登場するマンガ「いくさの子」も、どうやら評判のようです。
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筆者も読んでみましたが、どちらもとてもおもしろい作品でした。
「本能寺の変」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」には、沢彦宗恩という軍師がいたといわれている
2,「沢彦宗恩」は、臨済宗の僧侶で、信長の教育係だった「平手政秀」に要請されて、幼い信長の学問の師となった人物
3,「沢彦宗恩」は、織田信長に対して「天下布武」と「岐阜」という言葉を考案して使わせ、その取るべき道を指し示した
以上となります。
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