この記事では「織田信長ゆかりのお寺」について「一覧表」で、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「織田信長ゆかりのお寺」を、カンタンに理解できます。
「織田信長」は「第六天魔王」と名乗り、「仏教徒を弾圧」したものの、実は「仏教徒を庇護しようとした」のです。
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この記事を短く言うと
1,「織田信長」ゆかりのお寺とは?
「本能寺」、「阿弥陀寺」、「延暦寺」、「大徳寺」、「三宝寺」など、織田信長に縁のあるお寺は、現在も数多く存在している。
2,「織田信長」の菩提寺とは?
愛知県名古屋市に、織田家の菩提寺「萬松寺」がある。この寺で、信長は父「織田信秀」の位牌に抹香を投げつけた。また、「山形県天童市」にも織田家の菩提寺「三宝寺」がある
3,信長が「比叡山延暦寺」を焼き討ちにした理由とは何か?
「比叡山延暦寺」が、信長の宿敵である「浅井長政」と「朝倉義景」の軍団をかくまったため。さらに、当時「比叡山延暦寺」は、数多くの利権を持つ「既得権益集団」であり、人々を苦しめる存在でもあった。このことから信長は、「比叡山延暦寺」に対して、「焼き討ち」という強硬手段をとった。しかしその被害は、近年の研究によれば、「虐殺」と呼べるようなものではなかった、という可能性が指摘されている
「織田信長」ゆかりのお寺一覧
今から約【450年前】の戦国時代に活躍した武将「織田信長」。
その「織田信長」にゆかりのお寺を一覧でご紹介致します。

《山形県天童市三宝寺所蔵、宣教師による織田信長肖像画Wikipediaよりパブリックドメイン》
織田信長といえば、「比叡山焼き討ち」や「高野聖の虐殺」または「一向一揆の虐殺」などで、仏教を弾圧した人物と考えられていますが、そんな「織田信長」にゆかりのお寺は、現在も数多く残されています。
- 京都府京都市「本能寺」
【1582年】、織田信長が重臣「明智光秀」に討たれた最期の地。現在の「下本能寺町前522」の住所にある「本能寺」は、「豊臣秀吉」によって移転させられたもの。当時は「元本能寺南町」にあり、現在は「本能特別養護老人ホーム」が建てられている。 - 京都府京都市「阿弥陀寺」
浄土宗のお寺であり、「織田信長」とその息子「織田信忠」の墓がある。「本能寺の変」が起こったときの住職「清玉上人」が、信長の遺骸を本能寺から密かに引取り、埋葬した逸話で有名。「清玉上人」は幼い頃、「信長」とともに育ったとも言われている。 - 滋賀県大津市「比叡山延暦寺」
伝教大師「最澄」が開いた「鎮護国家」のためのお寺。しかし戦国時代の当時は、既得権益を抱えて腐敗した「僧兵」の根城だった。信長の宿敵「浅井・朝倉連合軍」をかくまったため、激怒した信長に焼き討ちにされた - 京都府京都市「大徳寺総見院」
織田信長の後継者として天下を統一した「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」が建立した寺院。この寺で、「豊臣秀吉」が「織田信長」の葬儀を盛大に行い、信長の後継者は自分であることを天下に示した。この葬儀で秀吉は、信長の愛刀「不動国行」を持って参列したと言われている。 - 滋賀県近江八幡市「摠見寺(そうけんじ)」
織田信長の居城「安土城」のあとに残された信長によって建立されたお寺。この寺には当時「信長の御神体」とされる「石」が置かれており、信長は自らを《神》として、人々に拝ませたといわれている。 - 京都府京都市「妙覚寺」
織田信長の妻「帰蝶(濃姫)」の父「斎藤道三」の、そのまた父である「松波庄五郎」が修行したお寺。のちに「斎藤道三」の四男「日饒」が住職をつとめた。信長の義弟「日饒」がいた縁で、信長の京都での宿舎として利用された。「本能寺の変」では信長の息子「信忠」がこの「妙覚寺」を宿舎としており、明智光秀の襲撃をうけたとされている。 - 愛知県名古屋市「万松寺(ばんしょうじ・萬松寺)」
織田家の菩提寺。「織田信長」の父「織田信秀」が亡くなり、この寺で葬儀が行われた際、信長は父「信秀」の位牌にむかって「抹香」という粉のお香を投げつけたといわれている。 - 山形県天童市「三宝寺」
