この記事では「織田信長のお墓」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「各地に複数ある織田信長のお墓」を、まとめてカンタンに理解できます。
織田信長のご遺体が埋葬されている場所(埋葬地)は、京都府京都市上京区にある【阿弥陀寺(あみだじ)】です。
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この記事を短く言うと
1,信長の遺体が眠っている「本物のお墓」、すなわち「埋葬地」は、どこにあるのか?
おそらく「織田信長の遺体」は、京都市「阿弥陀寺」に眠っている可能性が高い。「阿弥陀寺」には、「清玉上人」という僧侶が、「本能寺の変」が起こったときに信長の遺体を埋葬したという逸話が残っている
2,「織田信長」のお墓は、どこにあるのか?
信長のお墓は、供養塔なども含めると、京都市の「阿弥陀寺」や「本能寺」または「建勲神社」などに「20か所以上」もあるとされている
3,なぜ20か所以上も「信長の墓」があるのか?
織田信長に恩のある人間たちが、その供養のために、各地に墓や供養塔をたてたと考えられる。
本物の「お墓」はどこ?どのお墓に「信長の遺体」は眠っているのか
全部で20箇所以上もある織田信長のお墓ですが、実際に「織田信長」のご遺体が埋葬されているお墓があるのは、京都府京都市上京区の「阿弥陀寺」だと考えられます。
織田信長のお墓(埋葬地)は、京都府京都市上京区の「阿弥陀寺」
京都府京都市上京区寺町通の阿弥陀寺に、織田信長を埋葬したお墓があります。
【天正10年(1582年)6月2日】、本能寺の変が起こって織田信長が亡くなると、阿弥陀寺の僧侶だった清玉上人がその遺体を密かに引き取って埋葬した、という逸話があるのです。
この阿弥陀寺には、本能寺の変で亡くなった信長の息子・織田信忠のお墓もあります。
また、信長の小姓だった森蘭丸・森坊丸・森力丸という三兄弟のお墓もます。
この阿弥陀寺以外のお墓に、織田信長のご遺体が埋葬されている可能性は、低いと思います。
京都府京都市北区に、織田信長をまつった建勲神社(たけいさおじんじゃ)という神社があります。
この建勲神社が、織田信長の墓だと勘違いされることがあるようですが、この神社に信長の遺体はありません。
建勲神社は、明治時代になってから、明治天皇の命令によって建てられた神社であり、信長のお墓ではないのです。
ちなみに、本能寺の変が起こったとき、織田信長のご遺体は発見されなかったといわれています。
明智光秀は、信長の遺体を見つけられなかったことが原因で、羽柴秀吉に敗れたとも考えられるのです。
「織田信長の遺体のゆくえ」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
「織田信長の墓」を一覧で解説!
「織田信長」のお墓は、「供養塔」なども含めると「20」以上もあると言われています。
全て挙げていてはきりがありませんので、ここでは「20」だけをピックアップして、一覧でご紹介致します。
織田信長のお墓は、以下のとおりです。
- 阿弥陀寺(京都府京都市)
- 建勲神社(京都府京都市)
- 今宮神社(京都府京都市)
- 総見院 (京都府京都市)
- 大雲院(京都府京都市)
- 本能寺(京都府京都市)
- 妙心寺玉鳳院(京都府京都市)
- 建仁寺(京都府京都市)
- 聖隣寺(京都府亀岡市)
- 西光寺(滋賀県近江八幡市)
- 摠見寺(滋賀県近江八幡市・安土城跡)
- 長興寺(愛知県豊田市)
- 総見寺 (愛知県名古屋市)
- 総見院 (愛知県清須市)
- 南宗寺(大阪府堺市)
- 金剛峯寺(和歌山県伊都郡・高野山)
- 瑞龍寺(富山県高岡市)
- 西山本門寺(静岡県富士宮市)
- 泰巌寺(熊本県八代市)
- 三宝寺(山形県天童市)
織田信長は、【1582年】に「京都」の「本能寺」で亡くなっています。
そのため京都には、織田信長のお墓・墓所が数多く建てられています。
ちなみに、現在京都市にある「本能寺」は、「豊臣秀吉」によって移転させられたものです。
信長が実際に亡くなった「本能寺」の跡地には、現在「本能特別養護老人ホーム」という「老人福祉施設」が建てられています。
