皆さんは藤原道長の子孫が現在何をしているのかを、ご存知でしょうか?
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 藤原道長の子孫は、天皇陛下、元内閣総理大臣・細川護煕さんなどがいる
- 藤原道長の死後、藤原氏の栄華は、後三条天皇の親政や白河法皇の院政で終わった
- 五摂家以外にも、藤原道長の子孫はいる。藤原氏の子孫は、名前を変えて複数残っている。
この記事では藤原道長の子孫を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は藤原道長の子孫について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、藤原道長の子孫に詳しくなれます。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
藤原道長の子孫の現在!五摂家の子孫をご紹介
藤原道長の子孫は、5つの家に分かれ、苗字が変わって現在も続いています。
これらを五摂家といいます。
以下に五摂家それぞれの現代の藤原道長の子孫たちをご紹介いたします。
元総理大臣・細川護煕さん
元内閣総理大臣・細川護煕さんは、藤原道長の子孫にあたられます。
細川護煕さんの母・温子さんは、藤原道長の子孫である近衛家の出身なのです。
温子さんの父親も、元内閣総理大臣の近衛文麿です。
細川護煕さんの母親の実家である近衛家は、五摂家と呼ばれる名門のお公家さんの家柄です。
その五摂家は代々、藤原道長の血筋を引き継いでいるのです。
細川護煕さんは、藤原道長の子孫であるばかりでなく、戦国時代に活躍した細川藤孝・忠興親子の子孫でもあります。
細川家は、江戸時代に肥後熊本藩の藩主を務めていました。
ちなみに五摂家とは
- 近衛家
- 一条家
- 九条家
- 鷹司家
- 二条家
の五つの摂関家のことです。
摂関家とは、摂政と関白を輩出することができる家柄のことです。
以下にその五摂家の出身で、藤原道長の子孫にあたられる方々を、順番にご紹介いたします。
九条道成さん
九条道成さん(旧字体:九條道成)は、五摂家に属する元公爵九条家の35代当主であり、明治神宮の宮司も務めています。
藤原氏の血脈に連なる中で、実在する範囲で最後の人物であり、かつ血族の最後の末裔として知られているお方です。
つまり藤原道長だけでなく、その先祖である藤原氏の始祖・中臣鎌足(藤原鎌足)と、血のつながっていることが確実な子孫というわけです。
東京都出身で、國學院大學・文学部・神道学科を卒業後、明治神宮に奉職。
2012年、禰宜に任命。
2016年、権宮司に任命。
2021年、宮司に就任。
藤原鎌足(中臣鎌足)から始まり、不比等、房前、真楯、内麻呂、冬嗣、長良、基経、忠平、師輔、兼家、藤原道長、頼通、師実、師通、忠実、忠通、九条兼実、良経、道家、二条良実、兼基、道平、良基、師嗣、持基、持通、政嗣、尚基、尹房、晴良、鷹司信房、信尚、教平、九条兼晴、輔実、幸教、二条宗基、治孝、九条尚忠、道孝、道秀、道弘、そして九条道成さんへと続いています。
これが男系の系譜です。
近衛忠輝さん
近衞忠輝さんは、元首相・細川護煕の実の弟です。
近衞家の第32代当主であり、日本赤十字社名誉社長でもあります。
彼の初名は細川護煇さんです。
旧・肥後熊本藩の細川侯爵家の出身。
戦国時代に活躍した武将・細川藤孝と忠興親子は、近衞忠輝さんの先祖です。
兄は細川護熙で、彼は内閣総理大臣の第79代を務めました。
元内閣総理大臣・近衛文麿の孫にあたられます。
伯父にあたる文隆さんがシベリア抑留中に亡くなり、近衛家の当主が不在となったため、1965年に母の実家である近衛家の養子に迎えられました。
1966年には、三笠宮崇仁親王の長女である甯子内親王と結婚。
息子さんは、元NHK職員の近衛忠大さんです。
余談ですが、この近衛忠大さんは、2024年1月に放送された「英雄たちの選択」というテレビ番組に、藤原道長の末裔として登場しておられました。
鷹司尚武さん
鷹司家の28代当主です。
伊勢神宮大宮司や神宮司庁代表役員を務め、その後神社本庁の統理に就任しました。
また、日本電気通信システム株式会社(NEC通信システム)では社長を務めました。
彼の旧姓名は松平尚武。
養母の鷹司和子は、昭和天皇の第三皇女であり、上皇陛下は義理の叔父に当たります。
2007年、伊勢神宮大宮司に任命
2017年、その職を辞しました。
二条基敬さん
二条家30代目当主が、二条基敬さんです。
神職であり、実業家でもあるお方です。
母は、多嘉王の第三王女・恭仁子王女。
奥様は、藤原北家の上冷泉家の歌人・冷泉為任さんの娘・須実子さん。
両親から二条家と皇室の血を引き、奥様は藤原家の末裔です。
一條實昭さん
一条家の28代目当主。
弁護士として務めておられます。
忠臣蔵で有名な、吉良上野介義央の九世子孫にあたられるお方です。
次の一条家の当主は、息子さんの一条実綱さんです。
三井家12代目当主・三井永乗さん
三井財閥で有名な三井家にも、藤原道長の血が引き継がれています。
三井永乗さんは、三井家総領家である北家の12代目の当主です。
祖父から三井家の当主を引き継ぎ、三井家総領家である北家の当主が代々名乗ることとなっている三井八郎左衛門の17代目です。
三井永乗さんは建築家で、2005年に三井記念美術館のインテリアデザインを手掛けておられます。
天皇陛下は、藤原道長の子孫だった
もっとも有名な藤原道長の子孫は、現在の天皇陛下です。
天皇陛下
現在の天皇陛下は、藤原道長の子孫にあたられるお方です。
藤原道長は、三人の娘をそれぞれ天皇の妃として入内させています。(入内とは、天皇の住まいである内裏に入ること。つまりは嫁入り)
その娘たちが産んだ子供が、天皇に即位したことで、道長は権力の絶頂を極めたのでした。
その藤原道長の血筋は、現在も皇室に流れています。
藤原道長の娘・藤原彰子が産んだ後朱雀天皇から、その子・後三条天皇へ。
さらに後三条天皇から、その子である白河法皇へと、天皇の地位が継承されています。
現在の天皇陛下は、その白河法皇の子孫です。
つまり藤原道長は、現在の天皇陛下のご先祖様なのです。
藤原道長の死後、藤原氏はどうなったの?
