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レキシル史郎|歴史専門の調査・編集ライター/大河ドラマ研究家/経営者視点の歴史分析
歴史学者ではないが、一次史料・学術書を徹底調査し歴史をわかりやすく整理。大河ドラマほぼ全作品の視聴経験をもとに史実と演出の違いを分析。経営経験から歴史上の決断を現代ビジネスに接続する解説が得意。大阪城・名古屋城・岐阜城・犬山城・関ヶ原・比叡山延暦寺等に複数回訪問、京都市各所にも何度も訪問。
浅井長政の頭蓋骨を、織田信長が髑髏の盃にしたという逸話は有名ですが、結論からいえば「盃にした」という記述は信憑性の高い一次史料『信長公記』には存在しません。信長公記に記されているのは、長政・久政・朝倉義景の頭蓋骨に漆を塗り金箔で装飾する「薄濃」を施して宴会で披露した、ということです。「盃にした」とするエピソードは、江戸時代の軍記物『浅井三代記』や司馬遼太郎の小説『国盗り物語』を通じて広まった可能性が高いとされています。
この記事では、浅井長政の頭蓋骨と髑髏杯について、信長公記と浅井三代記の記述を比較しながら、嘘か本当かを含めてくわしく解説します。2026年放送の大河ドラマ「豊臣兄弟!」で中島歩さんが演じる浅井長政にも触れながら、諸説を公平に整理していきます。

引用元「Wikipediaコモンズ」より
浅井長政の頭蓋骨は本当に盃にされたのか?【結論】
織田信長が義弟・浅井長政の頭蓋骨を盃(グラス)に加工したという逸話は広く知られていますが、一次史料『信長公記』にそのような記述はありません。

「Wikipediaコモンズ」より引用
信長公記に記されているのは、天正2年(1574年)の正月に、信長が浅井長政・浅井久政・朝倉義景の三名の頭蓋骨に「薄濃」(漆を塗って金箔を貼る装飾)を施し、宴会の席で重臣たちに披露したという内容です。
つまり、金箔を貼って披露したのは史実として確認できますが、盃に加工して酒を飲んだという記述は、信長公記には見当たりません。
とはいえ、義理の弟である浅井長政の頭蓋骨に金箔を貼り、宴会で披露したこと自体は、現代の感覚からすれば十分に衝撃的な行為といえるでしょう。
この浅井長政の娘たちは、のちに豊臣家・徳川家へと嫁ぎ、日本の歴史を大きく動かしていきます。そして浅井長政の血筋は、現代の天皇家にまで受け継がれることになるのです。
では、髑髏杯のエピソードはどのようにして生まれ、広まったのでしょうか。まずは逸話の全体像を整理していきましょう。
浅井長政の髑髏杯の逸話・エピソードを時系列で解説
織田信長が浅井長政の頭蓋骨を加工し、盃にしたというエピソードは、戦国時代の逸話の中でもとくに有名なものの一つです。まずはその逸話の全体像を、時系列で確認しましょう。
浅井長政と朝倉義景の関係:なぜ信長を裏切ったのか
浅井長政が信長を裏切った背景を理解するには、浅井家と朝倉義景の関係を知る必要があります。近年の研究では、浅井家は朝倉家に対して従属的な関係にあったとする見解が有力になりつつあります。かつては「対等な同盟関係」とされていましたが、浅井家が北近江の国衆として朝倉家の影響下にあったことを示す史料が注目されています。
元亀元年(1570年)、越前国の朝倉義景を攻撃するため出陣した織田信長に対し、義弟であるはずの浅井長政が背後から攻撃を仕掛けました。これがいわゆる「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる撤退戦です。信長は命からがら京へと退却しています。

「Wikipediaコモンズ」より引用
なぜ長政は、妻・お市の方の兄である信長を裏切ってまで、朝倉側についたのでしょうか。『浅井三代記』には「信長が朝倉を攻めないという約束を破ったから」と記されていますが、これは後世の創作の可能性があるとされています。近年の研究では、浅井家と朝倉家の主従に近い関係性そのものが裏切りの主因であったとする説が注目されています。
