【織田信長の戦い方】その特徴と戦術を簡単解説!スピードと物量作戦

今回のテーマは「織田信長」です。

 

この記事では「織田信長の戦い方・戦術」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「なぜ織田信長が、天下統一目前まで勝利を重ねることが出来たのか」を、カンタンに理解できます。

 

「織田信長」は「圧倒的な物量作戦」と「スピード」で、無敵の軍団をつくりあげたのです。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,「織田信長の戦い方」の特徴とは?

信長は「スピード」を重視した戦い方を心情とし、常に「敵よりも多くの軍団」を用意して有利を確保した上で戦った

 

2,「信長軍団の必勝法」とは?

信長は、商業重視政策によって手に入れた「莫大な資金」によって、圧倒的な「物量作戦」を展開した。「大軍団」を雇入れて、「鉄砲」などの最新兵器を買い揃え、金で勝利を重ねていった

 

3,「桶狭間の戦い」と「長篠の戦い」からわかる、信長の必勝法とは?

「桶狭間の戦い」で信長は、敵よりも多くの兵力を用意して戦うという「正攻法」の重要性を知り、「長篠の戦い」では、「鉄砲」の能力を最大限引き出した戦い方をした

「織田信長の戦い方」その特徴は「スピード」と「大軍団」

戦国時代の覇者「織田信長の戦い方」その特徴といえば、特筆すべきものが「2つ」あります。

 

  1. 「スピード重視」
  2. 「敵よりも多くの兵力を用意して、常に有利な状況で戦う」

 

この2つです。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

スピード重視

織田信長の軍団は、とにかくスピードを重視して、機動力に優れた軍団でした。

 

「敵に迎撃の準備をする時間を与えずに攻撃し、倒してしまう」という戦法を得意としていたのです。

 

この「スピード重視」の戦い方のため、信長は【1568年】の上洛戦(京都周辺・畿内を制圧する戦い)で、居城「岐阜城」出発した後、凄まじい速度で「畿内」を制圧しています。

 

1569年】、「足利義昭」が「三好三人衆」や「斎藤龍興」に襲われた戦い「本圀寺の変(ほんこくじのへん)」

 

この「本圀寺の変」で、織田信長は通常「3日間」かかる【岐阜城 ~ 京都の本圀寺」の道を、大雪であったにも関わらず、わずか「2日間」で走りきっているのです。

 

この「スピード」重視の戦い方を、信長から継承したのが「豊臣秀吉」です。

 

秀吉は「中国大返し」や「賤ヶ岳の戦い」で、凄まじいスピードでの移動を実現し、「明智光秀」や「柴田勝家」といった猛将を相手に、勝利していったです。


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敵よりも多い兵力で戦う

もう一つ、信長の戦い方には特徴的なものがありました。

 

それは「敵よりも多くの兵を用意し、常に有利な状況で戦う」ことを心がけていた、ということです。

 

信長は、常に「敵よりも多くの兵力を用意してから、敵と戦う」ようにしていました。

 

「姉川の戦い」や「長篠の戦い」など、有名な戦いでは、いつも信長の軍のほうが多いのです。

 

そのため、織田軍団はいつもいつも「大軍団」をつかって、有利に敵と戦うことが出来ていたのです。


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信長軍の必勝法!それは圧倒的な「物量作戦」

信長軍の必勝法は、「物量作戦」にありました。

 

織田信長は、当時としては珍しく、「農業」ではなく「商業」を重視した武将でした。

 

信長の父「織田信秀」は、尾張国の「熱田神宮」や「津島」という港町を支配し、莫大な金を手に入れていたのです。

 

信長も、父からその「商業重視」のやり方を継承して、常に「商業」を振興させて、莫大な資金を手に入れていたのでした。

 

その金が、織田軍団の快進撃を支えていたのです。

 

信長は莫大な資金を使って、巨大な傭兵軍団を雇います。

 

さらに、「鉄砲」などの最新兵器で、その「傭兵集団」を武装させたのです。


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それだけではありません。

 

「材木」などの物資を大量に利用して、敵の城の周りに無数の「砦」をつくり、籠城する敵を圧迫。

 

大量の食料を買い込んで、大軍団への補給も欠かしませんでした。(逆に敵軍は、織田軍に食料を買い占められ、食糧不足に陥っていた例もあった)

 

織田軍団は、「敵の城」を無理に攻撃するようなマネは、ほとんどしません。

 

砦で敵の城を包囲し、兵糧攻め・持久戦を仕掛け、敵が降伏するのを待つのです。

 

敵が我慢できずに城から出撃してきても、織田軍団には大量の材木でつくった「砦」と、多数の「鉄砲」があります。

 

敵に「砦」を攻めさせることができれば、砦の防御力を活かして、鉄砲で一斉射撃。

 

