この記事では「織田信長の息子・娘」を、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「信長の子供たち」について、カンタンに理解できます。
「信長の子供たち」は「そのほとんどが、悲惨な運命をたどっている」のです。
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この記事を短く言うと
1,織田信長の「息子・娘」には、どんな人達がいたのか?
信長には嫡子「信忠」、次男「信雄」、三男「信孝」など、20名以上の子供がいた
2,織田信長の子供たちの[その後]とは?
信長の子供たちは、「本能寺の変」で信長が亡くなったあと、ことごとくが「豊臣秀吉」や「徳川家康」に臣従している。
3,信長の子供たちの最期とは?
「信長」が亡くなったあと、信長の子供たちは全員が悲惨な最期を遂げている。
織田信長の「息子・娘」の名前一覧
織田信長には、複数の側室たちとの間に、合計で「20人」以上の子供たちがいました。
ただ、人数については、ハッキリしていません。
織田信長の息子の名前一覧は、以下のとおりです。
- 織田信忠(長男・嫡男)
- 北畠信雄(二男、北畠具房の養子)
- 神戸信孝(三男、神戸具盛の養子)
- 羽柴秀勝(四男、羽柴秀吉の養子)
- 津田信房(五男、遠山景任・武田信玄の養子となり、のち離縁)
- 織田信秀(六男、祖父「織田信秀」と同じ名前を与えられた)
- 織田信高(七男)
- 織田信吉(八男)
- 織田信貞(九男)
- 織田信好(十男)
- 織田長次(十一男)
- 織田信正(庶長子・年齢は長男の信忠より上だったらしいが、庶子だったため身分は低かった)
次に「娘」を一覧でご紹介致します。
娘については、年齢が不明な者が多いため、生まれた順番がほとんど不明です。
- 「相応院」 信長の長女「蒲生氏郷の妻」
- 「徳姫」 信長の二女「松平信康の妻」
- 「秀子」 「筒井定次の妻」
- 「鶴姫」
- 「玉泉院」 「前田利家の息子・前田利長の妻」
- 「報恩院」 「丹羽長秀の息子・丹羽長重の妻」
- 「振姫」 「水野忠胤の妻」、「佐治一成の後妻」
- 「源光院」 「万里小路充房の妻」
- 「三の丸殿」 「豊臣秀吉の側室」
- 「月明院」 「徳大寺実久の妻」
- 「足利夫人」 「足利義昭の側室」
今度は信長の「養女」をご紹介致します。
信長は、養女を数多くむかえ、各地の武将と婚姻関係を結んでいます。
- 「名前不明」 五摂家の1つ、二条家「二条昭実」の側室
- 「名前不明」 斎藤道三の娘で「畠山昭高の正室」
- 「桂峯院」 丹羽長秀の妻、信長の兄「織田信広」の娘と言われている
- 「龍勝寺殿」 「遠山直廉」と「織田信長の妹の娘。信長の姪にあたる。「武田信玄」の息子「武田勝頼」の妻であり、勝頼の息子「信勝」の母。「信勝」出産の直後に死去。
信長の息子たちの「その後」を簡単解説
織田信長の子供たちは、どのような人生をおくったのでしょうか?
子供たちのその後を、判明している限り、カンタンに解説致します。
- 織田信忠(長男)・「1582年、本能寺の変で戦死」
- 北畠信雄(二男)・「秀吉・家康につかえ、領地没収を経験しながらも、1630年に死去」
- 神戸信孝(三男)・「賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が戦死すると、1583年、兄・信雄により切腹させられる。
- 羽柴秀勝(四男)・「秀吉の養子となったが、1586年に18歳で病死」
- 津田信房(五男)・「武田信玄の養子となったが、1582年、本能寺の変で兄・信忠とともに戦死」
- 織田信秀(六男)・「秀吉に仕えた。朝鮮出兵に参陣したのち、病死。亡くなった年は不明だが、1597年以降とされる」
- 織田信高(七男)・「秀吉に仕え、弟の信吉・信貞とともに関ヶ原の戦いに参戦。西軍に属し、戦後改易。1603年に死去」
- 織田信吉(八男)・「兄・信高とともに関ヶ原の戦いに参戦。西軍に属して改易。1615年死去」
- 織田信貞(九男)・「兄・信高、信吉とともに、関ヶ原の戦いで西軍に属し改易。大坂の陣では徳川に味方した。1624年死去」
- 織田信好(十男)・「秀吉に仕え、茶道を学んだという。1609年死去」
- 織田長次(十一男)・「1600年に関ヶ原の戦いに参戦。西軍の大谷吉継の部隊に属して戦死」
- 織田信正(庶長子・信長最初の子で、長男の信忠より3歳年長だったらしいが、庶子だったため身分は低かった)「若くして隠居して出家。1647年死去」
天下人「織田信長」の息子にしては、全員が悲惨な最期を遂げております。
「本能寺の変」のあと、信長の子供たちは悲惨な運命をたどった
先程解説したとおり、信長の息子達は、そのほとんどが、没落と言っていい状態にまで落ちぶれて亡くなっています。
なぜなのでしょうか?
理由は簡単で、「織田信長の息子」だからです。
信長のあとを継いで、天下を支配したのは、ご存知「豊臣秀吉」です。
秀吉は「信長」亡き後の織田家を、罠を張りめぐらせて乗っ取ったのです。
決して、円満に、当然の成り行きで「天下を信長から継承した」のではありません。
天下人となった「豊臣秀吉」にとって、主君だった「織田信長」の子供たちなど、もはや「邪魔者」でしかなかったのです。
秀吉にとって、信長の子供たちは、「いなくなってくれればありがたい存在」、となってしまっていました。
秀吉は、「織田信長の後継者あらそい」に介入し、信長の子を順番に排除していきます。
信長の次男「信雄」と三男「信孝」の後継者争いで、「信雄」に味方し、「信孝」を死に追いやっています。
次男「信雄」も、天下統一後に、領地を大幅に削減されて、窓際に追いやられます。
他の子供たちも、秀吉によって力を削ぎ落とされて、没落。
秀吉の死後、徳川家康の天下となっても、結果は変わることはありませんでした。
最期まで生き残った次男「織田信雄」!なぜ生き残れたのか?
庶子の「織田信正」を除けば、次男「織田信雄」が、信長の子供たちの中では最も長生きしています。
信雄は、「領地没収」や「戦死」や「切腹」で亡くなった弟たちに比べても、比較的平穏な最期を遂げることに成功しています。
しかも、子孫を現代にまでつなげることにも成功しているのです。
なぜ「信雄」は、目の敵にされた「信長の子供たち」の中で、最期まで生き残れたのか?
「尾張のうつけ」
父「織田信長」は、若い頃「尾張のうつけ(バカ)」と呼ばれていましたが、息子の「信雄」も「バカ者だった」と評判でした。
信雄が生き残れた理由は、「バカ者」だったからでしょう。
それほど頭が良くなかったため、誰もが彼を警戒しなかったのです。
そのため、目の敵にされることなく、生き残ることが出来たと考えられます。
「織田信長の子孫と家系図」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,織田信長の「息子・娘」は、信長には嫡子「信忠」、次男「信雄」、三男「信孝」など、20名以上の子供がいた
2,信長の子供たちは、「本能寺の変」で信長が亡くなったあと、ことごとくが「豊臣秀吉」や「徳川家康」に臣従している。
3,「信長」が亡くなったあと、信長の子供たちは全員が悲惨な最期を遂げている。
以上となります。
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