この記事では「織田信長の最大兵力」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「織田軍の兵力」を、カンタンに理解できます。
「織田信長の軍団」はピーク時に「20万以上」だったと考えられるのです。
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この記事を短く言うと
1,「織田信長」の最大兵力は、何人だったのか?
【1582年】の時点で、織田信長の軍団は、「20万人」を超えていたと考えられる。
2,「織田信長」の最大兵力と、「豊臣秀吉」の最大兵力とは?
「織田信長」の兵力は、「20万」以上。「豊臣秀吉」は「小田原征伐」で「22万」の軍を動員した
3,「織田軍団」の強さの秘密とは?
織田軍団は、数が多かったが、「装備」も最新鋭だった。「鉄砲」「大砲」「鉄甲船」などの最新兵器を次々と導入して、その「弱さ」を補っていた
織田軍の最大兵力は、ピーク時に「20万人」以上だった
織田信長がひきいた「織田軍」の総兵力・最大兵力は「20万人」以上だったと考えられます。
信長が「本能寺の変」で亡くなる直前の領土の生産量は、約780万石でした。
この「生産量」から、織田軍団の最大動員兵力を割り出すことが可能です。
この「生産量」から割り出せる最大動員兵力は、約「19万」です。
織田軍団の中でも、「明智光秀」の軍団は、その支配地域に重税を課していたらしく、動員兵力が特に多かったと考えられています。
明智光秀の動員兵力は、通常であれば「8千人」ほどのはずが、「2万人」も動員できていたのです。
「19万人」に明智光秀軍の増員分を含めると、「20万」を超えることになります。
おそらく「明智光秀」以外にも、最大動員兵力を超える動員力をもった武将がいたはずです。
織田軍団は、「最低」でも20万人、と考えることができると思います。
【1560年】、「桶狭間の戦い」のとき、信長は守備兵を除いて「3千」の軍をひきいていました。
守備兵を含めると、「6~7千」ほどだと考えられますが、そこから22年で「20万」にまで、軍団を増大させたのです。
「織田信長の領地の石高(生産量)」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
豊臣秀吉の兵力は「小田原征伐」に「22万人」!信長はそれ以上だった?
織田信長の最大動員兵力を「20万」とするなら、単純計算で、「豊臣秀吉」の「小田原征伐」のときよりも、織田軍のほうが多いことになりかねません。
【1590年】、豊臣秀吉は、関東の「北条氏政」を討伐するために、「小田原征伐」を開始。
その時の兵力は、「22万」だったといわれています。
それに対して織田信長は、【1582年】の時点で、「20万」の軍団を持っていたのです。
【1590年】の「豊臣秀吉」とは異なり、「中国・四国・九州」を、織田信長は支配していませんでした。もちろん、「織田信長」の「20万」という兵力は、「守備兵」も含めての全軍です。それに対して「豊臣秀吉」の「22万」は、「守備兵を除く遠征軍のみ」の数であると考えられます。
当時「織田信長」が支配していた国の数は、全国「66カ国」のうち「28カ国」でした。
それに対して秀吉は、「20カ国」ほど多かったはずなのです。
単純計算で、「秀吉」の軍団のほうが、2倍位多かったはずが、わずか2万の差しかないということは、織田軍団がどれほど大軍団であったのかが伺い知れる気がします。
関東より西の全てを支配していた「豊臣秀吉」と、日本の半分を支配していた「織田信長」。
信長の才能と軍制が優れていたことを意味しているのではないでしょうか。
「織田信長の政治政策」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
兵力もすごかったが、信長軍は装備がすごかった
織田信長の軍は、兵力も圧倒的でしたが、その「装備」が最新式で、他と比べて優れていました。
「最新兵器」も、信長軍団の快進撃を支えた大きな理由だと考えられます。
信長は、商業都市「堺」や、鉄砲生産地「近江国・国友村」などの重要地点をおさえていました。
そのため「鉄砲」や「大砲」のような、どこの「戦国武将」よりも優れた最新兵器を整えることが出来たのです。織田信長の軍団は、「長槍」などの兵器も備えていたといわれています。
織田軍は、圧倒的な兵力だけでなく、「圧倒的な装備」で、敵勢力を圧倒していたのです。
その「圧倒的な装備」が活きた戦いが、「長篠の戦い」です。
織田軍団は、「武田勝頼」がひきいる戦国最強「武田騎馬軍団」を「鉄砲」で撃破しています。
この「長篠の戦い」以降、織田軍団は「戦国最強の軍」に成り上がったのです。
「長篠の戦い」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
織田軍は弱かった?その理由は「傭兵」だったから
圧倒的な「装備」と「兵力」で他国を侵略し続けた織田軍団ですが、実は「織田軍の兵士」は、「弱い」ことで有名でした。
