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ある「お笑い芸人のリズムネタ」が有名になったことで、小学生にも広く知られるようになった「本能寺の変」。
「明智光秀」が主君「織田信長」を討ち果たし、「戦国時代最後の下剋上」と呼ばれる大事件です。
しかし、信長の信頼あつい光秀が、なぜ謀反を起こしたのか?
その動機は諸説紛々で、いまだに決定的なものがありません。
この記事では、「本能寺の変」についてあまり詳しくない方々に向けて、わかりやすく説明していきます。
これを読んで「そうだったのか、本能寺の変!」と、これまでの疑問をスッキリと解消してくださいね。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,「本能寺の変」とは、【1582年】、戦国の覇者「織田信長」を、信長が最も信頼した家臣「明智光秀」が討ち果たした事件。
「戦国最後の下剋上」と呼ばれている。
2,「織田信長」とは、尾張国(現在の愛知県西部)の戦国大名で、「室町幕府」を滅ぼし、天下統一へあと一歩のところまで勢力を拡大した武将。
「明智光秀」は前半生は不明なものの、織田信長と征夷大将軍「足利義昭」の間をとりもったことで、信長に見出されて出世しつづけた。そのため、光秀は信長を崇拝していた。
3,「本能寺の変」が起きたことで、織田信長の天下統一は実現しなかった。
「本能寺の変」とは、どんな事件?概要をわかりやすく解説
「本能寺の変(ほんのうじのへん)」は、明智光秀が主君「織田信長」を討ち果たした、戦国時代最後の下剋上(げこくじょう)です。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」
光秀は織田家臣の中でも、とりわけ信長から深く信頼されていました。
光秀も信長を信奉しており、「本能寺の変」が起こるちょうど1年前に制定された法律「明智家法」では、苦労した末に織田信長に取り立ててもらったことにより出世できたことを、とても強く感謝もしています。
これだけ互いにふかく信頼・信奉していた主従関係が、「本能寺の変」で突然壊れてしまったのです。
二人のあいだに、一体何があったのでしょう?

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」
光秀が謀反を起こした理由として、諸説あります。
- 「信長に対する私怨説」
- 「光秀が天下取りを目指した説」
- 「朝廷に尊大な態度を取り始めた信長を朝廷の命令で殺害した説」
- 「イエズス会黒幕説」
など諸説ありますが、決定的な説は、いまだに出ていません。
ではまず、「本能寺の変」が起こったのは、一体いつなのか、について見てみましょう。
【1582年6月1日午後8時頃】、明智光秀は、「中国攻め」を担当して現在の岡山県で戦っていた織田家の家臣「羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)」にたいする援軍のため、「約1万3千人」の兵をひきいて、丹波亀山城(現在の京都府亀岡市)を出発。

《豊臣秀吉》
「引用元ウィキペディアより」
しかし光秀は、亀山城から西国を目指す時につかう一般的なルートを選択せず、軍団を3つにわけて、逆に東へと進軍させたのです。
これら3つのルートは
- 明智越え
- 老ノ坂峠(おいのさかとうげ)越え
- 唐櫃(からびつ)越え
と呼ばれています。
3手にわかれて東へ進軍した光秀の軍勢は、京都と西国への道の分岐点「沓掛(くつかけ・京都市西京区)」で休息したのち、京都へ兵を差し向けたのです。
しかしこの時、明智軍の京都への先遣隊に参加していた武士「本城宗右衛門(ほんじょう そうえもん)」の覚書によると、兵たちは京都へ進軍する目的を、まったく知らされていませんでした。
進軍の目的を知らされていなかった宗右衛門は
「このころ、徳川家康が畿内にいたので、てっきり家康を討ち果たしに行くのだと思っていた」
と覚書に書きのこしています。

