この記事では「織田信長」と「豊臣秀吉」と「徳川家康」について、その生涯を「年表」にして、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「信長・秀吉・家康」の「生涯」を、カンタンに理解できます。
「信長・秀吉・家康」の疑問を解決するために、ぜひ当記事をお役立てくださいませ。
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この記事を短く言うと
1,「織田信長」の生涯とは?
「織田信長」は【1534年】に誕生し、【1582年】に「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれて亡くなった
2,「豊臣秀吉」の生涯とは?
「豊臣秀吉」は、【1537年】に誕生し、【1598年】に「伏見城」で病死した
3,「徳川家康」の生涯とは?
「徳川家康」は、【1543年】に誕生し、【1616年】に「駿府城」で亡くなった
「織田信長・誕生」(1534年) ~ 「本能寺の変・信長の死」(1582年)
戦国三英傑
- 「織田信長」
- 「豊臣秀吉」
- 「徳川家康」
彼らの年表を、すべてまとめて解説いたします
【1534年】の「織田信長の誕生」から、【1616年】の「徳川家康の死」まで、【82年間】に起こった「歴史的事件」を中心にして解説致します。
【1534年】
「織田信長」誕生、幼名「吉法師」
【1537年】
のちの「豊臣秀吉」こと「藤吉郎」誕生、諸説あるものの幼名は「日吉丸」
【1543年】
「徳川家康」誕生、幼名「竹千代」
【1546年】
「吉法師」が元服し「織田三郎信長」と名乗る
【1547年】
「竹千代」が「今川義元」のもとへ人質として送られるところを、護送担当者の裏切りにより「織田家」へ送られる
「織田信長」が「竹千代(のちの徳川家康)」と出会う
【1549年】
「竹千代」が「織田家」から「今川家」へ送られ、人質として「駿府城」へ
この頃「織田信長」が、「斎藤道三」の娘「帰蝶」を妻にむかえて「織田家」と「斎藤家」の間に同盟が成立する
【1552年】
「織田信秀」が死去し、「織田信長」が織田家の家督を継承
【1553年】
「聖徳寺の会見」、「織田信長」が「斎藤道三」と会見
【1554年】
「秀吉」が「織田信長」につかえ始める
【1555年】
「竹千代」が元服。「松平元信」と名乗り、後に「松平元康」へと改名
【1556年】
「長良川の戦い」、「斎藤道三」が息子「斎藤義龍」に討たれる
【1558年】
「織田信長」が、謀反を企んだ弟「織田信勝(信行)」を暗殺する
【1560年】
「桶狭間の戦い」で「今川義元」が「織田信長」に討たれる
この戦いに「今川軍」として参戦していた「松平元康(徳川家康)」は、どさくさ紛れに生まれ故郷の「岡崎城」へ帰還。今川家からの独立を画策する
【1561年】
「斎藤義龍」病死
「松平元康」が、「今川家」の牛久保城を攻撃し、「今川家」からの独立を決定的にする
「秀吉」が「おね」と結婚
【1562年】
「織田信長」と「松平元康(徳川家康)」が、「清洲同盟」という軍事同盟を締結する
【1563年】
「松平元康」が「松平家康」と改名
【1565年】
「永禄の変」、13代征夷大将軍「足利義輝」が、「三好三人衆」らに暗殺される
「織田信清」の「犬山城」を陥落させ、「織田信長」が「尾張統一」達成
「秀吉」が「木下藤吉郎秀吉」と名乗り始める
【1566年】
「美濃攻略戦」において、「秀吉」が「墨俣一夜城」を完成させる(実際には4日かかったといわれている)
「松平家康」が、「徳川」の姓を名乗り、「三河守」の官位を与えられ、「徳川三河守家康」と名乗る
【1567年】
「秀吉」が天才軍師「竹中半兵衛重治」を与力(応援部隊)として付けられる
「稲葉山城の戦い」に勝利した「織田信長」が「美濃国」制圧。
「稲葉山城」に居城を移し、「岐阜城」と改名
【1568年】
「織田信長」が「足利義昭」をつれて京都へ進軍。(「足利義昭」の家臣だった「明智光秀」が、同時に「織田信長」の家臣にもなる)
信長が、南近江と山城の国を制圧。
【1569年】
「本圀寺(ほんこくじ)の変」、「足利義昭」が「三好三人衆」に襲撃されるが、「明智光秀」たちの活躍により撃退
【1570年】
「徳川家康」、三河国「岡崎城」から遠江国「浜松城」へ拠点を移す
「金ヶ崎城の戦い」、「織田信長」が「朝倉義景」の治める越前国を攻撃
「織田信長」の同盟者であった南近江「浅井長政」が信長を裏切ったため、織田軍大敗。(金ヶ崎の退き口)この撤退戦で、「羽柴秀吉」、「明智光秀」、「徳川家康」が奮戦。
「姉川の戦い」で、「織田・徳川連合軍」が「浅井・朝倉連合軍」を撃破
【1571年】
「比叡山焼き討ち」