織田家の菩提寺。信長の次男「織田信雄」の子孫にあたる「織田信美(のぶかず)」が、「天童織田藩」を支配していた際の織田家菩提寺。この寺には、「織田信長」のものとつたえられている「位牌」や「西洋式画法による信長の写実画」が保管されている(その写実画は、この記事の最初でご紹介しております。) - 愛知県名古屋市「政秀寺」
織田信長の守役で、織田家の家老だった武将「平手政秀」の菩提寺。「うつけ」と呼ばれた「織田信長」の奇行を辞めさせるために切腹した「平手政秀」の菩提を弔うため、信長は自らの師であり軍師でもあった「沢彦宗恩」を住職として、この寺を建立した - 京都府京都市「本圀寺」
【1568年】、室町幕府・第15代征夷大将軍「足利義昭」が、宿舎としていた寺。【1569年】、この「本圀寺」にいた「足利義昭」を、《三好三人衆》と《斎藤龍興》が襲撃し、「明智光秀」らに撃退された。信長はこの事件で「足利義昭」の身を守るための城郭が必要であると痛感し、「二条城」を短期間で建設した(その二条城の建設現場にて、信長は「ルイス・フロイス」と初めて対面したという逸話が残っている) - 山梨県甲州市「恵林寺」
「武田信玄」の菩提寺。【1582年3月】、「織田信長」とその息子「織田信忠」による「甲州征伐」で「武田勝頼」が亡くなり「武田家」が滅びると、信長はこの寺に匿われていた宿敵「六角義定」の身柄引き渡しを要求。これを断られたことを口実に、住職「快川紹喜」は焼き討ちされて亡くなった。快川紹喜は「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉を残してなくなったという。 - 福井県坂井市「称念寺」
織田信長と直接的な関係はないが、信長を討った「明智光秀」が、「美濃国」の「斎藤義龍」から逃げた際に、この「称念寺」の門前で10年のあいだ「寺子屋の先生」や「医師・薬剤師」をして生活したという。光秀はのちに足利幕府15将軍となる「足利義昭」と出会う。余談だが、この「称念寺」には、「足利幕府(室町幕府)」を開いた「足利尊氏」の宿敵「新田義貞」の墓がある。「足利義昭」の先祖の宿敵「新田義貞」の墓の前で10年暮らした「明智光秀」は、「室町幕府」を滅ぼす「織田信長」に仕えることとなる。
「本能寺の変」については、以下のリンク記事をどうぞ。
「【本能寺の変】の謎や真相をすべて解説!黒幕や動機について完全網羅」の記事はコチラ
「織田信長の愛刀」については、以下のリンク記事をどうぞ。
織田家の「菩提寺」について解説!
織田信長の菩提寺は複数ありますが、その中の一つに「万松寺(萬松寺)」というお寺があります。
織田家の菩提寺として有名で、信長の父「織田信秀」が開いたお寺です。
このお寺で、織田信長は父「信秀」の葬儀を行い、父の位牌に抹香を投げつけるという暴挙にでるのです。
また、織田の人質として過ごしていた幼い頃の「徳川家康」は、この「万松寺」で6歳から9歳まで過ごしたといわれています。
このお寺は、禅宗「曹洞宗」のお寺でしたが、現在はどこの宗派にも属さない「単立寺院」として運営されているようです。
また、山形県天童市にも「織田家の菩提寺」として「三宝寺」というお寺があります。(天童市仲町1-2-5)
この「三宝寺」は、織田信長の次男「織田信雄」の末裔で「天童織田藩」の初代藩主「織田信美」の時代【1830年】、織田家の菩提寺とされました。
「織田信長」を含む「織田一族79名」の位牌があるとされています。
「織田信秀」については、以下のリンク記事をどうぞ。
織田信長が「比叡山焼き討ち」をおこなった理由
織田信長といえば【1571年】に「延暦寺」のある「比叡山焼き討ち」をしたことで有名です。
信長はなぜ、「比叡山焼き討ち」をしたのかというと、「比叡山」が「織田信長」の宿敵である「浅井長政」と「朝倉義景」の軍団をかくまい、信長の敵を助けたからです。
信長はこの「比叡山延暦寺」の「浅井・朝倉」に味方する行為に対して、手紙をおくり、説得を試みています。
「比叡山に浅井・朝倉連合軍をかくまわず、追い出してほしい。
もしもそれが出来ないなら、比叡山から退去していてほしい。
我々織田軍は、比叡山に陣取っている浅井・朝倉連合軍を、倒してみせる」
しかし比叡山延暦寺は、1年ものあいだ、この信長からの手紙を無視し続けたのです。
激怒した信長は【1571年】、ついに「比叡山焼き討ち」を断行。
直前になって恐れた比叡山延暦寺の僧侶たちは、信長に黄金を送って命乞いをするも、信長は無視。
「明智光秀」を先頭にして、「1500~3000人」もの老若男女が虐殺されたという記録があります。