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」
【1582年6月2日未明】、京都の桂川に到達した明智光秀は、軍に戦闘準備をさせ、桂川を渡りました。
【6月2日午前3時頃】、わずかな手勢(100名ほど)に守られて、本能寺に滞在していた織田信長を、光秀の軍が急襲。
もはやこれまで、と悟った信長は、本能寺に火を放ち、自刃しました。
しかし、本能寺の焼け跡から、「信長の遺体」が発見されることはありませんでした。
光秀は、本能寺のすぐ近く「二条城」にいた織田信長の嫡男「織田信忠」も攻撃。
織田信忠を討ち取っています。

《織田信忠》
「引用元ウィキペディアより」
そして、信長の居城「安土城」へ入ったあと、朝廷にたいして銀を献上するなどして多数派工作をおこなっています。
まずは畿内を安定させようとしたのです。
実際に、朝廷から畿内を安定させるようにと命令された光秀は、このときに朝廷から「天下人」として認められた、とも言えますね。
しかし光秀が天下人だった期間は、わずか12日間しかありませんでした。
なぜかというと、「本能寺の変」を知った「羽柴秀吉」が、のちに「中国大返し」と呼ばれるとてつもない進軍によって、猛スピードで畿内へと帰還したためです。
光秀は、「京都」と「大坂」の間に位置する「山崎」という地で、羽柴秀吉の軍と激突します。
しかし、頼みにしていた「細川藤孝」や「高山右近」「中川清秀」たち織田家の武将を味方にすることに失敗。

《天授庵所蔵の細川藤孝(幽斎)肖像:Wikipediaよりパブリックドメイン》
孤立無援となった光秀は、あっけなく秀吉に敗れてしまったのでした。
敗北した光秀は、居城「坂本城」へもどる途中、小栗栖(おぐるす・京都市伏見区)という場所で「落ち武者狩り」に遭遇し、命を落としたと言われています。
「山崎の戦い」で勝利した羽柴秀吉は、主君「織田信長」の葬儀を取り仕切り、織田家中での発言力と影響力を一気に強めていきます。
秀吉はやがて、信長の後継者として、天下人へとのぼりつめて行くのでした。
殺害された「織田信長」と、殺害した「明智光秀」とは何者か?
織田信長は、家臣の「明智光秀」にふかい信頼をよせていました。
光秀はというと、辛酸をなめたきびしい境遇から引きあげてくれた主君「織田信長」をつよく信奉していました。
ところが歴史をひも解くと、【1582年】に、光秀は信長を「本能寺」で殺害したことになっています。
2人の間に、いったい何があったのでしょう?
この2人の「人となり」を見て、考えてることにしましょう。
「織田信長」の半生
織田信長は【1534年】、尾張の武将「織田信秀」の嫡男として生まれました。
織田家の家督を継承したあと、弟「織田信勝(信行)」と争うなど、紆余曲折はありましたが、信長は尾張の統治者となることに成功。
【1560年】には、当時の日本で最大の勢力をほこっていた東海道の戦国武将「今川義元」を、「桶狭間の戦い」で奇跡的に撃破。

《今川義元》
「引用元ウィキペディアより」
この大番狂わせによって、信長はその名をいっきに戦国の世にとどろかせました。
【1565年】、全国の武士たちのトップ(棟梁)であった室町幕府の第13代・征夷大将軍「足利義輝」が、「三好三人衆(三好長逸・岩成友通・三好政康)」に暗殺される事件がおこります。

《足利義輝》
「引用元ウィキペディアより」
「足利義輝」の弟である「足利義昭」も、命を狙われたものの、出家していた奈良の興福寺から、なんとか脱出。
義昭は、各地の大名にたいして「上洛(じょうらく・京都へ進軍すること)して、自分を次の征夷大将軍に就任させてくれ」、と要請します。
このときに「上洛」を要請された全国の大名たちのなかに、織田信長もいました。
信長は、義昭の家来だった「細川藤孝」という武将を介して、義昭の「上洛」の要請を受けいれます。
そして【1566年9月】に上洛をする予定となったのです。
しかし信長は、妻「帰蝶(きちょう・通称「濃姫」)」の父で、自分の義父にあたる美濃国の大名「斎藤道三」を殺害した「斉藤義龍」との戦いを優先してしまいます。

