「織田信長が自害に使った刀は何だったのか?」——本能寺の変で最期を迎えた信長ですが、その手に握られていた刀の名前は、実は歴史ファンの間でも意見が分かれる謎の一つです。有力候補として挙げられるのが「実休光忠(じっきゅうみつただ)」と「薬研藤四郎(やげんとうしろう)」の2振り。しかし、両刀とも本能寺の炎の中で焼失したとされ、決定的な証拠は残されていません。
本記事では、織田信長 自害 刀という視点から、本能寺の変の真相・信長の愛刀18振りの詳細・現存する刀の所蔵先までを、史料と現地取材をもとに徹底解説します。信長の最期に何が起きたのか、消えた名刀たちはどこへ行ったのか——刀に秘められた戦国最大のミステリーを一緒に紐解いていきましょう。
この記事を読めば、「実休光忠と薬研藤四郎はどちらが自害の刀か」「愛刀18振りの現在地」「本能寺で消えた3振りの行方」がすべてわかります。本能寺の変の全体像はこちらと合わせて読むと、より深く理解できます。
織田信長が自害に使った刀は何?本能寺の変の真相

「Wikipediaコモンズ」より引用
1582年6月2日未明、京都・本能寺で織田信長は明智光秀の謀反に遭い、自害しました。このとき信長が使った刀については、複数の史料に異なる記述があり、確定はしていません。有力な候補は「実休光忠」と「薬研藤四郎」の2振りで、いずれも信長が生前に愛用していた名刀です。ここでは、それぞれの刀の来歴と、自害時の状況を史料から読み解いていきます。
有力候補①「実休光忠」——三好実休から伝わった名刀
実休光忠(じっきゅうみつただ)は、鎌倉時代の名工・備前長船光忠(おさふねみつただ)の作とされる太刀です。もともとは阿波(現在の徳島県)の戦国大名・三好実休(みよしじっきゅう)が所有していたことから、この名で呼ばれるようになりました。1562年の久米田の戦いで実休が討死した後、刀は流転し、最終的に織田信長の手に渡ります。
『信長公記』によれば、信長はこの実休光忠を数ある愛刀の中でも特に気に入っており、常に身近に置いていたと記されています。本能寺の変の際、信長がまず手に取ったのがこの実休光忠であったとする説が有力で、この刀で光秀軍の兵と斬り合ったとされます。しかし、刀身が折れた、あるいは肘に矢を受けて戦闘不能になったため、最終的な自害には別の刀が使われた可能性が指摘されています。
実休光忠は本能寺の焼失とともに一度は行方不明となりましたが、後に焼刀(やけがたな)として発見され、豊臣秀吉が焼き直しを命じたと伝わります。現在は所在不明で、「消えた3振り」の一つに数えられています。
実休光忠は信長が最も愛した太刀の一つ。本能寺の変で最初に手に取ったが、本能寺の炎で焼失したとされる。
有力候補②「薬研藤四郎」——自害用の短刀として使われた説
薬研藤四郎(やげんとうしろう)は、鎌倉時代の名工・粟田口吉光(あわたぐちよしみつ)作の短刀です。畠山政長(はたけやままさなが)が自害しようとしてこの短刀で腹を刺したところ、なぜか刺さらず、投げ捨てた先の薬研(やげん・薬をすりつぶす鉄製の道具)を貫いた——という逸話から「薬研藤四郎」と名付けられました。以来、「主君を守る不思議な刀」として珍重されます。
信長がこの短刀を入手した経緯は、松永久秀(まつながひさひで)が献上したとも、足利義昭(あしかがよしあき)から贈られたとも伝わりますが、確定的な史料はありません。ただ、信長が生涯にわたり肌身離さず所持していたことは多くの記録に残っています。
本能寺の変では、太刀で戦った後、最終的な自害の際にこの薬研藤四郎が使われたとする説が有力です。短刀は切腹に適した長さ(約25.1cm=8寸3分)であり、信長が「殿中作法」に則って自害した可能性が高いためです。ただしこの短刀もまた、本能寺の焼失とともに行方不明となりました。
本能寺の炎で消えた「自害の刀」——現地に立って感じたこと

