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明智光秀の全てを徹底解説!年表からエピソードや性格まで完全網羅

戦国時代末期、戦国の覇王「織田信長」を「本能寺の変」で殺害した武将「明智光秀」。

 

明智光秀については、どこで生まれ、織田信長に出会うまでの若い頃どこで何をしていたのかが、未だに不明です。

 

実は筆者も、明智光秀についてくわしく調査するまで、光秀がどこの国の出身で、信長と出会うまで何をしていたのか、全く知りませんでした。

 

この記事では、「明智光秀の全て」を徹底的に網羅いたしました。

 

これを読めば「光秀について友人に解説することができる」ようになるほど、詳しくなれます。

 

ぜひご一読いただき、「光秀」についての疑問解消にお役立てくださいませ。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,「明智光秀」とは、今から約450年前の日本で活躍した武将。「織田信長の家来」で、その信長を殺した人物。

 

2,光秀が、どこで生まれ育ったのかは、未だに謎とされている。一説によると、「岐阜県」で生まれ、【1568年】に信長と出会った

 

3,「本能寺の変」を起こした動機は、現在のところ「四国の長宗我部元親を救うため」という説が有力


明智光秀の「プロフィール・経歴」

「明智光秀」とは、「織田信長」に仕えた名将です。

 

そして、1582年の「本能寺の変」で信長を討った人物なのです。

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」

 

その「光秀」は、そもそもどこで生まれ、どこで育った人なのでしょうか?

明智光秀の生い立ち

明智光秀のプロフィールをご紹介したいと思います・・・・が、実は光秀のプロフィールには謎が多すぎて、解説が困難です。

 

父は「明智光綱(あけち みつつな)」。その弟で、光秀の叔父「明智光安」が、光秀を父親代わりに育てた・・・という設定になっています。

 

光秀は織田信長に出会う前、信長の妻「濃姫(帰蝶)」の父「斎藤道三」に仕えていたという説があります。(他にも、征夷大将軍「足利義輝」や越前国大名「朝倉義景」に仕えたという説あり)

 

 

経歴・プロフィール

明智光秀のプロフィールについても、わかっていることは驚くほど少ないです。

 

1528年生まれ」、または「1516年生まれ」と、2つの説があります。

 

明智光秀が亡くなったのは「1582年6月13日深夜」または「同年6月14日未明」です。

 

経歴としては、前半生は将軍「足利義輝」または美濃国の大名「斎藤道三」に仕えたとされています。

《足利義輝》
「引用元ウィキペディアより」

 

「斎藤道三」が息子「斎藤義龍」に殺害されたあとは、越前国の大名「朝倉義景」に仕えています。

 

さらにその後、1568年に「織田信長」に仕えて一気に出世していきます。

 

明智光秀の「生い立ち」や「経歴・プロフィール」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

領地・石高

光秀の領地といえば現在の滋賀県大津市こと「近江・坂本城」と、現在の京都府の一部「丹波国」。

 

石高は「近江坂本城」が「5万石」。

 

「丹波国」が「29万石」。

 

合計で「34万石」。

 

1石が米俵で2.5俵ですので、「34万石」だと1年で「85万俵」のお米が生産できるだけの領地を、光秀は支配していたことになります。

 

それだけではありません。

 

光秀には、信長が数多くの大名を応援につけていました。この応援を「与力大名(よりきだいみょう)」と呼びます。

 

「細川藤孝」や「筒井順慶」「高山右近」「中川清秀」が、光秀の与力大名としてつけられていました。

《天授庵所蔵の細川藤孝(幽斎)肖像:Wikipediaよりパブリックドメイン》

 

これら「与力大名」の領地も含めれば、明智光秀の支配地域は「240万石」。

 

これは当時の織田家の家臣団のなかでも最大です。

 

光秀のライバル「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」ですら、「120万石」。

 

それだけ光秀は、織田信長から信頼されていたのです。

 

ちなみに、光秀は「100石につき6名の兵役」を義務付けていたので、「34万石」で「20400人」の「動員兵力」があったことになります。

 

江戸時代には、「100石につき2.5名の兵役」だったので、光秀はその「2倍以上」の負担を兵士に課していたことになります。

 

部下に優しい、領民おもいな明智光秀・・・・一般的に光秀は、そう言われていますが、このように負担を強いる面もあったのかもしれませんね。

 

「明智光秀の領地と石高」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

 

光秀の功績

明智光秀の功績といえば、大きく分けると3つあると考えられます。

 

  1. のちの征夷大将軍「足利義昭」を「織田信長」と引き合わせて、一時的にでも「室町幕府の再興」を成功させた。
  2. 信長の家来として、大和国の大名「松永久秀」を降伏させたり、難攻不落の山岳地帯「丹波国」の攻略に成功し、信長の天下統一に大きく貢献した。
  3. 「本能寺の変」で「織田信長」を討ち果たし、のちの大量虐殺を未然に防いだ?

 

最期の「信長を討った」という点については、「主君殺し」ですので、「功績」と言っていいのかどうかは疑問が残ります。

 

ただ、歴史家「磯田道史」さんは、「光秀が信長を討ったおかげで、大量虐殺を防げた」と評価なさっておられます。

 

「明智光秀の功績」については、以下のリンク記事で、さらに詳しく解説させて頂いております。よろしければ、こちらの記事も役立てくださいませ。



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明智光秀の「生涯年表」

明智光秀の「生涯年表」をご用意いたしました。

 

光秀がいつ生まれたのかは、今も論争がつづいていますが、こちらでは「1528年」説を採用しております。

 

 

【1528年】

光秀1歳(光秀の年齢)

「明智光秀」誕生

 

【1530年】

光秀3歳

「上杉謙信」誕生

 

【1537年

光秀10歳

「豊臣秀吉」誕生

 

【1542年

光秀15歳

「斎藤道三」が美濃国守護「土岐頼芸」を追い出して美濃国を奪取

 

【1543年

光秀16歳

「徳川家康」誕生

 

【1548年

光秀21歳

「斎藤道三」の娘「帰蝶(濃姫)」が「織田信長」に嫁ぐ

 

【1552年

光秀25歳

「織田信秀」死去。息子の「織田信長」が織田家の家督を継承



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【1554年

光秀27歳

「斎藤道三」が家督を息子「斎藤義龍」へ譲る

 

【1555年

光秀28歳

「斎藤義龍」が父「斉藤道三」に対して挙兵

 

【1556年

光秀29歳

「斎藤道三」戦死。(道三に仕えていた「明智光秀」が、このとき美濃国から逃亡した・・・という説あり)

 

1560年】

光秀33歳

「桶狭間の戦い」・・・「今川義元」戦死

 

【1561年

光秀34歳

「斎藤義龍」病死

 

【1565年

光秀38歳

室町幕府13代将軍「足利義輝」が暗殺される。

同年、「織田信長」が「至治の世(しちのよ・天下がよく治まっている世であること)」に現れるという伝説の神獣「麒麟(きりん)」を意味する「麒」という文字の花押を使い始める

