皆さんは「斎藤道三と織田信長がどういう関係なのか」を、ご存知でしょうか?
実は「道三と信長の関係」について、知っている人は、それほど多くないみたいです。
この記事では「道三と信長の関係」を、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。
今は「道三と信長の関係」について、漠然としか知らなかったとしても、これを読めば、誰かに説明できるほど、「道三と信長」に詳しくなれるはずです。
この記事で、「斎藤道三と織田信長がどういう関係なのか」の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。 どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,「織田信長」と「斎藤道三」は、「娘婿」と「義父」という関係。道三の娘「帰蝶」が「織田信長」に嫁いでいる。もともと信長の父「信秀」と「道三」は宿敵同士だった
2,道三の娘「帰蝶」が嫁いだ5年後、「正徳寺」で「信長」と会談した「道三」は、信長の才能を見抜き、将来の躍進を予言していた
3,道三は亡くなる際に、「国ゆずり状」という「美濃の国をゆずる」旨が記された遺言状を「織田信長」に遺した。それを大義名分として、信長は11年後に美濃国を奪った
「斎藤道三」と「信長」の父「織田信秀」の因縁
「斎藤道三」と「織田信長」は、「義父」と「義理の息子」という関係です。
斎藤道三の娘「帰蝶(きちょう)」が、「織田信長」の妻となっているのです。

《斎藤道三》
「引用元ウィキペディアより」
織田信長の父「織田信秀」は、斎藤道三と何度も何度も戦った猛将です。
「美濃のマムシ」と「尾張の虎」
「斎藤道三」は「美濃のマムシ」とあだ名を付けられた猛将です。
「織田信秀」も「尾張の虎」と呼ばれた猛将でした。
「織田信秀」は、「斎藤道三」に一度たりとも勝利できないまま亡くなっています。
信長からすれば、斎藤道三は、父「織田信秀」が敵わなかった宿敵なのです。
道三の愛娘「帰蝶」が、「織田信長」と結婚
織田信秀が亡くなる前の【1548年】、「斎藤道三」は愛娘「帰蝶」を、「織田信長」へ嫁がせて、「織田信秀」と同盟を締結します。
こうして「織田信長」と宿敵「斎藤道三」は、「義父」と「娘婿(むすめむこ)」という関係になるのです。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」
直後に「織田信秀」は病死して、「信長」が織田家の家督を継承。
【1553年】、信長と帰蝶が結婚してから5年後、「斎藤道三」は正徳寺(聖徳寺)という場所で、信長と会見します。
このとき斎藤道三は、それまで「うつけ者(バカ者)」と呼ばれてバカにされていた「織田信長」の非凡な才能を見抜きます。
「私の子供たちは、いずれ信長に屈して、その家来となり下がるだろう」
道三は、会見の直後に、このような予言を残しているのです。
道三の死!義理の息子「信長」に美濃の国を託す
「正徳寺での会見」からわずか3年後、「斎藤道三」は突然の死を迎えます。
道三の息子「斎藤義龍」が、父「道三」を裏切って戦いを挑んだのです。

《斎藤義龍》
「引用元ウィキペディアより」
圧倒的な戦力差が原因で、息子「義龍」に敗北した「斎藤道三」は、娘婿「織田信長」に対して、のちに「国ゆずり状」と呼ばれる遺言書をのこします。
「美濃の国を、織田信長殿に譲(ゆず)る」
その書状には、そう書かれていました。
父「織田信秀」の宿敵であった斎藤道三は、死の間際に、自らが心を込めて支配した領地「美濃の国」を、娘婿「織田信長」に託したのです。
道三の死から5年後、「斎藤義龍」は病死。
あとを継いだのが、「斎藤道三」の孫であり「義龍」の息子でもある「斎藤龍興」。
織田信長は、この「龍興」が収める美濃国を、道三からもらった「国ゆずり状」を大義名分として猛攻撃。
道三の死から11年後の【1567年】、美濃国を奪うことに成功。
豊かな「美濃国」と「濃尾平野」から生まれる産物を土台にして、信長は天下統一へ飛躍を開始するのです。
ちなみに、道三の予言は的中し、道三の子「斎藤利堯(としたか)」と「斎藤利治(としはる)」が、信長の重臣として活躍しています。
「道三」について「ひとこと」いいたい!「斎藤道三」がつないだ「明智光秀」と「織田信長」
「斎藤道三」は、「織田信長」へ豊かな「美濃」という国を遺したわけですが、それだけではありません。
もう1つ、重大な置き土産を遺していました。
「明智光秀」です。

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」
斎藤道三の妻「小見の方」は、「帰蝶」の母であり、「明智光秀」の父の妹。
つまり「明智光秀」は、「織田信長」の妻「帰蝶」の「いとこ」であり、同時に「斎藤道三」の義理の甥でもあるのです。
「明智光秀」は、「帰蝶」を通じて「織田信長」と出会い、その家来として仕えたと言われています。
「明智光秀」は、「足利尊氏」の末裔「足利義昭」を織田信長と引き会わせ、「義昭をつれて、京都へ向かうように」とアドバイスします。

《足利義昭》
「引用元ウィキペディアより」
これに従った「織田信長」は、日本の中心地「京都」を支配して、一気に勢力を拡大。
名将「明智光秀」の活躍もあり、信長は「天下統一」へと大きく飛躍することとなるのでした。
「明智光秀」も、「織田信長」が最も信頼する家来となって、織田家で出世を続けます。
「応仁の乱」から100年以上も続く「戦国の時代」を終わらせようと、二人は理想的な「君主と家来」「上司と部下」の関係を続けます。
天下統一目前の【1582年】、「本能寺の変」において、悲劇が起こるまでは・・・・の話ですが・・・。
「本能寺の変」について、以下のリンク記事で、詳細に解説しております。よろしければお役立てくださいませ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,もともと織田信長の父「信秀」と「斎藤道三」は宿敵同士だった。「信長」と「道三」は、「娘婿」と「義父」という関係。道三の娘「帰蝶」が「織田信長」に嫁いでいる。
2,道三の娘「帰蝶」が嫁いだ5年後、「正徳寺」で「信長」と会談した「道三」は、信長の才能を見抜いて、「我が子は信長に屈するだろう」と予言した。その予言は的中する
3,道三は亡くなる直前に、「国ゆずり状」という遺言状を織田信長に遺した。それを大義名分として、信長は11年後の【1567年】に美濃国を奪った
以上となります。
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