斎藤義龍(高政)の全て!生涯年表に家紋、明智光秀との関係までを解説

この記事では「斎藤義龍(高政)」について、「生涯年表」や「家紋」、「明智光秀との関係」などを、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「斎藤義龍」を、カンタンに理解できます。

 

「斎藤義龍」は父「斎藤道三」を倒した猛者でありながら、若くして病死した、隠れた名将なのです。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,斎藤義龍(高政)とは何者か?
「斎藤義龍(高政)」とは、「斎藤道三」の息子で、「美濃国主」だった戦国武将

 

2,斎藤義龍がつかっていた「家紋」は?
義龍は、「五三桐紋」を使用していた。父「道三」は「二頭波紋」という家紋を使用していたが、義龍は父の家紋を継承しなかった

 

3,義龍(高政)と明智光秀は、どういう関係だったのか?
2人は年齢が近かった可能性が高く、幼い頃から顔見知りだったと考えられる。そのため、幼馴染で親友同士であったかもしれない。

斎藤義龍(高政)の生涯年表

「斎藤義龍(高政)」の生涯年表を、簡単に解説いたします。

《斎藤義龍》
「引用元ウィキペディアより」

【1527年】(数え1歳)

「斎藤利政(道三)」の長男として誕生する。

母親は側室「深芳野(みよしの)」。

 

【1535年】(9歳)

異母妹「帰蝶」が誕生。

「帰蝶」の母は、「斎藤道三」の正室「小見の方」。

「小見の方」は、「明智光秀」の父の妹(つまり叔母)といわれている。

 

【1548年】(22歳)

義龍の嫡子「斎藤龍興」が誕生


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【1554年】(28歳)

父「斎藤利政」が隠居し、「道三」と名乗る。

 

【1555年】(29歳)

「斎藤義龍」が、父「道三」に反旗をひるがえす。

義龍、弟の「孫四郎」と「喜平次」を殺害。

 

【1556年】(30歳)

「長良川の戦い」

「斎藤道三」戦死。

 

【1558年】(32歳)

将軍「足利義輝」から「一色」という姓を名乗ることを認められ、「治部大輔」の官位を与えられる。


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【1559年】(33歳)

南近江国の大名「六角氏」と同盟を締結し、北近江の大名「浅井久政」と戦う。

 

【1560年】(34歳)

出家して「玄龍」と名乗る

「桶狭間の戦い」で「織田信長」が「今川義元」を撃破。

 

【1561年】(35歳)

「斎藤義龍」急死。享年35歳。

辞世の句は
「三十余年、守護天入、刹那一句、仏祖不伝」


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斎藤義龍(高政)の死後について!息子「龍興」の生涯年表

「斎藤義龍(よしたつ・高政)」の死後、斎藤家の家督を継承した息子「斎藤龍興(たつおき)」についても「生涯年表」をご用意いたしました。

これを読めば、「斎藤義龍(よしたつ)」の死後、斎藤家がどうなったのかが、簡単にわかります。

《斎藤龍興》
「引用元ウィキペディアより」

【1548年】(数え1歳)

「斎藤龍興」、「斎藤義龍」の息子として誕生。

母は「近江の方」。

「近江の方」は、北近江国の大名「浅井久政」の妹と考えられている。

 

【1561年】(14歳)

父「斎藤義龍」が病死。

14歳で「斎藤家」の家督を継承。

 

【1562年】(15歳)

北近江の大名「浅井長政」と同盟を締結しようと画策するも、「織田信長」に先を越されたため、南近江の大名「六角義賢」との同盟を利用して、「浅井長政」を牽制。

 

【1563年】(16歳)

天才軍師「竹中半兵衛重治」の活躍により、「織田信長」との「新加納の戦い」に勝利。


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【1564年】(17歳)

「竹中半兵衛」が、「稲葉山城」を占拠。

「斎藤龍興」は、のちに「稲葉山城」の奪還に成功。

これ以降、美濃国の豪族たちが次々と織田家に寝返る。

 

【1565年】(18歳)

「中濃攻略戦」で「織田信長」に敗北し、美濃国の「中濃地方」を失う。

 

【1567年】(20歳)

「稲葉山城の戦い」

「美濃三人衆」が「織田信長」に寝返り、「稲葉山城」が信長によって落とされる。

「斎藤龍興」は「伊勢国・長島」へと逃亡。

 

【1568年】(21歳)

「織田信長」が「足利義昭」を連れて京都へ進軍(上洛)