《斎藤義龍》
「引用元ウィキペディアより」
そのため、この「上洛」の話は、いったん流れてしまったのです。
義昭はつぎに、越前国の大名「朝倉義景」の元に身をよせ、上洛を要請。
しかし義景は、「越前国の一向宗徒による一揆(農民反乱)」に苦しめられるなどしていたため、なかなか重い腰をあげません。
業を煮やした義昭にたいし
「尾張の織田信長を頼りなさい」
と進言したのが、このとき朝倉義景につかえていた「明智光秀」だったのです。
こうして、信長と光秀の運命が交錯しました。
【1568年】、信長は足利義昭とともに上洛を開始。
義昭を室町幕府・第15代将軍に就任させたあと、いったん本拠地の岐阜へと帰ってしまいます。
しかし、その直後に足利義昭が「三好三人衆」に襲撃されたため、信長は義昭を救援するのために、ふたたび上洛。(本圀寺の変)
はじめのうちは信長と義昭の関係は良好でした。
しかし義昭がだんだんと傲慢になっていったため、ついに信長は義昭を京都から追放してしまったのです。
信長は当初、義昭を征夷大将軍にして室町幕府を再興し、天下静謐(てんかせいひつ・世の中を平和にすること)を目指していました。
しかし、義昭がその器ではないことを悟り、自らが主体となって天下静謐を目指すことにしたのです。
【1575年】、朝廷から「権大納言」と「右近衛大将」に任ぜられた信長は、敵対する戦国大名「朝倉義景」「浅井長政」「武田勝頼」らを次々と滅ぼし、天下統一へと近づいていきます。

《武田勝頼》
「引用元ウィキペディアより」
【1576年】に安土城を築いた信長は、その年の11月、朝廷から「正三位・内大臣(しょうさんみ・ないだいじん)」という地位に任ぜられました。
この「正三位・内大臣」に任じられたことは、いったい何を意味しているのか?
それはつまり、天皇をいただく朝廷から、信長が「最高権力者として認められていた」ということを意味していたのです。
さらに、信長は敵対する大名を武力でねじ伏せ、【1581年】には天下統一まであと少し、というところまでこぎつけます。
信長のこの動きを、室町幕府の家臣と、信長の家臣という二重の立場(のちに織田家家臣のみとなる)からささえ続けたのが、明智光秀でした。
光秀は、信長からとてつもなく深い信頼を得て、畿内の重要な拠点を任されていたのです。
「明智光秀」の半生
明智光秀。
織田信長の重臣として働き、「本能寺の変」という大事件を起こした光秀の前半生は、はっきりしていません。
光秀は、明智光綱(あけち みつつな)の嫡男として、美濃国(岐阜県)に生まれたと言われていますが、実は生まれた場所も、いつ誕生したのかさえも、はっきりしていないのです。
ですが、この記事では生まれた場所としてもっとも有力な候補地と考えられている明智氏の居城「明智城(岐阜県可児市)」で生まれたとして考えてまいります。

《明智光秀出生地と伝わる明智城跡:Wikipediaよりクリエイティブ・コモンズ3.0》
明智光秀は、明智城城主「光綱」の嫡男として生まれましたが、幼くして父と死に別れたため、父の弟で叔父にあたる「明智光安(あけち みつやす)」に育てられました。
信長の正室とであった帰蝶(きちょう・斎藤道三の娘)の母親は、光綱の妹と言われています。
つまり、信長の妻「帰蝶」の母親は、光秀の父親の妹であり、光秀からすると叔母にあたるのです。
つまり、光秀と帰蝶は「いとこ同士」ということになりますね。
正室の「いとこ」だったというこの事実は、信長が光秀を信頼するキッカケになったかもしれません。
叔父の庇護のもとで成長した光秀は、「妻木範煕(つまき のりひろ)」の娘「煕子(ひろこ)」と結婚し、美濃国の大名「斎藤道三」に仕えました。

