『m』
『織田信長』は、「比叡山の焼き討ち【1573年】」や『一向一揆』に対する処置など、苛烈なイメージの武将ですね。
私も大学で日本史を勉強するまでは、信長に対してそんなイメージを抱いていました。
しかし織田信長には、『部下の奥さんへの細やかな気遣い」や『身障者に対する心づかい』など、実は優しい一面があったのです。
この記事では、苛烈なイメージの強い『織田信長』の「優しい一面」について解説していきます。
これを読んで『織田信長ってそんな一面もあったのか」と、ビックリしてくださいね。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
- 魔王とよばれた「織田信長」の性格は、「恐ろしい」わけではなく、「穏やかで心優しい」うえに「生真面目」な性格だった
- 織田信長には、守役「平手政秀」の菩提寺を建立したり、贈り物を即座に利用したり、秀吉の妻を慰める手紙を送ったりと、細やかな気配りができる人物だった
- 信長が「魔王」と呼ばれるようになった理由は、「武田信玄」との書状でのやり取りで、「天台座主」と名乗ったのに対して、言い返すつもりで「第六天魔王」と名乗ったのため。
織田信長とはどんな性格の人物だったのか!実は魔王じゃなかった?
『信長の野望』というテレビゲームで、『織田信長』という武将を初めて知った人も多いのではないでしょうか?
実は私も、このテレビゲームを以前プレイしたことがあるのですが、なかなか面白いゲームですよね。
ゲームを通して『織田信長』という武将がいたことを知って、どんな人か調べてみようと、子供向けの歴史書や教科書を読みました。
織田信長について、「何だか怖い人」というイメージがついた人も多いのではないでしょうか。
戦国時代をテーマにしたNHKの「大河ドラマ」を見ると、色々な俳優さんが、かっこいいけれど恐ろしい「お館さま(信長)」を演じていて、さらに「怖い」イメージが強化されますよね。
しかし「織田信長」は、決して怖いだけの武将ではありません。
「織田信長」は、心優しく穏やかで、非常に生真面目な性格の人間だったのではないか・・・と近年の研究で明らかになってきているのです。
現在の私たちが目にすることができる戦国時代から江戸時代の文献で、「織田信長」の実像を伝えているものは、実は多くはありません。
「豊臣秀吉」や「徳川家康」に比べると、残されている史料は実に少ないのです。
「織田信長」の人物像は、「苛烈な武将だ」と軍記物で脚色され、そうしたイメージが現代の小説や、ドラマで見る「信長の人物像」に大きな影響を与え続けました。
軍記物で脚色されたイメージは、日本史の研究にも影響を与え、学者までもが、信長を「苛烈な武将」という、バイアスのかかった状態で史料を読むことになってしまったのです。
では「織田信長の実像」は、一体どんなものだったのでしょうか?
決して怖いだけの武将ではなかった「織田信長」が、実際はどんな人だったのかについて、エピソードを見ていきましょう。
織田信長の「優しいエピソード」!魔王どころか穏やかな人?