藤原道長の死後、藤原氏の栄華は、後三条天皇と白河法皇の【院政】によって衰退していきます。
藤原氏は道長の代で栄華を極めました。
しかしその栄光は続かず、平安時代の後半に入ると一族内での政争が絶えず、摂政・関白の地位は「藤原北家」として知られる特定の藤原氏家系に受け継がれました。
道長とその息子・頼通も藤原北家の出身でした。
藤原道長の外孫である天皇たちは、藤原頼通が摂政・関白として、約50年にわたり政治を主導されました。
頼通は娘を天皇に嫁がせましたが、皇子は誕生しませんでした。
そんな藤原氏の運命は後三条天皇の時代から変わり始めます。
後三条天皇は藤原氏とは異なる家系からの出自であり、その後継者も同様で、これは約170年ぶりの異例な事態でした。
後三条天皇は摂政・関白に頼らず、親政という自ら政治をする形をとり、その後を継いだ白河天皇も政治の主導権を堅持します。
白河天皇は、息子の堀河天皇に譲位後も政治の後見役として活動しました。
息子を天皇として、自らは上皇(または出家して法皇)として政治を行う新しい政治体制は「院政」と呼ばれました。
藤原氏が天皇の母方の地位を利用したのに対し、院政は天皇の父方の地位を活かしました。
院政では摂政、中・下級貴族が重用されました。
- 鳥羽法皇(白河法皇の孫)
- 後白河法皇(鳥羽法皇の息子)
- 後鳥羽上皇(後白河法皇の孫)
などの法皇・上皇が院政を行いました。
しかし注目すべきは、この期間にも道長・頼通の子孫が摂政・関白の役職に就いていたという点です。
そして、院政以降、武士の時代が訪れます。
平清盛が武士が支配する日本を切り開き
源頼朝がその基礎をつくり
北条義時が武士が支配する日本を盤石なものとしたのです。
その後の藤原氏は、かつてのような政治的権力を持つことは難しくなりました。
しかし、摂政・関白の職は、1868年の明治維新まで、道長・頼通の子孫たちが継続的に務めました。
ただし、たった一つの例外がありました。
豊臣秀吉・秀次です。
秀吉が関白の職を手に入れたことを、武家関白制といいます。
秀吉はお公家さんですらない武将であるにもかかわらず、関白に就任することに成功しているのです。
ただし、秀吉も
「関白は藤原氏つまり五摂家の者しかなれない」
という慣例を無視しませんでした。
藤原氏の一族である元関白【近衛前久】の養子になることで、関白の地位に就いたのです。
秀吉は藤原氏とは縁がないにもかかわらず、形式的には「摂政・関白は藤原氏から」という先例に従ったのです。
秀吉は、ある事情があって、武家のトップである征夷大将軍ではなく、天皇の臣下のトップである関白を目指したのです。
→→→→→【秀吉が征夷大将軍ではなく、関白になった理由】についてくわしくはこちら
五摂家以外にも、藤原道長の子孫がいる
藤原道長の子孫は、いくつにも枝分かれしていた
実は、五摂家以外にも、藤原道長の子孫はたくさんいます。
伊藤さんや斉藤さんなど、苗字に「藤」という1文字が付いている方々は、藤原氏の子孫だといわれています。
たとえば織田信長も藤原氏だといわれていますし、その側室で、織田信忠を産んだ生駒吉乃の実家・生駒家も、藤原氏の子孫だそうです。
その数は膨大で、中には藤原道長の子孫もいるかもしれません。
それだけではありません。
先ほどご紹介いたしました五摂家以外にも「藤原氏」は複数存在しているのです。
お公家さんの社会では、家の格がそれぞれ決められており
- 摂関家(五摂家のこと)
- 清華家
- 大臣家
- 羽林家
- 名家
- 半家
などがあります。
摂関家は、先程はご紹介いたしました
- 近衛家
- 九条家
- 二条家
- 一条家
- 鷹司家
の五つです。
太政大臣になれる家柄・清華家はもっと数が多く7つ。
加えて、江戸時代に新しく追加された2つの家があります。
- 三条家
- 西園寺家
- 徳大寺家
- 久我家
- 花山院家
- 大炊御門家
- 菊亭家(今出川家)
- 広幡家
- 醍醐家
これら摂関家・清華家の他にも、大臣家・羽林家・名家・半家があります。
しかし数が膨大なので、こちらでのご紹介は控えます。
これらは道長の子孫の系統と、道長の子孫ではない藤原氏の系統とに分けられます。
ただ、すべてが藤原氏に属しています。
