この記事では「織田信長と鉄砲」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「織田信長と鉄砲の関係」を、カンタンに理解できます。
「信長」は「村木砦の戦い」で鉄砲を初めて戦いに使用し、「鉄砲」を最大限に活用した人物なのです。
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この記事を短く言うと
1,「織田信長」と「鉄砲」の関係とは?
「織田信長」は、自らの「傭兵集団」の弱点を補うために、「鉄砲」を積極的に利用した。
2,「織田信長」が鉄砲を重視した理由とは?
「鉄砲」は、それまでの武器「刀」「槍」「弓」と異なり、訓練をそれほど必要とせずに効果を発揮できる武器だった。その圧倒的な攻撃力と、敵から距離を置くことができる安全性により、経験が浅い弱い兵士にもたせても効果が期待できたため、「信長」は鉄砲を重視した。
3,「信長」の「鉄砲」入手経路とは?
信長は、「堺」や「近江国・国友村」から鉄砲を入手したと考えられる。
「織田信長」と「鉄砲」の関係とは?
「織田信長」は、「鉄砲」の力を最大限に引き出し利用した、先駆者(パイオニア)であったと思います。
「信長」は当時としては最新兵器だった「鉄砲」をとても重視し、積極的に使用していました
織田信長の軍団は、半兵半農の「農民兵」が当たり前だった当時としては珍しい「戦争を専門とする傭兵集団」でした。
しかし、この「傭兵集団」には、致命的な弱点があったのです。
「傭兵集団は弱い」
「戦闘が専門」でありながら、「弱い」はずがないと思われるかもしれませんが、「傭兵集団」は「弱い」のです。
考えてみれば当然です。
「傭兵集団」は、命が危なくなったら即座に「逃亡」します。
「農民兵」は、自らの土地を持っていますので、「防衛戦争」で逃亡することは、すなわち「土地を敵に奪われる」ことを意味します。
また、敵国へ攻め込む「侵略戦争」でも、「逃亡」なんてしたら、村に帰ったときに仲間から非難されます。
「あいつは逃げ出した」と・・・。
そんなことになったら村にいられなくなるので、「農民兵」は逃げることが出来ず、必死に戦うのです。
織田信長は、そんな「弱い傭兵集団」の弱点を補う意味で、「鉄砲」という最新兵器を積極的に使用していたのでしょう。
鉄砲は、信長にとって、なくてはならない必需品だったのです。
ちなみに、「農民兵」として、当時最強だったのは、おそらく「上杉謙信」がひきいた「越後兵」だったでしょう。
豪雪地帯で足腰が強く勇敢だった「越後軍」には、信長も恐怖したといわれています。
「最強・上杉謙信」については、以下のリンク記事をどうぞ。
「信長」が鉄砲を重視した理由!信長がスゴイと言われる理由も解説!
信長が「鉄砲」を重視した理由は「弱い傭兵集団を強化するため」と申しましたが、それだけではないでしょう。
「刀」や「槍」「弓」とは違って、「短い訓練期間で圧倒的な攻撃力を発揮できる武器」だったから、信長は鉄砲を積極的に使用したのではないでしょうか。
刀・槍・弓など、当時使用されていた武器は、かなりの訓練を積まなくては、実戦で効果を発揮できません。
しかし「鉄砲」なら、極端な言い方をすれば、「弾丸を装填」して、「火縄に点火」して、「引き金を引く」だけで、敵を倒すことが出来ます。
たとえ、その敵が「剣の達人」「槍の達人」でも、距離をとって倒すことができるのです。
「火縄銃」は、命中精度が低かったらしいですが、大量の鉄砲で一斉射撃して弾幕を張れば、「命中精度が低い」という弱点をカバーできます。
信長が「鉄砲」を採用した「本当にスゴイ理由」は、「鉄砲の弱点を補うために、ありとあらゆる工夫を駆使していること」ではないでしょうか。
「鉄砲」には、いくつもの弱点があります。
- 「命中精度が低い」
- 「雨が降ったら使えない」
- 「弾丸の装填に時間がかかるので、一発撃った後に敵に突っ込まれたらやられてしまう」
- 「防衛戦において鉄砲は効果を発揮するが、敵に攻撃・突撃する場合、鉄砲はあまり効果を発揮しない」
当時の戦国武将たちは、これらの弱点を理由にして、鉄砲をそれほど積極的に採用しませんでした(値段が高い、入手経路が確保できない、などの理由により採用できなかったという事情もあった)
しかし信長は、これらの弱点を、創意工夫でおぎない、鉄砲の能力を最大限ひきだすことに成功します。
- 「命中精度の低さは、大量の鉄砲による一斉射撃で弾幕を張ることにより解決」