浅井長政・朝倉義景の滅亡から髑髏杯の逸話へ
天正元年(1573年)、織田信長は朝倉義景と浅井長政、さらに長政の父・浅井久政を相次いで滅ぼすことに成功しました。
そして天正2年(1574年)の正月の宴会で、信長は朝倉義景・浅井長政・浅井久政の三名の頭蓋骨を盃にし、明智光秀など嫌がる部下たちに無理やり酒を飲ませた――というのが、広く知られている逸話です。
しかし、このエピソードの大部分は後世の創作である可能性が高いとされています。信長公記に記されている内容と、江戸時代以降に広まった逸話には大きな隔たりがあるのです。
ここで、浅井長政と髑髏杯にまつわる出来事を年表で整理しておきましょう。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1570年(元亀元年) | 金ヶ崎の退き口:浅井長政が信長を裏切り、背後から攻撃 |
| 1570年(元亀元年) | 姉川の戦い:織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍に勝利 |
| 1570年(元亀元年) | 志賀の陣:浅井・朝倉・本願寺などに包囲され、信長が窮地に |
| 1573年(天正元年) | 朝倉義景が親族・朝倉景鏡の裏切りにより自害 |
| 1573年(天正元年) | 浅井久政が小谷城・小丸で自害 |
| 1573年(天正元年)9月1日 | 浅井長政が小谷城・本丸で自害(享年29) |
| 1574年(天正2年)正月 | 信長が三名の頭蓋骨に薄濃を施し、岐阜城の宴会で披露(信長公記) |
| 江戸時代 | 『浅井三代記』に「髑髏の盃で酒を飲んだ」という記述が登場 |
年表で整理すると、信長公記に書かれた「薄濃の披露」と、後世に広まった「髑髏杯」の逸話は、明確に区別すべきものであることがわかります。では次に、信長公記の原文に基づいて、実際には何が記されていたのかを確認しましょう。
信長公記に記された薄濃(はくだみ)の記述とは
「薄濃(はくだみ)」とはどういう意味ですか?
薄濃(はくだみ)とは、頭蓋骨などに漆を塗った上で金粉や金箔を施す装飾技法のことです。「箔濃」とも表記されます。現代でいえば、金の漆塗り加工に近い工芸的な処理といえます。
信長公記には以下のような記述があります(出典:国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の信長公記を参照)。
天正2年(1574年)の正月、京都周辺にいた織田家の家臣団は、岐阜城へ年賀の挨拶のために集合した。このとき織田信長は祝いの宴会を開き、家臣たちは祝賀の酒に酔いしれた。
宴会も終わり、織田家に仕えてそれほど長くない新参の家来たちが退出すると、信長は気心の知れた重臣たちや馬廻衆(親衛隊)に対して、珍しい代物を披露した。
それは薄濃にされた朝倉義景・浅井長政・浅井久政の髑髏であった。それを見た信長の家来たちは、めでたいと言って歌い踊った。
信長公記には「盃にした」とは書かれていない
注目すべき点は、信長公記には「頭蓋骨で盃をつくった」「髑髏の盃で酒を飲んだ」という記述がまったく存在しないことです。
信長公記を記した太田牛一は、織田信長に仕えた右筆(秘書のような役職)であり、緻密な取材と記録に基づいて執筆したとされています。信長公記は信憑性の高い一級史料として、多くの歴史研究者に重視されています。
その信長公記に書かれているのは、あくまで「薄濃にした髑髏を披露し、家臣たちが歌い踊った」という内容に留まります。盃として使用したという記述は、後世に付け加えられたものである可能性が高いのです。
信長公記(太田牛一著・16世紀後半成立):薄濃にした髑髏を宴会で「披露した」と記述。盃にしたとは書かれていない。
浅井三代記(江戸時代成立・著者不詳):信長が髑髏を盃に加工し、酒を飲んだと記述。ただし浅井三代記は信憑性に乏しい軍記物とされ、史料的価値は低いと見なされている。