 

【1566年

光秀39歳

「足利義輝」の弟「足利義昭」が、越前の大名「朝倉義景」を頼って越前国へ。これに「細川藤孝」や「明智光秀」も同行したと考えられる。(斉藤道三の死とともに越前へ逃れて「朝倉義景」に仕えていた「明智光秀」が、足利義昭の越前行きによって「義昭」と接触、その後光秀は、朝倉義景から足利義昭に鞍替えして家臣となった・・・とも考えられる)

 

【1567年

光秀40歳

「織田信長」、稲葉山城を陥落させて美濃国を平定。稲葉山城を居城とし、ここを「岐阜城」と改名。

この頃から「天下布武」の朱印を使い始める

 

【1568年

光秀41歳

「織田信長」、「足利義昭」を奉じて上洛

 

【1569年

光秀42歳

「本圀寺の変」・・・「足利義昭」が「三好三人衆」の襲撃を受ける。光秀、「足利義昭」を守り「三好三人衆」らと交戦。



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【1570年

光秀43歳

「金ヶ崎の退き口」・・・光秀、「木下秀吉」「徳川家康」とともに朝倉・浅井連合軍を相手に殿(しんがり)を務め奮戦。

6月「姉川の戦い」

8月「野田城・福島城の戦い」

9月「志賀の陣」「長島一向一揆」

(同年3月、信長は朝廷から「天下静謐執行権(てんかせいひつしっこうけん)」を与えられている。)

 

【1571年

光秀44歳

「比叡山焼き討ち」・・・明智光秀が先陣をつとめる。

同年、明智光秀が「近江国・志賀郡」に5万石を与えられ、「坂本城」を築城。

この頃から光秀は正式に「足利義昭」の家臣でなくなり、信長の家臣になったと考えられる

 

【1572年

光秀45歳

「三方ヶ原の戦い」・・・「徳川家康」が「武田信玄」に大敗

 

【1573年

光秀46歳

「武田信玄」、信濃・駒場で死去。

「足利義昭」が信長に対して挙兵(槇島城の戦い)。足利義昭が敗北し京都から追放(室町幕府滅亡)。

「朝倉義景」「浅井長政」が信長に滅ぼされる。

 

【1574年

光秀47歳

信長が「長島一向一揆」を壊滅させる

 

【1575年

光秀48歳

「長篠の戦い」・・・「武田勝頼」が織田・徳川連合軍に大敗。

同年、「明智光秀」が「惟任(これとう)」という姓と「日向守」という官位を与えられる。

同年、光秀「丹波攻略」を命じられる。

同年、「長宗我部元親」が光秀の仲介により「織田信長」と同盟締結

 

【1576年

光秀49歳

「天王寺の戦い」・・・明智光秀が本願寺軍に包囲されるも、「3千」の兵を率いた織田信長が自ら先陣をきって「1万5千」の本願寺軍に突撃。信長は足を負傷しながらも光秀救出に成功。

同年、光秀、過労で倒れ養生を開始。

同年、明智光秀の正室「煕子(ひろこ)」が坂本城で病死。

同年「安土城」の築城開始。

 

【1577年

光秀50歳

「紀州・雑賀攻め」「信貴山城の戦い」に明智光秀・参戦。

信貴山城で「松永久秀」自刃。

同年、「手取川の戦い」で「柴田勝家」が「上杉謙信」に大敗。

 

【1578年

光秀51歳

「上杉謙信」死去。後継者争い「御館の乱」勃発。

光秀、播磨国を攻撃していた「羽柴秀吉」に援軍として派遣される。

光秀と婚姻関係を結んでいた「荒木村重」が信長を裏切る。光秀、荒木村重の居城「有岡城」を攻撃(有岡城の戦い)。

光秀の娘「玉」が、細川忠興に嫁ぐ。

 

【1579年

光秀52歳

「安土城」完成。

「信康事件」により、徳川家康の正室「築山殿」と嫡男「信康」が死去。

光秀、「丹波国・丹後国」を平定。



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【1580年

光秀53歳

「本願寺顕如」が「石山本願寺」を退去。10年に及んだ「石山戦争」終結。

光秀、「丹波29万石」を与えられ、「坂本城5万石」と合わせて「34万石」を領することとなる。丹波亀山城を築城。福知山城を修築。

同年「佐久間信盛」「林通勝」が織田家から追放されるが、その際「丹波国での光秀の働きは天下に面目を施した」と信長から絶賛される。

この頃から「細川藤孝」「筒井順慶」らを寄騎として与えられた光秀は実質的に「240万石」を支配する身分となる。

同年「北条氏政」から信長へ臣従の申入れあり。

 

1581年】

光秀54歳

光秀「京都馬揃え」の責任者に任命される。

 

1582年】

光秀55歳

3月「甲州征伐」開始。「武田勝頼」が「天目山の戦い」で自刃。武田家滅亡。

同年6月2日、「本能寺の変」勃発。「織田信長」死去。

同年6月13日、「山崎の戦い」・・・「明智光秀」敗北。逃走の途中、落ち武者狩りにあい、京都「小栗栖(おぐるす)」のあたりで負傷。直後に自刃。「明智光秀」死去。

 

明智光秀の生まれた年については、上の「1528年説」の他にも、「1516年説」があります。

1516年説」については、以下のリンク記事で、さらに詳しく解説させて頂いております。

よろしければ、以下のリンクもお役立てくださいませ。



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「本能寺の変」の「動機」と「真実」

光秀が信長を討った「動機」

明智光秀は、「本能寺の変」で主君「織田信長」を裏切り討ち取った人物です。

 

なぜ「光秀」は主君「信長」を裏切ったのかについては、諸説あり、はっきりとはしていません。

 

「だれかが光秀を裏で操り、信長を殺害させた」という「黒幕説」には、「イエズス会説」「足利義昭説」「羽柴秀吉説」「朝廷説」など、数多くの説があります。

 

「光秀が単独で信長を討ち果たした」という「単独説」。その動機には、「信長からの暴力暴言にキレた怨恨説」、「四国・長宗我部氏を救うため説」などが唱えられています。

 

東京大学の「本郷和人」教授が言うには、現在のところ定説とされているのは「四国・長宗我部を救うため説」だとか。

 

信長は光秀が親しくしていた「長宗我部元親」を攻め滅ぼそうと、3万の大軍団を出撃させる予定でした。

《秦神社所蔵長宗我部元親肖像:Wikipediaよりパブリックドメイン》

 

その出撃予定日「6月3日」の1日前である「6月2日」に、光秀は「本能寺の変」を起こしています。

 

結果として、3万の「四国征伐軍」は一気に崩壊。長宗我部氏は命拾いをしているのです。

 

現在のところ、この「四国・長宗我部氏を救うため」という説が、最も一般的な説と考えられているようです。

 

