足利義輝のすべてを徹底解説!剣豪将軍の最期や愛刀・名刀を完全網羅

皆さんは「足利義輝」を、ご存知でしょうか?

 

実は「足利義輝」について、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。

 

この記事では「足利義輝の最期や愛刀」を、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。

 

今は「足利義輝」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

 

これを読めば、誰かに説明できるほど、「足利義輝」に詳しくなれます。

 

この記事を読んで、「足利義輝」の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,「足利義輝」とは、「室町幕府」の第13代「征夷大将軍」。「足利尊氏」の子孫であり、剣の達人だったため「剣豪将軍」と呼ばれた

 

2,数多くの名刀を所持していた。「天下五剣」と呼ばれた名刀のうち、「数珠丸(じゅずまる)」を除く4本を持っていたらしい

 

3,「剣豪将軍」とよばれた「足利義輝」を、「三好三人衆」「松永久通」が襲撃したが倒せず、最期は畳で囲み押し倒しされて、突き殺された、と言われている

「足利義輝」とは何者か?何をした人なのか解説

「足利義輝(あしかが よしてる)」とは、「室町幕府」の第13代「征夷大将軍」。

 

《足利義輝》
「引用元ウィキペディアより」

 

室町幕府を開いた「足利尊氏」の子孫にあたる人物です。

 

剣豪「塚原卜伝(つかはら ぼくでん)」から剣術を学び、「剣豪将軍」と呼ばれるほどの強さを誇ったと言われています。

 

室町幕府最期の将軍「足利義昭」の実兄です。


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足利義輝の愛刀!刀剣を数多く所持していた

足利義輝は、足利将軍家に伝わる、数々の名刀を所持していたと言われています。(所持していた名刀の中には、創作によるものも含まれているという噂があります。)

  • 「大典太光世」
  • 「鬼丸国綱」
  • 「大包平」
  • 「九字兼定」
  • 「朝嵐勝光」
  • 「綾小路定利」
  • 「二つ銘則宗」
  • 「三日月宗近」
  • 「童子切安綱」
  • 「二つ銘則宗」(篠造)
  • 「不動国行」
  • 「豊後行平」
  • 「骨喰(ほねばみ)藤四郎」

義輝は、「三好三人衆」や「松永久通」に襲撃されたとき、これらをつかって戦ったと言われています。

余談ですが、この刀の中で「不動国行」は、「明智秀満」や「徳川家康」の手にわたり、その後「徳川秀忠」から「徳川家光」へ死の間際に与えられています。


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天下五剣の一つ、名刀「三日月宗近」とは?

数々の刀を所持していた「足利義輝」ですが、その中でも「天下五剣」に数えられる名刀「三日月宗近」についてご紹介いたします。

 

「三日月宗近」とは、平安時代の名工「三条宗近」によって作られた刀。

 

作成されてから数百年も経過した名刀を、足利義輝は使って戦ったということですね。

 

現在は「東京国立博物館」に所蔵され、国宝に指定されています。

 

ちなみに「天下五剣」とは

  1. 「三日月宗近」
  2. 「童子切安綱」
  3. 「鬼丸国綱」
  4. 「大典太(おおでんた)光世」
  5. 「数珠丸恒次」

のことです

 

義輝は、「数珠丸恒次」をのぞく4本を所持していたようですね。

 

「数珠丸恒次」は、日蓮宗の開祖「日蓮上人」が所持していた刀です。

 

「数珠丸」は鎌倉時代から江戸時代中期まで、山梨県の「久遠寺」で長く保管されていましたが紛失。

 

現在は再発見されて、重要文化財に指定されて兵庫県尼崎市「本興寺」に寄進されています。


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剣豪将軍「足利義輝」の逸話!最期は畳を押し付けられて亡くなった

足利義輝は、「三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)」と「松永久通(松永久秀の息子)」に暗殺されました。

 

