皆さんは「松永久秀(まつなが ひさひで)」を、ご存知でしょうか?
実は「松永久秀」について、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。
この記事では「松永久秀の子孫や家系図、家紋から茶器」に至るまでの全てを、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。
今は「松永久秀」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、「松永久秀」に詳しくなれます。
この記事を読んで、「松永久秀」の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,「松永久秀(まつなが ひさひで)」とは、今から【450年前】の戦国時代に、大和国(奈良県)を中心に活躍した武将。「織田信長」に降伏したり、敵対したりした。
2,お笑いコンビ「爆笑問題」の「太田光」さんの妻「太田光代」さんは、「松永久秀」の末裔と言われている。
3,松永久秀が使った家紋は「蔦(つた)紋」。かなり有名な家紋で、日本各地で使われている縁起の良い家紋。
【松永久秀】とは何者なのか?何をした人かを解説
「松永久秀」とは、今から【450年前】の戦国時代に、大和国(奈良県)を中心に活躍した武将です。
室町幕府の13代将軍「足利義輝」を暗殺したと言われている人物です。(実際には、暗殺には加担していないという説もある)
その後「織田信長」に降伏し、最初は従っていたものの、何度も信長を裏切っています。
そうして、主君を裏切って成り上がってきた様子から、「松永久秀」は「梟雄(きょうゆう)」と呼ばれたのです。
松永久秀の【子孫と家系図】
松永久秀の子孫は、現在も続いています。
たとえば、お笑いコンビ「爆笑問題」の「太田光」さんの妻「太田光代」さんは、「松永久秀」の末裔と言われています。
久秀とその子「久通」は、「信貴山城(しぎさんじょう)の戦い」で亡くなっています。
しかし「久通」の子が、「博多」で商人として活躍。
その「久通」の末裔が、「太田光代」さんというわけです。
松永久秀の【家紋】
松永久秀が使った家紋は「蔦(つた)紋」と呼ばれるものです。
この家紋は、非常に演技の良いものとされています。
「ツタ」は、生命力が強く、生い茂りやすいと言われています。
そのため、「子孫繁栄」に縁起が良いと考えられているのです。
松永久秀の茶器と名器【平蜘蛛の茶釜】
松永久秀は、かなりの文化人であり、茶道に通じた人物でした。
「千利休」と同じく、「武野紹鴎(たけの じょうおう)」の弟子であったと言われています。
「九十九髪茄子(つくもがみなす)」など、数々の茶器を有していたことで有名です。
なかでも「平蜘蛛の釜(古天明平蜘蛛)」は、織田信長も欲しがった名物です。
一説には、「松永久秀が死んだときに、火薬で粉々になった」と言われています。
しかし、「粉々になった平蜘蛛の釜を、修復して、今に伝わっている」という説や、「土の中から掘り起こされた」なんていう説もあります。
現在「小天明平蜘蛛」という茶釜は、「静岡県浜松市西区」にある「浜名湖舘山寺美術博物館」に所蔵されています。
松永久秀の【名言】
松永久秀は、以下のような名言を残しています。
我は、日本一(ひのもといち)の正直者。
「義理・人情」とは申しません。
裏切られるは「弱い」ゆえ。
強き者なら裏切らぬ。
これを現代語訳すると、以下の通りとなります。
「自分は日本一の正直者ですので、義理だの人情だのというような、みえすいた嘘は申しません。
私が裏切りを重ねてきたのは、彼らが弱いから。
裏切られるのが恐ろしいなら、常に強い者であればいいのです」
【1572~1573年】、信長を最初に裏切ったとき、久秀はこう言いながら信長に降伏したのです。
久秀は、信長に許されることとなります。
しかし久秀は、またしても信長を裏切ります。
松永久秀の【居城と築城術】
松永久秀のお城といえば、大和国の「多聞山城(たもんやまじょう)」と「信貴山城(しぎさんじょう)」が有名です。