その他にも「認知症」にかかっており、それが原因で「主君殺し」という大罪を犯してしまった説。

 

犯罪心理学の側面から、衝動的に殺害してしまった説。

 

数々の説があります。

 

光秀が「本能寺の変」を起こした動機その他については、以下のリンク記事で、さらに詳しく解説させて頂いております。よろしければ以下の記事も、ぜひお役立てくださいませ。



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「本能寺の変」のその後の経緯

1582年6月2日

「本能寺の変」で「織田信長」戦死。

 

6月3日

茶匠「長谷川宗仁」からの「信長戦死」の知らせを備中高松城にいた「羽柴秀吉」が受け取る。

 

6月4日

堺にいた「徳川家康」が、「伊賀越え」を成し遂げて三河国へ帰還。

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」

同日

「光秀」が近江国を制覇。

 

同日

羽柴秀吉が備中高松城より撤退開始。

 

6月5日

光秀、安土城へ入城。

 

6月6日

羽柴秀吉軍、「姫路城」へ帰還。

 

6月7日

光秀、羽柴秀吉が帰還したことを知らされる。

 

6月8日

光秀、坂本城へ入城し、秀吉を迎撃する準備を整える。

 

6月9日

光秀、坂本城から秀吉迎撃のため出陣。

 

6月10日

徳川家康、京都へ向けて出陣する命令を下す。

 

6月12日

光秀、下鳥羽から山崎へ出撃。

 

6月13日

「山崎の戦い」・・・・光秀と羽柴秀吉が激突。羽柴秀吉の圧勝に終わる。

 

同日夜

山崎から坂本城への途中にある「小栗栖(おぐるす)」という場所で、光秀は「落ち武者狩り」に遭遇。負傷した後、その場で切腹して亡くなる。

 

「本能寺の変」の「その後」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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光秀が「天下統一」できなかった理由とは

光秀は「織田信長」を討ち果たしたものの、その後「天下統一」をすることができずに滅びました。

 

その理由は「予想以上に味方が増えなかったため」です。

 

光秀は「細川藤孝」「中川清秀」「高山右近」「筒井順慶」など、それまで与力としてともに戦ってきた武将たち全員に見捨てられています。

《高山右近》
「引用元ウィキペディアより」

 

なぜ味方が増えなかったのか。

 

その理由は「信長が死んだことを、光秀が証明できなかったため」です。

 

光秀は、本能寺の変で、信長の首を取ることができませんでした。

 

そのため、「織田信長が生きているかもしれない」と、京都周辺の武将たちは思ったのです。

 

もしも信長が生きていたら、光秀に味方した武将たちは、あとで根こそぎ滅ぼされるでしょう。

 

それを恐れた京都周辺の武将たちは、こぞって羽柴秀吉に味方します。

 

その結果「山崎の戦い」では、明智軍「13000」、対する羽柴軍「40000」という、圧倒的な戦力差となってしまったのです。

『天王山より山崎合戦地を望む:松波庄九郎さんによる写真ACからの写真』

 

信長は「自分の首が取られれば、京都周辺の武将たちが光秀に味方し、光秀に天下を取られる」ということがわかっていました。

 

その逆に「自分の首が光秀に取られなければ、京都周辺の武将たちは光秀に味方しない」こともわかっていたのです。

 

そのため信長は、自分の首が光秀に取られないように、本能寺に自ら火をかけたのです。

 

光秀が天下を取れなかったのは「秀吉が予想以上の速度で中国地方から帰還した」というだけではなく、「信長の首を取れなかった」ということも大きな原因です。

 

もしも光秀が天下統一を成し遂げていたら、天下はどうなっていたのでしょうか。

 

信長のような「大量虐殺」も、秀吉が行ったような「朝鮮出兵」も行われず、家康が実現した「江戸時代」のような平穏な時代が、訪れていたかもしれません。

 

「光秀が天下を取れなかった理由」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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明智光秀の「最期」と「死因」

光秀の最期

「本能寺の変」の11日後「1582年6月13日」に明智光秀は、中国地方から急遽もどってきた「羽柴秀吉」と京都の南にある「山崎」という地で激突します。

 

「山崎の戦い」です。

 

この戦いにあっけなく敗北した明智光秀は、山崎から本拠地の「坂本城」へ戻る途中、「小栗栖(おぐるす)」という場所で落ち武者狩りに遭遇し負傷。

 

その場で自ら切腹して亡くなっています。

光秀の死因

光秀の死因は「切腹」・・・又は「槍で刺された負傷が原因」と言われています。

 

「山崎の戦い」で敗北した光秀は、その後、坂本城を目指して撤退。

 

「小栗栖(おぐるす)」というところで「落ち武者狩り」に遭遇し、腹部を「槍」または「竹槍」で刺されてしまいます。

 

なんとか落ち武者狩りを追い払った光秀でしたが、傷が深かったため、自分の死期を悟り、その場で切腹。

 

その首は「坂本城」へ届けられた、または「羽柴秀吉」に発見されて粟田口で光秀の胴体とともに「はりつけ」にされたとも言われています。

 

光秀の死因は「切腹」、または「槍での負傷が原因」といえるでしょう。

 

「光秀の死因」や「最期の様子」については、以下のリンク記事で、さらに詳しく解説させていただきました。よろしければ以下の記事もお役立てくださいませ。



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光秀の有名な「戦い」

明智光秀といえば、数々の戦争で戦果を上げたことでも有名です。

 

三好三人衆と戦った「本圀寺(ほんこくじ)の変」で、光秀は少数の軍で「三好三人衆」の軍を迎撃し、征夷大将軍「足利義昭」を守りきっています。

《足利義昭》
「引用元ウィキペディアより」

金ヶ崎の退き口」では、「羽柴秀吉」とともに「朝倉義景」「浅井長政」連合軍と戦いながら撤退。

 

秀吉や家康ととも戦い、主君である織田信長の窮地を救っています。

 

丹波攻略戦」では、難攻不落の山岳地帯「丹波国」を交渉・戦闘・調略などを駆使し、短期間で攻め落とすことに成功。

 

信長は光秀の戦果を喜び、「天下に面目を施した」と激賞しています。

 

山崎の戦い」では、「13000~15000」ほどの軍団を率いて、「40000」の羽柴秀吉軍と激突。

 

衆寡敵せず、光秀は大軍団を相手に敗北してしまいます。

 

しかし秀吉軍は、昼夜を通じて「中国地方」から走って帰還したばかりだったため、疲労困憊。光秀にも勝機はあったと考えられていますが、その勝機を掴みきれずに敗北しています。

 

羽柴秀吉は、百戦錬磨の「明智光秀」を相手にして全く油断しておらず、かなり警戒していたと考えられます。

 

「明智光秀の戦い」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

光秀の「性格」「人柄」「エピソード」

光秀には、数々のエピソードがあります。

 

