この3人の仲、そして関係は、どういったものだったのでしょうか?
実は、お互いに憎み合っていた?
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この記事を短く言うと
・織田信長は、部下の中でも特に優秀だった「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」と「明智光秀」を大切にし、光秀は「信長」を純粋に尊敬し、感謝していた
・秀吉と光秀は、同僚でありライバル同士
・秀吉は、信長を恨んでいた可能性がある
「織田信長」「豊臣秀吉」「明智光秀」
3人は、どういう関係なのか?
超合理主義者「織田信長」
優秀な人間ならどんな者でも採用するが、役立たずは即捨てる。
そんな実力主義の信長が、とても気に入っていた家臣が二人いました。
ひとりは「羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)」
そして、もうひとりが「明智光秀」
「羽柴秀吉」は、農民出身の叩き上げ
「明智光秀」は、失業して全国歩きまわって職探ししていた人物
この2人を採用したのが「織田信長」
信長は、先祖代々長年「織田家」に仕えた家来たちよりも、この「羽柴秀吉」と「明智光秀」の2人を大切にしました。
織田信長は、気分屋で有名だったらしく、「秀吉」や「光秀」は信長から、今で言う「パワーハラスメント」をめちゃくちゃ受けていたらしいです。
さらに信長は「サイコパス」、つまり「相手の気持ちを推し量ることが出来ない欠陥をもつ人間」だったと言われています。
信長は、光秀と秀吉のことを「部下」として非常に評価していた反面、「使えなくなったらいつでも捨てよう」と考えていたと思われます。
光秀は純粋に、信長のことを尊敬し、心から感謝していた節があります。
「私の子孫達は、信長様への感謝を忘れてはならない」
と言っていた程ですからね。
「明智光秀・・本能寺の変の動機」について、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。
「秀吉」と「光秀」の関係は?
秀吉と光秀の関係は、どんな関係だったのでしょうか?
ひとことで言えば「ライバル同士」です。
同じ「織田家」という巨大組織で働いていた「羽柴秀吉」と「明智光秀」
同僚であり、競い合った関係でした。
明智光秀は、信長が最も信頼した部下。
秀吉のこともまた、信長は信頼。
光秀と秀吉は、織田家のNo.1とNo.2。
この2人のことを、信長は事あるごとに絶賛していました。
一部の小説やドラマなどでは、光秀と秀吉のことを、「友人」として表現したりしています。
しかし実際に2人は、険悪な中だったと考えられます。
「秀吉」は、「信長」を憎んでいた?
秀吉は、信長を憎んでいた・・・嫌っていた可能性があります。
後に秀吉は、信長の後継者を自称し、天下統一を成し遂げました。
秀吉の死後、今度は徳川家康が天下を奪い取ったのです。
ある武将が、部下たちと宴会で騒いでいた時のこと。
その席で「信長、秀吉、家康の三人の中で、誰が最も強いのか?」という話題になりました。
それを聞いていた武将は、笑いながら応えました。
「考えるまでもない。
秀吉も家康も、信長に従っていたのは忠誠心からではない。
『こいつにはかなわない』
と考えていたからだ。
信長の死後、秀吉は信長の子『信孝』を死なせた。
家康もまた、秀吉の死後に息子の「秀頼」を死なせた。
忠誠心で従っていたなら、この『子供たちへの仕打ち』は説明がつかない。
なので最も強いのは『織田信長』次が『豊臣秀吉』、最も弱いのは『徳川家康』だ」
秀吉は、信長の死後、織田家を没落させ、その権力も何もかもを奪い取り、信長の三男「信孝」を死に追いやりました。
信長からの強烈な「パワーハラスメント」を受けていたという秀吉・・。
やはり信長を憎んでいたのかもしれませんね。
「信長・秀吉・家康の性格」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・信長は、秀吉と光秀を重用し、事あるごとに評価していた
・秀吉と光秀は、ライバル同士で、実際仲が悪かったと思われる
・秀吉は、信長の息子「信孝」を死なせている・・・信長を憎んでいた可能性がある
以上となります。
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