このように、一次史料と後世の軍記物では記述内容に大きな差があります。どちらを信じるかは読者の判断ですが、史料の信頼度という観点では信長公記の記述を重視すべきでしょう。
では、なぜ「髑髏の盃で酒を飲んだ」という話がこれほどまでに広まったのでしょうか。その原因を探っていきましょう。
なぜ「髑髏の盃で酒を飲んだ」という作り話が広まったのか
織田信長が義弟・長政の髑髏の盃で酒を飲んだ、と広く信じられるようになった主な原因は、江戸時代の軍記物『浅井三代記』と、作家・司馬遼太郎さんの小説『国盗り物語』にあると考えられます。
『浅井三代記』の記述と信憑性の問題
髑髏を盃にしたというエピソードを最初に記したのは、江戸時代に成立した『浅井三代記』です。しかし、浅井三代記は信憑性に乏しい資料として、歴史学の分野では史料的価値が低いとされています。成立時期が浅井長政の死から数十年以上後であること、著者が不明であること、誇張や創作と思われる記述が多いことがその理由です。
司馬遼太郎『国盗り物語』と髑髏杯の小説的描写
司馬遼太郎さんの小説『国盗り物語』にも、信長が義景・長政・久政の頭蓋骨で髑髏の盃をつくり、明智光秀に酒を強要するシーンが描かれています。

「Wikipediaコモンズ」より引用
この小説のシーンは、浅井三代記の記述を下敷きにしたものと考えられます。司馬遼太郎さんの作品は多くの読者に親しまれ、大河ドラマの原作にもなるなど影響力が非常に大きいため、この小説的描写が「史実」として広まった面は否定できないでしょう。
浅井三代記と国盗り物語。この2つの作品を通じて、「織田信長が浅井長政の頭蓋骨を盃にした」という逸話が広く知られるようになったと考えられます。ただし、これをすべて「嘘」と断定するのも慎重さが必要です。信長公記に書かれていないからといって、実際にそのような行為がなかったとは断言できないためです。あくまで「一次史料には確認できない」という評価が妥当でしょう。
なお、朝倉義景に仕えていた経歴があるとされる明智光秀が、旧主の変わり果てた姿を悲しみ飲酒を拒んだという逸話も、同様に後世の創作である可能性が指摘されています。近年の研究では、光秀が信長を討った「本能寺の変」の動機として、長宗我部元親に関する問題が有力視されています。
筆者は経営者なのですが、情報が組織内で伝達される過程でどれほど変質するかを実感しています。最初は「薄濃の髑髏を披露した」だった事実が、数十年の間に「髑髏で盃をつくって酒を飲ませた」へと変わっていく過程は、現代のビジネスにおける「伝言ゲーム」の問題と本質的に同じだと考えます。一次情報に当たることの重要性は、戦国時代の歴史を学ぶ中でも痛感させられるのです。創作がいつの間にやら史実と考えられてしまい、事実が埋没することは、よくあることです。
信長がなぜ浅井長政の髑髏に金箔を貼って披露したのか。その目的をめぐっても、複数の説が存在します。次のセクションで諸説を整理していきましょう。
信長が浅井長政の髑髏に金箔を貼り宴会で披露した理由とは
織田信長が浅井長政の頭蓋骨に薄濃を施し、正月の宴会で披露した理由については、主に「敵将への敬意」「戦勝の歓喜の共有」「呪術的な意味合い」の3つの説があります。
説1:敵将への敬意を表すため
「信長は敵将へ敬意を払うために、頭蓋骨に金箔で装飾し、宴会で披露したのだ」という解釈です。
2011年の大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」の第2話で、俳優・豊川悦司さん演じる織田信長が、長政の娘・江に対してこう語るシーンがあります。
「盃にしてはいない。長政の頭蓋骨を披露したのは確かだが、それは敵将へ敬意を払うためだった。敵味方に別れたとはいえ、とにかく戦いは終わった。ともに着飾り、新年を祝おうと……。ワシが何かをやると、必ず尾ひれがついてしまうのだよ」