そのエピソードは、光秀が「心優しい」人物であることを表しており、その「誠実」な人柄を物語っています。

 

光秀は「煕子(ひろこ)」という女性と婚約していましたが、この「煕子」が結婚前に病気で顔に「あざ」が残ってしまいました。

 

それを恥じた「煕子」の両親は、煕子の妹を光秀に差し出したのですが、光秀はこれを断ります。

「私の妻は煕子ただ一人」

と宣言し、末永く妻として大切にしたと言われています。

 

光秀が若い頃、金に困っていたため、お客様を招いておこなう「連歌の会」が開けなかった際、妻「煕子」は自らの髪を売って費用を捻出したというエピソードが残っています。

 

光秀は領地である「坂本」「福知山」「亀山」などで、現在も崇拝されている人物です。

 

どうやら光秀は支配地域で善政を敷き、領民からかなり慕われていたようですね。

 

光秀のエピソードに「おみくじ」の逸話があります。

 

織田信長を裏切って討ち取ることを決意した光秀は、「愛宕神社」でおみくじをひいたのでした。

《愛宕神社》
「引用元ウィキペディアより」

そのおみくじの結果は諸説あります。

 

何度ひいても「大凶」が出た・・・・という説もあれば、一度目は「凶」、二度目は「小吉」、三度目は「大吉」だったと言われています。

 

  • 「織田信長を討ち取ることは、凶事」
  • 「畿内を平定して平和を取り戻すことは、小吉」
  • 「足利義昭を京都に呼び戻し、室町幕府を再興することは、大吉」

 

という意味なのだと言われているようですが・・・。

 

結果、光秀は羽柴秀吉に敗北して戦死・・・・・。

 

このおみくじは、ある意味違う解釈ができるかもしれません。

 

  • 「主君を裏切る行為は、凶事」
  • 「信長という大量虐殺者を討ち果たし、秀吉による天下統一をうながす行為は、小吉(信長の大量虐殺は阻止できたが、代わりに秀吉の朝鮮出兵は防げなかった)」
  • 「信長を討ち、徳川家康による江戸幕府・江戸時代という平和の時代の基礎を作る行為は、大吉」

 

こんな解釈も可能かもしれません。

 

「光秀の性格」については以下のリンク記事で更に詳しく解説させて頂いております。

よろしければ、以下のリンク記事もお役立てくださいませ。



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「生存説」・・・明智光秀は「山崎の戦い」で死んでいなかった?

明智光秀には、昔から「生存説」がありました。

 

光秀は生き延びて、「徳川家康」の参謀「南光坊天海」となって、豊臣家に復習して滅ぼした・・・という説です。

 

それによれば、光秀は「山崎の戦い」で羽柴秀吉に敗北した後、比叡山で修行して関東へ移動。

 

そして「小田原征伐」の際に家康に仕え、「関ヶ原の戦い」では家康の参謀・アドバイザー・軍師をつとめたのだとか。

 

「春日局」

《春日局》
「引用元ウィキペディアより」

 

「春日局」は、家康の孫「徳川家光」の乳母(教育係)をつとめた人物です。

 

彼女は光秀の重臣「斎藤利三」の娘なのです。

 

この「春日局」が、初対面であるはずの「南光坊天海」に対して

「お久しぶりです」

と言ったのだとか。

 

また、「徳川家」の「光」の一文字は、「明智秀」の名前の一字をもらったとも言われています。

 

それだけではありません。

 

四代将軍「徳川家綱」の乳母「三沢局」は、光秀の重臣「溝尾茂朝」の孫。

 

謀反人の家来の子や孫を、将軍家の御曹司の乳母とするとは・・・。

 

光秀は、「南光坊天海」となって生き延びたという説は、今も根強く唱えられているのです。

 

「明智光秀と南光坊天海は、同一人物」については、以下のリンク記事で更に詳しく解説させて頂いております。よろしければ、以下のリンク記事もお役立てくださいませ。

『明智光秀と天海の同一人物説を検証!光秀は天海となり豊臣家へ復讐?』の記事はコチラ


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明智光秀の「家族」一覧

明智光秀は、子沢山で知られています。

 

子供の数は諸説ありますが、「3男4女」、または「6男7女」の子供がいたと言われています。

 

「本能寺の変」

 

父「明智光秀」が起こしたこの大事件が、罪もない光秀の家族の運命を、激しく揺さぶることとなるのです。

 

光秀の家族を、名前や存在がハッキリしている人物にしぼって、一覧で見てみましょう。

妻(正室)

妻(正室)

「千草(ちぐさ)」

「煕子(ひろこ)」

 

千草とは、光秀の親戚の女性です。

 

光秀は正室「煕子」と婚姻する前に、「千草」との間に子供をもうけています。

 

ただ、どうやら千草とは婚姻していないようです。

側室

「原仙仁」

 

「北村保光の娘」

光秀の子供たち一覧

息子

  1. 長庶子「山岸光重」
  2. 長男「明智光慶」
  3. 次男「十次郎(自然・じねん)」
  4. 三男「乙寿丸」
  5. 末子「喜多村保之」

 

  1. 長女「明智秀満の妻」
  2. 次女「明智光忠の妻」
  3. 三女「細川ガラシャ」
  4. 四女「津田信澄の妻」
  5. 五女「秀子」(織田信長の娘を養女とした)
  6. 六女「川勝丹波守の妻」

 

光秀の子供たちの中でも、もっとも有名なのが「細川ガラシャ」でしょう。

 

ガラシャは「細川藤孝」の息子「細川忠興」の妻となって、「本能寺の変」のあとも生き延びています。

 

しかし、「本能寺の変」から18年後、「関ヶ原の戦い」直前に、「石田三成」から人質として捕らえられそうになったガラシャは自害。

 

壮絶な最期を遂げることとなるのです。

 

光秀の周辺には、とても有名な女性が複数います。

 

「内助の功」で有名な良妻賢母「煕子」

 

壮絶な最期を遂げた悲劇の美女「細川ガラシャ」

 

光秀の「いとこ」にあたる織田信長の正室「濃姫(帰蝶)」

 

彼女たちは、光秀を導き、または光秀の運命に翻弄され、数奇な運命をたどることとなります。

 

「明智光秀の周辺人物」については、以下のリンク記事で更に詳しく解説させて頂いております。よろしければ、以下のリンク記事もお役立てくださいませ。



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明智光秀の「末裔・子孫」を追跡調査

「明智光秀」の子孫、末裔は、現代まで続いて活躍なさっておられます。

 

歴史研究家で、書籍「本能寺の変 431年目の真実」を出版された「明智憲三郎」さん。

 

「明智光秀の血を引く意外なタレント」と呼ばれ、DJや俳優などで活躍なさっておられるハーフタレント「クリス・ペプラー」さん。

 

政治ジャーナリスト「細川珠生」さんと、その兄「細川隆三」さん。

 