「剣豪将軍」と呼ばれた義輝は、さきほどご紹介した名刀を畳に刺して、刃こぼれするたびに新しい刀に代えて、敵を倒し続けた、といわれています。

 

義輝を倒せない「三好三人衆」らの軍団は、畳で義輝を囲み、倒して畳ごと刺し貫いたと言われています。

 

しかし実際には、このような戦いが行われてはいない可能性があり、後世の創作と考えられています。

 

実は、「剣豪将軍」と呼ばれていた事すらも、後世の創作と言われています。

 

足利義輝は、剣豪「塚原卜伝(つかはら ぼくでん)」から「免許皆伝」の称号をもらってはいます。

 

しかし、だからといって足利義輝が「剣豪」であるとは限らないのです。


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足利義輝の家系図と子孫

足利義輝の家系図をご用意いたしました。

 

義輝の父は、12代将軍「足利義晴」。弟は15代「足利義昭」。

 

そして関白「近衛前久(このえ さきひさ)」は、「いとこ」であり、同時に義理の兄に当たります。

「《足利義輝の家系図》
家系図の引用などはご遠慮くださいませ」

 

上の家系図には記されていませんが、「足利義輝」には「輝若丸」という息子がいました。

 

わずか3ヶ月で亡くなってしまった「輝若丸」の他にも、娘が何人かいました。

 

また、「天誉」という息子もいたそうです。

 

この「天誉」という人物は、父の死後に出家しており、お墓は兵庫県篠山市の「浄福寺跡」にあります。

 

足利義輝の側室の子「尾池義」という人物が生き残っており、その子を通じて、「足利義輝」の子孫が「明治維新」まで繋がっています。

ちなみに、同じ足利家の血を引く一族「喜連川家」また、現代まで足利家の血をつたえています。


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足利義輝の家紋

足利義輝がつかった家紋は、足利将軍家の家紋「二つ引両(ふたつひきりょう)」です。

 

《二つ引両》
「引用元ウィキペディアより」

 

龍を表現している家紋。

 

室町幕府の初代将軍「足利尊氏」も、この「二つ引両」の家紋が記された旗を建てて、「北条氏」や「後醍醐天皇」「楠木正成」「新田義貞」と戦ったのです。

 

余談ではありますが、この「二つ引両」の丸い形を真似して作られたのが、「今川焼き」なのだという説があります。

 

この「二つ引両」の家紋を使った「足利家」の分家「今川義元」の「今川家」の名をとって、「今川焼き」と名付けられた・・・。諸説あるものの、そのような説が存在しているのです。


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足利義輝の【辞世の句】

足利義輝が残した「辞世」は、いかのとおりです

「五月雨(さみだれ)は 露か涙か 不如帰(ほととぎす) 我が名をあげよ 雲の上まで」

(降りしきるこの雨は、露か?それとも私の無念の涙か?

私を死へと迎えに来たのか?ホトトギスよ。

天空へと舞い上がり、気高く、誇り高く戦った私の名を、雲の上まで高めてくれ)

 

  • 「柴田勝家」
  • 「お市の方」
  • 「久坂玄瑞(吉田松陰の弟子・義弟)」

この3名もまた、も「ホトトギス」を題材として「辞世の句」をつくっています。

  • 「織田信長」
  • 「豊臣秀吉」
  • 「徳川家康」

「三傑」と呼ばれたこの三名も、その性格を表す「ホトトギス」の歌が残っています。

 

この「ホトトギス」の辞世の句は、「足利義輝」が死の間際につくった歌かもしれません

 

通常、戦国武将は、いつ死んでもいいように、事前に用意したものだったと考えられます。

 

ところが足利義輝は、5月に亡くなっており、この辞世の句にも、5月の季語である五月雨という言葉が使われています。

もしかすると足利義輝は、「三好三人衆」や「松永久通」に襲撃されることを、予見していたのかもしれません。

 

足利義輝

よほど無念の最期だったのでしょう。


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足利義輝と足利義昭の関係と違い

13代将軍「足利義輝」と15代将軍「足利義昭」は、兄と弟。両親も同じです。

 