私が実際に京都・中京区にある本能寺跡地(現在の本能寺は寺町通に移転)を訪れたとき、意外なほど小さな石碑が住宅街の一角にひっそりと建っているだけで、日本史を変えた大事件の舞台とは思えない静けさに包まれていました。碑の周囲には自転車が停められ、近所の方が犬の散歩をしている光景を目にしたとき、「英雄の最期の地」という重厚なイメージとの落差に、かえって歴史のリアルさを感じたのを覚えています。
この場所で、信長は最愛の刀たちとともに炎に消えました。薬研藤四郎と実休光忠、そのどちらが最期の刀だったにせよ、両刀ともに主君と運命を共にしたことは間違いありません。当時の記録『日々記(にちにちき)』には、光秀の家臣たちが焼け跡から信長の遺骸を探したが見つけられなかったとあり、刀もまた同様に灰の中に埋もれた可能性が高いのです。
ただ後年、秀吉が焼け跡から焼刀を回収し、京都の刀工・埋忠明寿(うめただみょうじゅ)に焼き直しを命じたという記録が残っています。この焼き直された刀が本当に実休光忠や薬研藤四郎だったのか——今も研究者の議論が続く歴史ミステリーです。ちなみに、日本刀は一度でも火災で焼けてしまうと、切れなくなるといわれているようです。焼けてしまった刀に刃を再びつける行為を「付け焼き刃」といいます。その場しのぎのことを「付け焼き刃」といいますが、その語源でしょう。
織田信長の愛刀一覧|現存する名刀と行方不明の3振り
織田信長の愛刀は、記録に残るだけでも18振り以上あります。天下人として名だたる名刀を蒐集(しゅうしゅう)した信長は、単なる収集家ではなく、部下への恩賞や外交の贈答品としても刀を巧みに活用しました。ここでは織田信長 愛刀の代表的な名品をカテゴリ別に整理し、それぞれの現在地までを解説していきます。
天下五剣クラス|童子切安綱・不動国行など国宝級の名刀
信長の愛刀の中でも最高峰に位置するのが、「天下五剣」の一つ童子切安綱(どうじぎりやすつな)です。平安時代の刀工・大原安綱の作で、源頼光(みなもとのよりみつ)が大江山の鬼・酒呑童子(しゅてんどうじ)を斬ったという伝説を持ちます。信長→秀吉→家康と天下人の間で受け継がれ、現在は東京国立博物館が所蔵する国宝です。
もう一振り、信長が特に愛したのが不動国行(ふどうくにゆき)です。鎌倉時代の来国行(らいくにゆき)作の太刀で、刀身に不動明王の梵字が刻まれていることから、この名がつきました。信長は本能寺の変の少し前、この不動国行を近臣の森蘭丸(もりらんまる)に贈ったとされ、そのため本能寺で焼失を免れました。現在も個人蔵で現存し、重要文化財に指定されています。
この他、へし切長谷部(はせべ)——観内(かんない)という茶坊主が信長の怒りを買って膳棚の下に隠れたところ、信長がその刀で棚ごと押し切って斬った、という凄まじい逸話を持つ国宝——も信長の代表的な愛刀です。後に黒田官兵衛(くろだかんべえ)に下賜され、現在は福岡市博物館に所蔵されています。
戦利品・献上品として集めた名刀たち|宗三左文字・義元左文字
信長は、戦で勝利するたびに敗者の名刀を接収するのが常でした。その代表格が宗三左文字(そうざさもんじ)、別名義元左文字(よしもとさもんじ)です。もとは三好宗三(みよしそうざ)の刀で、武田信虎(たけだのぶとら)、今川義元(いまがわよしもと)を経て、1560年の桶狭間の戦いで義元を討ち取った信長のものとなりました。

「Wikipediaコモンズ」より引用
信長はこの左文字の茎(なかご・刀の柄に隠れる部分)に「永禄三年五月十九日義元討捕刀 織田尾張守信長」と金象嵌(きんぞうがん)で刻ませました。今川義元を討ち取った記念として、自らの武功を刀に永遠に刻み込んだのです。この刀もまた秀吉、家康へと受け継がれ、現在は京都・建勲(けんくん)神社に所蔵されています。余談ですが、大河ドラマ「葵〜徳川三代〜」の48話「さらば秀忠」において、徳川秀忠から徳川家光へ、三本の刀が与えられるシーンがあります。徳川家康が関ヶ原と大坂の陣でつかった刀であり、秀忠が三本の刀の名前を口にするのですが、その一つが「三好左文字」です。この三好左文字こそ「宗三左文字」の別名です。
また、松永久秀が信長に献上した不動行光(ふどうゆきみつ)や、朝廷から下賜された鉋切長光(かんなぎりながみつ)など、信長は献上品としても多くの名刀を得ています。これらは信長にとって単なる武器ではなく、天下人としての権威の象徴でもあったのです。