そして、「天皇陛下」。

 

全員が「明智光秀」の子孫、末裔とされています。

 

他にも、光秀の四女「津田信澄の妻」を通じて、現在でも末裔が続いていると考えられます。

 

カンタンな家系図をご用意いたしましたので、宜しければご覧くださいませ。

《明智光秀の家系図》・・・上の家系図では、「光秀」の父が「光継」となっていますが、「光綱」の間違いです。大変失礼いたしました。
「家系図の引用等は何卒ご遠慮くださいませ」

ちなみに、明智憲三郎さんのご先祖様とされている「於隺丸(おづるまる)」という人物についてですが、歴史家「小和田哲男」先生は、その信憑性に疑問を呈しておられるようです。

 

「明智光秀の子孫・末裔」については、以下のリンク記事で更に詳しく解説させて頂いております。よろしければ、以下のリンク記事もお役立てくださいませ。

 

明智光秀の「周辺人物」たち

ここでは、光秀と関係の深い人物たちを見てみましょう。

 

彼らは光秀と、どのような関係があったのでしょうか?

 

・濃姫(帰蝶)

明智光秀の主君である「織田信長」の正室であり、光秀の「いとこ」にあたる人物が「帰蝶」こと「濃姫」。

濃姫の母「小見の方」が、光秀の父の妹だった・・・と言われています。

一説によると、光秀は「濃姫」との縁を利用して、「織田信長」に仕えるようになった、とのことです。

 

・織田信長

言わずとしれた「明智光秀」の主君であり、戦国の覇者「織田信長」。

明智光秀の能力を高く評価し、光秀を最も信頼した人物です。

信長は光秀を特に信頼していたからこそ、自分の本拠地である近畿地方の支配を光秀に任せ、支配領域も「羽柴秀吉」の2倍近くあたえていたのです。

ところが、そんな信長を、光秀は「本能寺の変」で殺害してしまうのでした。

 

・細川藤孝

明智光秀の盟友。

二人は、共に将軍「足利義昭」につかえていた仲です。

細川藤孝の息子「細川忠興」は、光秀の娘「玉(ガラシャ)」と婚姻し、細川家と明智家は姻戚関係を結びます。

藤孝と忠興は、「本能寺の変」が起こると、光秀に味方することなく敵対。

細川親子に見捨てられた光秀は、味方を増やすことも出来ず、「羽柴秀吉」に「山崎の戦い」であっけなく敗北することになります。

「細川藤孝」と「明智光秀」の関係について、詳しくは以下のリンク記事をどうぞ

 

・明智秀満

通称「左馬之助」または「弥平次」。

明智光秀につかえた名将。

一説によると、光秀の「いとこ」であり、その父は光秀の叔父「明智光安」とも言われています。

同時に「荒木村次」と離縁した光秀の長女と再婚した、光秀の女壻。

「斎藤利三」と並んで、光秀を補佐した猛者。

「左馬之助の湖水渡り」といって、馬に乗ったまま「琵琶湖を泳いで渡った」という逸話は有名。

数々のエピソードをのこした人物です。

「明智秀満」について、くわしくは、以下のリンクをご覧くださいませ。

 

・長宗我部元親

四国・土佐の大名。

織田信長の死後に「四国」を統一することとなる猛将。

信長の生前、長宗我部元親は明智光秀を通じて「織田信長」と同盟を締結。

織田家の強大な軍事力を後ろ盾にして、四国統一へ軍事行動を起こします。

明智光秀の重臣「斎藤利三」の異母妹を妻とした「長宗我部元親」は、四国統一まであと一歩のところまでいきます。

しかし、そんなときに、信長は突然方針を転換し、長宗我部への攻撃を開始。

1582年6月3日、四国遠征軍の出撃が計画されます。

その前日、【1582年6月4日】、「本能寺の変」により「織田信長」が死去。

明智光秀は、「四国の長宗我部元親を救済するために《本能寺の変》を起こした」、という説が唱えられています。

「長宗我部元親」と「明智光秀」の「関係」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

 

・黒田官兵衛

羽柴秀吉につかえた「天才軍師」。

「竹中半兵衛」とならび、「両兵衛」と呼ばれた人物。

「本能寺の変」で「織田信長」が討たれたことを知った「羽柴秀吉」は悲嘆に暮れ、そんな秀吉に対して官兵衛は

「ご運が開けましたな」

と告げ、秀吉を一気に天下人へお仕上げたと言われています。

その後「毛利家との和睦交渉」を成功へと導き

「山崎の戦い」では、その智謀で勝利を手繰り寄せ

「清須会議」では、巧みな戦略で秀吉に主導権を握らせ

「賤ヶ岳の戦い」では「柴田勝家」を討ち果たす謀略を張り巡らせた

まさに「羽柴秀吉」の知恵袋。

「明智光秀」を死に追いやった、真の黒幕・・・と言ってもいいかもしれません。

秀吉が天下を制した後、秀吉から

「次に天下を取るのは、家康でも前田利家でもない、黒田官兵衛である」

と言われ、警戒されていることを知り、引退。

秀吉の死後、「関ヶ原の戦い」の混乱に乗じて天下奪取を狙うが失敗。

息子「黒田長政」に家督を譲って引退。

 

・石田三成

「豊臣秀吉」の知恵袋にして、内政・後方支援の達人。

豊臣政権の官僚トップ。

茶坊主あがりでありながら、その頭の良さから、「福島正則」や「加藤清正」ら秀吉の親戚を追い抜いて、圧倒的な出世を果たしました。

「明智光秀」と直接的なつながりはないものの、「石田三成」は光秀の娘を死に追いやった張本人です。

1600年、「関ヶ原の戦い」直前、三成は大坂城の城下に住んでいた「東軍」の武将たちの家族を人質にしようとします。

「細川ガラシャ」

明智光秀の三女にして「細川忠興」の妻。

三成の人質になることを拒絶した「細川ガラシャ」は、自害して屋敷に放火。

これに激怒した細川忠興は、「関ヶ原の戦い」で石田三成隊へ猛攻。

細川忠興は、家康ひきいる「東軍」の勝利に、大きく貢献しました。

「石田三成」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

 

・豊臣秀吉

明智光秀のライバル。

「織田信長」亡き後、天下を取った人物。

「本能寺の変」の際に、「中国大返し」という尋常ではない速度での帰還を成功させ、「山崎の戦い」で勝利をもぎ取った秀吉。

そのあまりにも見事な先見性と、的確な判断力から、「本能寺の変」の黒幕はひでよしなのではないか・・・という疑惑が、今も昔もささやかれていたほど。

光秀の生前、秀吉は織田家の中で光秀と壮絶な「派閥争い」を展開し、最終的には勝利したと考えられています。

派閥争いに秀吉が勝利した結果、織田家は、「光秀派」の「長宗我部元親」ではなく、「秀吉派」の「三好康長」に協力して「四国」への攻撃を決定。

この「四国攻撃」が開始される前日の【1582年6月2日】、「本能寺の変」が勃発。

「太閤記」などの物語では、「人殺しを好まない心優しい人物」として描かれることが多いが、実際には、「残酷で、陰謀を駆使した策略家」である可能性が高いと思われます。

「豊臣秀吉」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

 