 

【1569年】(22歳)

「本圀寺の変」勃発

「斎藤龍興」は、「本圀寺」にいた征夷大将軍「足利義昭」を、「三好三人衆」とともに襲撃。

「明智光秀」や「細川藤孝」の活躍により、「三好三人衆」「斎藤龍興」は敗退。

 

【1570年】(23歳)

「長島一向一揆」勃発。

このとき「斎藤龍興」も、大叔父「長井道利」とともに織田軍団と開戦。

「野田城の戦い」「福島城の戦い」に参戦。

「本願寺顕如」や「三好三人衆」とともに、織田軍団と交戦。


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【1571年】(24歳)

「延暦寺焼き討ち」

 

【1573年】(26歳)

8月、「刀根坂(とねざか)の戦い」

「斎藤龍興」が、朝倉家を攻撃していた織田軍団に討たれる。

享年26歳。

これにより、「斎藤家」の直系は滅亡。

 

【1632年】(87歳)

「斎藤龍興」には、「生存説」がある。

それによると、「稲葉山城」陥落とともに越中国(富山県)へと逃亡した「斎藤龍興」は、富山で病死。

享年「87」歳。

現在の「富山市」の「本誓寺」には、「斎藤龍興」のお墓があるとのことです。


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斎藤義龍がつかっていた「家紋」とは?

「斎藤義龍」は、「五三桐紋」という家紋を使用していました。

《五三桐》
「引用元ウィキペディアより」

もともと「斎藤家」は、義龍の父「斎藤道三」の時代に「二頭波紋」と「撫子紋(なでしこもん)」という家紋を使用していました。

《撫子紋・なでしこもん》
「引用元ウィキペディアより」

しかし、義龍は父「道三」を討ったあと、母方の「一色」姓を名乗っています。

 

そのため「斎藤家」の家紋を使わず、当時から広く使用されていた家紋「桐紋」をつかったと考えられます。

 

「一色家」は、「足利将軍家」の分家です。

 

もともと「一色家」の家紋は「足利将軍家」と同じ「二つ引両紋」。

 

義龍は「一色」を名乗ることを、征夷大将軍「足利義輝」にも認められているので、もしかすると「二つ引両」の家紋を使用していたかもしれません。

 

「斎藤義龍(高政)の家紋」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

斎藤義龍(高政)の家紋を画像付きで紹介!父・道三とは違う家紋を使っていた』の記事はコチラ

「足利将軍家」の家紋については、以下のリンク記事で、詳しく解説しております。

足利義輝の家紋を『画像』付きでご紹介!家紋の意味と由来も簡単解説 』の記事はコチラ

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「斎藤義龍(高政)」と「明智光秀」の【関係】について

「斎藤義龍」と「明智光秀」は、幼馴染であった可能性があります。

 

明智光秀は「義龍」の父「斎藤道三」に、近習としてつかえていた可能性が指摘されているのです。(諸説あり、斎藤道三の宿敵「土岐頼芸」につかえていたという説もある)

 

明智光秀が生まれた年は、諸説あるものの【1528年】といわれています。

 

斎藤義龍は、その1年前の【1527年】。

 

光秀は、若い頃、義龍の父「斎藤道三」の近習をつとめていたといわれています。

 

ということは、義龍と光秀は、若い頃から「友人関係」であったかもしれません。

 

2020年】の大河ドラマ「麒麟がくる」では、義龍と光秀は、「学友」として描かれています。

 

もしかすると、史実でも、2人は「幼馴染」で「学友・親友同士」だったかもしれません。

 

「斎藤義龍(高政)と明智光秀の関係」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『斎藤義龍(高政)と明智光秀はどういう関係?2人は親友同士だったのか』の記事はコチラ

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斎藤義龍の「父親」は誰?実は父は「斎藤道三」ではなかった

斎藤義龍の父親は、「斎藤道三」です。

 

しかし、一説によると「土岐頼芸(とき よりのり)」が実の父親だったともいわれています。

 

義龍の母「深芳野」は、もともと「土岐頼芸」の愛人でした。

 

しかし、「深芳野」は褒美として、「土岐頼芸」の部下だった「斎藤道三」へとくだされているのです。

 

「深芳野」は「斎藤道三」に下された翌年、「斎藤義龍」を出産しています。

 

ということは、「深芳野」が「斎藤道三」へと下されたとき、すでに「土岐頼芸」の子供を身ごもっていた可能性があるのです。

 