- 「雨が降ったら使えないので、城や砦など、屋内で使用する」
- 「弾丸の装填に時間がかかるため、柵や城壁などの防御施設をつかって、敵の侵入を食い止めながら鉄砲を使う」
- 「敵へ突撃する際に、鉄砲は効果を発揮しないので、防御陣地をつくり、敵に攻めさせる」
などなど。
現代においても、人は「最新の道具やツール」を、何かと理由をつけて、頑固なまでに使用しないことがあります。
そういう人は、その道具やツールの「弱点」や「欠点」を無理やりにでも見つけ出し、「使わない理由」としてあげるものです。(かくいう筆者もその一人ですが・・。)
しかし、信長は違いました。
「鉄砲」という最新兵器の可能性をいち早く見抜き、誰もがあげつらう「弱点」からも逃げ出すことなく、その「弱点」を補う方法を、真剣に見出したのです。
そうすることで、「弱い傭兵集団」の弱点を「鉄砲」で補い、「農民兵」には出来ない「長期遠征」を可能としたのです。
これにより、信長は遠い場所での長期間の戦いを可能とし、広大な地域を支配することが出来たのです。
信長がスゴイ理由は、「鉄砲の可能性に早くから着目したこと」だけではなく、「鉄砲の弱点を、次々と創意工夫で補ったこと」にあるのではないでしょうか。
ちなみに、先程「鉄砲」の弱点について、いろいろ申しましたが、つまり鉄砲とは「攻撃には向かないが、防御に最も効果を発揮する武器」という、一言で説明できる武器なのでしょう。
「伊達政宗」が、「鉄砲」の「攻撃に向かない」という弱点を「鉄砲を騎馬隊に持たせる」という方法で補っています。
「政宗の工夫」も、「信長の工夫」と似たようなものだったのかもしれません。
「鉄砲の入手経路」とは?堺・国友村・根来・本能寺
信長は、当時最大の商業都市「堺(大阪府堺市)」、そして「近江国・国友村」から鉄砲を入手していたと考えられます。
当時の日本には、各地に「鉄砲」の生産地や輸入地がありました。
なかでも
- 「堺」
- 「近江国・国友村(滋賀県長浜市)」
- 「紀伊国・根来(和歌山県岩出市)」
の三ヶ所は、鉄砲の生産地として有名でした。
信長は特に「近江国・国友村」を「羽柴秀吉」に支配させ、鉄砲の生産に力を注いだのです。
「鉄砲を生産していた」と申しましたが、当時の日本では、まだまだ「純国産」の鉄砲を作ることは難しかったようです。
日本では、長く「日本刀」を生産してきたことにより、「製鉄技術」が世界でも屈指のレベルに達していました。
そのため、日本国産の鉄砲は、相当に質の高いものだったわけです。
鉄砲の「引き金部分」に使用していた「合金」や、「黒色火薬」の主成分である「硝石」は、まだまだ海外からの輸入に頼りきりだったのです。
信長は、これらの輸入ルート確保のため、キリスト教との関係を深めた、ともいわれています。
「信長」が初めておこなった鉄砲による戦い「村木砦の戦い」とは?
信長が初めて鉄砲を使用した戦いは、記録によると【1554年】の「村木砦の戦い」といわれています。
信長は味方であった「水野信近」の城「刈谷城」が「今川義元」の軍に攻められたとき、これを救援に向かいます。
このとき、信長は「水野」を攻撃するためにつくられた今川の砦「村木砦」を攻撃したのです。
「村木砦の戦い」で、信長は「鉄砲」を交代で次々と発射し、敵を降伏させたのです。
信長が鉄砲を利用した戦いで、最も有名なものは【1575年】に「武田勝頼」との間で行われた「長篠の戦い」でしょう。
しかし、信長が初めて鉄砲を積極的に使用した戦いは、この「村木砦の戦い」です。
勝利したものの、信長の軍も、かなりの被害が出たといわれています。
ちなみに、この「村木砦の戦い」は、【2020年】の大河ドラマ「麒麟がくる」の「第14回~聖徳寺の会見~」でも描かれていました。
「長篠の戦い」については、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」は、自らの「傭兵集団」の弱点を補うために、「鉄砲」を積極的に利用した。
2,「鉄砲」は、それまでの武器「刀」「槍」「弓」と異なり、訓練をそれほど必要とせずに、効果を発揮できる武器だった。その圧倒的な攻撃力により、使いやすかったため「信長」は鉄砲を重視したのだろう。
3,「信長」は、「堺」や「近江国・国友村」から鉄砲を入手したと考えられる。
以上となります。
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