浅井長政の頭蓋骨を織田信長が「髑髏の盃」にした逸話は本当なのか?

皆さんは「浅井長政の頭蓋骨」のエピソードを、ご存知でしょうか?
「織田信長」が「浅井長政」の頭蓋骨を加工し、「盃(さかずき)」をつくったという逸話です。
筆者もこのエピソードを知った時、「織田信長」という武将が狂っていると感じ、とても恐怖したものです。
ただ、実は「頭蓋骨を盃にした」というのは後世の創作、つまり作り話であるとも言われているようです。
この記事では「浅井長政の頭蓋骨」と「髑髏の盃」について、嘘か本当かも含めて、くわしく解説します。
「浅井長政の髑髏の盃」について詳しくない方も、この記事を読めば、他人に解説することができるほど詳しくなれます。
この記事をお役立ていただければ、幸いです。
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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,「浅井長政の頭蓋骨」は、本当に「盃(さかずき)」にされたのか?
「浅井長政の頭蓋骨」は、「盃」になどなっていない。
「織田信長」は、「浅井長政」を倒した翌年の正月に、「長政」の頭蓋骨に金箔を貼って宴会で披露した。
金箔を貼って披露はしたが、「盃」にはしていない
2,なぜ「織田信長」は、「浅井長政の頭蓋骨」を宴会で披露したのか?
「敵将への敬意」を表すため、という解説がされることがあるが、実際に「織田信長」が「浅井長政」に敬意を払っていたとは思えない。
「信長」は、自分を苦しめた宿敵「浅井長政」を倒した喜びを、仲間たちと分かち合い、ともに祝うために「金箔を貼った長政の髑髏」を宴会で披露したのだろう。
3,歴史書「信長公記」には、「頭蓋骨の盃」」について、なんと書かれているのか?
「信長公記」には、こう書かれている。
「【天正2年】の正月、織田信長は重臣や親衛隊に対して、《浅井長政・久政・朝倉義景》たち三名の金箔を貼りの頭蓋骨を披露した。
これを見た信長の部下たちは、めでたいめでたいと言って歌い踊った」
「頭蓋骨を盃にした」というのは、江戸時代の文献「浅井三代記」に記されたものであり、信憑性に乏しい
目次
「浅井長政」の頭蓋骨は、本当に「盃(さかずき)」にされたのか?
織田信長は、義弟であり宿敵でもあった武将「浅井長政」の頭蓋骨を「盃(さかずき)」、つまり「グラス」にしたという逸話があります。
しかし結論からいえば、「織田信長」は「浅井長政」の頭蓋骨を「盃」になどしていません。

《浅井長政》
『引用元ウィキペディアより』
「織田信長」は前年に討ち取った「浅井長政」の頭蓋骨を派手に装飾し、新年の宴会で披露したといわれています。
しかもその「浅井長政の髑髏」は、「盃」に加工されていたとのこと。
実はこれ「後世の創作」、つまり作り話なのです。
織田信長は「頭蓋骨」を「盃」になどしていません。
とはいえ「義理の弟・浅井長政の頭蓋骨に金箔を貼り、宴会で披露した」それだけは間違いありません。
「浅井長政」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ
「浅井長政」の「髑髏の盃」の逸話・エピソード
織田信長が、義弟であり宿敵でもあった「浅井長政」の「頭蓋骨」を加工し、盃にしたというエピソードは、あまりにも有名です。
そのエピソードを、ザッと見直してみましょう。
【1570年】、越前国の武将「朝倉義景」を攻撃した「織田信長」は、義弟「浅井長政」に裏切られて敗北。命からがら退却します。