《斎藤道三》
「引用元ウィキペディアより」
しかし【1556年】、道三を殺害した息子「斉藤義龍」によって、光秀のふるさと「明智城」は攻め滅ぼされてしまったのです。
光安は明智家再興を光秀にたくし、自身の息子「明智秀満」とともに逃し、自分はその場で自害してしまいました。
明智城が落城するとき、光秀は身重だった妻「煕子」を背負って逃げた、と言われています。
さて、この明智城が落城した際、光秀の年齢はいったいいくつだったのでしょう?
光秀の生年は「1516年」「1528年」「1540年」と諸説ありますが、面白いことにすべて「子年」です。
仮に「1516年」生まれだとしたら、明智城落城の時には、数え歳「40歳」を過ぎていますね。
そのくらいの年齢であれば、叔父「明智光安」に城主をまかされているでしょうし、落ちのびたりせずに、城と運命をともにするのではないでしょうか。
また【1528年】生まれであれば、「明智城」が落城した時には、数え歳「30歳」ですから、この年齢でも城主となっていたら、やはり城と運命をともにしたのではないかと思います。
では、【1540年】生まれだとするとどうでしょう?
数え歳なら「18歳」、元服して何年かがすぎて、身重の妻「煕子」のお腹の中には最初の子供か、または2人目の子がいたと考えられますよね。
そのくらいの年齢であれば、叔父「明智光安」が明智家再興をたくして逃がす、ということは十分にありえます。
しかし、「1540年」生まれだとすると、重大な矛盾が発生してしまうのです。
光秀の父と言われる「明智光綱」は、【1535年8月】に亡くなっています。
そうなると、光秀は光綱の嫡男ではなく、光綱の別の兄弟の子もしくは光安の子だったことになってしまいます。
ところで、光秀の生年と考えられている年が、全て「子年」だとご説明しましたね。
これは「丹波の鼠(ねずみ)が京に出て馬を食った」という言葉に由来しており、「午年(うまどし)生まれ」の織田信長を、「子年(ねどし)生まれ」の光秀が殺した、という意味合いになります。
どうやら光秀は子年生まれと考えられていたようです。
これは『日本書紀』の天智天皇元年にある
「夏四月、鼠、馬の尾に産む」
という記述に由来するのではないか、との指摘があります。(大阪学院大学経済学部教授・野口隆、『明智軍記の光秀没年』)
この記述は、ネズミがウマのしっぽで子供を生んだことをいぶかしんで、そのことが何を意味しているのかを占ったところ、「高麗が敗れて日本の側につく」という暗示になり、「下剋上」を表している、と言われている記事なのですね。
「午年」である信長を攻め滅ぼした光秀の干支として、あとから「子年」が選ばれた、というのはあり得ることです。
しかし私自身は、光秀の生年は「子年」ではなく、父親の「明智光綱」が亡くなった年の翌年【1536年】だったのではないか、と考えています。
光綱が亡くなった時、光秀は母の胎内に宿っており、年が明けて【1536年】に誕生した男子「光秀」を見た叔父「明智光安」は、兄の忘れ形見として「光秀」を大切に養育したのでしょう。
光秀の正室「煕子」は【1576年】に亡くなりましたが、享年は「46」「36」「42」とこれまた諸説あります。
仮に「煕子」と「光秀」が同い年だったのだとすれば、【1576年】に光秀も煕子も、数え歳「42歳」となりますね。
さて、明智城が落城したあと、光秀は家族をつれて越前国(福井県)に落ち延びました。
「福井県坂井市」の称念寺というお寺の前で寺子屋を営み、家族でホソボソと暮らしていた光秀。
そんな光秀の才覚に気がついた称念寺の住職が、越前国の大名「朝倉義景」に光秀を推挙。

《朝倉義景》
「引用元ウィキペディアより」
これがきっかけとなって、光秀は朝倉氏に仕官することとなるのです。
とはいえ、光秀と煕子の生活はまだまだ苦しく、煕子は「髪」を売って光秀を支えたこともあったほどです。
そんな中、光安の教育によって教養深く、智力の高い武士となっていた光秀は、義景を頼ってきていたのちの征夷大将軍「足利義昭」と出会うことになったのです。

