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織田信長と桶狭間の戦いを簡単に解説!どのような戦法で勝利したのか

この記事では「織田信長と桶狭間の戦い」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「なぜ信長は、桶狭間の戦いで勝利できたのか」が、カンタンに理解できます。

 

「織田信長」は「天候や地形を最大限に利用して、勝利した」のです。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,「桶狭間の戦い」とは、いったい何なのか?

「桶狭間の戦い」とは、【1560年】、「織田信長」が大軍団をひきいた名将「今川義元」を、少数の軍だけで奇跡的に討ち果たした戦いのこと

 

2,「桶狭間の戦い」は、「奇襲戦」ではなかったのか?

これまでの定説によると、「桶狭間の戦い」は「奇襲」と考えられてきたが、現在は「信長は真正面から突撃して勝利した」と考えられている

 

3,「奇襲」でないのなら、織田信長はどうやって勝利したのか?

信長は、「桶狭間」という狭い谷間に大軍団で陣取った今川義元の軍に向けて、追い風に押されるようにして突撃し、今川義元の首1つを狙って勝利したと考えられる

織田信長の偉業!「桶狭間の戦い」とは何か、について簡単に解説

「桶狭間の戦い」とは、【1560年】に「織田信長」が敵将「今川義元」を討ち果たした戦いのことです。

 

なぜこの「桶狭間の戦い」が、戦国時代に数多くある戦争の中で、特に有名になっているのでしょうか。

 

その理由は、主に2つあります。

  1. のちに天下人となった「織田信長」の人生で、もっとも大きな偉業だったから。
  2. 「桶狭間の戦い」は、「織田信長」にほとんど勝ち目のない戦いだったにも関わらず、信長が勝利したから。

この2つこそ、「桶狭間の戦い」が、400年以上も後世に「伝説」のように語り継がれている理由です。



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《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

「桶狭間の戦い」は、なぜ起きたのでしょうか?

 

1560年】の当時、「尾張国(愛知県西部)」を支配していたのが「織田信長」です。

 

そして「駿河・遠江・三河」の三カ国(静岡県・愛知県東部)を支配していたのが、信長の最大のライバルだった「今川義元」でした。

《今川義元》
「引用元ウィキペディアより」

今川義元は、当時の日本でトップクラスの巨大勢力だったのです。

 

その今川義元が、尾張国のライバル「織田信長」を倒すために、「25000~40000人」の大軍団をひきいて出撃したのです。

 

対する「織田信長」の軍団は、わずかに「2000~3000人」。

 

10分の1にも満たない少数だったのです。

 

信長に勝ち目はないと思われていたのですが、なんと信長は、強敵「今川義元」に勝利し、その首を討ち取ってしまったのです。

 

後世において「桶狭間の戦い」は、奇跡と呼ばれ、長く語り継がれることとなるのです。

 

以下のリンク記事で、「桶狭間の戦い」について簡単に解説いたしました。よろしければお役立てくださいませ。



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これまでの通説を再確認!実は「奇襲」ではなかった!

これまで「桶狭間の戦い」は「奇襲」、つまり油断した敵に突然襲いかかった「サプライズアタック」だといわれてきました。

 

しかし近年では、「桶狭間の戦いは、奇襲によって信長が勝ったのではなく、正面から突撃して勝利した戦いだった」といわれています。

 

信長の公式記録といってもよい「太田牛一」が記した文書である

 

「信長公記(しんちょうこうき)」

 

には、このように書かれています。

「織田信長公は、今川義元の本陣に最短ルートを使って近づき、正面から攻撃を仕掛けて勝利した」



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今まで、「桶狭間の戦い」は、「織田信長が豪雨の中を、遠回りして、今川義元の本陣へ近づき、桶狭間という盆地に陣取っていた今川義元を討ち果たした」と考えられてきました。

 

この「奇襲説」は、江戸時代に「小瀬甫庵(おぜ ほあん)という人が記した

 

「信長記(しんちょうき)」

 

という文書によるものです。

 

ところが「信長公記」には、「奇襲」という言葉も、「迂回(遠回り)」という言葉もありません。

 

むしろ、正面から突撃したと記されているのです。

 

これは「正面から突撃したら、偶然にも敵将・今川義元の首がとれた」とも読めるわけです。

 

 

現代語訳の「信長公記」を読んでみましたが、「信長」と「斎藤道三」の会見の逸話・エピソードが記されており、とても楽しく読める作品でした。



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信長が勝利を手にした「奇跡の戦法」とは、何か?

「桶狭間の戦い」は、信長による「奇襲」ではなく、「真正面からの攻撃」により、信長が勝利した・・・。

 

しかし、本当にそんなことがあり得るのでしょうか?