このように、敵将に対して礼を尽くすために金箔を貼ったという解釈は、たしかに存在します。

「Wikipediaコモンズ」より引用
説2:宿敵を倒した喜びを仲間と分かち合うため
信長公記には「頭蓋骨の前で歌い踊り、めでたいと言った」と記されています。この記述に注目すると、「敬意」というよりは「戦勝の喜びの共有」が主目的だったと読み取ることもできます。
浅井長政に裏切られた金ヶ崎の退き口、そして浅井・朝倉・石山本願寺・雑賀衆・比叡山延暦寺などを次々と敵に回した志賀の陣。織田信長はこれらの危機に際して、人生最大のピンチを経験しています。この窮地を脱して宿敵を倒した喜びが、とてつもなく大きかったであろうことは想像に難くありません。
説3:呪術的な理由(敵の力を取り込む)
自分を苦しめた敵の頭蓋骨に加工を施すことで、その力を自らのものにするという呪術的・宗教的な解釈も存在します。
古代中国の『史記』刺客列伝には、趙襄子が宿敵・智伯の頭蓋骨に漆を塗って飲器(杯)にしたという逸話があります(出典:Wikipedia「髑髏杯」)。信長は岐阜の地名を中国の故事にちなんで名付けるほど中国史に詳しかった人物であり、趙襄子の逸話を知っていた可能性は十分にあるでしょう。
筆者は、信長が浅井長政に対して「敬意」を持っていたとは考えにくいと感じています。その根拠は信長公記の記述にあります。信長公記には、信長と家臣たちが長政らの髑髏の前で「めでたい」と言って歌い踊ったと書かれています。もし敵将への敬意が目的であったなら、その前で歌い踊るという行為は矛盾しているように思えます。
もちろん、現代の価値観で当時の行動を非難することは慎むべきです。しかし、これも創作である可能性がありますが、信長は武田勝頼の首を足蹴にしたという逸話も伝わっています。これらを総合的に考えると、私は「戦勝の喜びを仲間と分かち合うため」という解釈のほうが、信長の人物像に合致すると考えます。敬意があったとする説にも一理はありますが、信長公記の記述を素直に読む限りでは、そうは読み取りにくいのです。
1996年放送の大河ドラマ「秀吉」第15話「どくろの盃」では、俳優・竹中直人さんが主演を務める中、浅井長政の妻・お市の方が兄・信長に対して怨念を口にするシーンがあります。お市の方は趙襄子の名前を出しながら、こう語ります。
「夫・長政のしゃれこうべに酒を注いで、お飲みになるとよい。(兄・信長は)次から次へと弱気者の命を殺し尽くす冷酷非情の男。頭蓋骨を酒器にした趙襄子の如し」
このあと、俳優・渡哲也さんが演じる織田信長は、妹・お市の方の言葉通り、長政の頭蓋骨を盃にし、妹に無理やり酒を飲ませるのでした。大河ドラマ「秀吉」は名作として知られ、このシーンも強烈な印象を残す名場面です。
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2026年放送の大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、中島歩さんが浅井長政を演じています。第12回「小谷城の再会」(2026年3月29日放送)では小谷城を舞台にした展開が描かれ、第17回「小谷落城」(2026年5月3日放送予定)で浅井長政の最期が描かれる見込みです。中島歩さんは「誠実であるがゆえのつらさを抱えてきた長政」「市を守り抜きたい、という強い思い」と役柄について語っており、今後の髑髏杯に関するエピソードがどのように描かれるのかも注目されます。大河ドラマ「秀吉」や「江」との演出の違いを比較しながら視聴すると、いっそう楽しめるのではないでしょうか。
筆者は大河ドラマのほぼ全作品を視聴していますが、同じ「髑髏杯」のエピソードでも作品によって解釈がまったく異なる点が興味深いと感じます。
