この記事のテーマは【織田信長】です。
ここでは、織田信長の戦術と戦い方について、分かりやすく簡潔に説明しています。
この記事を読むことで、【織田信長がどのようにして天下統一に近づいたのか】が簡単に理解できます。
織田信長は、圧倒的な兵力を駆使し、かつスピードを重視して、無敵の軍隊を組織しました。
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この記事の要点は以下の通りです
- 【織田信長の戦術の特徴】は何でしょうか?
信長は【速さ】を重視し、常に【敵よりも多くの軍隊】を集め、有利な状況で戦いました。 - 【信長軍団の必勝法】とは何でしょうか?
信長は、商業に注力して得た巨額の資金を使い、圧倒的な物量作戦を得意としていました。信長は【大軍団】を雇い入れ、【鉄砲】などの最新兵器を装備し、金で勝利を重ねていったのです。 - 【桶狭間の戦い】と【長篠の戦い】から見える、信長の成功の秘訣は何でしょうか?
【桶狭間の戦い】で信長は敵よりも多くの兵を用意して戦う【正攻法】の重要性を理解し、それ以降、敵より多くの兵力を動員して戦いました。また、【長篠の戦い】では、最新兵器である【鉄砲】の威力を最大限に活かす戦術を用いました。
【織田信長の戦い方】その特徴はスピードと大軍団
田信長の戦術には、以下の2つの特徴があります:
- スピード重視: 信長は速さを何よりも重視しました
- 兵力の優位性: 常に敵よりも多くの兵力を用意し、有利な状況で戦いました
スピード重視
織田信長の軍隊は、スピードと機動力を最大限に活かすことを重要視していました。
信長は、敵に対して素早く攻撃を仕掛け、敵に応戦する暇を与えずに撃破する戦術に優れていたのです。
このスピード重視の戦術をもっとも印象づけたのが、【1568年】の上洛戦です。
(上洛とは、京都へ進軍すること)
信長は岐阜城を出発してから、驚異的な速さで近畿地方を制圧しました。
さらに、1569年の【本圀寺の変】という戦いでは、驚異的なスピードを見せています。
なんと通常3日かかる岐阜城から京都の本圀寺までの道を、たったの2日間で駆け抜けました。
しかもこのとき京都と岐阜のあいだでは、大雪が降っていたのです。
このスピード重視の戦術は、信長から豊臣秀吉に受け継がれています。
秀吉は【中国大返し】や【賤ヶ岳の戦い】などで、敵を圧倒する速さで兵を移動させています。
その速さにより意表をついた戦い方で、【明智光秀】や【柴田勝家】などの猛将を相手に勝利を収めました。
敵よりも多い兵力で戦う
信長のもう一つの特徴的な戦術は、敵よりも多くの兵力を用意し、常に有利な状況で戦うことでした。
信長は常に、【敵よりも多くの軍を準備してから戦うこと】を心掛けていました。
例えば、【姉川の戦い】や【長篠の戦い】など、有名な戦闘では、信長の軍勢が常に敵よりも兵力が多かったのです。
このため、織田軍は常に大軍団を組織し、敵と有利な状況で戦うことができました。
信長軍の必勝法!それは圧倒的な物量作戦
信長軍の勝利の秘訣は、物量作戦にありました。
織田信長は、当時としては珍しく、農業ではなくて商業を重視する武将でした。
信長の父・織田信秀は、尾張国の熱田神宮と津島という2つの港町を支配し、莫大な富を築いていました。
信長も、父からこの商業重視のやり方を受け継ぎ、絶えず商業を奨励し、大量の資金を得ていました。