本能寺で消えた3振り|実休光忠・薬研藤四郎・不動国行(異説)
信長の愛刀18振りのうち、本能寺の変で失われたと確定的に伝わるのは実休光忠と薬研藤四郎の2振りです。加えて、一部の史料には「不動国行も本能寺で焼失した」との記述があり、これを含めると計3振りが炎に消えたことになります。ただし不動国行については、森蘭丸に贈られた後に現存しているため、焼失説は誤伝の可能性が高いとされます。
興味深いのは、消えた刀のうち実休光忠については、後年になって秀吉が焼け跡から回収し、焼き直したという記録が『太閤記』に残っている点です。焼き直された刀は「新刀」として大坂城に収められましたが、大坂夏の陣(1615年)で再び焼失。今度こそ完全に姿を消したとされます。
薬研藤四郎については、本能寺焼失後の記録が一切なく、こちらは完全な行方不明。ただし2016年、京都の粟田神社(あわたじんじゃ)が「薬研藤四郎の再現刀」を打刀職人に依頼して製作し、話題となりました。オリジナルは失われても、名刀の記憶は現代へと受け継がれているのです。
織田信長は本当に自害したのか?切腹・焼死・生存説の検証
ここまで織田信長 自害 刀を軸に語ってきましたが、そもそも「信長は本当に自害したのか?」という根本的な疑問も、歴史学者の間で長らく議論されてきました。というのも、本能寺の焼け跡から信長の遺体は発見されず、当時の記録には自害・焼死・生存説など複数の説が併存しているためです。ここでは織田信長 切腹 刀の史料的根拠と、生存説の検証を行います。
『信長公記』が伝える自害の詳細——太田牛一の記述
信長の家臣・太田牛一(おおたぎゅういち)が著した『信長公記(しんちょうこうき)』は、信長の生涯を最も詳細に記録した一次史料に近い書物です。この中で本能寺の変の場面には、次のような描写があります——「信長、初めには御弓を取り合い、二・三つ遊ばし候えば、何れも時刻到来にて、鑓(やり)にて御肘に手負い、引き退き、内へ入り、内よりも御南所の口を差し(閉め)、無情に御腹めされ候」。
つまり、信長はまず弓で応戦し、次に槍を取って戦うも肘に傷を負い、館の奥に退いて自ら戸を閉め、切腹したというのです。「無情に御腹めされ候」の一節は、信長が確かに切腹して自害したことを示す最も信頼性の高い記述とされています。切腹の際に使われたのが薬研藤四郎説の根拠は、この場面の直前まで信長が短刀を握っていたことを暗示する記述にあります。
ただし太田牛一自身は本能寺にいたわけではなく、生存者の証言をもとに後年執筆しています。そのため細部には脚色や誤伝の可能性があり、「切腹」という描写が事実か象徴的表現かは、今も議論の余地があるのです。
焼死説・遺体消失説——なぜ光秀は信長の首を見つけられなかったか
明智光秀にとって、信長の首を確保することは謀反成功の絶対条件でした。首なくして「信長を討った」という証明ができず、諸大名の帰順も得られないからです。にもかかわらず、光秀軍が本能寺の焼け跡を隅々まで捜索しても、信長の遺体は発見されませんでした。

「Wikipediaコモンズ」より引用
この事実から、次の3つの説が提唱されています。①完全焼失説:本能寺の炎が高温だったため、遺体が骨まで灰化した。②側近持ち去り説:森蘭丸ら側近が信長の首を持って脱出し、どこかに埋葬した。③生存説:信長は密かに脱出し、別の場所で生き延びた。このうち①が最も自然な解釈ですが、当時の木造建築で人骨が完全に灰化するには数千度の高温が必要とされ、物理的に困難との反論もあります。
私が本能寺跡地を訪れた際、隣接する場所に義経堂(よしつねどう・源義経を祀る小さな祠)や、幕末の板垣退助遭難地の碑が並んでいることに気づきました。日本史上の英雄たちが、それぞれ数百年の時を隔てて、この京都のわずか数百メートル四方の中で最期を迎えていた——そんな歴史の凝縮を感じつつ、信長の遺体が発見されなかった謎は、この土地が持つ独特の「消えた英雄伝説」の系譜の中に位置づけられるのかもしれない、と考えたのを覚えています。