大河ドラマ「秀吉」(1996年)では、渡哲也さん演じる信長が髑髏を盃にして酒を飲むという創作寄りの描写でした。一方、大河ドラマ「江」(2011年)では、豊川悦司さん演じる信長が「盃にしてはいない」と明確に否定し、敵将への敬意として描いています。このように、同じNHK大河ドラマでも、時代考証の進展や脚本の方針によって描写が大きく変わるのです。2026年放送の「豊臣兄弟!」では、小栗旬さんが演じる信長がどのような解釈でこのエピソードに臨むのか、大いに注目したいところです。
さて、浅井長政はどのような最期を遂げたのでしょうか。その自害の経緯と、浅井家のその後についても確認しておきましょう。
浅井長政の最期と子孫:小谷城での自害から天皇家へ
浅井長政が自害したのはどこ?小谷城での壮絶な最期
浅井長政は天正元年(1573年)、居城である小谷城(現在の滋賀県長浜市)の本丸にて自害しました。享年29歳です。
1573年、浅井長政が小谷城に籠もって信長に抵抗している最中、信長がもっとも恐れた強敵・武田信玄が病死しました。

「Wikipediaコモンズ」より引用
信玄の死を知った信長は、全力で浅井長政の居城・小谷城を攻撃できるようになりました。長政の同盟者であった朝倉義景はこのとき、親族の朝倉景鏡に裏切られて自害しています。
旧暦8月27日、信長とその配下である秀吉の猛攻を受け、小谷城・小丸に籠もっていた長政の父・浅井久政も自害。このとき信長の妹で長政の妻・お市の方は、夫・長政や三人の娘たちとともに小谷城・本丸にいました。

「Wikipediaコモンズ」より引用
長政はお市の方と三人の娘たちを城外へ脱出させました。天正元年(1573年)旧暦9月1日、小谷城・本丸に籠もっていた浅井長政は、妻子の脱出を見届けたあとに自害。享年29歳でした。
この数日後、浅井長政と前妻の息子・万福丸は秀吉に捕らえられ、関ヶ原で処刑されています。その後、生き延びたお市の方もまた、秀吉によって悲劇的な最期を遂げることになるのです。
浅井長政の子孫:三姉妹から天皇家へ
浅井長政には茶々・初・江という三人の娘がおり、この三姉妹を通じて浅井長政の血脈は現代の天皇家にまで受け継がれています。
長女・茶々は豊臣秀吉の側室となり、豊臣秀頼を産んで淀殿と呼ばれることになります。

引用元「Wikipediaコモンズ」より
次女・初はいとこである京極高次に嫁ぎ、大坂冬の陣では講和に奔走しました。三女・江は二代将軍・徳川秀忠に嫁いで三代将軍・徳川家光を産んでいます。
この三女・江は、徳川秀忠に嫁ぐ前に豊臣秀吉の甥・羽柴秀勝に嫁いで一人の女児・完子姫を産んでいます。完子姫は伯母・茶々によって大坂城で育てられ、関白・九条幸家に嫁ぎました。九条幸家と完子の子孫が皇室に嫁ぎ、現在の天皇家へとつながっています。
浅井長政の髑髏にまつわる逸話は、その子孫が天下人の血統へとつながっていく壮大な歴史の序章でもあったといえるでしょう。次のセクションでは、よくある質問にまとめて回答していきます。
浅井長政の髑髏杯に関するよくある質問(FAQ)
Q1. 浅井長政の黄金の髑髏は現在どこにある?本物は残っている?
浅井長政の薄濃の髑髏の本物は現存しておらず、その行方は不明です。静岡県の掛川城・二の丸御殿には、2006年放送の大河ドラマ「功名が辻」で使用された髑髏のレプリカ(イミテーション)が展示されていますが、これは撮影用の小道具であり、実物ではありません。
Q2. 浅井長政の最期はどのようなものだった?
浅井長政は天正元年(1573年)9月1日、小谷城(現在の滋賀県長浜市)の本丸にて自害しました。享年29歳です。信長は降伏を勧める使者を何度も送りましたが、長政はすべて拒絶。妻のお市の方と三人の娘を城外へ脱出させた後、自ら命を絶ちました。
Q3. 浅井長政はどのような戦いで死んだのか?
浅井長政が命を落としたのは「小谷城の戦い」です。天正元年(1573年)、織田信長の大軍が浅井家の居城・小谷城を包囲し、激しい攻防の末に城は陥落しました。同盟者の朝倉義景がすでに滅亡し、父の久政も自害した後、孤立した長政は最期を選んだのです。
Q4. 「髑髏杯の作り方」は実際にどのようなものだった?
