この記事では「織田信長と名古屋城の関係」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「信長と名古屋城が、どういう関係にあるのか」を、カンタンに理解できます。
「織田信長」は「名古屋城」の前身「那古野城」で誕生し、その城主をつとめていたのです。
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この記事を短く言うと
直接的な関係はない。ただ、織田信長は、「名古屋城」の前身である「那古野城」で誕生したという説があり「那古野城」の城主を務めていた
2,「那古野城」と「名古屋城」の違いとは?
「那古野城」は、【1555年】に廃城となった城で、「今川氏親」が築城した。「名古屋城」は【1610年】に「徳川家康」が築城した城。
3,九州「肥前・名護屋城」と「名古屋城」の関係とは?
直接的な関係はない。「朝鮮出兵」を計画していた豊臣秀吉が、「名護屋」という地元「那古野」と同じ地名を気に入り、そこへ朝鮮出兵の中継基地「名護屋城」を築城した。
「織田信長」と「名古屋城」は、どういう関係なのか?
「織田信長」は、現在の「名古屋城」の前に存在していた「那古野城」の城主でした。
「那古野城」は、織田信長が生まれた場所という説があります。
ただ、近年の研究では、尾張国・勝幡城(しょばたじょう)で生まれた可能性も浮上しているのだとか。
現在「愛知県名古屋市」にそびえたっている「名古屋城」は、尾張徳川家が代々居城としていたお城です。
「名古屋城」と「那古野城」は、新旧の関係であり、「那古野城」の跡地に「名古屋城」が建築されたのでした。
つまり、「織田信長」と「名古屋城」のあいだに、直接的な関係はありません。
ただ「織田信長」は、現在の「名古屋城」がある場所に建てられていたお城「那古野城」で誕生し、その城主をつとめていたのです。
「名古屋城」と「那古野城」の関係について、これから詳しく解説していきます。
「名古屋城」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
「那古野城」と「名古屋城」の違いを詳しく解説
「那古野城」と「名古屋城」は、ともに「愛知県名古屋市」に存在していたお城で、同じ場所に建てられていたお城です。
【1521年】、「今川義元」の父「今川氏親」が、「那古野城」を築城したといわれています。(築城当初は、「柳ノ丸」と呼ばれていた)
この城を、信長の父「織田信秀」が今川家から奪い取り、「那古野城」と改名し、自分の居城としたのです。
信長はこの「那古野城」を父から譲られて、「清州城」を居城とする【1555年】までの間、自らの居城としています。
那古野城は、このとき廃城とされ、次に「名古屋城」が築城されるまでの約【55年】、歴史の表舞台から姿を消すのです。
「名古屋城」は、【1610年】に築城が開始されたお城です。
この城は、徳川家康の九男「徳川義直」の居城でした。
家康は「天下普請」といって、各地の大名たちの貯金を浪費させて弱体化させるために、巨大な城の建築を大名たちに命じたといわれています。
「福島正則」は、この苦労に愚痴をこぼし、幼馴染の「加藤清正」に注意されたというエピソードが残っています。
【1612年】、「名古屋城」が完成し、「徳川義直」が入城。
これ以後、「名古屋城」は、徳川御三家の筆頭「尾張徳川家」の居城として、藩主17代が住むこととなるのです。
【1868年】、明治維新の際に、「名古屋城」は西からの敵の侵入を食い止めるための重要な基地だったはずが、藩主「徳川慶勝」が薩摩と長州の軍に降伏してしまうのでした。
現在の「名古屋城」は、廃城となった「那古野城」の跡地につくられたお城。
新しいお城を「名古屋城」と呼び、古い城を「那古野城」といいます。
現在「那古野城」の遺構は残っていませんが、「名古屋城二の丸」には、「那古野城」の碑が残されています。
「今川義元」「織田信秀」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
九州「名護屋城」との関係とは?
「豊臣秀吉」が「朝鮮出兵」した際に、本陣をおいたのが「肥前・名護屋(なごや)城」です。
「那古野城」と「名古屋城」、そして「名護屋城」は、どのような関係にあるのでしょうか?
結論からいえば、関係はありません。
「那古野城」をもとに、「名護屋城」と名付けられたわけではありません。
「名護屋」という地名は、もともとついていた地名です。
秀吉は、自らの地元である「尾張国・那古野」と同じ名前である「名護屋」の地を気に入って、ここに「朝鮮出兵」の中継基地である「名護屋城」を築城したといわれています。
「名護屋城」は、【1598年】に秀吉が亡くなると、廃城となっています。
「朝鮮出兵」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
「名古屋城」をつくったのは「徳川家康」と「加藤清正」?
「名古屋城」が築城される前、尾張国は徳川家康の九男「徳川義直」が支配していました。
当時「徳川義直」の居城は、「織田信長」の居城でもあった「清州城」。
しかし「清州城」は、当時の城郭としては不便な城だったのです。
そのため、「徳川家康」は「那古野」という場所に目をつけて、そこに「名古屋城」を築城したのです。
この城の築城作業を担当したのが「加藤清正」や「福島正則」のような全国の大名たちでした。
築城作業はかなり苦しいものであり、猛将「福島正則」はおもわず愚痴をこぼしたといいます。
加藤清正はこれを叱りつけ
「文句があるなら挙兵しろ。それが出来ないなら黙って作業しろ」
と言ったそうです。
名古屋城内には、築城の名手「加藤清正」の銅像がおかれています。
名古屋城は、江戸時代を通じて「尾張徳川家」の居城となり、江戸と名古屋を結ぶ「東海道」の玄関口として、江戸の守備を担当したのでした。
「加藤清正」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「織田信長」と「名古屋城」には、直接的な関係はない。織田信長は、「名古屋城」の前身である「那古野城」で誕生したという説があり「那古野城」の城主を務めていた
2,「那古野城」は、【1555年】に廃城となった城で、「今川氏親」が築城した。「名古屋城」は【1610年】に「徳川家康」が築城した城。
3,九州「肥前・名護屋城」と「名古屋城」に、直接的な関係はない。「朝鮮出兵」を計画していた豊臣秀吉が、「名護屋」という地元「那古野」と同じ地名を気に入り、そこへ朝鮮出兵の中継基地「名護屋城」を築城した。
以上となります。
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