この資金が、織田軍の快進撃を支えていました。
信長はこの莫大な資金を使って、大規模な傭兵軍団を雇いました。
さらに、最新の鉄砲などの武器で傭兵たちを武装させました。
それだけではなく、大量の材木などの資源を使って、敵の城を包囲する無数の砦を建設し、敵を圧迫しました。
食料もたくさん備蓄し、自軍への補給を確保しました。
(一方で、食糧を買い占められた敵軍は、食料不足に苦しむことがありました)
織田軍団は、通常の攻撃よりも敵の城を包囲し、兵糧攻めや持久戦を行い、敵が降伏するのを待つ戦術を採りました。
敵が城から出撃しても、織田軍団には多数の砦と鉄砲があり、強固な砦で敵を迎え撃ちました。
弾丸や火薬、鉄砲などは、織田家が無尽蔵に持っていた資金で簡単に調達できました。
信長は金を駆使して敵将を寝返らせ、有利な状況を築く戦術も得意としました。
賄賂を送り、敵勢力から裏切り者を引き出し、戦局を有利に進めました。
織田信長の無敵の強さは、その豊富な資金に支えられていたのです。
【桶狭間の戦い】と【長篠の戦い】でわかる!信長軍団の必勝法
実は、織田信長の必勝法は、有名な【桶狭間の戦い】と【長篠の戦い】を見ればわかります。
桶狭間の戦い
先ほどお話ししたように、信長は通常、敵よりも多くの兵力を用意して戦う戦術を採っていました。
ただし、信長が一度だけ、敵より少ない兵力で勝利を収めた戦いがあります。
それが桶狭間の戦いです。
桶狭間の戦いは、信長がわずか3,000人の軍勢で、相手の今川義元軍(40,000人)を打ち破った驚異的な戦闘です。
この戦いが、のちに信長が【敵より多くの兵力を用意する戦術】を重視する教訓となったと言われています。
信長はこの勝利が奇跡的なものであることを理解しており、以後、原則として【敵軍よりも兵力が不足している場合は戦わない】という方針を採るようになりました。
彼は【桶狭間の戦い】のような奇策に頼った戦いを避け、代わりに安定した正攻法を重要視しました。
→→→→→【桶狭間の戦いを簡単解説】についてくわしくはこちら
→→→→→【信長が桶狭間の戦いに勝利した戦法】についてくわしくはこちら
→→→→→【今川義元と桶狭間の戦いの謎】についてくわしくはこちら
長篠の戦い
長篠の戦いでは、信長は敵である武田勝頼よりも兵力が有利でした。
ところが信長は、勝頼の軍団に積極的に攻め込むのではなく、敵の攻撃を迎え撃つ迎撃戦を選択しました。
信長は巨大な陣城と呼ばれる要塞を築き、その中に籠城して鉄砲という最新兵器を駆使して戦いました。
この戦い方により、彼は勝利を収めました。
信長は敵である武田勝頼を決して侮っていませんでした。
材木と鉄砲などの資源を最大限に活用し、強敵である武田勝頼との戦いに臨んだのです。
敵に対しては砦を攻撃させることで、信長軍は砦の防御力を利用して戦う状況を作り出しました。
また砦をつかった戦い方は、信長が大量に保有していた鉄砲という最新兵器の能力を引き出すためのものでした。
鉄砲は、敵に攻められたとき(迎撃戦)の方が、その威力を発揮しやすかったのです。
- 守りを固めて、スキをみて攻撃する
- 砦などの防御施設をつくり、敵に攻撃させることで、鉄砲の能力を極限まで引き出して戦う
これが織田信長の戦い方なのです。
信長には切り札があった!天皇と征夷大将軍からの停戦命令!