弾丸も火薬も鉄砲も、織田家が無尽蔵に持っていた資金で、いくらでも購入できました。

 

金を使って、敵将を寝返らせる戦法も、信長の得意技でした。

 

多額の賄賂を送って、敵から裏切り者を出させて、有利に戦いをすすめる。

 

織田信長の無敵の強さは、その「豊富な資金」によって実現していたのです。

 

「織田信長」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『織田信長がしたことを年表にまとめて簡単解説!『天下の取り方』教えます』の記事はコチラ

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「桶狭間の戦い」と「長篠の戦い」でわかる!信長軍団の必勝法

実は、織田信長の必勝法は、有名な「桶狭間の戦い」と「長篠の戦い」を見ればわかるのです。

「桶狭間の戦い」

先程、「信長は常に、敵よりも多くの軍団を用意して戦っていた」と申しました。

 

しかし一度だけ、信長は敵より少ない軍団で勝利をおさめています。

 

「桶狭間の戦い」です。

 

信長の必勝法「敵より大軍を用意して戦う」は、この「桶狭間の戦い」が教訓となっていると言われています。

 

信長は、わずか「3000」の軍で、「40000」の今川義元軍を撃破しています。

 

まさに奇跡と言っていい戦いです。

 

ところがこれ以降、信長は基本的に、「敵軍よりも兵力が少ない」場合は、戦っていないのです。


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この「桶狭間の戦い」での勝利が、運に左右された奇跡的なものであることが、信長にはわかっていたのでしょう。

 

こんな「奇跡」は二度と起きないとわかっていたのです。

 

そのため信長は、「敵よりも多くの兵力を用意する」という「正攻法」を大切にし、「桶狭間の戦い」のような「奇策に頼った戦い方」をしないようになったのです。

 

「桶狭間の戦い」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『【桶狭間の戦いとは】簡単にわかりやすく解説!隠されていた真実に驚愕』の記事はコチラ
『織田信長と桶狭間の戦いを簡単に解説!どのような戦法で勝利したのか』の記事はコチラ
『【今川義元と桶狭間の戦い】その謎や疑問のすべてを短く簡単に解説』の記事はコチラ

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「長篠の戦い」

「長篠の戦い」で、信長は敵の「武田勝頼」よりも兵力が大きかったにも関わらず、敵に攻め込む「攻撃」ではなく、攻撃してくる敵を迎え撃つ「迎撃戦」を行なっています。

 

信長は「陣城」と呼ばれる巨大な砦をつくり、そこへ籠もって「鉄砲」という最新兵器を駆使した戦い方に終止し、勝利しているのです。

 

まったく敵を侮ることなく、信長は「材木」や「鉄砲」などの物資をフルに使って、「武田勝頼」という強敵と戦ったわけです。

 

敵に砦を攻めさせれば、信長軍は「砦の防御力」を利用して戦うことができるため、「攻めさせることができれば勝てる」という状況を作り出せるのです。

 

それに、信長が大量に持っていた「鉄砲」という最新兵器は、「敵に攻め込むとき」よりも、「敵に攻められたとき(迎撃戦)」のほうが、効果を発揮しやすいのです。

 

「守りを固めて、スキをみて攻撃する」

「砦などの防御施設をつくり、敵に攻撃させることで、鉄砲の能力を極限まで引き出して戦う」

これが「織田信長の戦い方」なのです。


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信長には「切り札」があった!「天皇」と「征夷大将軍」からの停戦命令!

信長には、「天皇」と「征夷大将軍」という切り札がありました。

 

危機に陥ると、信長は「天皇からの命令」または「征夷大将軍・足利義昭からの命令」という切り札を使って、敵の攻撃をやめさせることが出来たのです。

 

1570年】、信長は「志賀の陣」と呼ばれる戦いで、窮地に陥っていました。

  • 「石山本願寺」
  • 「浅井長政」
  • 「朝倉義景」
  • 「雑賀衆」
  • 「三好三人衆」
  • 「斎藤龍興」
  • 「比叡山延暦寺」

これら全て敵にまわし、手も足も出なくなっていたのです。

 

このとき「正親町天皇」が「戦いをやめよ」という命令を、「浅井長政」たちに下して、戦争を停止させたのです。

 

これにより、信長は窮地を脱することが出来ました。(同時に信長は、「朝倉義景」や「浅井長政」に頭を下げている)

 

信長は、天皇の御座所である「京都」を支配していたため、「天皇の命令(勅命)」を引き出すことができたのです。(資金面で困窮していた天皇は、信長から多額の献金を受けて支えられていたため、信長の味方だった)

 

さらに、信長は「武士たちのトップ」である「征夷大将軍」の「足利義昭」を祭り上げていました。

 

そのため、「征夷大将軍からの命令」という形でも、「停戦命令」を出させることが出来たのです。

 

