この記事では織田信長の出身地・生誕地について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば、織田信長がどこで生まれたのかを、カンタンに理解できます。
織田信長は勝幡城という場所で生まれた可能性が、もっとも高いのです。
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この記事を短く言うと
織田信長の出身地はどこ?
信長が生まれた城は【勝幡城】がもっとも有力
織田信長の出身地は、勝幡城という城だといわれています。
勝幡城は、現在の愛知県愛西市と愛知県稲沢市にまたがって、かつて存在していました。
つまり信長は【愛知県愛西市または稲沢市の出身】ということです。
織田信長が生まれた場所、すなわち出身地は、これまで那古野城であるといわれてきました。
実は織田信長が生まれた場所は、ハッキリとわかっていないのです。
これまで、信長が生まれた城には3つの候補地があげられていました。
すなわち
- 那古野城
- 勝幡城
- 古渡城
この3つです。
信長が生まれた城は【那古野城】ではないのか?
それまで通説とされていた、信長が生まれたのは【那古野城】という説は、近年の研究では否定されています。
那古野城とは、現在の愛知県名古屋市にそびえ立つ名古屋城の二の丸に位置していたお城です。
現在の名古屋城が築かれる以前に、同じ場所に那古野城は存在していたのです。
これまで通説だった【織田信長は那古野城で誕生した】という説は、近年では否定されています。
織田信長は、【1534年】に生まれています。
しかし那古野城は、【1538年】まで、織田家の敵だった今川家が支配していたというのです。
つまり、信長は敵の城であった那古野城で誕生したことになってしまうのです。
そんなことは当然ですが、不可能です。
那古野城は、もともと柳之丸という名前で、今川家がつくったお城でした。
この城には、桶狭間の戦いで信長に討たれた名将・今川義元の弟・今川氏豊の城だったようです。(弟ではないという説もある)
それを、【1538年】に信長の父・織田信秀が、計略を駆使して奪い取ったのです。
このとき信長は4歳でした。
信長の父・織田信秀は、奪い取った柳ノ丸を那古野城と改名して、自らの居城としたのです。
その後、織田信秀は居城を古渡城へと移し、那古野城を幼い息子の織田信長へゆずっています。
信長は、この那古野城で【育った】と考えられています。
近年の研究によると、信長が生まれた場所は勝幡城、つまり織田信長の出身地は、愛知県名古屋市ではなく、愛知県愛西市または稲沢市ということです。
生誕地【勝幡城】とは、どんな城なの?
最新の研究によると、織田信長が生まれた場所は、勝幡城であると考えられています。
勝幡城は、織田信長の祖父にあたる織田信定がつくったお城です。
そののち勝幡城は、信長の父である織田信秀が、信定からゆずり受けたのです。
そして、信秀は勝幡城を自分の居城として利用していました。
ところが信秀は、今川家から奪い取った柳之丸へ居城を移動しているのです。
この柳之丸は、改修されて那古野城と名前を変えています。
その後、織田信長がこの那古野城を父親からゆずりうけました。
ところが信長は【1555年】に、織田彦五郎信友から奪い取った清州城へ本拠地を移動します。
それと同時に、勝幡城は廃れていき、結局は廃城になったと考えられています。
現在、勝幡城跡地には碑がたてられて、【信長生誕の地】という看板が残されています。
【古渡城】で生まれたという説について解説
織田信長は、父・織田信秀の居城・古渡城で生まれたという説があります。
勝幡城で生まれた可能性がもっとも高い織田信長ですが、古渡城で生まれたという説も存在しています。
先程申しましたとおり、信長は勝幡城で生まれた可能性が最も高いわけですが、古渡城とは、どういうお城なのでしょうか?
古渡城とは、織田信長の父・織田信秀が居城としていたお城です。
織田信秀は、息子の信長と同じく、何度も何度も居城を移しているのです。
信秀は、今川家から奪い取った那古野城を居城としていましたが、【1534年】に古渡城を築城すると、そこへ居城を移しています。
そして【1548年】に、今度は末森城というお城をつくって、古渡城から末森城へと居城を移動したのでした。
それと同時に古渡城は廃城となっています。
織田信長は、【1546年】にこの古渡城で元服(成人式のこと)しています。
そして幼名の吉法師から、三郎信長へと改名しているのです。
信長が生まれた城として、その名が上がっている3つの城
勝幡城、那古野城、古渡城は、それぞれ織田信長と、深い関わりがあるお城です。
つまり
- 勝幡城は、信長が生まれた城
- 那古野城は、信長が育った城
- 古渡城は、信長が元服(成人)した城
というわけです。
織田信長が亡くなった最期の地【本能寺】には、現在何があるの?
信長が亡くなった場所・本能寺には、現在は老人福祉施設が建てられています。
織田信長が生まれた場所は、勝幡城である可能性がもっとも高いと申しました。
余談ですが、最期の地すなわち織田信長が亡くなった地は、どこなのでしょうか?
信長が亡くなった場所は、現在の京都市にある本能寺です。
【1582年】、織田信長は明智光秀に襲われ、本能寺で亡くなっているのです。
その本能寺、現在はどうなっているのでしょうか?
現在の京都にも本能寺が存在しています。
しかし京都市役所の目の前にある現在の本能寺は、豊臣秀吉が区画整理のために、もとあった場所から移転させたものです。
そのため織田信長は、現在の本能寺がある場所で亡くなったわけではないのです。
それでは、織田信長が実際に亡くなった場所(当時の本能寺)の跡地には、現在何があるのでしょうか?
【1582年】に本能寺があった場所には、現在【本能特別養護老人ホーム】という名前の老人福祉施設が建てられています。
そしてそこには、本能寺の跡地であることを示す碑も建てられています。
この本能寺跡の碑の後ろに、福祉施設があるのです。
豊臣秀吉は、当時焼け野原だった京都の街を再建するため、区画整理を実行しています。
本能寺もまた、その区画整理のために、移転させられたのでした。
もしかすると秀吉は、本能寺が織田信長・最期の地として、聖地のようになることを恐れたのかもしれません。
天下人となった豊臣秀吉からすると、以前の天下人である織田信長という存在は、邪魔でしかありません。
秀吉の次の天下人・徳川家康も、豊臣秀吉の墓地・豊国神社を打ち壊しています。
区画整理を理由に、信長最期の地を廃止したかったのかもしれません。
まとめ
本日の記事をまとめますと
以上となります。
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