《足利義昭》
「引用元ウィキペディアより」
「朝倉義景より、尾張の織田信長を頼りなさい」
と義昭に勧めた光秀は、それ以降、足利義昭につかえる幕臣となり、信長と出会うのです。
織田信長の正室「帰蝶」の「いとこ」であり、朝廷の事情や有職故実(ゆうそくこじつ)にもくわしく、智力の高い武将だった「明智光秀」を、信長は非常に気に入り、幕臣でありながら同時に織田家の家臣としても働くようにと、光秀をむかえたのです。
光秀が【1536年】生まれだとしたら、【1534年】生まれの信長の「2歳下」ですから、互いに年齢の近い気安さもあったのではないでしょうか。
難しい「丹波国の攻略」を成しとげ、領民が暮らしやすいようにと善政をしいた光秀を、信長は織田家家臣の中で最も重用し、畿内の重要拠点を任せるほどに、深く深く信頼したのです。
一方の光秀は、「明智家法」という家中の法律の後書きに
「浪人して苦労していた自分を、織田信長様は引き立ててくださった。
明智一族や家臣は、信長様に対する感謝を決して忘れてはならない」
と書いていました。
それだけ強く深く、光秀は信長に恩義を感じ、信奉していたのです。
光秀と信長は、単なる主従関係ではなく、姻戚関係でもあり、深く信頼をよせ、信奉する関係でした。
これほど深い信頼関係にあった2人が「本能寺の変」という事件で別れをむかえることになるのですが、2人の間にいったい何があったのでしょうね?
本能寺の変が起こった結果、日本の歴史はどのように変わったのか?
「本能寺の変」により、織田信長の天下統一は頓挫。
その後、明智光秀を討ち果たした(と言われる)羽柴秀吉が織田家家中で発言力と影響力を強めます。
【1583年】、秀吉は宿敵であった「柴田勝家」を「賤ヶ岳の戦い」で破り、天下人へと駆け上がっていきます。

《柴田勝家》
『引用元ウィキペディアより』
【1585年】、秀吉は、公家の名門中の名門「五摂家(ごせっけ)」の筆頭である「近衛家」の当主「近衛前久(このえ さきひさ)」の養子となり、天皇の臣下の首座「関白」に就任。
これにより秀吉は、名実ともに「天下人」となりました。
【1587年】に九州を平定した秀吉は、ポルトガル人が神社・仏閣を弾圧し、住民を強制的にキリスト教に改修させるだけではなく、日本人を「奴隷」として売買していることを知り、「バテレン追放令」を発令。
このように国民を守る動きを見せた一方で、秀吉は「朝鮮出兵」をして国内を疲弊させてしまいました。
さらに、織田信長の妹「お市の方」の娘で、秀吉の側室となっていた「淀殿(よどどの・茶々)」が男子「豊臣秀頼」を出産したことで、後継者としてむかえていた甥の「豊臣秀次」に謀反の疑いあり、という「ぬれぎぬ」を着せ、秀次だけではなく、その妻子たち一族までも根絶やしにしてしまったのです。

《豊臣秀次》
『引用元ウィキペディアより』
このことは、豊臣家に深刻な「後継者不足」をまねくことにもなります。
つまり、秀吉自身が豊臣家が衰退するおおきな原因を作ってしまったのです。
【1598年】、秀吉は亡くなり、2年後の【1600年】に「関ヶ原の戦い」が勃発します。
この「関ヶ原の戦い」では、東軍をひきいた「徳川家康」が勝利。
家康が、西軍をひきいたライバル「石田三成」を撃破したことで、豊臣家は家康により「天下人」から「一大名家」へと格下げされてしまいました。

