皆さんは「織田信秀の死因やお墓」さらに「葬儀の逸話」などを、ご存知でしょうか?
実は「信秀の最期」について、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。
この記事では「織田信秀の最期の様子」を、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。
今は「信秀の最期」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、「信長の父・織田信秀」に詳しくなれます。
この記事を読んで、「織田信秀」の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,「織田信秀」の死因は病死。【1552年】、織田信秀は「今川義元」やその軍師「太原雪斎」に敗北を続け、追い詰められた状態で病死した
2,父「信秀」の葬儀で、兄「織田信長」は父の位牌に抹香を投げつけるなど、暴走した。弟「信勝(信行)」は行儀よく振る舞ったが、そこに天才「信長」と凡才「信勝」の差があらわれていた
3,信秀のお墓は、愛知県名古屋市の「萬松寺(ばんしょうじ)」または「桃厳寺(とうがんじ)」にある
織田信秀の《死因》と【最期の様子】
織田信秀の死因は、「病死」です。
歴戦の傷も原因なのでしょうけれど、もしかすると「精神的なストレス」も、死期を早めた原因かもしれません。
なんといっても、信秀が亡くなる直前、織田家は危機におちいっていましたから。
「斎藤道三」
「今川義元」
「尾張守護代・織田家」
これら「3つの強敵」を、織田信秀はかかえていたのです。
- 【1548年】、「第二次小豆坂の戦い」で、今川義元の軍師「太原雪斎」に大敗。
- 【1549年】、嫡男「信長」の妻に、「斎藤道三」の娘「帰蝶(濃姫)」をもらって斎藤家と同盟締結。
- 【同年】、三河国「安祥城」と長男「織田信広」を、「太原雪斎」に奪われる。
- 【同年】、人質として預かっていた「松平竹千代(のちの徳川家康)」を、長男「信広」との人質交換で失う。
- 【1550年】、尾張国の南部「知多半島」の豪族「水野」氏が、織田家から今川家へ降伏。
- 【1551年】、尾張国・鳴海城「山口教継」が今川家に寝返り、周辺の豪族も今川家へ寝返る。
- 【1552年】、「織田信秀」病死。
信秀は「今川義元」に追いつめられて、最終的には病死してしまっています。
おそらく、次々と勢力を削られて、追い詰められていったため、死を早めてしまったのでしょう。
とはいえ、信秀を苦しめた「今川義元」は、信秀の死から8年後の【1560年】に、信秀の息子「織田信長」に討たれています。
信長は、父の仇を討ったといえるかもしれません
織田信秀の【葬儀】の逸話!天才的な兄「信長」と、凡才な弟「信勝」
信秀の葬儀は有名です。
兄「信長」が、父の位牌に対して「抹香」または「灰」を投げつけたと言われています。
弟「信勝(信行)」は、とても礼儀正しく、行儀よくしていたのだとか。
一見すると、
- 兄「信長」は無能。
- 弟「信勝」は有能。
にみえるかもしれません。
しかし信長は、周囲の敵を油断させるため、わざと「うつけ(バカ者)」のふりをしていたのです。
特に隣国の宿敵「今川義元」を、油断させなくてはいけない状況でした。
このとき信長は「父の葬儀」という誰もが注目する場で、わざとこのような行動をとったのです。
「抹香を投げつけた」
この噂が、今川義元の耳に入ることも計算していたのでしょう。
しかし信勝は、大人たちに気に入られるために、言われるままおとなしく作法を守りました。
敵をあざむくために芝居をうった「信長」
大人に気に入られるために、何も考えず行儀よくふるまった弟「信勝」
自分の頭で考えて行動する兄「信長」と
自分の頭で考えずに、大人の言いなりになる「信勝」。
どちらのほうが優秀かは、明らかでした。
信長の狙いは見事に的中します。
「信長が抹香を父の位牌に投げつけた」
という噂は、今川義元のみならず、周辺諸国へと響き渡り、「今川義元」は約8年もの間、信長を放置。
信長はその間に、今川義元と戦う準備を整えることができたのでした。
織田信秀の【お墓】は、どこにあるのか?
織田信秀のお墓は、太平洋戦争の頃までは、現在の「愛知県名古屋市中区」にある織田家の菩提寺「萬松寺(ばんしょうじ・または万松寺)」にありました。
この「萬松寺」は先ほど解説いたしました、「織田信長」が父「信秀」の位牌に、抹香を投げつけた事件が起こった場所、つまり「信秀の葬儀を行ったお寺」としても有名です。
太平洋戦争が原因で現在、萬松寺にあった「信秀の墓」は、「名古屋市千種区平和公園内の万松寺墓地」に移転改葬されています。
萬松寺には、「信秀の供養塔」が残されているのみです。
もう1つ、信秀の廟所が「名古屋市千種区」の「泉龍山桃厳寺(とうがんじ)」にあります。
「泉龍山桃厳寺」のお墓は、「信長」の弟「信勝(信行)」がつくったものです。
「桃厳寺」は「日本一大きな木魚」でも有名なお寺だそうです。
「織田信秀」について、可能な限りのすべてを調べて、以下のリンク記事で解説いたしました。
『織田信秀』について「ひとこと」いいたい
「信秀」といえば、息子《織田信長》の飛躍の土台をつくりあげた名将です。
信秀は「経済」を重視した人物で、「熱田神宮」の港を支配し、莫大な税を手に入れていました。
この金を使って、信長は「兵農分離」「鉄砲量産」「城郭や城下町の整備」「道の舗装」などを行い、次々と改革を成功させていきます。
「兵農分離」によって、長期遠征を可能としていたので、信長は長期間に渡り、京都を支配することができたと考えられます。
信長の天下統一・・・。
それは名将「織田信秀」が信長に残した遺産があったからこそ、成し得たことなのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信秀」の死因は「病死」。【1552年】、織田信秀は「今川義元」に負け続けて、最期は追いつめられた状態で病死した
2,父「信秀」の葬儀で、嫡子「信長」は父の位牌に抹香を投げつける暴挙に出た。弟「信勝(信行)」は行儀よく振る舞った。策略を巡らせた「信長」と、自分の頭でものを考えなかった「信勝」の差は歴然としていたが、周囲の人間は信長を「バカ者」あつかいして、見事に信長の罠にひっかかった
3,信秀のお墓は、愛知県名古屋市にある織田家の菩提寺「万松寺(ばんしょうじ・萬松寺)」、または織田信勝がつくった「桃厳寺」にある
以上となります。
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