信長には、天皇と征夷大将軍という切り札がありました。
危機に陥ると信長は、天皇または征夷大将軍・足利義昭から命令させることで、敵の攻撃をやめさせることが出来たのです。
【1570年】、信長は志賀の陣と呼ばれる戦いで、窮地に陥っていました。
- 石山本願寺
- 浅井長政
- 朝倉義景
- 雑賀衆
- 三好三人衆
- 斎藤龍興
- 比叡山延暦寺
信長はこれら全てを一度に敵にまわし、手も足も出なくなっていたのです。
このとき正親町天皇が【戦いをやめよ】という命令を、浅井長政たちに下して、戦争を停止させたのです。
これにより、信長は窮地を脱することが出来ました。
(同時に信長は、朝倉義景や浅井長政に頭を下げている)
信長は、天皇の御座所である京都を支配していたため、天皇の命令(勅命)を引き出すことができたのです。
(資金面で困窮していた天皇は、信長から多額の献金を受けて支えられていたため、信長の味方だった)
さらに、信長は武士たちのボスである征夷大将軍の足利義昭を、主君として祭り上げていました。
そのため、征夷大将軍からの命令という形でも、停戦命令を出させることが出来たのです。
例えば上杉謙信は、室町幕府の足利将軍家にたいして、つよい忠誠心を抱いていました。
そのためか、足利将軍家からの命令にはとても素直に従ったのです。
信長は上杉謙信を極端に恐れていたため、足利将軍家を上手に利用して、上杉謙信を封じ込めていた、というわけです。
織田信長は、圧倒的な財力で巨大な兵力を用意し、彼らに鉄砲という最新兵器を装備させて、次々と勝利を重ねていきました。
それでもピンチに陥ったときには、天皇や征夷大将軍から停戦命令を出させることが出来たのです。
信長は、ほぼ無敵だったと言っていい状態だったのです。
もしも敵勢力が、この天皇や征夷大将軍の命令に背いたら、どうなっていたでしょうか?
信長はこれら天皇・将軍の命令に背いた勢力に対して、朝敵だと声高に宣言していたはずです。
朝敵とは、すなわち朝廷の敵すなわち天皇の敵という意味です。
朝敵というものには【日本の敵】という意味もありましたので、朝敵あつかいされた武将は、日本全国から攻撃されてしまうことを意味していました。
朝敵は逆賊と言いかえることもできます。
この逆賊になってしまうと、逆賊と呼ばれた勢力は、織田信長以外にも、日本全国すべてを敵にまわしかねないことになるのです。
例えば浅井長政が、志賀の陣のときに、天皇からの停戦命令に従わなかったら、どうなっていたでしょうか?
それまで浅井長政に味方していた朝倉義景も織田信長と協力して、浅井長政に攻撃してきてしまうかもしれないのです。
なんといっても浅井長政は朝敵なのですから。
味方だった朝倉義景でさえも、浅井長政が朝敵・逆賊になってしまったら、敵対せざるを得ないのです。
もしも朝敵である浅井長政に味方する勢力があったとしたら、その勢力も朝敵となって、日本全国を敵にしてしまう、というわけです。
朝敵とされることが、どれほど恐ろしいことなのか、それを物語るエピソードがあります。
【1868年】の鳥羽・伏見の戦いで、圧倒的に不利だった薩摩長州連合軍が、旧幕府軍に勝利できた理由は、まさにこの朝敵というものにあるのです。
薩長軍は、錦の御旗を掲げて、旧幕府軍と戦いました。
この錦の御旗を掲げる軍を官軍と呼びます。
官軍とは、すなわち天皇の軍という意味です。
この官軍に敵対する勢力は、全てが賊軍すなわち朝敵となってしまうのです。
旧幕府軍の軍団の人数は15000人でした。
5500人の薩長軍に比べたら、3倍もの兵力を持っていたにもかかわらず、朝敵・賊軍とされると、即座に崩壊して敗れ去ったのです。
朝敵にされることを、それほど恐れていました。
朝敵にされるということは、圧倒的に有利な軍団が一瞬で崩壊するほどに、恐ろしいことだったのです。
織田信長は、天皇と征夷大将軍を手に入れていたことにより、敵対勢力を朝敵とすることも不可能ではありませんでした。
その天皇と征夷大将軍の力を、最大限に利用して、天下統一目前まで勢力を拡大できたのです。
まとめ
本日の記事の要点は以下の通りです
- 田信長はスピードを重要視し、常に敵よりも多くの軍団を用意して戦闘で有利な状況を確保しました。
- 信長は商業に焦点を当て、莫大な資金を手に入れ、圧倒的な物量作戦を展開しました。彼は大軍団を雇用し、最新の兵器である鉄砲などを購入し、金を駆使して勝利を重ねました。
- 桶狭間の戦い以降、信長は奇策を避けて正攻法を重要視し、常に敵よりも多くの兵力を用意して戦いました。一方、長篠の戦いでは鉄砲の力を最大限に活用した戦術を採用しました。
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