この記事では「織田信長の性格や戦い方」についての「特徴」を、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「信長の特徴」を、カンタンに理解できます。
「織田信長」は「プライドが高くて、人の気持ちが理解できない、正攻法を重視した戦い方をする、臆病な性格の人」だったのです。
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この記事を短く言うと
1,「織田信長」の「性格」とは?
とても「マジメ」で、日々の訓練をおこたらない性格だったが、プライドが非常に高く、付き合いにくいタイプだったと考えられる
2,「織田信長」の長所と短所とは?
長所は「思慮深くて、働き者」であったこと。短所は「人を見下し、他人の気持ちを全く理解しない」こと
3,「信長」の戦い方とは?
織田信長の「性格」を分析!真面目だが、プライドが高い!
信長は「マジメ」な性格だった
織田信長の性格は、「真面目」で「プライドが高い」と言えます。
信長の公式記録「信長公記」によると、若い頃の信長は、「うつけ」と呼ばれる言動を繰り返し、周囲から呆れられていた。
しかし、信長は常に「弓・鉄砲・兵法」の修行を怠らなかったとも記されています。
- 「市川大介」から「弓術」を学び
- 「橋本一巴(はしもと いっぱ)」から「鉄砲」を学び
- 「平田三位(ひらた さんみ)」から「兵法」を学んでいた
と「信長公記」には記されています。
さらに信長は、冬以外には「水泳」の修行を怠らず、また「馬術」の稽古も常におこなっていたのです。
信長が「うつけ」のふりをしていたのは、「馬鹿なふりをして、敵を油断させる」ためのものでした。
実際の信長は、修行を決してなまけることのない、とてもマジメな性格だったのです。
信長はとても「プライド」が高い
信長はとてもプライドが高く、常に人を見下していたと、キリスト教の宣教師が証言しています。
信長は、対等な同盟者であるはずの「徳川家康」や「浅井長政」を、まるで部下をあつかうようにして接しています。
それが原因で、信長は妹「お市の方」の夫だった「浅井長政」に裏切られたほどです。
織田家の筆頭家老「柴田勝家」は、信長から
「俺を尊敬しろ!
俺に足を向けて寝るな」
と命じられたこともありました。
さらに、信長はある日、領民からもらった「餅」を土の上に投げつけて、部下たちにそれを食うように命じたのだとか。
信長は、とてもプライドが高く、周りの人からすると「付き合いにくいタイプ」だったと考えられます。
「織田信長のエピソード」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
信長の「長所と短所」を考察!思慮深く働き者だが、人の気持ちがわからない
織田信長の長所は
「働き者で、思慮深く、目的達成のために手段を選ばないところ」
でしょう。
信長は「マキャベリスト」でした。つまり「目的達成のためなら、何でもやる人」だったのです。
しかも信長、かなりの「働き者」です。
誰よりも仕事をし、部下を引っ張るタイプだったのでしょう。
信長には、「竹中半兵衛」や「黒田官兵衛」、「山本勘助」のような軍師・参謀がいません。(軍師はいたらしいが、細かい戦術を指示してくれる存在ではなかった)
なぜなら自分で考えて、部下に指示を出すからです。
そのため、信長は人参謀・軍師を必要としないほどに勉強し、仕事をしたものと考えられます。
対して「短所」は
「人の気持ちが全くわかっていないため、相手への配慮が出来ず、次々と敵をつくり続けてしまうこと」
でしょう。
信長は同盟者である「浅井長政」に、かなり見下した態度で接しています。
「長政には、北近江を与えて任せてある。何が不満だというのだ」
浅井長政に裏切られたとき、信長はこう言ったのだとか。
しかし「北近江」という地は、浅井長政の祖父「浅井亮政」の代から支配していた、浅井家代々の領地です。
決して「織田信長」から、「まかされた」または「与えられた」土地ではないのです。
こんなことを言っているようでは、信長は「浅井長政」から、相当に嫌われていたはず。
近年の研究によると、「浅井長政」が義兄「織田信長」を裏切った理由は
「対等な同盟関係のはずが、まるで部下のように扱われたことに激怒したため」
と考えられています。
信長は「サイコパス」、つまり「人間が当然に持っているはずの感情や思慮を生まれつき持たない人間」だったのではないか、という説があります。
その「サイコパス」であったことが原因なのかもしれませんが、信長は「他人の気持ち」が理解できなかったため、「人を怒らせてしまう」ことが、何度もあったのです。
それが原因で「明智光秀」も怒らせて、「本能寺の変」で討たれたという説もあるほどです。
信長の短所は「人の気持を理解することが出来ない」ということなのではないでしょうか。
「浅井長政」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
「織田信長の軍師」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
信長の「戦い方」は、とにかく正攻法を重視!奇策は苦手!