・足利義昭

「明智光秀」や「細川藤孝」の主君だった人物。

室町幕府・第15代征夷大将軍。

「足利尊氏」の末裔。

兄である第13代将軍「足利義輝」が、「三好三人衆」らに暗殺された直後、出家していた奈良の寺から「細川藤孝」により救出され、その後、越前「朝倉義景」を頼って逃亡。

一説によると、「朝倉義景」に仕えていた「明智光秀」と越前国で出会います。

「光秀」の助言にしたがって、「織田信長」に対して、京都への上洛を要請。

信長によって上洛した「足利義昭」は、「征夷大将軍」に就任。

しかし失政をつづけたため、信長と対立。

「浅井長政」「朝倉義景」「武田信玄」「本願寺顕如」たちを一致団結させ、「信長包囲網」と呼ばれる連合軍を結成するも、「槇島城の戦い」で信長に敗北。

京都から追放され、「室町幕府」は滅亡。

その後「毛利家」を頼って「鞆の浦」へ落ち延びました。

秀吉が天下統一すると、その「御伽衆(おとぎしゅう)」として仕えたといわれています。

「足利義昭」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

 

・明智光秀の家臣団

光秀は、当時戦国最強と言っていいほどの「最先端の軍団」を率いていたと考えられます。

日本最大の織田軍の中でも、明智軍は最強であったと考えて良いでしょう。

その明智軍を支えた家臣たちの主要人物は、以下の通り。

  • 明智秀満
  • 斎藤利三
  • 溝尾茂朝
  • 藤田伝吾
  • 安田国継(「本能寺の変」で織田信長を槍で負傷させた人物。「明智三羽烏」の一人)
  • 明智光忠

上記の明智家家臣たちは、「山崎の戦い」の直後に、「安田国継」を除いて全員が亡くなっています。

「安田国継」は、「立花宗茂」に仕えるなどしたが、【1597年】に「織田信長」の命日に亡くなっています。

 

・坂本龍馬

坂本龍馬は「明智光秀の子孫」であると自称していました。

龍馬の「坂本」という姓は、光秀の居城「坂本城」から。

龍馬が立ち上げた株式会社「亀山社中」の「亀山」は、光秀の丹波国における拠点「丹波亀山城」からとった、と言われているのだとか。

本当に「龍馬」が「明智光秀」の末裔だったのか・・・。

詳しくは、以下のリンク記事で解説させていただいております。

 

明智光秀の「家紋」「旗印」

明智光秀は「桔梗紋」と呼ばれる紋章を家紋としていました。

《桔梗紋》
「引用元ウィキペディアより」

明智家の「桔梗紋」は、光秀の先祖が、兜に「桔梗の花」をさして戦いに挑んだところ、勝利したために「縁起が良い」という理由で、「桔梗の花」を「家紋」としたんだとか。

 

また、光秀は「旗印」として、「水色」の旗に「桔梗紋」という、通称「水色桔梗」をつかっていたと言われています。

 

織田信長は、明智光秀の「水色桔梗」の旗印の美しさを羨ましがった・・・と言われていますね。

 

明智光秀の「刀」や「甲冑」は、今現在どこにあるのか?

明智光秀の愛刀は、現在でも伝えられています。

 

近年、光秀が実際につかった武器である「刀」が発見されたと言われています。

 

今は「京都」の「井伊美術館」に保管され、2020年現在、特別展示されているとのことです。

 

光秀が実際に「腰」に帯びていた刀の名前は「備前近景」。

 

正式名称は「備州長船住近景造」。

 

明智光秀から、家来の「明智秀満」に与えられ、「秀満」から息子の「三宅藤兵衛重元」へと渡り、さらに井伊直政の家来「木俣守勝」に贈られたのだとか。

「明智光秀」の「刀・甲冑」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

井伊美術館には、この「備前近景」の他にも、光秀の「甲冑・鎧・具足」「脇差」や、明智秀満の「兜」などが保管され、特別展示されています。

光秀「ゆかりの地」について

明智光秀ゆかりの地は、主に「京都府」「滋賀県」「岐阜県」などに残っています。

 

京都には、「本能寺の変」の現場である「本能寺」が残っています。

 

しかし、現在の「本能寺」は、実際に信長が亡くなった場所ではなく、当時「本能寺」があった場所には、現在べつの使節が建てられています。

 

また、「京都市」の南には、光秀が「羽柴秀吉」と雌雄を決した「天王山」があります。

 

「岐阜」には、明智光秀の出身地とされる「明智城」その他にも「明知城」などの城跡が残っています。

 

とはいえ、本当にそこで光秀が誕生したのか?というと、確証がないというのが現状です。

 

旧丹波国にあたる「兵庫県」「京都府」「大阪府」の2府1県には、「丹波亀山城」「福知山線」「黒井城」など、光秀が「丹波国」を攻略するにあたり拠点とした城跡が残っています。

 

「滋賀県」には、明智光秀が拠点としていた「坂本城」の城跡があります。

 

坂本城は「大津城」や「彦根城」が出来上がったことにより、破棄されました。

 

そのため、坂本城の遺構は、湖に沈んでいる「石垣の一部」のみ。

 

琵琶湖の沿岸には、坂本城の城壁の残骸が、今も沈んでいます。

明智光秀がのこした「城」

明智光秀に由来する、「ゆかりの城」は、各地に残されています。

 

居城として最も有名なのが「滋賀県・大津市」にあった「坂本城」でしょう。

 

伝承によると、豪華絢爛な名城「安土城」に次ぐ名城であった・・・とされています。

 

もう一つ、光秀にとって重要な拠点としては「丹波亀山城」があります。

 

明智光秀はこの「丹波亀山城」から、「本能寺」へ向けて出撃したのです。

 

「丹波亀山城」は、現在「大本(おおもと)」という宗教団体の本部となっています。

 

「光秀ゆかりの城」については、以下のリンク記事で詳しく解説をさせていただいております。

 

光秀ゆかりの「神社」や「お寺」

光秀ゆかりの「神社」や「お寺」も、各地にのこされています。

 

明智光秀は、「本能寺の変」を起こす直前に「おみくじ」を引いて、「織田信長」を討ち果たすことの吉凶を占ったと言われています。

 

それが「愛宕神社」。

 

また、光秀がおさめた「坂本城」の城下にあった「西教寺」。

 

このお寺は「比叡山焼き討ち」の際に、被害にあったものの、直後に光秀の支援を受けて復興。

 

その後、光秀の妻「煕子」の葬儀が、この「西教寺」で行われています。

 