《石田三成》
「引用元ウィキペディアより」
格下げしたあとも15年の間、豊臣家は存続しましたが、【1615年】に「大坂夏の陣」で「豊臣秀頼」とその母「淀殿」が亡くなり、豊臣家は滅亡してしまいます。
【1585年】に秀吉が関白となってから、わずか30年後の出来事でした。

《豊臣秀頼》
「引用元ウィキペディアより」
一方、朝鮮出兵をまぬがれた「徳川家康」は、関東に転封されたものの、河川の改修や干潟の干拓を進め、未開拓の「江戸」を豊かな土地へと生まれ変わらせます。
「関ヶ原の戦い」で勝利した家康は、征夷大将軍となって江戸に「幕府(臨時政府)」を開き、264年にもわたる長期政権を誕生させます。
「本能寺の変」が起きたことで、関白「豊臣秀吉」が誕生し、その後に「徳川幕府」という長期政権が生まれ、織田信長が目指した「天下静謐」の世が実現したのです。
もし「本能寺の変」が起こらず、信長が生きながらえていたとしたら、信長は天下統一を果たして、「幕府」をつくっていたことでしょう。
宣教師「ルイス・フロイス」は、織田信長と徳川家康のことを
「まるで兄弟のように仲が良い」
と書き残しました
織田信長の幕府をささえるのは、弟のように親しくしていた「徳川家康」と、織田家臣の中でも信長がもっとも信頼をよせていた「明智光秀」になっていたはずです。
秀吉の中国攻めへの援軍を命じたとき、信長は光秀にたいして
「見事に中国地方を制圧した場合は、石見国・出雲国の二カ国を与える、そのかわり今の支配地域である丹波国は召し上げる」
と書状を送りました。
これを「領地没収」ととらえ、光秀が「本能寺の変」を起こす原因となった、と考える人もいますが、筆者は違うと思います。
光秀は平定した「丹波国」をとても上手に統治し、善政をしいていました。
ですので中国地方を制圧した後、その地域への領主として送りこむ人材として、「明智光秀」なら上手にやるはずだ、という期待を、信長は抱いていたのでしょう。
いずれ、九州を平定する際の拠点として、「出雲・石見」という重要な場所を光秀にまかせようとしていたのです。
信長は「イエズス会」と良好な関係にありましたから、畿内の建築や文化などに、南蛮の影響が現れていました。
ポルトガル語を語源とする言葉が
- 「金平糖(こんぺいとう・コンフェイト)」
- 「カステラ」
- 「先斗町(ぽんとちょう・京都の市街地)」
など、日本語に残っています。
もしも信長が生きていたら、そうした言葉や文化がもっとたくさん残り、日本の町並みが「マカオ」のように、落ち着いた異国情緒を持つものになっていたかもしれません。
ただし、イエズス会が日本人を奴隷にしていたことを信長が知ったとしたら、烈火のごとく怒り、それを黙認していた九州の大名とイエズス会に苛烈な処罰を与えていたでしょうね。
「本能寺の変」について「ひとこと」いいたい
大河ドラマや映画などで描かれる「本能寺の変」は、光秀がひきいた大軍が本能寺に押しよせ、信長や小姓「森蘭丸」が応戦するも負傷。

《森蘭丸》
「引用元ウィキペディアより」
信長がみずから火をはなって自害するという、派手な戦闘シーンで描かれることが多いですよね。
しかし光秀軍の先遣隊にいた武士「本城宗右衛門」によると、到着した本能寺の様子は、以下のようなものでした。
「隊列の中から斎藤利三殿とご子息が来て、それに従って本能寺に行った。
2人は北に向かっていったので、我々は堀際を東に進み、出くわした者を討った。
本能寺の中に入ると、北の方から中に入ったのか明智秀満殿がおり、首は捨てろと言われ、そうした。
しかし、広間にも人はおらず、蚊帳が吊ってあるだけ。
ようやく女をひとり捕らえたので斎藤利三殿に渡した。
武士が2〜3人出てきたが、我々の味方が入ってきたことで敵は崩れた」
とあります。
大河ドラマや映画の「本能寺の変」とは違って、実際の「本能寺の変」は静かな戦闘だったようですね。