信長公記に記された「薄濃」の工程は、頭蓋骨に漆を塗り、その上から金箔や金粉で装飾するというものでした。盃として加工したかどうかは信長公記には記されておらず、あくまで装飾品として披露されたと読み取れます。なお、古代中国の『史記』に記された趙襄子の髑髏杯は、敵将・智伯の頭蓋骨に漆を塗って飲器として使用したとされており、こちらは「盃として使用した」ことが明記されています。
まとめ:浅井長政の頭蓋骨と髑髏杯の真相
この記事のポイントを整理します。
浅井長政の頭蓋骨を織田信長が「盃」にしたという逸話は、一次史料『信長公記』には記されていません。信長公記に書かれているのは、長政・久政・朝倉義景の頭蓋骨に「薄濃(はくだみ)」と呼ばれる漆塗り+金箔の装飾を施し、天正2年(1574年)の正月に岐阜城の宴会で重臣たちに披露したという内容です。
「盃にして酒を飲んだ」というエピソードは、江戸時代の軍記物『浅井三代記』に初めて登場し、その後、司馬遼太郎さんの小説『国盗り物語』や複数の大河ドラマを通じて広く知られるようになりました。
信長がなぜ髑髏に金箔を貼ったのかについては、「敵将への敬意」「戦勝の喜びの共有」「呪術的な意味合い」など複数の説があります。筆者は信長公記の記述を素直に読む限り、「宿敵を倒した喜びを仲間と分かち合うため」という解釈がもっとも自然だと考えますが、諸説あることをふまえ、読者ご自身でも考えてみていただければ幸いです。
2026年放送の大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、中島歩さん演じる浅井長政の最期がまもなく描かれる予定です。これまでの大河ドラマ作品と比較しながら視聴すると、史実と演出の違いをより深く楽しめるのではないでしょうか。
レキシル史郎|歴史専門の調査・編集ライター/大河ドラマ研究家/経営者視点の歴史分析
歴史学者ではないが、一次史料・学術書を徹底調査し歴史をわかりやすく整理。大河ドラマほぼ全作品の視聴経験をもとに史実と演出の違いを分析。経営経験から歴史上の決断を現代ビジネスに接続する解説が得意。
【参考資料】太田牛一『信長公記』/『浅井三代記』(江戸時代成立)/司馬遷『史記』刺客列伝/司馬遼太郎『国盗り物語』/NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」(2026年)公式情報/NHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」(2011年)/NHK大河ドラマ「秀吉」(1996年)
最終更新日:2026年4月6日

コメント
コメント一覧 (9件)
『浅井三代記』には「赤ぬりにされ(中略)お盃の上にお肴にそ出にける」と『信長公記』とほぼ同じ事書いてあり、髑髏杯にされたと書いていない。これは多く他の歴史の間違った知識のように司馬遼太郎の作り話。
金箔を貼って披露したのは事実と思われるけど一つ疑問が残ります。
披露したあと髑髏はドコに行ったのでしょうか?
供養して墓に入れるとかしたのか、まさかそのまま捨てたは無いと思いますが自分なりに調べてみましたが全然手がかりありませんでした。
現在では所在不明と結論で良いのでしょうか?
この度は当サイトへお越しいただきありがとうございます
お返事が遅くなりまして申し訳ありません
浅井長政の髑髏のゆくえなのですが、私どもも手を尽くしましたが、行方は不明です
おっしゃる通り捨てたり、廃棄したということはないと思います
浅井長政の墓所は、滋賀県長浜市の徳勝寺というお寺にあります
信長も、敵の髑髏を埋葬しないということはないと思いますので、誰か浅井家に縁のあるものに託すなどしたのではないでしょうか
おそらく心ある何者かが、その墓所へ埋葬したのではと想像いたします
また、京都には、長政の娘である茶々が建立した養源院があります
長政の供養のための寺ですので、このお寺に埋葬された可能性もあるのかなと、個人的には思っております
お返事遅くなり申し訳ありませんでした
わざわざのご返事ありがとうございます。
確かにご返事の通りが納得出来ると思います。
あるいは信長のシェフで描かれた通り作り物で誤魔化したのかもw
ただ、明らかに興味を引く話題と思われますのでその後の記述がないのはちょっと不自然に思われました。
当時の記録とか歴史書はそれが常識だったのかなとも思います。
掛川城に展示されている髑髏はレプリカだし、そもそも何で髑髏に金箔を貼る必要があるのか? 織田信長にまつわる忌まわしい伝説は、彼が邪魔、あるいはよく思わない人間たちによって歪曲・捏造されて今日に至ってるような気がしてならない。何の根拠もなく個人的意見だが、本能寺の変の主犯は、出自が不明で、非現実的かつ伝説が多すぎる「豊臣秀吉」のような気がしてならない。
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