《朝倉義景》
「引用元ウィキペディアより」
【1573年】、復讐に燃えた「織田信長」は、「朝倉義景」と「浅井長政」さらに長政の父「浅井久政」を討ち取ることに成功。
【天正2年(1574)】、お正月の宴会で信長は、「朝倉義景・浅井長政・久政」の三名の頭蓋骨を「盃」にし、嫌がる家来たちに無理やり酒を飲ませたのです。
「朝倉義景」に仕えていたことがある信長の重臣「明智光秀」は、旧主の変わり果てた姿を悲しみ、飲酒を拒んだとか・・・。
信長は、自らを裏切り苦しめた「浅井長政」への恨みから、このようなことをしたと言われています・・・。
しかしこれらのエピソードは、そのほとんどが「後世の創作」である可能性が極めて高いのです。
「朝倉義景」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ
信憑性の高い資料「信長公記」に記された真実!
信憑性の高い歴史資料「信長公記(しんちょうこうき)」には、「織田信長は浅井長政の頭蓋骨に金箔を貼って宴会において飾った」と記されています。
しかしその「信長公記」には、「頭蓋骨で盃をつくった」とか「髑髏の盃で酒を飲んだ」などということは、まったく記されていません。
「信長公記」には、以下のように記されています。
天正2年(1574年)の正月、京都周辺にいた織田家の家臣団は、「岐阜城」へ年賀の挨拶のために集合しました。
このとき織田信長は、祝いの宴会を開き、家臣たちは祝賀の酒に酔いしれたのです。
宴会も終わり、織田家につかえてそれほど長くない新参の家来たちは退出。
すると信長は、気心の知れた重臣達や馬廻衆(親衛隊)に対して、珍しい代物を披露したのです。
それは「箔濃(はくだみ)」にされた「朝倉義景」と「浅井長政」とその父「浅井久政」の髑髏。(「箔濃」とは「漆を塗って金箔を貼ったもの」
それを見た信長の家来たちは、「めでたい」と言って歌い踊ったのでした。
「信長公記」は、織田信長に仕えた右筆(ゆうひつ・秘書)である「太田牛一」が記したものです。
緻密な取材によって記された書物で、とても信憑性が高い「一級資料」といわれています。
「織田信長のエピソード」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ
なぜ「髑髏の盃で酒を飲んだ」という作り話が広まったのか?
なぜ「織田信長は、義弟・長政の髑髏の盃で酒を飲んだ」と言われたのでしょうか?
その理由は、江戸時代の書籍「浅井三代記」と、作家「司馬遼太郎」さんの作品「国盗り物語」が原因のようです。
「髑髏の盃」の「エピソード」を最初に記したのは、「江戸時代」に記された「浅井三代記」という本です。
実はこの「浅井三代記」という本は、信憑性に乏しい資料として、とても価値が低い代物なのです。
司馬遼太郎の小説「国盗り物語」にも、「織田信長」が「義景・長政・久政」の頭蓋骨で「髑髏の盃」をつくり、「明智光秀」に酒を強要するシーンが描かれています。

本徳寺所蔵の明智光秀肖像:Wikipediaよりパブリックドメイン
この「国盗り物語」におけるワンシーンは、「司馬遼太郎」さんが「浅井三代記」を元にして記したものだと考えられます。
「浅井三代記」と「国盗り物語」。
この2つの書籍が原因で「織田信長が浅井長政の頭蓋骨を盃にした」という創作が広まったのだと考えられます。
「明智光秀」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ
信長が「長政の髑髏」を宴会で披露した理由とは?「敵への敬意」などではなかった
「織田信長」が「浅井長政」の頭蓋骨・髑髏を、正月の宴会で披露した理由は、「強敵を倒したという功績を、仲間と分かち合い喜び合うため」だと考えられます。
「織田信長は、敵将へ敬意を払うために、頭蓋骨に金箔で装飾し、宴会で披露したのだ」
という意見があります。
【2011年】の大河ドラマ「江」の第2話で、それを物語るワンシーンがあります。
俳優「豊川悦司」さん演じる「織田信長」が、「長政」の娘である「江」に対して、「なぜ浅井長政の頭蓋骨を盃にしたのか?」を説明するシーンです。
「盃にしてはいない。
長政の頭蓋骨を披露したのは確かだが、それは敵将へ敬意を払うためだった。
敵味方に別れたとはいえ、とにかく戦いは終わった。
ともに着飾り、新年を祝おうと・・・。
ワシが何かをやると、必ず尾ひれがついてしまうのだよ」
このように「織田信長は敵将への敬意から、長政たちの頭蓋骨に金箔を貼った」という説が、実際にあるのです。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」
しかし、織田信長が「敵への敬意」を持っていたとは思えません。
「信長公記」には
「頭蓋骨の前で歌い踊り、めでたいめでたいと言った」
とあります。
現在の価値観で歴史を見てはいけないとは思いますが、想像してみると、それはやはり異様な光景です。
敵将に敬意を払うために金箔を貼ったのなら、その敵将の前で家来たちとともに「めでたい」などと言って歌い踊るとは思えません。
敬意を払うならば、ただ静かにその死を弔うはずではないでしょうか。
- 「浅井長政」に裏切られた「金ヶ崎の退き口」。
- 「浅井長政」「朝倉義景」「石山本願寺」「雑賀衆」「比叡山延暦寺」などを次々と敵に回した「志賀の陣」。
織田信長は、「浅井長政」によってこれらの危機におちいり、人生最大の危機をむかえているのです。
この危機を脱して宿敵を倒した信長の喜びは、とてつもないものだったはず。
信長が「浅井長政の頭蓋骨」に「金箔」を貼って宴会で披露したのは、宿敵を倒した喜びを仲間たちと分かち合い、祝いの宴会をさらに盛り上げるためなのでしょう。
織田信長やその側近たちは、宴会の前から、すでに上機嫌だったようですから。
また「呪術的な理由によって、敵将の頭蓋骨に金箔を貼った」という説もあるようです。
自分を苦しめた敵の頭蓋骨を叩くことで、その力を自らのものにできるという迷信があるのだとか。
古代中国では、「趙襄子(ちょうのじょうし)」という武将が敵の頭蓋骨を盃にしたという逸話があります。
織田信長は「古代中国の逸話」から、居城の名前を「稲葉山城」から「岐阜」と改めるほど、中国の歴史に詳しい人物でした。
もしかすると信長は、「趙襄子」の逸話を知っていて、それマネしていたのかもしれません。
余談ですが、大河ドラマ「秀吉」で、「浅井長政」の妻「お市の方」が、夫と息子を死に追いやった兄「信長」に対して怨念を口にするシーンがあります。
このシーンで、「お市の方」は「趙襄子」の名前を口にするのです。
「夫・長政の《しゃれこうべ》に酒を注いで、お飲みになるとよい。
(兄・信長は)次から次へと弱気者の命を殺し尽くす冷酷非情の男。
頭蓋骨を酒器にした『趙襄子』の如し」
このあと、俳優「渡哲也」さんが演じる「織田信長」は、妹「お市の方」の言葉通り、「長政」の頭蓋骨を「盃」にし、妹「お市の方」に酒を飲ませたのでした。
「大河ドラマを無料で視聴する方法」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ
浅井長政の「最期」と「子孫」について解説
「浅井長政」の最期
【1573年】、「織田信長」がもっとも恐れた強敵「武田信玄」が病死。