例えば「上杉謙信」は、室町幕府の足利将軍家にたいして、つよい忠誠心を抱いていました。

 

そのためか、足利将軍家からの命令にはとても素直に従ったのです。

 

信長は「上杉謙信」を極端に恐れていたため、「足利将軍家」を上手に利用して、上杉謙信を封じ込めていた、というわけです。

 

織田信長は、圧倒的な財力で「巨大な兵力」を用意し、彼らに「鉄砲」という最新兵器を装備させて、次々と勝利を重ねていきました。

 

それでもピンチに陥ったときには、「天皇」や「征夷大将軍」から「停戦命令」を出させることが出来たのです。

 

信長は、「ほぼ無敵だった」と言っていい状態だったのです。


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もしも敵勢力が、この「天皇」や「征夷大将軍」の命令に背いたら、どうなっていたでしょうか?

 

信長はこれら「天皇・将軍の命令に背いた勢力」に対して、「朝敵だ」と声高に宣言していたはずです。

 

「朝敵(ちょうてき)」とは、すなわち「朝廷の敵」すなわち「天皇の敵」という意味です。

 

「朝敵」というものには「日本の敵」という意味もありましたので、「朝敵」あつかいされた武将は、日本全国から攻撃されてしまうことを意味していました。

 

「朝敵」は「逆賊」と言い換えることもできます。

 

この「逆賊」になってしまうと、「逆賊」と呼ばれた勢力は、「織田信長」以外にも、日本全国すべてを敵にまわしかねないことになるのです。

 

例えば「浅井長政」が、「志賀の陣」のときに、天皇からの「停戦命令」に従わなかったら、どうなっていたでしょうか?

 

それまで「浅井長政」に味方していた「朝倉義景」も「織田信長」と協力して、「浅井長政」に攻撃してきてしまうかもしれないのです。

 

なんといっても「浅井長政」は「朝敵」なのですから。

 

味方だった「朝倉義景」でさえも、「浅井長政」が「朝敵・逆賊」になってしまったら、敵対せざるを得ないのです。

 

もしも朝敵である「浅井長政」に味方する勢力があったとしたら、その勢力も「朝敵」となって、日本全国を敵にしてしまう、というわけです。


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1868年】の「鳥羽・伏見の戦い」で、圧倒的に不利だった「薩長軍」が「旧幕府軍」に勝利できた理由は、まさにこの「朝敵」というものにあるのです。

 

「薩長」は「錦の御旗」を掲げて、「旧幕府軍」と戦いました。

 

この「錦の御旗」を掲げる軍を「官軍」と呼びます。

 

「官軍」とは、すなわち「天皇の軍」という意味です。

 

この「官軍」に敵対する勢力は、全てが「賊軍」すなわち「朝敵」となってしまうのです。

 

「旧幕府軍」の軍団の人数は「15000人」でした。

 

「5500人」の「薩長軍」に比べたら、3倍もの兵力を持っていたにもかかわらず、「朝敵」「賊軍」とされると、即座に崩壊して敗れ去ったのです。

 

「朝敵」にされることを、それほど恐れていました。

 

「朝敵」にされるということは、圧倒的に有利な軍団が一瞬で崩壊するほどに、恐ろしいことだったのです。

 

織田信長は、「天皇」と「征夷大将軍」を手に入れていたことにより、敵対勢力を「朝敵」とすることも不可能ではありませんでした。

 

その「天皇」と「征夷大将軍」の力を、最大限に利用して、天下統一目前まで勢力を拡大できたのです。

 

「朝廷」「征夷大将軍」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『【朝廷とは】世界一わかりやすく簡単に解説!幕府との違いはなに?』の記事はコチラ
『征夷大将軍とは何か?簡単にわかりやすく子供でもわかるよう解説!』の記事はコチラ

 

「鳥羽・伏見の戦い」または「錦の御旗」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『【鳥羽伏見の戦いとは】わかりやすく解説!戦争の場所と新選組の戦い』の記事はコチラ
『【錦の御旗とは】その意味を解説!なぜ旗で戊辰戦争の勝敗が決したの?』の記事はコチラ

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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「織田信長の戦い方」は「スピード」を重視した戦い方を心情とし、常に「敵よりも多くの軍団」を用意して有利を確保しものだった

 

2,信長は、商業重視政策によって手に入れた「莫大な資金」によって、圧倒的な「物量作戦」を展開した。「大軍団」を雇入れて、「鉄砲」などの最新兵器を買い揃え、金で勝利を重ねていった

 

3,「桶狭間の戦い」で信長は、敵よりも多くの兵力を用意して戦うという「正攻法」の重要性を知り、「長篠の戦い」では、「鉄砲」の能力を最大限引き出した戦い方をした

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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