《本能寺の変》
「引用元ウィキペディアより」
もうひとりの証言を見てみましょう。
もうひとりの証言とは、イエズス会士の宣教師「ルイス・フロイス」による証言です。
「ルイス・フロイス」も、著書『日本史』の中で、「本能寺の変」について記述しています。
当時、イエズス会が拠点としていた南蛮寺と、信長が宿舎にしていた本能寺は、目と鼻の先の距離でした。
『日本史』に描かれた信長の最期は、非常に具体的です。
この記述から、「イエズス会」が「信長謀殺の黒幕」であり、ルイス・フロイスがその場にいたのではないか、と指摘する学者もいるほどです。
ルイス・フロイスの描く「織田信長の最期」は以下の通りです。
「深夜3時頃、厠(かわや・トイレ)から出てきて顔と手を洗っていた信長の背中を弓矢で射った。
さらに、左肩を鉄砲で撃った。
信長は室内に入り、やがて火の手が上がった」
確かに、まるで見ていたかのような記述ですよね。
この記述を元に、イエズス会が「本能寺の変」の黒幕で、「ルイス・フロイス」はその場にいたのではないか、と考える学者もいます。
しかし、「本城宗右衛門」の記述を見ると、宗右衛門たちが本能寺に着いた時には、すでに人気のない状態だったのです。
そこに別のルートから入ってきたのか、「明智秀満」が現れたと書き記していますが、厠から出てきた信長を弓や鉄砲で攻撃したのは、もしかすると明智秀満だったのかもしれません。

《明智秀満》
「引用元ウィキペディアより」
あるいは、明智の手勢が攻撃したように見せかけるために、「本能寺の変」の「黒幕」が差し向けた刺客が「弓や鉄砲」を放ったのかもしれませんね。
信長が室内に入ってから火の手があがるわけですが、最期を覚悟した信長が、付き従っていた女性たちを逃したのだとしたら?
女性たちは近くにあった南蛮寺に逃げ込み、「ルイス・フロイス」たちは彼女たちから、本能寺で何があったかを詳細に聞いたのではないでしょうか。
女性たちが
「どこかの武士が、信長様を弓と鉄砲で攻撃し、最期をさとった信長様が逃してくださった」
と答えたとしましょう。
フロイスたちは、いったいどこの軍勢が攻めてきたのか確かめようと、通りをのぞき、「水色の桔梗の旗印」を見て「明智光秀」だと考えます。
こうして、「明智光秀が謀反を起こし、本能寺で主君の織田信長を討ち果たした」、ということが世間に広まったのでしょう。
しかし、ここで疑問が残ります。
【1582年】に書かれた公家の日記によれば、「本能寺の変」の前日である【6月1日】と、当日の【6月2日】は、雨が降り続いていました。
光秀が丹波亀山城を出立したのが、【6月1日の午後8時頃】でしたね。

1862年に撮影された丹波亀山城天守閣:Wikipediaよりパブリックドメイン
明智軍が本能寺に到着したのが、約「7時間後」です
軍を3手にわけて進軍しましたが、いずれも山道の行軍です。
以前、とある歴史バラエティ番組で、スタッフが当時の甲冑を身に着け、天気の良い昼間に、「老ノ坂峠越え(おいのさかとうげごえ)」を試したことがありました。
甲冑は鉄砲の弾をふせぐために、鉄板でつくられており、フル装備だと「30kg」ちかくあります。
戦国時代の人たちは、現代を生きる私たちよりも、ずっと足腰がたくましかったのでしょう。
しかし、30kgの甲冑を身につけた大軍が、雨でぬかるんだ夜の山道を、途中で休憩を取りつつ、7時間で本能寺にたどり着けるでしょうか?
舗装された道を歩いた番組スタッフは、亀山城から本能寺跡まで、【9時間】もかかっていました。
まして当時は、亀山城から本能寺へのルートにあった「桂川」に、橋がかかっていませんでした。