信長生存説の系譜|阿弥陀寺・大徳寺・伊賀越え説の検証
信長生存説の中でも最も有名なのが、阿弥陀寺(あみだじ)清玉上人(せいぎょくしょうにん)による遺骨回収説です。京都・上京区の阿弥陀寺に伝わる『信長公阿弥陀寺由緒之記録』によれば、信長と親交のあった清玉上人が本能寺の変の最中に駆けつけ、信長の遺骨を密かに回収して阿弥陀寺に埋葬したというのです。実際、阿弥陀寺には現在も「織田信長公本廟」があり、毎年6月2日に信長忌が営まれています。
また、大徳寺総見院(だいとくじそうけんいん)にも信長の墓があり、こちらは秀吉が建立したもの。ただし埋葬されているのは信長の遺骸ではなく、香木で作った等身大の像とされ、遺体自体は発見されていません。
より大胆な説として、「信長は本能寺を脱出し、伊賀を越えて逃げ延びた」という伊賀越え生存説もあります。この説は江戸時代の講談で人気を博しましたが、一次史料的裏付けは皆無です。徳川家康が同じ時期に「伊賀越え」で堺から三河へ帰還したことと混同された民間伝承と考えられます。総じて、生存説はロマンあふれる仮説ではあるものの、学術的には自害説が定説です。
本能寺の変の後、信長の愛刀はどこへ渡ったのか
本能寺で消えた3振りを除く信長の愛刀15振りは、その後どのような運命をたどったのでしょうか。信長亡き後、天下は豊臣秀吉、そして徳川家康へと移り、それに伴って名刀たちも新たな主のもとへと渡っていきました。ここでは、信長の愛刀たちの「その後」を追いかけていきます。
個人的な話ですが、私は秀吉が本能寺を跡地から寺町通へ移転させた歴史的経緯に、少し違和感を抱いています。「信長を弔う」名目で建て直したのに、なぜ元の場所には残さなかったのか——おそらく、信長の記憶を意図的に「更地」にすることで、自分こそが天下人だという新しい物語を上書きしたかったのではないか、そう考えると、愛刀の継承もまた同じ権力の演出だったように思えるのです。
秀吉が引き継いだ名刀|宗三左文字・一期一振・大典太光世
本能寺の変から11日後の1582年6月13日、山崎の戦いで明智光秀を討った豊臣秀吉は、事実上の信長後継者として振る舞い始めます。この時、秀吉が真っ先に確保しようとしたのが信長の愛刀たちでした。刀は権力の象徴であり、これを継承することは「信長の正統な後継者」であることを世に示す最強のアピールになったのです。
秀吉が引き継いだ代表的な名刀が宗三左文字です。桶狭間の戦いで信長が今川義元から奪ったこの刀は、金象嵌銘とともに秀吉のもとに渡り、後に家康へ、そして家康から尾張徳川家へと受け継がれていきました。「天下人の証」として3代の天下人を渡り歩いた稀有な名刀と言えます。
また、粟田口吉光作の名短刀一期一振(いちごひとふり)や、天下五剣の一つ大典太光世(おおでんたみつよ)など、信長蒐集の名刀の多くが秀吉の刀蔵に納められました。秀吉は大坂城内に「御腰物蔵(おこしものぐら)」を設け、これらを大切に保管したと『太閤記』は伝えています。
家康・徳川家に伝わった刀|物吉貞宗・鯰尾藤四郎
秀吉の死後、1600年の関ヶ原の戦いを経て天下人となった徳川家康は、大坂の陣で豊臣家を滅ぼした後、大坂城の刀蔵から信長・秀吉の愛刀を大量に接収しました。この時、家康の手に渡った信長ゆかりの刀のひとつが物吉貞宗(ものよしさだむね)です。相州伝の名工・貞宗(さだむね)作の短刀で、家康はこれを「持つと必ず戦に勝つ」縁起物として肌身離さず所持したと伝わります。

もう一振り、粟田口吉光作の鯰尾藤四郎(なまずおとうしろう)も家康のもとへ渡りました。もとは信長の家臣・織田信雄(のぶかつ)が所有していましたが、大坂夏の陣の混乱の中で焼身(やけみ)となり、越前康継(えちぜんやすつぐ)が焼き直したものです。信長→信雄→秀頼→家康と4人の天下人・大名を渡り歩いた数奇な運命の刀で、現在は徳川美術館に所蔵されています。
徳川将軍家の刀蔵は江戸城内に置かれ、代々の将軍が信長・秀吉ゆかりの刀を大切に保管しました。明治維新後、これらの名刀は徳川宗家や尾張・紀州・水戸の御三家分家に分散し、現在は徳川美術館や東京国立博物館などに所蔵されています。