2度総理大臣を務めた【最後の元老】こと西園寺公望は、五摂家に次ぐ格式を持つ「清華家」の一員です。
西園寺家は、藤原北家の支流に位置しています。
ちなみに藤原北家とは、道長の先祖である中臣鎌足の息子・藤原不比等の子供たちの代で分かれた4つの藤原家の1つです。
4つの家の中で、藤原北家がもっとも栄えたといわれています。
武者小路家と聞けば、作家の武者小路実篤が思い浮かびます。
武者小路家もまた藤原北家の支流で、上から4番目の「羽林家」という格式を誇っています。 (明治維新まで、朝廷で就ける官職の上限は、先ほどご紹介いたしました家ごとの格式によって決定されており、それ以上の官位官職にはつけなかった)
ちなみに、藤原氏の氏神である奈良県の【春日大社】の2024年現在の宮司は、花山院弘匡さんです。
花山院家も西園寺家同様に【清華家】の格式を有していました。
ちなみに春日大社でまつられている神様【天児屋命】は、藤原氏のご先祖さまといわれています。
天児屋命は、天照大神が天岩戸に隠れた際に、その岩の前でお祭りを行った神様です。
さらに、天照大神の孫・瓊瓊杵尊とともに、空に浮かぶ高天原から地上へ降り立ったといわれています。
天照大神と瓊瓊杵尊は、天皇陛下のご先祖さまとされている神様です。
1000年以上にわたり続く藤原氏の歴史で、ときには権力の中心として、またときには武家の影響を受けながらも、生き残りにかけた情熱は、素晴らしいものがあると思います。
余談ですが、先ほどご紹介した織田信長は、もしかすると紫式部の子孫かもしれません。
加藤清正
豊臣秀吉につかえた名将・加藤清正も、藤原道長の子孫です。
清正は武人として有名なだけでなく、築城の名人としても有名です。
加藤氏の始祖は、藤原道長のひ孫である加藤正家であるといわれています。
正家は、任地である加賀国へ行ったときに、加賀の加の文字と、藤原の藤の文字をとって、加藤と名乗ったといわれています。
加藤清正の子・加藤忠広は、江戸幕府に領地を没収されたあと、山形へ送られました。
そこで子孫をつなぎ、山形を中心にして、加藤清正の子孫は全国に広がったのです。
また、加藤清正の母親は、豊臣秀吉の母親といとこ同士だったという説があります。
清正は、豊臣秀吉の血縁者でもあるのです。
藤堂高虎
藤原道長の子孫で、三井家から枝分かれした一族が藤堂家です。
その藤堂家で有名なのが、戦国武将・藤堂高虎です。
生涯に七回も主君を変え、「七回主君を変えなくては武士ではない」と言い放った人物です。
加藤清正とは、同じく藤原道長の子孫であるため、遠縁ということになります。
そのためかどうかわかりませんが、清正の子である加藤忠広の後見人をつとめたのが、藤堂高虎です。
徳川家康からの絶大な信頼を勝ち取り、外様大名でありながら譜代並に信用されていたといいます。
また、加藤清正と同じく、築城の名手として有名な人物です。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 藤原道長の子孫は、天皇陛下、元内閣総理大臣・細川護煕さんなどがいる
- 藤原道長の死後、藤原氏の栄華は、後三条天皇の親政や白河法皇の院政で終わった
- 五摂家以外にも、藤原道長の子孫はいる。藤原氏の子孫は、名前を変えて複数残っている。
以上となります。
藤原道長の子孫やその後の藤原氏について紹介しました。
藤原道長の没後、藤原氏は明治維新まで摂政や関白の地位を継承していますが、政治的な影響力は院政や武士の隆盛により以前ほど強力ではなくなりました。
鎌倉時代になると、藤原氏は「五摂家」に分かれ、これに属する家だけが摂政や関白に任命される規定が制定されました。これら五摂家の子孫は藤原道長の子孫であり、現在までその血統を引き継いでいます。
なお、この記事の主題である「五摂家」は明治時代には「公爵」に、最後に軽く触れた飛鳥井家や正親町家、三条西家は「伯爵」という爵位をもらっています。
爵位とは、上から公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五つの位のことです。
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