このとき光秀は、「妻の葬儀に夫は参列しない」という当時の風習を無視して参列しました。

 

 

・「延暦寺」

宿敵である「浅井長政」「朝倉義景」をかくまい、琵琶湖の水運による権益を独占し、高利貸しで庶民を苦しめた「比叡山・延暦寺」を、「織田信長」は焼き討ち。

このとき、「光秀」は先陣をきって延暦寺を攻撃したと言われています。

この功績から、「光秀」は「近江国・志賀郡5万石」を与えられ、坂本城を築城したのでした。

延暦寺には、「光秀」という人物から寄進された鐘があります。

この鐘は、光秀が亡くなった【1582年】以降に寄進されたもので、「光秀生存説」の理由の一つと言われています。

 

 

・「高野山」

空海が開いた「高野山」。

この「高野山」には、「明智光秀」の墓があります。

しかし、実際には光秀の遺骸がおさめられているわけではなく、高野山には数多くの戦国武将の墓があるのです。

光秀の墓には、「何度建て直しても、墓石にヒビが入る」といわれています。

 

「光秀ゆかりの地」については、以下のリンク記事で詳しく解説をさせていただいております。

 

明智光秀の「墓」

光秀の墓は、複数のこされています。

 

なぜ複数あるのかというと、「首」が葬られた首塚。

 

「胴体」が葬られた「胴塚」。

 

御霊を鎮めるために建立された寺院と、数多くの遺構が残っているからです。

 

光秀は「山崎の戦い」で敗北した直後、「坂本城」へと逃げ帰る際に、「京都」の南にある「小栗栖(おぐるす)」という地点で落ち武者狩りの襲撃を受けて負傷。

 

直後に自害しています。

 

介錯された光秀の首は、「溝尾茂朝」によって藪の中に隠されたものの、落ち武者狩りによって発見されて秀吉のもとへ届けられました。

 

その首は「本能寺」にさらされ、胴体と繋がれて「はりつけ」にされたのだとか。

 

また、別の説によると、「光秀の首」は家臣によって京都「知恩院」へ運ばれました。

 

しかしその家臣が、知恩院へたどり着けなかったのです。

 

首は家臣の手によって、知恩院ちかくに埋められました。

 

そこが「光秀の首塚」として祀られるようになったのだとか。

 

「光秀のお墓」については、以下のリンク記事で詳しく解説をさせていただいております。

 

光秀がのこした「名言」

明智光秀といえば、数多くの「名言」や「四字熟語」を遺した人物として有名です。

「三日天下」

 

「敵は本能寺にあり」

などなど。

 

「三日天下」とは、「本能寺の変」から「山崎の戦い」まで、わずかの間しか天下に君臨できなかった光秀を表した言葉(実際には11日しか天下を保てなかった)

 

「敵は本能寺にあり」は、「愛宕神社」から「本能寺」へ出陣するに当たり、叫んだ言葉。

 

光秀の名言・俳句は、「三日天下」を除けば、そのほとんどが後世の創作であると考えられます。

 

「光秀の四字熟語・・俳句」については、以下のリンク記事で詳しく解説をさせていただいております。

 

明智光秀の「出身地」と「土岐氏」について

光秀の出身地

光秀がどこで生まれたのかは、はっきりとはわかっていません。

 

ただ、複数の出身地説が存在しています。

 

  1. 岐阜県(美濃国)可児市「明智城」
  2. 岐阜県(美濃国)恵那市明智町「明知城」
  3. 滋賀県(近江国)多賀町佐目

 

2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」で、明智光秀は現在の「岐阜県可児市」にあった「美濃国・明智城」の出身とされています。

《明智光秀出生地と伝わる明智城跡:Wikipediaよりクリエイティブ・コモンズ3.0》

出身地については、他にも岐阜県恵那市明智町にある「明知城」という説。他にも滋賀県多賀町佐目(さめ)という説があります。

 

その他にも諸説あるのですが、現在のところ「岐阜県南部で生まれたことだけは確か」と言われています。

 

光秀の一族「土岐氏」とは?

明智光秀は「土岐氏」という一族の血を引く人物です。

 

光秀の主君「斎藤道三」が下剋上で美濃国から追い出した武将「土岐頼芸(とき よりのり)」も、土岐氏の一族です。

 

明智光秀たち「土岐氏」は、室町幕府を開いた武将「足利尊氏」とともに戦った武将「土岐頼遠(とき よりとお)」の子孫であると考えられます。(光秀が、「土岐頼遠」の直系子孫であるわけではありません)

 

「土岐頼遠」

 

この人じつは、かなり乱暴な武将で、「婆娑羅(ばさら)大名」と呼ばれていました。

 

酒に酔っ払った勢いで、「光厳上皇」の乗った牛車に向けて矢を放ち、それが原因で処刑された人物なの言われています。

明智光秀の「没年・命日」と「年齢」

明智光秀の「生年月日」は不明です。

 

生年は「1516年」と「1528年」の2つの説があります。

 

年齢は、「1516年」誕生とするなら、「67歳」で亡くなったことになります。

 

「1528年」誕生とするなら、「55歳」で亡くなったということになるのです。

 

命日は「1582年6月13日」。(または6月14日未明の可能性もあります。)

 

「1582年6月13日」に「羽柴秀吉」と戦った「山崎の戦い」で敗北した「明智光秀」は、逃亡する最中に京都と「近江国・坂本城」の間にある「小栗栖(おぐるす)」というところで亡くなったのです。

 

「明智光秀」の「没年」「本能寺の変」などについては、以下のリンク記事で、さらに詳しく解説させて頂いております。よろしければ、以下の記事もお役立てくださいませ。



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光秀がのこした「歌・俳句」

光秀は、数多くの俳句・短歌を残しています。

「土岐は今 天が下知る 五月かな」

 

「土岐は今・・・」は、「天下取りの野望を歌に詠んだ」という俳句。

 

「心知らぬ 人は何とも言わばいえ 身をも惜しまじ 名をも惜しまじ」

 

これは、信長を殺害するという「主君殺し」の滞在を犯すにあたり、光秀がその心の中をあらわしたという歌です。

 

一説によると「辞世の句」であるとも言われていますね。

 

順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す

 

これも「光秀の辞世」とされている作品です。

 

簡単に現代語訳すると

「信長と私は、ともに武士。

 

たとえ私が信長を討ったとしても、それは武士として当然の宿命であり、誰かにとやかく言われる筋合いはない」

となります。

 

ただ、後世の創作であるという説も、根強くのこっていますね。

 

「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」

信長の性格をあらわした俳句、と言われていますが、これは後世の創作です。

 

信長本人が作ったものではありません。

 

光秀」については

「鳴かぬなら 逃してやろう ホトトギス」

なんていう作品が噂されているようですが、これはただの噂。

 

光秀本人が作った作品ではありません。

 

「明智光秀」にまつわる「四字熟語」や「辞世の句」について、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。よろしければ、お役立てくださいませ。