 

「明智光秀」の末裔を自称している作家「明智憲三郎」さんが、その著書「織田信長~435年目の真実~」や、マンガ「信長を殺した男・第3巻」で

「桶狭間の戦い」は信長が数々の策略を張りめぐらせた上で勝利した戦いだ

と主張しておられました。

 

その説によると信長は、以下のような計算の果てに、今川義元を討ち取ったとされています。

  1. 駿河からの長い道を行軍し疲れ果てていた
  2. 「絶対に勝ち目のない織田信長は、清州城に籠城するから、奇襲などかけてこない」と今川義元は油断
  3. 今川軍「2~4万」は、「桶狭間」という狭い谷間の道に、大軍団であるにもかかわらず密集して布陣したため、一度攻撃を受けると混乱しやすい状態だった
  4. 信長は、この季節に「桶狭間」に吹く暴風を予想し、その風を背中に受けて突撃した。逆に今川軍は、暴風を前面に受けて敵の突撃を受けたため、苦戦した

 

これらの条件が全て整った状態で、信長は

「今川義元の首1つだけを狙って突撃した」

というわけです。

 

確かに、これならば、少数の軍団をひきいていた信長にも勝機があります。

「少数の軍団で、敵の大将の首のみを狙って突撃した」

敵総大将の首だけを狙う戦い方は、【1615年】の「大坂・夏の陣」において、猛将「真田幸村」が、敵の総大将「徳川家康」を狙ったことと似ています。

 

織田信長が「桶狭間の戦い」で勝利した「奇跡の戦法」とは、つまり

「敵の油断をつき、

天候を最大限に利用し、

目的を今川義元の首だけに絞って突撃したこと」

なのではないでしょうか。

 

筆者は、「明智憲三郎」さんの説が、もっとも納得の行く解説であると思います。

 

 

 

余談ですが、信長はこの「桶狭間の戦い」で、「今川義元以外の敵の首をとってはいけない」と命じていました。

 

この命令に従わず、敵将の首をとった猛将「前田利家」は、全く評価されませんでした。

 

「前田利家」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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敗れた「今川義元」は、バカ殿だったのか?

「桶狭間の戦い」で、圧倒的に有利だったにも関わらず敗北し亡くなった「今川義元」、実はあの「武田信玄」ですらも恐れた名将でした。

 

「終わりよければすべてよし」という言葉がありますが、逆にいうと「終わりがダメだと全てダメ」ということになってしまいます。

 

今川義元は、まさにその「終わりがダメだと全てダメ」という、典型的な例といえるでしょう。

 

しかし実際には、「今川義元」はダメな武将ではありません。

 

当時から今川義元は、「名将」として評価されていました。

 

戦国時代の名将「朝倉宗滴(あさくら そうてき)」は、「今川義元」を、「毛利元就」や「武田信玄」と並ぶ名将と呼んでいます。



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義元は、師匠であり軍師でもあった「太原雪斎」とともに、傾きかけていた「今川家」を建て直し、日本有数の大勢力へと成長させた名将です。

 

その手腕は「政治・外交・戦争」すべてにおいて素晴らしい功績を残しており、名将と呼ぶにふさわしい人物だと思います。

 

武田信玄は、今川義元を恐れたのか、義元が亡くなるまで徹底的に戦いを避け、同盟関係を維持し続けています。

 

そんな武田信玄と名将「北条氏康」は、「今川義元」と「太原雪斎」の外交戦術「甲相駿三国同盟」で、見事にその行動を封じ込められています。

 

「武田信玄」や「北条氏康」、そして「上杉謙信」さえも手玉に取った「今川義元」は、決して「バカ殿・愚将」ではなく、名将だといえます。

 

人気漫画「センゴク」のスピンオフ「センゴク外伝~桶狭間戦記~」というマンガは、その「今川義元」と「太原雪斎」の名将ぶりを描いた作品です。

 

筆者も読みましたが、とても面白い作品でした。

 

「今川義元」のこれまでのイメージを、一新してくれる傑作であると思います。

 

「今川義元」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「桶狭間の戦い」とは、とは、【1560年】、「織田信長」が大軍団をひきいた名将「今川義元」を、少数の軍だけで奇跡的に討ち果たした戦いのこと

 

2,これまでの定説によると、「桶狭間の戦い」は「奇襲」と考えられてきたが、現在は「信長は真正面から突撃して勝利した」と考えられている

 

3,信長は、「桶狭間」という狭い谷間に大軍団で陣取った今川義元の軍に向けて、追い風に押されるようにして突撃し、今川義元の首1つを狙って勝利したと考えられる

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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