織田信長は「実は優しい人だった」というエピソードが残されています。
守役「平手政秀」の死を悼み、菩提寺を建立
信長の父「織田信秀」の代から織田家に仕えた家臣に「平手政秀」という人がいました。
政秀は「爺や」のように信長に仕えていたのですが、「織田信秀」の死後、自害したのです。
自害の理由は「信長の奇行を自らの死で諌めるため」というのが有名ですね。
それ以外にも「信長が父・信秀の葬儀での行状を諌めるため」とも、「織田家の頭領を信長にするか、信長の弟の織田信行にするかで、柴田勝家と対立したため」とも言われていますが、はっきりしません。
平手政秀の死を信長は大変嘆き悲しみ、小牧山の小木村に「政秀寺」という寺を建てて、政秀とともに信長の教育係だった僧「沢彦宗恩」に菩提を弔わせました。(ちなみに沢彦宗恩は、武田信玄の師「快川紹喜」と兄弟の契りを結んだ間柄。快川紹喜はその後、織田軍によって恵林寺という寺ごと焼き討ちされて亡くなった)
自分を指導してくれた武将の死を悼み、菩提を弔うための寺を建立する・・・・ということは、人の痛みがわかる思いやりのある人だった、ということでしょう。
『信長公記』に記録されたとおり「単なるうつけ者」ではなかった、ということの証だと思います。
信長が建立させた「政秀寺」は、現在「名古屋市中区」に移転しています。
「津田宗及」からの贈り物を素早く活用
さらに、信長の思いやりのある性格を表したエピソードがあります。
信長の本拠地「岐阜城」を訪れた堺の商人「津田宗及」から、立派なお盆を贈られた信長は翌日、茶室に宗久を招きました。
茶室には、立派な茶器が数々飾られ、昨日宗久が贈ったお盆も飾られていたのです。
贈ったものが最高の形で使われるのを見たら、贈り主としてはすごく嬉しいですよね。
このように、信長は人の気持ちを考え、どのように気持ちを返したら良いか考え、実行に移す性格を持っていたということです。
「羽柴秀吉」の妻「寧々」を元気づけるため手紙を送る
信長の家臣だった「羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)」が、子供ができないという理由で正妻の「寧々」に辛く当たり、浮気を繰り返していました。
秀吉の行状に悩み苦しむ「寧々」に対し、織田信長は非常に細やかな思いやりに溢れた書状を送り、寧々を励ましています。
阪神タイガース、中日ドラゴンズ、東北楽天ゴールデンイーグルスで監督を歴任した故「星野仙一」氏は、選手やコーチだけでなく、球団職員の奥さんの誕生日に花を贈っていました。
選手やコーチたちは、星野監督が「どうやって妻の誕生日を調べたのか?」を常々不思議に思っていたのだとか。
星野元監督も、とても恐ろしいイメージが強い監督でした。しかしこんなにも細やかな心配りをする方だったのです。
もしかしたら信長は「星野仙一」氏のような性格の人だったのかもしれませんよね。
「障害者」をいたわる心遣い
信長が、身分の低い身体障害者にも思いやりを示したエピソードがあります。
ある村に身体に障害のある人が住んでいたことを知った信長は、その村を訪れ、村民たちに木綿を与えて言いました。
「あの者に小屋を建ててやり、飢えて亡くなったりしないよう、米を与えてやるように」
このように「織田信長」は、とても細やかな心配りのできる武将だったのです。
ではなぜ「魔王」などと呼ばれるようになってしまったのでしょう?
なぜ「魔王」と呼ばれるようになったのか?
織田信長が「魔王」と呼ばれるようになったのは、『武田信玄』と書状で「売り言葉に買い言葉」というべきやり取りをしてしまったからです。
近年の研究では、信長には元々「日本を統一する」という野望はなく
『室町幕府を再興し、平和な世の中(天下静謐)を作るつもりだったのではないか』
と指摘されています。
室町幕府第15代将軍となった『足利義昭』は、兄である13代将軍「足利義輝」を「松永久秀」という武将に殺害されています。
義輝の弟「義昭」も命を狙われました。
そのため京都にいることができなくなってしまったのです。
逃亡を続け、各地を転々とする生活をしながらも、義昭は兄のあとを継ぎ「将軍」となることを諦めませんでした。
義昭は「武田信玄」「上杉謙信」「朝倉義景」など、各地の大名に対して協力を養成する書状を送ったのですが、誰にも相手にされなかったのです。
