この記事では「織田信長が征夷大将軍にならなかった理由」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「なぜ信長は、征夷大将軍にならなかったのか」を、カンタンに理解できます。
「織田信長」は「征夷大将軍になる前に亡くなってしまった」のです。
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この記事を短く言うと
「征夷大将軍」に就任する前に、「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれてしまったから。
2,「三職推任問題(さんしきすいにんもんだい)」とは何か?
「征夷大将軍」、「関白」、「太政大臣」、この三つの職のうち、どれかに信長が就任する予定だったらしい。「朝廷が信長に就任を打診した、または信長自身がこの3つの食の内1つを望んだ問題」のことを「三職推任問題」という。
3,信長は「征夷大将軍」になるつもりだったのか?
ハッキリとはわからないが、「信長は征夷大将軍に就任するつもりだった」という説がある。征夷大将軍に就任して「大坂幕府」を開くつもりだったのかもしれない
織田信長が「征夷大将軍」にならなかった理由とは?
「織田信長」が「征夷大将軍」にならなかった理由は、2つあります。
- 「征夷大将軍」になる前に「本能寺の変」が起こって「明智光秀」に討たれてしまったから。
- 信長が亡くなるその時まで、中国地方「鞆の浦」には、「足利義昭」という「征夷大将軍」の職についた人物がいたため、将軍職が埋まっていたから。
この2つが、織田信長が「征夷大将軍」にならなかった理由です。
のちほど詳しく解説しますが、実は信長は朝廷から「征夷大将軍」に就任することを打診されていました。(諸説あり、信長自身が「征夷大将軍」を望んだという説もある。)
しかし、その話がまとまる前に、信長は「本能寺」で亡くなってしまうのです。
「足利義昭」の存在も、「征夷大将軍」に就任するための難関であったと思います。
「足利尊氏」が開いた「室町幕府」は、【1573年】に「足利義昭」が「信長」によって京都から追放された事により、滅亡しています。
しかし義昭は、【1588年】に「征夷大将軍」の職を辞するまでは、将軍職にとどまり続けていました。
そのため、信長が亡くなった【1582年】の当時、「征夷大将軍」の職は埋まっており、就任ができなかったのです。
力づくで、足利義昭の「将軍職」を剥奪することも可能だったとは思いますが、そんな事をしたら「信長」の評判が地に落ちるでしょう。
信長は、噂とは違い「噂を気にする人」だったらしいので、元主君「足利義昭」の将軍職を奪うようなマネを嫌がったのでしょう。
「征夷大将軍」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
信長が残した謎「三職推任問題(さんしきすいにんもんだい)」とは?
「三職推任問題(さんしきすいにんもんだい)」とは、織田信長が
- 「征夷大将軍」
- 「関白」
- 「太政大臣」
この3つのどれかに就任することを、「朝廷から打診された」または「信長が自ら望んだ」、という問題のことです。
信長は、この「三つの職」のうち、どれに就任するかを決める前に、「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれてしまったのです。
「信長」がどの職に就こうとしていたのかは、不明です。全くわかっていません。
ただ、どの職に就こうとしていたのかについては、諸説あります。
例えば、信長の先祖が、武士で最初に「太政大臣」に就任した「平清盛」であることから、「信長もそれにならって太政大臣を目指していた」という説もあります。
しかし、ハッキリとした証拠がないため、信長がどの職につこうとしていたのは、未だに不明。
それだけではなく、「朝廷」と「織田信長」、どちらから「三職」について言い出したのかすら、わかっていないのです。
「織田信長の先祖と家系図」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
信長は「征夷大将軍」になるつもりだった?平氏の信長は「将軍」になれるのか?
「織田信長は征夷大将軍になるつもりだった」という説があります。
歴史家の「小和田哲男」先生は、「織田信長」は「征夷大将軍」の職につくことを目指していた説を有力視なさっておられるようです。
一説には「征夷大将軍は、【源氏】しか就任できない」と言われていますが、そんなことはないはずです。
「鎌倉幕府」では3代将軍「源実朝」以降、「征夷大将軍」には「藤原氏」や「皇族」が就任しています。
ということは、「平氏」である「織田信長」も「征夷大将軍」になれたはずです。
「平氏が征夷大将軍」になれないなら、そもそも朝廷から「三職への打診」などありえないでしょう。
信長から「征夷大将軍」の職を求めることもなかったはずです。
信長は【1582年6月】の「本能寺の変」が起こる直前、中国地方へ出陣し、「毛利輝元」と戦う「羽柴秀吉」の援軍に駆けつける予定でした。
もはや秀吉によって敗北寸前に追い込まれていた「毛利輝元」を倒せば、その「毛利輝元」が保護していた「足利義昭」を捕縛することも、簡単でした。
「足利義昭」を捕縛できれば、征夷大将軍の職を辞任させることも出来ます。
もしかすると信長には、「征夷大将軍」に就任する道筋が、みえていたと考えられます。
「本能寺の変」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
「征夷大将軍」になって、信長は何をするつもりだったのか?
もしも信長が「征夷大将軍」に就任するつもりだったとしたら、おそらく「幕府」を開くつもりだったのでしょう。
「幕府」を開き、「徳川家康」のように、子孫に代々将軍職を継承させて、「織田幕府」を開いていたと思います。
どこに幕府を開いていたのでしょうか?
おそらくですが、「大坂」だと思います。
信長は、宿敵であった「本願寺」の拠点「石山本願寺(現在の大坂城)」を、とても重要視していました。
その「石山本願寺」という地の重要性と利便性を理解していた「豊臣秀吉」は、その「石山本願寺」の跡地に「大坂城」を建設したのです。
信長も「大坂城」のような巨大な城を「大坂」につくり、そこを拠点にして「幕府」を開いていたのではないでしょうか。
「天下布武」で知られる織田信長ですが、実は「天下静謐(てんかせいひつ)」という言葉を頻繁に使用しています。
「天下静謐」とは、すなわち「平和」のことです。
「平和」を目指して戦っていた織田信長。
幕府を開いて、天下を平和へ導き、「織田幕府」にその平和を長く維持させる。
これが信長の構想だったのではないでしょうか。
もしかすると「徳川家康」は、その「織田信長」の構想を引き継ぎ、「江戸幕府」で実現したのかもしれません。
「朝廷と幕府とは、何なのか」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
「織田信長の官位の移り変わり」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」は「征夷大将軍」に就任する前に、「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれてしまった。
2,「三職推任問題」とは「征夷大将軍」、「関白」、「太政大臣」、この三つの職のうち、どれかに信長が就任する予定だった問題のこと。「朝廷が信長に就任を打診した」または「信長自身がこの3つの食の内1つを望んだ」という。
3,ハッキリとはわからないが、「信長は征夷大将軍に就任するつもりだった」という説がある。征夷大将軍に就任して「大坂幕府」を開くつもりだったのかもしれない
以上となります。
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