「道三」は、この事実を利用して、「斎藤義龍」を後継者として指名することで、義龍こそが、美濃国守護であった「土岐頼芸」の血を引く「正当な後継者」であることを主張します。

 

「斎藤義龍は、我が子ではない」という噂を利用したのです。

 

ところが義龍は、さらにこの噂を利用して、「土岐頼芸」を他国へ追放したカタキという名目で、父「斎藤道三」を討ち果たしてしまうのです。

 

おそらくですが、「斎藤義龍」は「道三」の実の子だと思います。

 

ところが、そのことを「政争」に利用し合って、最期は互いに殺し合ってしまったのです。

 

「斎藤道三」と「斎藤義龍」の親子関係については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。

【斎藤道三】息子・娘や妻など家族をまとめて紹介!マムシの呪いとは』の記事はコチラ

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なぜ「義龍」は父「道三」を裏切ったのか?

義龍は、父「道三」のやり方に反発した美濃国の豪族たちに、かつぎあげられて、父を裏切り殺害したと考えられています。

 

義龍は、「父である土岐頼芸を、斎藤道三が追放したため、その仇討ちをする」という大義名分で、「斎藤道三」を討ち果たしています。

 

しかし、実際には、別の理由で「道三」を討ったと考えられます。

 

実は「道三」は、美濃国の豪族たちから、とても嫌われていました。

 

そのため、美濃国の豪族たちは、道三のやり方を改めてもらうべく、息子の「義龍」を総大将にして、道三を討ち果たしたのです。

 

「武田信玄」の父「武田信虎」も、本拠地「甲斐国」の豪族たちに嫌われて、息子「信玄」に追い出されました。

 

義龍もまた、「信玄」のように、周囲の不満を受け止めて、父「道三」を討ったのだと考えられます。

 

「実の父・土岐頼芸の仇討ち」というのは、表向きの大義名分でしかなかったと思います。


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「義龍」の【死因と病名】

義龍の死因は「病死」です。

 

病名は「ハンセン病」であったという説があります。

 

義龍は、【35歳】という若さで急死しています。

 

その病名はハッキリとはしていませんが、「奇病」とだけ言われているのです。

 

「ハンセン病」とは、実際には「極めて感染力の弱い感染症」であるにもかかわらず、当時の日本において「感染力の強い感染症」であると、勘違いされた病気です。

 

症状は、「麻痺(まひ)」や「皮膚の崩れ」など。

 

義龍はこの「ハンセン病」で、亡くなったと考えられています。


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「義龍」の兄弟たちについて!どのような最期を遂げたのか?

義龍は、父「斎藤道三」に反旗を翻したとき、弟にあたる「孫四郎」と「喜平次」を殺害しています。

 

斎藤義龍には、他にも

 

  • 「斎藤利堯(としたか)」
  • 「斎藤利治(としはる)」

 

という2人の弟がいました。

 

この「斎藤利堯」と「斎藤利治」は、姉「帰蝶」をたよって、尾張国へ逃亡。

 

そして帰蝶の夫「織田信長」に仕えています。

 

弟「斎藤利治」は、【1582年】の「本能寺の変」で、「織田信長」の嫡子「織田信忠」とともに討ち死にしています。

 

兄「斎藤利堯」は、「本能寺の変」の翌年【1583年】の「賤ヶ岳の戦い」の後、静かに亡くなったと考えられています。

 

「斎藤利堯」は、信長の三男「織田信孝」が「羽柴秀吉」によって死に追いやられたあと、誰にも仕えずに、死んでいったのです。

 

「斎藤利治」は、信長とともに戦死。

 

「斎藤利堯」は、信長の息子「信孝」の死と同時に主君を持たなくなった。

 

道三の2人の息子達は、最期の最期まで、義兄「信長」に忠節を尽くしたのです。

 

また、「信長」の妻「帰蝶」がどうなったのかについては、諸説あり、謎につつまれています。

 

「斎藤義龍の弟たち」と「帰蝶」については、以下のリンク記事で、詳しく解説しております。

【斎藤道三】息子・娘や妻など家族をまとめて紹介!マムシの呪いとは』の記事はコチラ

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「義龍」の子供「斎藤龍興」とは、どんな人物なのか?