義昭のその書状に対して、前向きな返事をした武将が一人だけいました。
「幕府を再興し、この戦乱の世を納め、天下を平和にするためならば」
と織田信長だけが呼応したです。
こうして信長は義昭に協力し、岐阜から上洛。
京都に居座っていた「三好氏」を追いはらい、義昭を「室町幕府・第15代・征夷大将軍」としたのです。
その後、義昭に京都に留まるよう懇願された信長でしたが、この要請には応えることなく岐阜へと帰還。
ところがまたしても三好氏が義昭を脅かし始めたので、信長は再び上洛。義昭の窮地を救いました。(本圀寺の変)
その後「織田信長」は、天下を平和にするため、義昭に協力して『武田信玄』や『上杉謙信』に書状を送り、協力を要請。
しばらくはそれで世の中が治っていました。そんなとき、事件が起こります。
ある日、足利義昭は信長に命令を発します。
「幕府に従おうとしない若狭国の逆徒を討て」
と。
しかも若狭の逆徒に越前の大名『朝倉義景』が協力してしまい、「織田信長」と越前の名門「朝倉家」の決戦になってしまいます。
そればかりではありません。
信長の妹「お市の方」の夫「浅井長政」が、朝倉義景に味方して信長を裏切り、信長は窮地に陥ることとなります。(金ヶ崎の退き口)。
なんとか窮地を脱した信長でしたが、京都から追い払ったはずの「三好氏」が京都を攻撃。
同時に「足利義昭」も信長に対して挙兵。
「三好氏」は「浅井長政」と「朝倉義景」「比叡山延暦寺」などを味方に引き入れて、織田信長と交戦。まさに内乱状態になりました。
信長は「琵琶湖周辺の味方」を救援するために出撃。「浅井長政」と「朝倉義景」の軍は、比叡山に逃げ込み籠城。
浅井・朝倉をかくまった比叡山に対して信長は、1年間もの長い間にわたって、書状を送り続け、『浅井長政と朝倉義景の軍に味方せず、引き渡すように」と交渉を試みました。しかし比叡山は黙殺。
これが「比叡山焼き討ち」という悲劇の原因となったのです。
比叡山との交渉を開始して1年。
交渉の余地なしと悟った信長は、「比叡山」を焼き討ち。
何度も書状を送り、交渉しようとしても、比叡山が黙殺した結果としての焼き討ちです。しかし世間はそう思いませんでした。
『信長は残忍だ』「比叡山を焼き討ちし、大勢の人を殺した』と非難。
仏門に出家していた甲斐国の「武田信玄」は、信長が比叡山を焼き討ちにしたことにより、それまで保っていた織田家との同盟関係を解消。
そして「天台座主・信玄」と署名した抗議の書状を信長に対して送ったのです。
「天台座主」というのは、「天台宗の一番偉いお坊さん」を意味する言葉です。天台宗とは「比叡山延暦寺」の宗派のことです。つまりこの言葉は
「私、武田信玄は比叡山のトップだ」
という意味になります。
この書状に対し、信長は「第六天魔王 信長」と署名した返書を送ります。
「第六天魔王」とは、仏法を阻害する仏敵のことです。正式名称は「第六天魔王・波旬(はじゅん)」。「第六天」とは、簡単に言うと「欲にまみれた世界」のこと。
その世界の頂点に位置しているのが「第六天魔王・波旬」。
天台座主に対し、仏教の修行を妨げる存在である「第六天魔王」という言葉を使い、売り言葉に買い言葉の喧嘩を仕掛けたわけですね。
ちなみに歴代の「比叡山延暦寺・天台座主」のなかに「武田信玄」の名前はありません。
つまり信玄は、「天台座主」などという高い地位についていないにも関わらず、「天台座主」と名乗ったのです。
これは信長を非難するために、ついてもいない称号を勝手に名乗ったということ。
信玄が天台座主などではないことを知っていた信長は、おそらくこれを痛烈に皮肉る意味で、自らも「第六天魔王」というあり得ない「あだ名」というか異名を名乗ったのでしょう。
ところが、この「魔王」という言葉が信長のイメージとして、後世に伝わることになってしまったのです。
この書状の後、「足利義昭」とも争うことになった信長。義昭に勝利しますが、命を奪わず、追放したのみでした。
もし信長が、魔王という称号に相応しい性格の持ち主なら、義昭はこの時まちがいなく命を奪われていたはずです。
後年「豊臣秀吉」は、織田信長のことを「優しすぎた」と証言しています。
織田信長は、決して「魔王」と呼ばれるような残酷な人柄ではなかったのです。
『織田信長』について「ひとこと」言いたい!