《京都嵐山「桂川」の渡月橋》
「引用元ウィキペディアより」
雨で増水した「桂川」を歩いて行軍したのですから、いくら健脚でも、相当な時間がかかったことでしょう。
光秀軍の先遣隊が到着した時、本能寺は広間にも蚊帳がかかっているだけで、人気がまったくない状態でした。
つまり、光秀軍が到着した時には、すでに信長は何者かの攻撃をうけ、建物に火がつく寸前だったのではないか、と考えられるのです。
私個人の意見ですが、「本能寺の変」の黒幕は、「羽柴秀吉」だと思います。

《豊臣秀吉》
「引用元ウィキペディアより」
なぜなら「本能寺の変」で、もっとも得をしているのが「羽柴秀吉」だからです。
明智軍の「本城宗右衛門」が、「家康を討つ」と思っていたように、羽柴秀吉が明智光秀に対して
「家康殿が信長様のお命を狙っている。だから助けに行ってほしい」
と伝え、光秀がその言葉を信じて、京都に進軍してしまったのだとしたら・・・。
光秀が本能寺に到着してみると、そこはすでに「羽柴秀吉」が差し向けた刺客によって「織田信長」が攻撃されたあとで、本能寺には火の手が上がり、そこには「桔梗の旗印」がはためき、人々の目には「明智光秀が信長に謀反を起こした」かのような状況が生まれたのです。

《桔梗紋》
「引用元ウィキペディアより」
あとは、「中国大返し」で畿内へととって返し、謀反人「明智光秀」を討ち果たしたヒーローに、秀吉がなるだけ。
これはあくまでも筆者個人の意見ですが、光秀は秀吉によって罠にかけられ、「主君殺しの汚名」を着せられたのではないでしょうか。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「本能寺の変」とは、【1582年】に戦国の覇者「織田信長」が、最も信頼していた家臣「明智光秀」によって殺害された事件。「戦国最後の下剋上」と呼ばれている。
2,「織田信長」は、尾張国(現在の愛知県西部)の戦国大名であり、100年つづく戦国時代のなかで、天下統一の目前までいった武将。「明智光秀」は、織田信長と将軍「足利義昭」の間を仲介したことにより、信長に見出された。そのあと光秀は、織田家の家臣として出世をかさねていき、主君の「織田信長」を信奉していた。
3,「本能寺の変」が起きたことで、信長の天下統一は幻に終わり、信長の家来だった「豊臣秀吉」が天下統一。その後「徳川家康」が豊臣家を滅ぼして戦乱を終わらせ、江戸時代264年の平和を実現した。
「本能寺の変」は【1582年6月2日午前3時頃】に、京都・本能寺に宿泊していた「織田信長」を、家臣の「明智光秀」が攻め滅ぼした事件です。
信長にとって光秀は、最も信頼する家臣であり、光秀にとっても信長は、苦労した境遇から引きあげてくれた、信奉する恩義ある主君でした。
しかし、光秀は謀反をおこし、その信長を殺してしまった・・・。
ですが、疑問が残ります。
武装した大軍が、丹波亀山城から、雨でぬかるんだ山道を越え、わずか【9時間】で京都・本能寺に到達できるのでしょうか?
甲冑はフル装備で「30キロ」はあります。
以前、歴史バラエティ番組のスタッフが、天気の良い昼間に甲冑を身につけ、「老ノ坂峠越え」で、亀山城から本能寺跡まで歩いた時には、【9時間】かかっていました。
光秀の軍勢が本能寺についたときには、すでに信長は、何者かによって攻撃されていた可能性も考えられるのです。
このような黒幕がいたとすれば、主君殺しの濡れ衣を着せられて謀反人とされた「明智光秀」の史料は、破棄されたのでしょう。
これを証明する史料は存在していませんが、光秀は罠にはめられ、「主君殺しの汚名を着せられたのだ」と、筆者は思っています。
真相は、歴史の深い闇の中ですが・・・。
以上となります。
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