義龍の息子は「斎藤龍興」という人物です。

 

信長に「美濃国」から追い出された、「愚将」と評価されている人物です。

 

しかし「ルイス・フロイス」によると、斎藤龍興は、「とても優秀な人物」だったと評価されています。

 

どうやら「斎藤龍興」は、「ルイス・フロイス」に「キリスト教の布教を許した」のだとか。

 

そのため「ルイス・フロイス」も、「斎藤龍興」を好意的に記したのでしょう。

 

実際には、「龍興」は美濃国の豪族たちから次々と見放された人物です。

 

お世辞にも名将とは言えないと思います。

 

余談ですが、「斎藤龍興」の母「近江の方」は、北近江の大名「浅井久政」の妹(または姉)であると考えられています。

 

ということは、「浅井久政」の息子「浅井長政」は、「斎藤龍興」の「いとこ」ということになります。

 

「浅井長政」は、織田信長の妹「お市の方」の夫です。

 

「浅井長政」と「お市の方」については、以下のリンク記事で、詳しく解説しております。

浅井長政のすべてを徹底解説!小谷城や[お市の方]との仲など完全網羅』の記事はコチラ
お市の方のすべてを徹底解説!家系図や[織田信長]との関係を完全網羅』の記事はコチラ

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「義龍」と「帰蝶」の関係

「斎藤義龍」と「帰蝶」は、異母兄妹です。

 

二人とも「斎藤道三」の子供ではありますが、母親が違います。

  • 「斎藤義龍」の母は、道三の側室「深芳野」。
  • 「帰蝶」の母は、道三の正室「小見の方」。

 

「小見の方」は、明智光秀の父親の妹、つまり光秀の「叔母(おば)」であると考えられています。

 

この「帰蝶の母親が、正室であった」ということから、のちに帰蝶は「美濃国の正当な後継者」とみられるようになります。

 

織田信長は、「帰蝶」を大切にあつかいます。

 

「帰蝶」を大切にすることで、自らの「美濃国支配の正当性」を主張しようとしたのです。

 

「帰蝶」の夫であるということは、それだけで、「美濃国主」という身分の正当性を主張できるのですから。

 

信長は、側室の子であった長男「織田信忠」を、「帰蝶」の養子としています。

 

そうすることで、「美濃国支配の正当性」を「信忠」に持たせ、美濃国をゆずりわたしているのです。

 

帰蝶は、異母兄「斎藤義龍」が、父「道三」を討ったことに反発し、敵対関係にあったと考えられます。

 

1567年】、信長が「美濃国」を支配したことで、帰蝶は信長に嫁いでから実に【18年】ぶりに、ふるさとの「稲葉山城」へ帰還したのです。


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義龍の別名「高政」や「はんか」について

「斎藤義龍」は、「義龍」と名乗る前、「高政」または「范可(はんか)」と名乗っていました。

 

斎藤義龍の幼名は「豊太丸」

 

そののちに、父「斎藤道三(利政)」から「政」の一字をもらって「斎藤高政」と名乗っています。

 

またその後、「斎藤高政」は、父「道三」を討ち果たすと、母方の姓である「一色」を名乗るようになります。

 

おそらくこのとき、父からもらった「政」という字のついた「高政」という名前を捨てて、「義龍」と名乗ったのでしょう。

 

ちなみに「丹後一色家」では、「義」という一文字が通字として、歴代当主の名前に付けられています。

 

「義龍」の「義」の文字も、この「一色家」の通字から来ているのかもしれません。

 

義龍は、のちに「范可(はんか)」とも名乗っています。

 

「范可」とは、古代中国の人物名です。

 

この「范可」という人物、実は「義龍」と同じように、「親を殺害した人物」なのです。

 

また、義龍は亡くなる直前に、出家して「玄龍」と名乗っています。

 

義龍の使った名前をまとめますと、

  • 「豊太丸」
  • 「斎藤高政」
  • 「一色義龍」
  • 「范可」
  • 「玄龍」

となります。

 

しかし、義龍の宿敵「織田信長」は、義龍が名門「一色家」の姓を名乗ることを、あくまでも認めなかったため、今でも「一色義龍」ではなく、「斎藤義龍」という名前で知られています。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「斎藤義龍(高政)」とは、「斎藤道三」の息子で、「美濃国主」だった戦国武将

 

2,斎藤義龍は、「五三桐紋」を使用していた。父「道三」は「二頭波紋」という家紋を使用していたが、義龍は父の家紋を継承しなかった

 

3,義龍(高政)と明智光秀は、年齢が近かった可能性が高い。そのため、幼馴染で親友同士であった可能性がある。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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