織田信長の「苛烈なイメージ」と「優しい側面」について
歴史上の人物は、「ドラマや小説のイメージ」が定着すると、そのイメージに沿った史料解釈を、歴史学者でさえ行ってしまう、という反省されています。
本来、人間というのは多面的な存在です。記録に残っているのは、その人の一部に過ぎないのです。そのことを、私たちは忘れてはならないのだと思います。
歴史書も、政争に勝利した側が記録したものが主体です。そうである以上、別の角度からの批判的な研究や史料検討は行われて然るべきです。しかし、それはなかなか難しいですね。
織田信長の心配りの効いた優しい性格を表すエピソードは、私たちに「多面的に物事を見る大切さを忘れるな」と言っているのかもしれません。
「第六天魔王」と名乗った「信長」の真意
信長はなぜ「第六天魔王」と名乗ったのか。
その理由は、「武田信玄との口喧嘩」が発端ですが、真意はどこにあったのでしょうか。
実はこの「第六天魔王・波旬」、仏教では嫌われて「仏法・仏道修行を邪魔する魔王」と言われていますが、鎌倉時代の僧侶「日蓮」だけは、肯定的にとらえているのです。
「第六天魔王はたしかに修行を邪魔するものだが、真に仏道修行を志すものには、味方となる」
どういうことなのか?
日蓮宗の開祖「日蓮」が言うには
「本気で修行をしようとする者にとっては、第六天魔王は超えるべき障害物でしかなく、それを乗り越える行いは、素晴らしい修行になる」
のだとか。
つまり「第六天魔王という障害物は、成長をうながすための良い助けとなる」という意味です。
さて信長は日蓮が「第六天魔王」について、このように説いていたことを知っていたのでしょうか?
もしも信長が「日蓮が解説していた第六天魔王のあり方」を知っていたのなら、どういうことになるのでしょう。
知っていたとしたら信長は、もしかするとこう言いたかったのかもしれません。
「仏道修行をなまけて、政治に介入する不良坊主にとって、私は魔王となる。
しかし、本気で修行をしようと一心不乱に努める者には、私は大いなる助けとなる」
実は、信長の先祖が眠る織田家の菩提寺「万松寺」は、「日蓮宗」のお寺です。
つまり信長は、日蓮宗と縁が深い人物なのです。
信長は日蓮のこの教えを知っていたのではないでしょうか。
「第六天魔王」という言葉と意味を知っているくらいなら、「日蓮の教え」を知っていても不思議ではありません。
信長は、政治に介入する仏教勢力「比叡山延暦寺」「高野山金剛峯寺」「本願寺一向宗」に対しては、苛烈な弾圧を加えています。
しかし「鑑真和上」が開いた「唐招提寺」に対しては、弾圧をしていないのです。
もしかすると「唐招提寺」は、信長が理想とする「仏教徒」のあるべき姿を貫いていたのかもしれませんね。
最後に「織田信長」の実像に迫った興味深い書籍をご紹介いたします。
- 「信長はブラック企業の社長ではなかった」
- 「家来に長時間労働を無理やりにやらせるのではなく、自らが長時間労働をしていた」
- 「成果よりも努力度をみていた」
などなど。新しい視点から「織田信長」の実像を解明しています。
よろしければご参考までに・・・。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 「織田信長」はけっして「魔王」などではなく、優しく生真面目な性格だった
- 織田信長には、細やかな気配りを証明するエピソードが多数のこされている
- 信長は「武田信玄」との手紙のやりとりで、自ら「第六天魔王」と名乗ったが、これは本気で名乗ったわけではないと思われる。
この記事を短くまとめると、以下のとおり
織田信長は『比叡山焼き討ち』などが原因で、苛烈なイメージのある武将です。
しかし信長のそうしたイメージは、軍記物に影響された小説やドラマによるものが大きく、実際の信長は実は『心優しく、細やかな気配りのできる人』であったようです。
そんな信長に『魔王』という恐ろしい称号が付いて回るようになったのは、「武田信玄」が「天台座主」と署名して送ってよこした書状に対し、「第六天魔王」と署名して返信した書状によるものです。
人は多面的な存在で、一面だけを見てその人の性質、性格を決めつけてはならない。信長の心優しいエピソードは、そのことを私たちに伝えているのかもしれませんね。
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
「織田信長」関連記事
よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。
コメント