ただ、豪胆な剣豪将軍「足利義輝」に対して、「足利義昭」は、「政治能力ゼロ」と評された人物です。

 

兄のほうが、チカラは上だったのでしょう。

 

兄「義輝」は、弱体化した室町幕府の権威を取り戻そうと奮闘。

 

最期は「三好三人衆」と「松永久通」に殺害されました。

 

「足利義昭」はというと、「織田信長」に「征夷大将軍」にしてもらったのは良かったのですが、その後は政治力の無さから、民衆に「九枚の貝殻」を送られてしまうような愚将でした。

 

ある日、義昭の館の前に、「9枚の貝」が並べて置かれていました。

 

その貝は全て欠けていたのです。

 

これを見た織田信長は、こう言いました

「九枚の貝とは、すなわち『公界(くかい・政治)』のこと。

それが全て欠けているということは、『足利義昭には政治力が欠けている』という意味だろう」

笑いながらそう言った織田信長は、数年後に「足利義昭」を京都から追放することとなるのです。

 

名将「上杉謙信」も憧れた剣豪将軍「足利義輝」。(謙信は、義輝の一字をもらい、「輝虎(てるとら)」と名乗っていた)

 

弟「足利義昭」とは、似ても似つかない人だったのでしょう。


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足利義輝の家臣一覧

足利義輝には、数多くの家臣がいました

  • 「三淵藤英」(細川藤孝の兄)
  • 「細川藤孝」
  • 「和田惟政」
  • 「京極高吉」
  • 「明智光秀」

有名なところでは、以上のとおりでしょう。

 

彼らがどのような最期を遂げたか、簡単に解説いたします。

  • 「三淵藤英」(足利義昭が京都から追放された直後、信長によって切腹させられて死去)
  • 「細川藤孝」(「本能寺の変」で信長が死ぬと、明智光秀に味方しなかった。「関ヶ原の戦い」の前哨戦で活躍したあと死去)
  • 「和田惟政」(信長に従い各地を転戦。荒木村重との「白井河原の戦い」に敗れ戦死)
  • 「京極高吉」(浅井長政の姉の夫にあたる。娘の「松の丸」は「豊臣秀吉」の側室で「淀殿」のいとこ。キリスト教に改宗した直後に急死。仏罰と噂された)
  • 「明智光秀」(「本能寺の変」で織田信長を討った11日後に、「山崎の戦い」で敗北し死去)

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足利義輝が亡くなったその後、何が起こったのか?

義輝が亡くなった後「三好三人衆」は、あやつり人形とするために、義輝の「いとこ」にあたる「足利義栄」という人物を、義輝の後任者として征夷大将軍にしました。

 

しかし【1568年】、織田信長が数万の大軍団と「足利義昭」を連れて京都へ進軍してきます。

 

「三好三人衆」は、何もできずに織田信長に敗北。

 

機内は信長に支配されて、信長は「天下を制圧する事業」へと動き出すのでした。

 

15代・征夷大将軍となった義輝の弟「足利義昭」は、天下を支配しようと政治を行うものの失策続きで、信長と対立。

 

その後、各地の大名に協力を要請し「信長包囲網」を作り上げました。

 

しかし信長に敗北し、「本能寺の変」のあとは「豊臣秀吉」に仕えて、「足利義昭」は1万石の小さな大名として、生涯を全うしました。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「足利義輝」とは、「室町幕府」の第13代将軍。「足利尊氏」の子孫。剣の達人だったため「剣豪将軍」と呼ばれた

 

2,数多くの名刀を所持しており、「天下五剣」と呼ばれた名刀のうち、「数珠丸(じゅずまる)」をのぞく「三日月宗近」など、4本を持っていたらしい

 

3,剣豪将軍「足利義輝」を、「三好三人衆」「松永久通」が襲撃したが、強すぎて全く倒せず、最期は畳で囲み押し倒しされて、突き殺された、と言われている

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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