特に「信貴山城」は、築城の名人であった松永久秀が、日本で初めて「天守閣」を築いたお城です。
この「信貴山城」は、「安土城」の「天守閣」のモデルとなっています。
「多聞山城」も、松永久秀の居城だったお城ですが、信長に取り上げられました。
「多聞山城」も「信貴山城」も、天下の名城として名高いお城です。
松永久秀の【クリスマス】の逸話
松永久秀には「クリスマスだから」という理由で、敵との戦いを一時的に停戦させたという逸話があります。
しかし、これは事実と異なります。
「クリスマスだから停戦」したのではなく、松永軍と敵軍、両軍のキリスト教徒が、「クリスマス」のミサを共同で仲良く行ったのです。
この事実が、「クリスマス停戦」という逸話に繋がったのだと思います。
松永久秀と【織田信長】
松永久秀と「織田信長」は、家来と主君という関係でした。
しかし、「松永久秀」は「信長」を二度にわたって裏切っています。
久秀は、【1568年】に「信長」が京都を占領(上洛)したとき、その圧倒的強さをみて降伏しています。
ところがその後、久秀は【1572年】と【1577年】に、2度も裏切りました。
松永久秀は、織田信長に気に入られていたようです。
二度目の裏切りの際も、信長は「松永久秀」という逸材を惜しみ、許そうとした程です。
松永久秀と【愛刀】
松永久秀の刀といえば、「不動国行」と「薬研(やげん)藤四郎」が有名です
この刀は、ともに「足利義輝」から奪い取ったものと言われています。
そして両刀とも、久秀が信長に降参するときに、信長にゆずられています。
両刀とも、「明智秀満」へと伝わった後、豊臣家へと渡り、現在は消息不明となっています。
松永久秀が愛読していた本【性技指南書「黄素妙論」】
松永久秀は、「黄素妙論(こうそみょうろん)」という本を愛読していました。
今でいう「大人の性行為のハウツー本」だそうです。
これは「曲直瀬道三(まなせ どうさん)」という、「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」につかえた、当時最高の名医が書いたものです。
松永久秀は、かなりの「恐妻家」だったという噂なのですが・・・。
この本を愛読して、どうするつもりだったのでしょうか・・・。
松永久秀の【肖像画】とその画像
松永久秀の肖像画は、現在のところ残っていません。
「肖像画」はないのですが、「浮世絵」がいくつか描かれています。
下の絵は幕末から明治にかけて活躍した画家「月岡芳年(つきおか よしとし)」が描いたものです。
もうひとつ、今度の絵は「落合芳幾(おちあい よしいく)」という幕末の浮世絵師が書いたものです。
ともに「裏切り」「極悪」「爆死」という印象を持たれていた当時の「松永久秀」を、見事に描いています。
松永久秀の【最期】
松永久秀は「爆死」によって【自害】したの?
松永久秀は「爆死した」という逸話が残されています。
「信貴山城」の天守閣で、数々の名物茶器とともに火薬に火をつけて爆死したのだと・・・。
しかしこの「爆死説」は、後世の創作。
実際には切腹し、城に放火してなくなっています。
詳しくは後述しますが、おそらく「松永久秀」が残した「最期の言葉」が、「爆死」という誤解を生むことになったのでしょう。
久秀の【お墓】の場所と【命日】
松永久秀のお墓は、「奈良県北葛城郡王寺町」にある「達磨寺(だるまじ)」にあります。
久秀と因縁のあるお寺なのですが、それにも関わらず「松永久秀」のお墓を、今も大切に守り続けています。
久秀の命日は、【天正5年10月10日(1577年11月19日)】です。
息子「松永久通」も、まったく同じ日に亡くなっています。
久秀の「辞世の句」
久秀には「辞世の句」とされる歌が残されていません。
風流人であった「松永久秀」のことですから、何かしらの歌を残していてもよかったと思うのですが、何もないようです。
久秀は「突然襲われた」とか、「病気で急死した」というわけではないので、何かしらの歌を残す時間があったはずです。