「手取川の戦い」で「織田軍」を撃破した軍神「上杉謙信」は、戦後にこんなことを言っています。
「織田軍団は、弱い」
確かにそのとおりなのです。
織田軍団は、弱いことで有名なのです。
なぜ弱いのかというと、「織田軍団が、傭兵だから」です。
当時の戦国武将がひきいていた兵士は、普段は「農民」として自らの土地を耕し、戦時には「兵士」として徴収される、いわゆる「半兵半農」が常識でした。そのため「農業が忙しい時期」、特に春から秋にかけての季節は、戦争が出来なかった。それが「戦国武将」の常識だったのです。
ところが織田信長の軍は違いました。
1年365日、いつでもいつまででも戦い続けることができたのです。
なぜそんなことが出来たのかというと、織田軍団の兵士が「半兵半農」ではなく、「戦争を専門とする傭兵集団」だったからです。
織田信長は、その圧倒的な財力で「傭兵(足軽)」を雇い、「戦争専門の軍団」を作り上げることに成功していました。
「半兵半農」は、秋から春にかけての約半年しか遠征できませんでした。
しかし織田軍の「傭兵集団」は、何年でも遠征できる軍団だったのです。
実はそんな「織田軍団」にも、弱点がありました。
織田軍団の弱点、それは「傭兵は、半兵半農の兵士よりも、圧倒的に弱い」ことにありました。
戦争専門の集団だから、農民よりも強いと思われがちですが、「傭兵」は「半兵半農」よりも弱いのです。
理由はカンタンです。
「傭兵」は、危なくなったらすぐ逃げます。
しかし「半兵半農」は、危なくなっても逃げず、必死になって戦うのです。
考えてみると当たり前です。
「傭兵」は、逃げ出してもまたすぐに別の雇先を見つけられます。
しかし「半兵半農」は、土地に根付き、土地や村と強く結びついているため、「敗北する」または「逃げ出す」ということは、「土地を失う」ことを意味するのです。
自分の土地を守るために、必死に戦うのが「半兵半農」なのです。
他国を侵略するときも、「半兵半農」はとても強力でした。
「半兵半農」の兵士たちは、それぞれの村ごとに集められていました。
そのためもし万が一、逃げ出す兵士がいたとしたら、その逃亡兵は、村の仲間から非難され続けるでしょう。
逃げ出すと、村にいられなくなるのです。
土地と強く結びついている「半兵半農」は、そう簡単に引っ越しすることも出来ないので、「非難」から逃れることができません。
それがわかっているからこそ、「半兵半農」の兵士は、逃げ出すことなく必死に戦い、圧倒的な強さを示したのです。
「武田信玄」や「上杉謙信」のような、「戦国最強」と呼ばれた軍団は、ほとんどが「半兵半農」の兵士で構成されていました。
そのため、とてつもない強さを発揮できたのです。
対して「織田信長」の軍団は「傭兵」だったため、弱かったのですが、その反面「長期遠征」を可能としていました。
「長期遠征」が可能であったため、「中国地方」から「関東地方」にまで及ぶ広大な領地を支配することが出来たのです。
信長は、「傭兵は弱い」という弱点を補うために、「鉄砲」や「大砲」または「鉄甲船」のような「最新兵器」を次々と導入します。
それらの強力兵器によって、「傭兵の弱さ」を補いながらも、「長期遠征ができる」という「傭兵の強み」を活かした戦い方をしたのです。
織田軍団は、「城攻め」を得意としていました。
特に「敵の城」の周囲に「砦」をつくって包囲し、「兵糧攻め」にする戦法をよく使っています。
なぜ「兵糧攻め」が得意なのかというと、織田軍団が「長期遠征」を得意としていたからです。
「傭兵」は何ヶ月でも、何年でも、敵の城を包囲することが出来たため、「兵糧攻め」が出来たのです。
織田軍団は、「5年」ものあいだ、「石山本願寺」を包囲して、最終的に降伏させています。
織田軍団は、「長期遠征」という長所に加え、「弱い」という弱点を「最新兵器」で補えたことにより、天下統一へと一気に飛躍できたと考えられます。
織田軍とは逆に、「半兵半農」の「強さ」という長所を活かしながらも、「長期遠征を可能とする」ような、そんな「弱点を補える軍団」がいたのなら、もしかすると「織田軍団」も苦戦していたかもしれません。
余談ですが、「織田信長」は、「武田信玄」と「上杉謙信」を、生涯恐れ、直接対決を避けていました。
その「油断しない用心深さ」も、織田軍団が飛躍できた理由なのかもしれません。
「武田信玄」「上杉謙信」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」の最大兵力は、【1582年】の時点で、「20万人」を超えていたと考えられる。
2,「織田信長」の兵力は、「20万」以上。「豊臣秀吉」は「小田原征伐」で「22万」の軍を動員した
3,織田軍団は、数が多かったが、「装備」も最新鋭だった。「鉄砲」「大砲」「鉄甲船」などの最新兵器を次々と導入して、その「弱さ」を補っていた
以上となります。
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ありがとうございました。
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