大名家に下賜された刀|へし切長谷部・不動行光の行方
信長は生前から、功績のあった家臣に自らの愛刀を惜しみなく下賜していました。その代表例がへし切長谷部で、黒田官兵衛(如水)がその智謀を評価されて拝領し、以後は黒田家の家宝として代々受け継がれました。福岡藩主・黒田家に伝わったこの国宝は、明治以降も黒田家が所蔵し、現在は福岡市博物館に寄贈されています。
信長の最後の言葉「是非に及ばず」で有名なこの覚悟の背景には、生前から「刀は家臣を活かすためにある」という信長独特の合理主義があったと考えられます。松永久秀が信長に献上した不動行光もまた、後に森蘭丸に下賜され、蘭丸が本能寺で信長と運命を共にする際、事前に実家に送っていたことで焼失を免れました。現在は個人蔵で現存しています。

「Wikipediaコモンズ」より引用
他にも、鉋切長光は前田利家に、圧切長谷部の写しは柴田勝家に下賜されるなど、信長の愛刀は戦国大名たちの家宝として日本全国に散らばっていきました。これらは信長の家臣団の広がりそのものを刀の系譜として現代に伝えているのです。
現存する織田信長の刀|所蔵先と見に行ける博物館
信長の愛刀のうち、現在も所在が確認され、実際に見ることができる刀は約15振り。うち国宝指定は5振り、重要文化財指定は7振りにのぼります。ここでは、信長ゆかりの名刀を実際に鑑賞できる主要な博物館・美術館を紹介します。
東京国立博物館・徳川美術館|国宝級の信長刀を所蔵
信長の愛刀を最も多く所蔵しているのが、東京・上野の東京国立博物館(トーハク)です。天下五剣の一つ童子切安綱をはじめ、信長ゆかりの名刀数振りを常設もしくは特別展で公開しています。訪問前に公式サイトで展示スケジュールを確認するのがおすすめです。
もう一つの重要スポットが、名古屋市の徳川美術館。尾張徳川家に伝わった鯰尾藤四郎や物吉貞宗など、家康経由で伝来した信長ゆかりの短刀を多数所蔵しています。特に「名物三作(みつさく)」と呼ばれる粟田口吉光・郷義弘・正宗の名刀群は、信長・秀吉・家康の3人が愛した名品として一括展示されることがあり、刀剣ファンにはたまらない機会となります。
建勲神社・福岡市博物館|地方で会える信長ゆかりの名刀
京都・北区の建勲(けんくん)神社は、明治天皇が信長の功績を讃えて創建した神社で、宗三左文字(義元左文字)を所蔵しています。桶狭間の勝利記念として金象嵌銘が刻まれたこの名刀は、信長の武功の象徴として、年に数回の特別公開で拝観可能です。
そして九州・福岡市の福岡市博物館には、国宝へし切長谷部が所蔵されています。黒田家に伝来したこの太刀は、年に数回のペースで公開され、そのたびに全国から刀剣ファンが集います。私自身、これら複数の博物館を訪ね歩いてきましたが、信長の愛刀は日本各地に散らばっているため、「信長刀めぐりの旅」を数年計画で組むと、旅行そのものが日本史をたどる贅沢な体験になります。刀をきっかけに全国を巡ると、それぞれの土地の歴史や大名家の文化まで見えてくるのが最大の魅力です。
その他、佐野美術館(静岡・三島)、日本刀剣博物館(東京・両国)、大阪歴史博物館なども不定期で信長ゆかりの刀を展示することがあり、公式サイトのチェックが欠かせません。
信長ゆかりの映像作品を自宅で楽しみたい方には、U-NEXTでの視聴もおすすめです。大河ドラマ「麒麟がくる」は本能寺の変を明智光秀視点で描いた傑作で、信長最期の刀の場面も緻密に再現されています。映画「本能寺ホテル」や大河「信長 KING OF ZIPANGU」も配信中です。
※以下はU-NEXTの広告(PR)です📌 この記事で紹介した作品をすぐに観るなら
「麒麟がくる」「本能寺ホテル」「信長 KING OF ZIPANGU」など信長関連作品が見放題。初回31日間無料トライアルで、信長の生涯を映像でじっくり楽しめます。※配信状況は変動する場合があります。
織田信長の自害と刀に関するよくある質問(FAQ)
Q1. 織田信長が自害に使った刀は結局どれですか?