《武田信玄》
「引用元ウィキペディアより」
「信玄」の死を知った「織田信長」は、全力で「浅井長政」の居城「小谷城」を攻撃できるようになりました。
長政の同盟者であった「朝倉義景」はこのとき、親戚の「朝倉景鏡」に裏切られて自害。
【旧暦8月27日】、信長とその配下である「秀吉」の猛攻を受け、「小谷城・小丸」に籠もっていた長政の父「浅井久政」も自害。
このとき「織田信長」の妹で「浅井長政」の妻「お市の方」は、夫「長政」や三人の娘たちとともに「小谷城・本丸」にいました。

《お市の方》
『引用元ウィキペディアより』
長政は「お市の方」と「三人の娘たち」を城外へと脱出させます。
【天正元年(1573年)旧暦9月1日】、「小谷城・本丸」に籠もっていた「浅井長政」は、妻子の脱出を見届けたあと、自害。
享年29歳。
この数日後、「浅井長政」と前妻の息子「万福丸」は「秀吉」に囚われ、関ヶ原で処刑されています。
「お市の方」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ
「浅井長政」の子孫
現在の「天皇陛下」は、「浅井長政」の血を引く子孫なのです。
浅井長政には、「3人の娘」がいました。
「茶々」と「初」と「江」という三姉妹です。
長女「茶々」は「豊臣秀吉」の側室となり、「豊臣秀頼」を産み、「淀殿」と呼ばれることになります。

《淀殿(茶々)》
「引用元ウィキペディアより」
次女「初」は、いとこである「京極高次」に嫁いで、「大坂冬の陣」で講和に奔走。
三女「江」は、二代将軍「徳川秀忠」に嫁いで、三代将軍「徳川家光」を産んでいます。
実はこの三女「江」は、「徳川秀忠」に嫁ぐまえに、「豊臣秀吉」の甥「羽柴秀勝」に嫁いで、一人の女児を産んでいるのです。
それが「完子(さだこ)」姫です。
この「完子」姫は、伯母である「茶々」によって大坂城で育てられ、関白「九条幸家」に嫁いでいます。
「九条幸家」と「完子」の子孫が皇室に嫁ぎ、現在の「天皇陛下」へと続いています。
「浅井長政の子孫」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「浅井長政の頭蓋骨」は、本当に「盃(さかずき)」にされたのか?
「浅井長政の頭蓋骨」は、「盃」になどなっていない。
「織田信長」は、「浅井長政」を倒した翌年の正月に、「長政」の頭蓋骨に金箔を貼って宴会で披露した。
金箔を貼って披露はしたが、「盃」にはしていない
2,なぜ「織田信長」は、「浅井長政の頭蓋骨」を宴会で披露したのか?
「敵将への敬意」を表すため、という解説がされることがあるが、実際に「織田信長」が「浅井長政」に敬意を払っていたとは思えない。
「信長」は、自分を苦しめた宿敵「浅井長政」を倒した喜びを、仲間たちと分かち合い、ともに祝うために「金箔を貼った長政の髑髏」を宴会で披露したのだろう。
3,歴史書「信長公記」には、なんと書かれているのか?
「信長公記」には、こう書かれている。
「【天正2年】の正月、織田信長は重臣や親衛隊に対して、《浅井長政・久政・朝倉義景》たち三名の金箔を貼りの頭蓋骨を披露した。
これを見た信長の部下たちは、めでたいめでたいと言って歌い踊った」
「頭蓋骨を盃にした」というのは、江戸時代の文献「浅井三代記」に記されたものであり、信憑性に乏しい
以上となります。
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