この「比叡山延暦寺」への攻撃で先陣を務めた「明智光秀」が、「南近江・志賀郡坂本5万石」を与えられ、織田家最初の「城持ち大名」に任命。「坂本城」築城開始
【1572年】
「木下藤吉郎秀吉」が、上司「丹羽長秀」と「柴田勝家」の苗字から一文字ずつもらい「羽柴秀吉」と改名
【1573年】
「三方ヶ原の戦い」、「徳川家康」が「武田信玄」に大敗
「武田信玄」が「信濃国・駒場」で病死
「槇島城の戦い」、「足利義昭」が「織田信長」に破れ、京都から追放される。「室町幕府」滅亡
「一乗谷の戦い」、「朝倉義景」が自害
「小谷城の戦い」、「浅井長政」が自害。妻「お市の方」と、三人の娘「茶々」と「初」と「江」が信長のもとへ逃げ延びる
「羽柴秀吉」が「浅井氏」の領地を与えられ、「長浜城」を築城し城主として北近江を治める
【1574年】
「羽柴秀吉」が、「筑前守」の官位をあたえられ「羽柴筑前守秀吉」と名乗る
【1575年】
「長篠の戦い」、「織田信長」と「徳川家康」の連合軍が、「武田勝頼」を撃破
【1576年】
「安土城」築城開始
【1577年】
「手取川の戦い」、「柴田勝家」が「上杉謙信」に大敗
「信貴山城の戦い」、「松永久秀」が謀反を起こすが、「秀吉」や「明智光秀」の活躍により、「松永久秀」自害
「羽柴秀吉」が「中国方面軍」の司令官に任命される
【1578年】
「上杉謙信」病死
【1579年】
「信康事件」勃発。「徳川家康」が謀反の罪により、嫡男「松平信康」を自害させ、正室「築山殿」を惨殺する
「織田信長」が「岐阜城」から「安土城」へ本拠地を移す
【1580年】
「本願寺顕如」が「石山本願寺」を退去し、事実上「織田信長」に降伏する。(「石山戦争」終結)
【1582年】
「甲州征伐」、「織田信忠」の攻撃により「武田勝頼」が自害。「武田家」滅亡
「徳川家康」は武田家の領地だった「駿河」を「織田信長」から与えられる。この頃「徳川家康」は、「織田信長」の同盟者から「家来」へと身分が変わっていた
「本能寺の変」勃発
「織田信長」が「明智光秀」の裏切りにより自害。
享年49歳
「織田信長の年表」について、以下のリンク記事でさらに詳しく解説しております。
「本能寺の変」(1582年) ~ 「豊臣秀吉の死」(1598年)
「織田信長の死」から、信長の後継者として「天下人」となった「豊臣秀吉の死」までを解説致します。
【1582年】
「本能寺の変」
「山崎の戦い」、「明智光秀」が「中国大返し」で急遽帰還した「羽柴秀吉」との戦いに敗北。逃亡途中に落ち武者狩りに遭遇して自害(「本能寺の変」から【11日後】に「明智光秀」自害)
「清須会議」、「織田信長」の後継者が孫「三法師」に決定。「羽柴秀吉」が「三法師」の後見人となる
この会議により、織田家は「羽柴秀吉一派」と「柴田勝家一派」に分裂し、争うこととなる
「天正壬午の乱」、「徳川家康」が「甲斐・信濃」の2カ国を攻略し、支配する
【1583年】
「賤ヶ岳の戦い」、「羽柴秀吉」が「柴田勝家」と信長の三男「織田信孝」を自害させて勝利。織田家をほぼ完全に乗っ取る。
「大坂城」へ拠点を移す
【1584年】
「小牧・長久手の戦い」、「羽柴秀吉」が「徳川家康」「織田信雄」の連合軍を相手にして、「長久手」で大敗。「池田恒興」や「森長可」が戦死。
【1585年】
「四国征伐」、「長宗我部元親」が「羽柴秀吉」に降伏
「羽柴秀吉」が「関白」に就任
「富山の役」、「佐々成政」が「秀吉」に降伏
【1586年】
「羽柴秀吉」が「正親町天皇」から「豊臣」の姓を賜り「豊臣秀吉」と名乗る
「徳川家康」が「豊臣秀吉」に屈服し、臣下となる
「九州平定戦」開始
【1587年】
「九州平定戦」完了
「バテレン追放令」
京都に秀吉の邸宅「聚楽第」が完成する
【1588年】
「刀狩令」を発布
【1589年】
秀吉の側室「淀殿(茶々)」が、「鶴松」を産む
【1590年】
「小田原征伐」開始
「北条氏政」「伊達政宗」らが屈服
「徳川家康」が、東海道から「関東」へ領地替えされ、「江戸城」に拠点を置く
「奥州仕置」開始
【1591年】
「奥州仕置」が完了し、「天下統一」完了
嫡子「鶴松」と、弟「豊臣秀長」が病死
「千利休」切腹
【1592年】
「豊臣秀吉」が甥「豊臣秀次」へ関白職を継承させ、みずからは「太閤」と名乗る
「朝鮮出兵・文禄の役」開始。
【1593年】
秀吉が本拠地を「大坂城」から「伏見城」へ移す
秀吉の側室「淀殿」が「豊臣秀頼」を産む
「明国」との講和交渉開始
【1595年】
関白「羽柴秀次」が切腹。「聚楽第」を打ち壊し
【1596年】
「明国」との講和交渉が決裂
【1597年】
「慶長の役」、朝鮮半島へ再び出兵
室町幕府15代征夷大将軍「足利義昭」病死
【1598年】
「豊臣秀吉」死去
享年62歳