「本能寺の変」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
信長のお墓が「20か所」もある理由
全国各地に「20か所」以上も、信長のお墓がある理由は、「信長に恩のある人たちが、その供養をするために、各地に信長のお墓がつくられたため」です。
例えば「富山県高岡市」の「瑞龍寺」にある信長のお墓は、「信長」の家来だった「前田利家」が、主君「織田信長」の供養のためにつくったものです。
「和歌山県」の「金剛峯寺」には、「信長」の墓だけではなく、戦国武将のお墓が数多くあります。
しかしこの「金剛峯寺」のお墓は、あくまでも供養のために建てられたお墓なので、実際に遺体や遺骨が埋葬されているわけではありません。
信長に討たれた「今川義元」や、信長を討った「明智光秀」にも、各地に複数のお墓が建てられています。
お墓がたくさんある理由は、「全国各地に住んでいた人々が、信長の供養をするために、お墓を建立したため」だと考えられます。
「今川義元」や「明智光秀」の「お墓」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
「建勲神社」と、「高野山」の「明智光秀」のお墓の逸話
「建勲神社」と名刀「義元左文字」
京都にある「建勲(けんくん)神社」は、明治天皇によってたてられた「織田信長」を祀った神社です。
この神社には、1つの名刀が納められています。
「義元左文字」です
通称「天下取りの刀」とも呼ばれるこの義元左文字は、桶狭間の戦いで戦死した今川義元の愛刀であり、信長が奪い取って愛用していた刀です。
義元左文字はその後、豊臣秀吉や徳川家康へと渡り、代々「徳川将軍家」が継承し続けたのです。
義元左文字は、別名「三好左文字」または「宗三(そうさん)左文字」とも呼ばれています。
【2000年】の大河ドラマ「葵~徳川三代~」の【48話・さらば秀忠】という回で、この「義元左文字」こと「三好左文字」が、「徳川秀忠」から息子「家光」へ形見分けされるシーンが描かれています。
「義元左文字」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
「高野山」にある「明智光秀」のお墓の逸話
高野山には、「織田信長」や「明智光秀」など、供養のために建てられた「戦国武将のお墓」が、数多くあります。
その中でも、「明智光秀」のお墓には、奇妙な逸話があるのです。
なんと明智光秀のお墓は、何度建て替えても、ひび割れてしまうのだとか。
これはもしかすると、「明智光秀」の怨念がさせることなのかもしれません。
丹波八上城にも「明智光秀」に関係する、似たような逸話があります。
この「丹波八上城」で、明智光秀の母親が、波多野秀治の軍団に「はりつけ」にされて処刑されたのだとか。
その怨念が残っているのか、「はりつけ」にされた場所に植えられた木が、何度植え替えても枯れてしまうのだそうです。
「明智光秀」の怨念は、いまだに鎮められていないのかもしれません。
「明智光秀」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,信長の遺体が眠っている「本物のお墓」、すなわち「埋葬地」は、どこにあるのか?
おそらく「織田信長の遺体」は、京都市「阿弥陀寺」に眠っている可能性が高い。「阿弥陀寺」には、「清玉上人」という僧侶が、「本能寺の変」が起こったときに信長の遺体を埋葬したという逸話が残っている
2,「織田信長」のお墓は、どこにあるのか?
信長のお墓は、供養塔なども含めると、京都市の「阿弥陀寺」や「本能寺」または「建勲神社」などに「20か所以上」もあるとされている
3,なぜ20か所以上も「信長の墓」があるのか?
織田信長に恩のある人間たちが、その供養のために、各地に墓や供養塔をたてたと考えられる。
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。
よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
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