A. 最有力とされるのは短刀薬研藤四郎で、切腹の作法に適した長さ約21.6cmの粟田口吉光作の名短刀です。ただし、光秀軍と戦った際に握っていた太刀は実休光忠だったとされます。両刀とも本能寺の炎で焼失し、決定的な証拠となる史料は現存しません。『信長公記』の記述から、太刀で戦った後、最終的な自害には短刀を用いたと解釈されるのが定説です。
Q2. 織田信長は本当に切腹したのですか?
A. 家臣・太田牛一の『信長公記』には「無情に御腹めされ候」と明記されており、切腹による自害が学術的な定説です。ただし遺体が発見されなかったため、焼死説・脱出生存説など複数の異説も存在します。当時の武士の作法として、追い詰められた際の切腹は名誉ある最期とされていたため、信長がその作法に則って自害した可能性が最も高いと考えられています。
Q3. 童子切安綱の持ち主は誰でしたか?
A. 童子切安綱は平安時代の刀工・大原安綱の作で、源頼光が酒呑童子を斬った伝説を持つ天下五剣の一つです。信長→豊臣秀吉→徳川家康と天下人の間で受け継がれ、その後は越前松平家に伝来しました。明治以降は徳川宗家を経て、現在は東京国立博物館が所蔵する国宝となっています。特別展で年数回公開されることがあります。
Q4. へし切長谷部はどこで見られますか?
A. 国宝へし切長谷部は、福岡県福岡市博物館に所蔵されています。信長から黒田官兵衛に下賜され、以後は福岡藩黒田家の家宝として代々受け継がれた名刀です。刀身は南北朝時代の刀工・長谷部国重(はせべくにしげ)作で、常設ではなく年に数回の特別公開のみとなるため、事前に公式サイトで公開スケジュールを確認してから訪問することをおすすめします。
Q5. 本能寺で自害したのは信長だけですか?
A. いいえ、信長のほかに小姓の森蘭丸(森成利)とその弟の坊丸・力丸、さらに近臣数十名が本能寺で命を落としました。信長の長男・織田信忠(のぶただ)も同時に襲撃を受け、二条御所で自害しています。特に森蘭丸は信長を最後まで守り、槍を手に光秀軍と戦って討死しました。この日、本能寺と二条御所を合わせて100名以上の織田家の人々が犠牲になったと『信長公記』は伝えています。
関連記事として、織田信長は何をした人か?もあわせてご覧ください。
まとめ|織田信長の自害と刀が語る戦国最大のミステリー
本記事では織田信長 自害 刀をテーマに、本能寺の変の真相と信長の愛刀18振りの行方を追いかけてきました。最後に要点を整理します。
- 信長が自害に使った刀の最有力候補は薬研藤四郎(短刀)と実休光忠(太刀)の2振り。両刀とも本能寺の炎で焼失した。
- 『信長公記』は信長が切腹して自害したことを明記しており、学術的定説となっている。
- 信長の愛刀は記録上18振り以上、うち15振りが現存し全国の博物館に所蔵されている。
- 宗三左文字・童子切安綱・へし切長谷部など国宝級の名刀は、秀吉・家康を経て現代まで伝来した。
- 阿弥陀寺・大徳寺・伊賀越えなどの生存説は民間伝承であり、学術的裏付けはない。
- 信長の愛刀は東京国立博物館・徳川美術館・建勲神社・福岡市博物館などで実物を鑑賞できる。
信長が最期に握った刀の謎は、今も歴史学者と刀剣ファンの心を捉えて離しません。本能寺の焼け跡に消えた2振りの名刀と、現存する15振りの愛刀たち——それぞれが天下人・織田信長の生き様を今に伝える貴重な文化遺産です。ぜひ実物を博物館で鑑賞し、戦国最大のミステリーに思いを馳せてみてください。

コメント