「豊臣秀吉の年表」については、以下のリンク記事でさらに詳しく解説しております。
「豊臣秀吉の死」(1598年) ~ 「徳川家康の死」(1616年)
最後は「徳川家康」についてです。
「豊臣秀吉の死」から、「徳川家康の死」までを、年表で解説致します。
【1598年】
「豊臣秀吉」死去
【1600年】
「関ヶ原の戦い」、「徳川家康」が「石田三成」を撃破。
「石田三成」は捕縛され、「小西行長」や「安国寺恵瓊」とともに斬首される
【1603年】
「徳川家康」が「征夷大将軍」に任命され、「江戸」に幕府を開く
【1604年】
「家康」の三男「徳川秀忠」の正室「江」が、のちに三代将軍となる「徳川家光」を産む
【1605年】
「徳川家康」が「将軍」の職を、三男「徳川秀忠」に継承させ、「大御所」と名乗る
【1607年】
「徳川家康」が本拠地「江戸城」を、「徳川秀忠」にゆずり、「駿府城」へ移動する
【1611年】
「徳川家康」と「豊臣秀頼」が、京都「二条城」で会見。一説によると、この会見で主君であった「豊臣秀頼」と家来「徳川家康」の主従関係が逆転したともいわれている
「二条城会見」の直後に「加藤清正」死去
【1614年】
「方広寺鐘銘事件」が起こり、豊臣家の家老「片桐且元」が徳川家と豊臣家の仲介をした末に、豊臣家から裏切りを疑われて襲撃される。
「大坂冬の陣」勃発。「徳川・豊臣の橋渡し役」だった「片桐且元」への襲撃を、「徳川家康」が「豊臣家による徳川家への敵対行為」とみなし、開戦。
「真田幸村」らの活躍により、徳川軍が苦戦。
「淀殿(茶々)」の妹「初」と、徳川家康の側室「阿茶局(あちゃのつぼね)」が講和交渉を開始
「講和」成立により、講和条件の一つとして、「大坂城」の堀が埋め立てられる
【1615年】
「大坂夏の陣」勃発。
豊臣方が「大坂城の堀」を再び掘り返そうとする動きがあり、徳川家康がこれを「講和条件の約束違反」とみなして出陣。
「真田幸村」戦死。
「豊臣秀頼」と、その母「淀殿(茶々)」が自害。
「秀頼」の息子「国松丸」が処刑。
「豊臣家」滅亡
【1616年】
「徳川家康」死去
享年75歳
「徳川家康」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
「徳川家康」の死後に起こったことを、ザッと解説
【1616年】に「徳川家康」が亡くなると、日本は長く平和な時代を迎えることとなります。
この平和は、12代将軍「徳川家慶」の時代に、突如打ち破られることになるのです。
【1853年】、「黒船来航」です。
この「黒船来航」から、「徳川幕府」による海外への弱腰外交が繰り返されることとなるのです。
日本の弱腰外交に激怒したのが、「吉田松陰」などの過激派が勢力を拡大していた「長州藩」。
長州藩は、海外勢力を武力で追い出す「攘夷」を強く主張し、実行していきます。
しかし海外勢力の圧倒的な力に敗北した「長州藩」は、「坂本龍馬」による仲介を経て「薩摩藩」と「薩長同盟」を締結し「徳川幕府」を打倒して、近代的で強力な「新国家」の樹立を模索し始めるのです。
【1868年】、「鳥羽・伏見の戦い」から始まった「戊辰戦争」で、「西郷隆盛」によって「江戸城無血開城」が実現し、「徳川幕府」は滅亡。
この年に「明治維新」が実現され、新国家の樹立が宣言されたのでした。
徳川幕府は、【1603年】の初代「徳川家康」による樹立から【265年】後の、【1868年】に15代将軍「徳川慶喜」の代で滅亡するのです。
その後「日本」は、「日清戦争」「日露戦争」などで列強諸国を次々打ち破るものの、【1945年】に「大東亜戦争」で敗北。
その後はアメリカとの「日米同盟」を軸として、「昭和」、「平成」、「令和」へと時代が移り変わっていくことになるのです。
「明治維新」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
「大東亜戦争(太平洋戦争)」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」は【1534年】に誕生し、【1582年】に「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれて亡くなった
2,「豊臣秀吉」は、【1537年】に誕生し、【1598年】に「伏見城」で病死した
3,「徳川家康」は、【1543年】に誕生し、【1616年】に「駿府城」で亡くなった
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。
よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
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