織田信長の戦い方は、意外にも「雑」です。
信長は、「武田信玄」や「上杉謙信」、さらには自分の部下である「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」のように「戦争」が上手ではありません。
生涯に「20回」も敗北している、けっこう「戦が下手な武将」なのです。(信玄や謙信は、「2~3回」しか敗けていない)
しかし信長のスゴイところは「正攻法」と常に重視したことです。
正攻法とはどういうことかというと、信長は常に
「敵よりも多くの兵士を用意してから、開戦した」
ということです。
【1560年】、織田信長はわずか「3000人」の軍団で、「40000人」の軍をひきいた「今川義元」を、「桶狭間の戦い」で撃破しています。
しかしこれ以降、信長は全く油断も自信過剰になること無く、常に「敵より多くの兵士を用意してから戦う」という「正攻法」を崩すことはありませんでした。
「桶狭間の戦い」での「少数の軍団で、敵総大将の首だけを狙う」ような「奇策」を使わなくなったのです。
「姉川の戦い」では、「13000人」の「浅井・朝倉連合軍」に対して、「25000人」の軍を用意したといいます。
「長篠の戦い」では、「15000人」の「武田勝頼」の軍を、「38000人」の軍団で迎撃しています。
信長の戦い方は、「常に正攻法であり、『桶狭間の戦い』のような奇策は、ほとんど使わなかった」ようです。
意外にも信長は、「正々堂々」とした、単純な戦い方をする人だったようです。
「織田信長が天下を制した戦略」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
「織田信長」は、意外にも臆病者だった
プライドが高くて、人を見下していた信長ですが、意外にも『臆病』な性格だったと考えられます。
信長は「武田信玄」と「上杉謙信」、そして「武田勝頼」を、常に恐れていました。
「武田信玄」や「上杉謙信」には、常に下手に出て、ご機嫌を損ねないように気をつけ続けています。
「もはや天下に望みない。あとは朝倉義景どのが、天下の舵取りをしてください」
「志賀の陣」や「宇佐山城の戦い」で、「朝倉義景」「浅井長政」「石山本願寺」「三好三人衆」などを、全て敵に回した信長は、こう言って「朝倉義景」に頭を下げ、講和に持ち込んだと言われています。
「たとえ敗けたとしても、謝ればどうにかなる」
と、信長は考えていた節があります。
織田軍の「柴田勝家」が、「上杉謙信」に大敗した「手取川の戦い」で、信長は決して「安土城」からまったく動きませんでした。
謙信が怖かったのでしょう。
「長篠の戦い」で、「武田勝頼」と戦ったときも、信長は出陣することを、かなり渋った形跡があります。
「甲州征伐」で「武田勝頼」を滅ぼしたときも、信長は息子「織田信忠」を出撃させて、自分は「武田家」がほとんど滅びたあとで出陣しています。
信長は、意外にも「臆病な性格」だったのです。
その「臆病さ」を知られまいとして、居丈高に相手に接していたのかもしれません。
恐れ続けた「武田信玄・勝頼」親子と、最強の「武田家」の圧力から開放された織田信長は、討ち取った「武田勝頼」の首をみて、安心したのでしょうか。
その首を蹴りつけて、あろうことか、口汚くののしり、古来の「しきたり」である「敵といえども、その首に対しては礼節を尽くす」という作法を忘れた暴挙に出ています。
信長は、よほど「武田」をおそれていたことが、このことからもよくわかります。
歴史家「小和田哲男」先生は、この「古来のしきたりを足蹴にする信長の態度」が、「本能寺の変」の原因だったのではないか、と指摘しておられました。
「織田信長の態度が、本能寺の変の原因だったのではないか」という説について、詳しくは以下のリンク記事をお役立てくださいませ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」は、とても「マジメ」で、日々の訓練をおこたらない性格だったが、プライドが非常に高く、付き合いにくいタイプだったと考えられる
2,「織田信長」の長所は「思慮深くて、働き者」であったこと。短所は「人を見下し、他人の気持ちを全く理解しない」こと
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。
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ありがとうございました。
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