もしかすると、いつか「松永久秀の辞世の句」が見つかるかもしれません。
代わりに、「松永久秀の最期の言葉」をご紹介します。
「織田信長」に「平蜘蛛の釜をよこせば、命を助けよう」と言われた久秀は、「川角太閤記」によると、以下のように返事をしています。
「平蜘蛛の釜と我らの首二つは、信長公のお目にかけようとは思わぬ。
鉄砲の薬(火薬)で、粉々に打ち壊すことにする」
つまり、「降伏して平蜘蛛の釜を渡すつもりはない」と言いたいのでしょう。
さらに
「我らの首二つ」とは、息子「松永久通」と自分の首を取られて、さらし者にされて敗北者となるつもりはない、という意味です。
降参もしないし、信長の思い通りに負けるつもりもない
この「最期の言葉」からは、そのような意味がくみとれます。
松永久秀の【家臣】
松永久秀の家臣団一覧は、以下のとおりです。
松永久秀・家臣団の中で、特に有名な人物が2名、「日本屈指の名将の末裔」や「伝説の剣豪」がいますね。
- 岡国高
- 奥田忠高
- 楠木正虎
- 高田三河守
- 高山友照
- 結城忠正
- 竹内秀勝
- 土岐頼次
- 林通勝
- 本多正信(徳川家康の参謀)
- 柳生宗厳
- 瓦林秀重
- 四手井家保
- 四手井家武
- 山口秀勝
- 海老名友清
- 森正友
- 飯田基次
- 森好久
- 鷹山頼貞
- 鷹山頼盛
- 河合秀武
松永久秀の【歴史年表】
松永久秀の生涯年表を、短く、カンタンに解説いたします。
【1508年】(松永久秀1歳)
松永久秀・誕生
【1542年】(35歳)
三好家の武将として、山城国南部に駐屯している
【1551年】(44歳)
「相国寺の戦い」
【1553年】(46歳)
「滝山城」の城主となる
【1559年】(52歳)
久秀の部下「楠木正虎」が、「足利義輝」の協力を得て、「正親町天皇」から「朝敵」となった先祖の許しを得る
【1560年】(53歳)
「大和国統一」
「信貴山城・天守閣の築城の開始」
【1565年】(58歳)
「足利義輝」が暗殺される(永禄の変)
【1568年】(61歳)
「織田信長」が上洛し「足利義昭」が征夷大将軍に就任
【1570年】(63歳)
「金ヶ崎城の戦い」のあと、「金ヶ崎の退き口」において、敵将「朽木元綱」を説得して味方に引き入れ、信長を救う
【1572年】(65歳)
松永久秀が信長を裏切るが、翌年降伏。
【1577年】(70歳)
再び信長を裏切るも、信長に追いつめられ自害
もしも『松永久秀』が生きていたら、歴史はどのように変わっていたか?
もしも松永久秀が生きていたら、どうなっていたでしょうか。
おそらくですが、生きていたとしても、それほど歴史に影響を与えることはできなかったでしょう。
【1577年】、二度目に信長を裏切った際に、「上杉謙信」も「毛利輝元」も「本願寺顕如」も、信長に勝てる状態ではありませんでした。
実は二度目の裏切りの際にも、信長は久秀を許そうとした可能性があります。
「平蜘蛛の釜をよこせ。そうすれば命を助けよう」
と、信長は言っていたのです。
ここで久秀が降伏しても、このときの年齢は「70歳」。
松永久秀にはもう、あとがありません。信長も「松永久秀が高齢である」ということを考えて、降伏を許そうとしたのでしょう。
降伏したとしても高齢で、遠くない将来亡くなっていたでしょう。
もしも「信長」に勝利できたとしても、その後「天下」を取ることもできなかったと考えられます。
松永久秀・・・・・。
おそらく「自分にはもう先がない」ということを知っていたから、「信貴山城の戦い」で、死をえらんだのでしょう。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「松永久秀」とは、戦国時代に活躍した武将。「織田信長」に従い、最期は信長と戦い亡くなった。
2,お笑いコンビ「爆笑問題」の「太田光」さんの妻「太田光代」さんは、「松永久秀」の末裔
3,松永久秀の家紋は、「蔦(つた)紋」
以上となります。
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