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明智光秀の「名前」

明智光秀には「複数の名前」があるとされています。

 

光秀の幼名は、不明です。

 

まったくわかりません。

 

通称は「十兵衛(じゅうべえ)」。

 

そのため若い頃は「明智十兵衛光秀」と呼ばれていました。

 

また、信長につかえるようになった後、「朝廷」から「惟任(これとう)」という由緒正しい名前が与えられています。

 

さらに「日向守」という官位を与えられ「惟任日向守光秀(これとう ひゅうがのかみ みつひで)と名乗っています。

 

一説によると、光秀は「ハゲ頭」であったため、信長からハゲを意味する「キンカンあたま」という「あだ名」で呼ばれていたのだとか。

 

「ハゲ」と言われて侮辱されたことにキレた光秀が、信長を討った・・・という説もあるほどです。

 

また、「光秀」という名前の漢字について、「光」の字の下半分と、「秀」の字の上半分を併せると、禿(はげ)」、という文字になるため、そのことを信長にからかわれた、という説もあります。

 

「明智光秀の名前」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

 

明智光秀の「像」「肖像画」「画像」

明智光秀の肖像画は、有名なものとしては「大阪府岸和田市・大徳寺」にある以下の肖像画でしょう

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」

この肖像画が現在に伝えられた逸話がのこっています。

 

それによると「明智光秀」の長男「明智光慶」が、「山崎の戦い」のあと逃げ延びて「本徳寺」をひらいたのだそうです。

 

この肖像画は、その「明智光慶」が守り続けたものなのだということです。

 

光秀については資料が極端に乏しいため、これの他には「肖像画」や「似顔絵」は現存していません。

 

光秀の銅像は、新しいものや古いもの、各地に数々残っています。

 

滋賀県大津市の「坂本城跡」には、現在も「明智光秀」の像がたっています。

『明智光秀像と坂本城跡:松波庄九郎さんによる写真ACからの画像』

 

また、京都府亀岡市にある光秀ゆかりの寺「谷性寺」には、光秀の騎馬像がありますね。

 

明智光秀銅像:ゲタゲタさんによる写真ACからの画像

 

それだけではなく、令和元年、京都府亀岡市「南郷公園」に、「明智光秀像」が建てられたと話題になっています。

 

岐阜県の「土岐市一日市場館」前にも、光秀の碑が建てられています。

 

京都市の周山城「慈眼寺」や、福井「明智神社」には、「光秀の木造」が残されています。

 

「明智光秀の肖像画・像」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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明智光秀について「その他」

光秀は、戦術戦略のほかにも築城や交渉を得意とした、マルチな才能を持った「万能武将」でした。

 

それのみならず、「茶道」や「和歌」にも通じた風流人だったのです。

 

光秀は「津田宗及」「今井宗久」ら一流の茶人と交流していたため、何度となく「茶会」を催しています。

 

光秀は信心深い人でもあったらしく、いつも「念持仏(ねんじぶつ)」という仏像を持っていたのだとか。

 

心優しいと言われている「明智光秀」。

 

おそらく、戦で亡くなった方々の冥福を、この「念持仏」に祈っていたのでしょう。

 

心の優しい人物だったとされている「光秀」ですが、何を根拠に「心優しい」といわれているのでしょうか?

 

その理由は、「光秀がのこした手紙」にあります。

 

光秀は、亡くなった自らの部下の供養を、「手紙」で寺に依頼しているのです。

 

その「手紙」には、亡くなった自分の家来の名前が、一人残らず記されていました。

 

中には「中間(ちゅうげん)」とよばれる下級武士の名前もあります。

 

「中間」とは、「足軽」よりも低い身分の、いわば「日雇労働者」。

 

光秀はこの「中間」の供養も寺に依頼しており、それは戦国時代の武将たちの中では、例のないことなのです。

 

「明智光秀」の「手紙」や「性格」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ



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大河ドラマ「麒麟がくる」、光秀と「麒麟」の関係

2020年の大河ドラマは「麒麟がくる」。

 

ドラマの中で、麒麟とは「平和な世に現れる神獣」と説明されています。

 

史実において、光秀と「麒麟」には、一つの「つながり」があります。

 

織田信長は、「麒麟」の「麟」という字を「花押(今でいうサインのようなもの)」につかっていました。

 

「天下布武」という印で有名な織田信長ですが、実は「平和」を祈り、よく「天下静謐」という言葉をつかっていました。

 

「麟」という花押。

 

「天下静謐(てんかせいひつ・平和のこと)」を目指して戦った信長らしい「花押」ですが、もしかするとこの「麟」の一字は、光秀が信長に教えたものだったのかもしれませんね。



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明智光秀に関する「書籍」

光秀を扱った書籍は、数多くあります。

 

中でも有名なのが、光秀の末裔「明智憲三郎」さんが出版した「本能寺の変 431年目の真実」でしょう。

 

最近では「マンガ」にもなって連載されています。


 

他にも、有名な歴史学者「小和田哲男」さんの書籍「明智光秀・秀満」がありますね。


 

あとは「図説 明智光秀」も、初心者には読みやすいと思います。

 

また、筆者の個人的なおすすめなのですが、「安部龍太郎」氏が書いた「信長燃ゆ」。

 

これは関白「近衛前久」の視点から描かれており、「本能寺の変」の黒幕に迫った、とてもおもしろい小説です。

 

『明智光秀』について「ひとこと」言いたい!

「明智光秀」が、もしも「山崎の戦い」に勝利していたら、歴史はどのように変わっていたのでしょうか?

 

よく「信長が生きていたら」という視点からは「歴史のIF」に迫られますが、「光秀が勝利したら」という視点からは考察されません。

 

もしも光秀が生きて天下を取っていたら、「足利義昭」を祭り上げて、「室町幕府」を再興していたでしょう。

 

織田信長が「足利義昭」を祭り上げて、京都へ上ったように、光秀も「足利義昭」を旗印に、旧体制を復活させて、「平和」を実現しようとしていたのではないでしょうか。

 

ただ、心根の優しい光秀では、「秀吉」のように、信長の死後わずか8年で天下統一が出来たとは思えません。

 

おそらくですが、もっとゆるゆると時間をかけて、被害を抑えながら天下統一を目指していたでしょう。

 

その後は、もしかすると「徳川家康」のように、平和な世の中をつくることに成功していたかもしれません。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,明智光秀とは、今から約450年前の日本で活躍した武将。「織田信長」の家来で、その信長を「本能寺の変」で殺害した武将

 

2,明智光秀の前半生は、ほとんどが謎。一説によると、「岐阜県」で生まれ育ち、「足利義昭」と「織田信長」を仲介した際に「信長」と出会った

 

3,「本能寺の変」を起こした動機は、未だにハッキリしていないが、最近では「四国の武将・長宗我部元親を救済するためだった」という説が有力視されている

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

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