しかし近年の研究では、この「比叡山焼き討ち」は形ばかりで、ほとんどの僧侶は、ふもとにある「坂本」の町に避難していたというのです。
当時の「比叡山延暦寺」は、「女人禁制」を破って遊女を入れて酒を飲み、「高利貸し」で暴利を貪り、「琵琶湖の水運」を独占して、全国に多くの領地を持つ「戦国大名」をも超える権力者だったのです。
信長はこの「既得権益」をもつ「延暦寺」を倒して、規制緩和に成功したといえます。
「延暦寺」は、平清盛の時代から、「強訴」と呼ばれる力技で、朝廷に無理やり自分たちの要求を飲ませる強権集団でした。
「平清盛」の時代に「院政」で権力を握った「白河法皇」は、こんな言葉を残しています。
「最高権力者の私でも、鴨川の水、サイコロの目、山法師(延暦寺)は、思い通りにならない」
「鴨川の水」なんて、自然の驚異ですから、現代日本でも思い通りにはなりません。
「サイコロの目」も、運次第であり確率の問題ですので、どうにかなるはずがありません。
そんな「自然の驚異」や「運」と同じように、「延暦寺」はどうにもならない存在なのだ、と「白河法皇」は言いたかったのです。
その「延暦寺」を、信長は「焼き討ち」という方法で、「なんとかした」のです。
これ以降、「比叡山延暦寺」は、政治に介入することがなくなり、現代社会では当たり前である「宗教は、政治から切り離す」という「政教分離」が始まるのです。
「比叡山焼き討ち」については、以下のリンク記事をどうぞ。
「第六天魔王」について考察!「信長」は仏教を守るつもりだった?
織田信長は、宿敵「武田信玄」にあてた手紙に、「第六天魔王」と記し、名乗っています。
「第六天魔王」とは、「仏教徒の邪魔をする悪魔」であり、省略して「天魔」とも呼ばれるものです。
正式名称は「第六天魔王・波旬(はじゅん)」。

《第六天魔王・波旬》
「引用元ウィキペディアより」
実はこの「第六天魔王」ですが、「日蓮宗」の開祖「日蓮上人」によると、「仏教を守るもの」であるというのです。
「第六天魔王」は、あの手この手で、真面目に修行する「仏教徒」の邪魔をする存在です。
しかし、本気で仏教の修行をする僧侶からすれば、「第六天魔王」は、かえって自分を鍛えるための良い障害になってくれる、というのです。
つまり「第六天魔王」は「本気で修行する僧侶からすれば、ありがたい存在である」ということです。
信長は、「仏教徒」として本気で世の中を救おうとする者たちについては、手出しすることなく、保護しています。
- 「比叡山延暦寺」は、「浅井・朝倉」をかくまうなど、政治と戦争に介入して、織田軍を邪魔していました。
- 「一向宗」と「本願寺顕如」は、「門徒」たちを先導して「反乱」を起こさせ、「越前国」などを支配していました。
- 「恵林寺」の「快川紹喜」は、信長の敵「六角義定」をかくまい、引き渡しを拒絶しました。
信長のやり方は、たしかに残酷です。
しかし、何の理由もなく僧侶を殺害したわけではなく、「政治」や「戦争」に介入した、という確かな理由があったといえます。
信長は自ら「第六天魔王」を名乗ることで、「本気で修行する仏教徒は守るが、不良僧侶には容赦しないぞ」と言いたかったのではないでしょうか。
「石山本願寺と本願寺顕如」については、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」ゆかりのお寺には、「本能寺」、「阿弥陀寺」、「延暦寺」、「大徳寺」、「三宝寺」など、現在も数多く存在している。
2,愛知県名古屋市に、織田家の菩提寺「萬松寺」がある。この寺で、信長は父「織田信秀」の位牌に抹香を投げつけた。
3,信長が「比叡山延暦寺」を焼き討ちにした理由は、「比叡山延暦寺」が、信長の宿敵である「浅井長政」と「朝倉義景」の軍団をかくまったため。さらに、当時「比叡山延暦寺」は、数多くの利権を持つ「既得権益集団」であり、人々を苦しめる存在でもあった。このことから信長は、「比叡山延暦寺」に対して、「焼き討ち」という強硬手段をとったが、その被害は、現在では「虐殺」と呼べるようなものではなかった可能性が指摘されている
以上となります。
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ありがとうございました。
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