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織田信長の旗印・軍旗の意味を解説!貨幣・永楽通宝を旗にした理由は

この記事では「織田信長の旗印・軍旗」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「信長の旗印と、その意味」を、カンタンに理解できます。

 

「織田信長の軍旗・旗印」は、当時流通していた貨幣「永楽通宝」を模したものなのです。


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この記事を短く言うと

 

1,「織田信長」がつかった「旗印・軍旗」とは何か?

「織田信長」は、「永楽通宝(えいらくつうほう)」という、当時流通していた「貨幣」、つまり「お金」を旗印としていた

 

2,「永楽通宝」とは何か?

「永楽通宝」とは、【1411年】から「明国」でつくられ始めた貨幣・お金。日本でも「室町時代~江戸時代初期」に流通し、使用された

 

3,「織田信長」は、なぜ「永楽通宝」を旗印としたのか?

信長は、「経済・金銭によって、勝利を手に入れて見せる」または、「天下に貨幣を流通させて、人々を豊かにしてみせる」と宣言したかったのではないか。

織田信長が使った「旗印・軍旗」を画像でご紹介

戦国時代の覇者「織田信長」は、とても変わった「旗印」を「軍旗」として使用していました。

 

信長は「貨幣」、つまり「お金」を旗印としたのです。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

 

「永楽通宝(えいらくつうほう)」

《織田信長の旗印・永楽通宝旗》
「引用元ウィキペディアより」

織田信長は、当時つかわれていた貨幣である外国銭「永楽通宝」を、旗印・軍旗としていたのです。

 

「銭・貨幣」を旗印とするなんて、とても珍しいです。



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たとえば、「武田信玄」は、戦いの専門書「孫子の兵法」の一説である「風林火山」を旗印としていました。

《風林火山》
「引用元ウィキペディアより」

 

通常、旗印は「自らの理想や主義主張」を旗印とするはずなのです。

 

「武田信玄」は「風林火山」、つまり「風のように速く、林のように静かに、火のように侵略し、山のように不動」という戦い方の主義を宣言していました。

 

「徳川家康」の旗印は、「厭離穢土・欣求浄土(おんりえど・ごんぐじょうど)」でした。

 

これは「荒みきった世を平和にし、極楽浄土に近づけよう」という、徳川家康が理想とした世界へのスローガンでした。

 

「石田三成」は、「大一大万大吉」を旗印としました。

 

これは「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という、今でいう「ワンフォーオール・オールフォーワン」のこと。

《大一大万大吉》
「引用元ウィキペディアより」

美しく、かっこいい「理想」や「主義」を旗印とするなかで、織田信長は「永楽通宝」という、貨幣を旗印にしたわけです。

 

その真の意味とは、いったい何だったのでしょうか?

 

「石田三成」の旗印「大一大万大吉」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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「永楽通宝(えいらくつうほう)」とは、何か?

「永楽通宝」とは、中国大陸にかつて存在していた「明」という国で使用されていた貨幣のことです。

《永楽通宝銭》
「引用元ウィキペディアより」

1411年】、「明」の3代皇帝「永楽帝(えいらくてい)」の時代に作られました。

 

日本では、【室町時代後期】から【江戸時代初期】にかけて、この「永楽通宝」が流通し、売買に利用されていたのです。

 

当時の日本では、「貨幣」を作る技術や法律が、すでに失われてしまっていました。

《永楽通宝》
「引用元ウィキペディアより」

そのため、大国「明」から「永楽通宝」という貨幣を輸入し、使用していたのです。

 

この「永楽通宝」は、「明」の国内より、むしろ海外での使用が大半だったようです。

 

日本のみならず、アフリカ・ケニアでも「永楽通宝」が出土しています。

 

それまでの日本では、「物々交換」によって売買がなされていました。

 

1608年】、徳川幕府は、この「永楽通宝」の使用を禁止し、それまで使用されていた「永楽通宝」は、国産の貨幣「慶長通宝」や「寛永通宝」へと移り変わっていくのです。

 

実はこの「永楽通宝」に隠された「信長の政策」が、織田軍団を戦国最強の軍へと生まれ変わらせたのです。

 

「織田信長の政策」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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なぜ信長は「永楽通宝」を旗印・軍旗にしたのか?

織田信長が「永楽通宝」を「旗印」とした理由は、「経済で勝利を手に入れてみせる」または「天下に貨幣を流通させて、人々を豊かにしたい」という思いがあったのではないでしょうか。

 

実は「織田信長」がこの「永楽通宝」を旗印とした理由は、ハッキリとはわかっていません。

 

織田信長は、他の戦国武将たちとは異なり、「貨幣」や「お金」、「商業」や「経済」をとても重視していました。

 

当時の産業は「農業」が主でしたが、信長は「商業」つまり「商売」を重視して、物流を活性化させ、物の売買がより滞りなく行えるようにしました。

 

「楽市楽座」で、誰でも商売ができるようにし、「関所撤廃」と「道路整備」で物流の効率をあげ、誰もが豊かに商売できるようにしたのです。

 

この旗印は「天下を貨幣で豊かにしてみせる」という、信長流の宣言だったのではないかと思います。

 

そして、この「貨幣」と「商業」の力が、「鉄砲」などの最新兵器により、「織田信長」を最強の戦国武将へと生まれ変わらせることとなるのです。

 

「織田信長と鉄砲」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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織田信長は「金銭」の力で天下を圧倒・席巻していった

織田信長は、「金銭」の力を極限まで利用して、「武田信玄」も「上杉謙信」も成し遂げられなかった「天下統一」目前まで迫りました。

 

「信長」は、商業を発展させて、そこから得られる莫大な資金によって、圧倒的な数の「軍団」を形成し、最新兵器で武装させました。

 

そんな信長の軍団は【1575年】、「武田勝頼」がひきいた戦国最強軍団「武田騎馬軍団」を、「長篠の戦い」で撃破しています。

 

「長篠の戦い」は、「織田軍団こそが、武田騎馬軍団を超えた《戦国最強の軍団》である」ということを、天下に知らしめた「歴史の転換点」だったのです。

 

「金銭でつくりあげた軍団」には、1つの特徴があります。

 

それは「金さえあれば、何度でも復活できる」ということです。

 

兵士はそのほとんどが「傭兵」、装備は資金があればあらためて用意し直せる。

 

そのため、信長の軍団は「弱い」ことで有名でしたが、戦国時代をだれよりも勝ち抜くことができたのです。

「敗けても敗けても、即座に復活できる軍団」

それが織田信長の軍だったのです。

 

まさに「不死身の軍団」だった「織田軍」は、天下統一目前まで、日本を制圧。

 

しかし【1582年】、「織田信長」は「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれ、「金による天下統一」は、「豊臣秀吉」に引き継がれることとなるのでした。

 

「長篠の戦い」・「本能寺の変」・「明智光秀」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「織田信長」がつかった「旗印・軍旗」とは、「永楽通宝(えいらくつうほう)」という、当時の「貨幣」を模したもの。つまり「お金」を旗印としていた

 

2,「永楽通宝」とは、【1411年】から「明国」でつくられ始めた貨幣。日本でも「室町時代~江戸時代初期」に流通した

 

3,「織田信長」は、「経済・金銭によって、勝利を手に入れて見せる」または、「天下に貨幣を流通させて、人々を豊かにしてみせる」と宣言したかったのではないか。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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