織田信長の石高はどれくらい?石高推移を年表でわかりやすく解説

この記事では「織田信長が支配していた領地の石高」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「信長の領地の広さ・大きさ」を、カンタンに理解できます。

 

「織田信長」は最盛期に、日本全国の4割にあたる、約「787万石」の領地を支配していたのです。


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この記事を短く言うと

 

1,「織田信長」の領地の石高はいくら?

1582年】、信長は「787万石」の領地を支配していた

 

2,信長の「石高」は、どのように推移したのか?

1552年】に信長が織田家の家督を継承した時点で、石高は約「30万石」。そこから30年後の【1582年】に織田家の石高は「787万石」に達した

 

3,織田信長の『最大動員兵力』はどれくらいだったのか?

「信長」の最大動員兵力は、「787万石」の領地と生産力で計算すると約「20万人」であったと考えられる

織田信長の領地の石高を解説!【1582年】最大版図の石高は?

織田信長は、【1582年】の最盛期に、石高で「787万石」を支配していました。

 

ちなみに「1石」とは、「米俵2.5個分」を意味しています。

 

つまり「1石」の領地とは、「1年間に米俵2.5個分(約150キロ)を生産することができる領地」ということです。

 

「787万石」ということは、信長は年間に「19,675,000俵」のお米を生産するだけの領地を支配していたということになります。

 

これは収入に「お金」に換算すると、およそではありますが「1俵」を「75000円」と考えると、約「1500億円」ということになります。

 

米の生産力だけで、信長は「1500億円」の収入を確保していたということです。

 

(この金額は、領民や家臣にも与えなくてはいけないものなので、信長個人の収入は、この金額の6分の1程度であったといわれている)

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

「織田信長」の最大版図は、東は「下野(群馬県)」から、西は「備中国(岡山県)」までを支配していました。

 

合計で「28カ国」です。

 

それぞれの国の生産高は以下のとおりです。(以下の生産高は、信長が亡くなった16年後の【1598年】のものなので、信長が支配していた時代とは数字が異なるかもしれません。参考までに掲載いたしました。)


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  1. 山城国 22万石
  2. 大和国 44万石
  3. 河内国 24万石
  4. 和泉国 14万石
  5. 摂津国 35万石
  6. 伊賀国 10万石
  7. 伊勢国 56万石
  8. 志摩国 1万7千石
  9. 尾張国 57万石
  10. 甲斐国 22万石
  11. 近江国 77万石
  12. 美濃国 54万石
  13. 飛騨国 3万8千石
  14. 信濃国 40万石
  15. 下野国 37万石
  16. 若狭国 8万5千石
  17. 越前国 50万石
  18. 加賀国 35万石
  19. 能登国 21万石
  20. 越中国 38万石
  21. 丹波国 26万石
  22. 丹後国 11万石
  23. 但馬国 11万石
  24. 因幡国 8万8千石
  25. 播磨国 35万石
  26. 美作国 18万石
  27. 備前国 22万石
  28. 淡路国 6万石
合計787.8万石

1552年】、織田信長が父「織田信秀」から織田家の家督を継承したとき、織田家は「尾張国」の半分にあたる約「30万石」前後を支配していたと考えられます。

そこから信長は、わずか30年で、勢力を20倍以上に拡大したのです。

 

この勢力をもってすれば、天下を支配するのは、時間の問題だったでしょう。

 

1583年】、「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」が「柴田勝家」を「賤ヶ岳の戦い」で討ち果たし、織田家を完全に乗っ取ってから、【1590年】に天下統一を実現するまで7年かかっています。

 

信長は【1582年】の時点で、関東の覇者「北条氏政」や、東海道の支配者「徳川家康」、南九州を支配していた「島津義久」を参加におさめていたので、天下統一を果たすには「2~3年」で足りたと思います。

 

「豊臣秀吉の天下統一への道のり」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『豊臣秀吉の天下統一までの道を解説!農民が偉業達成できた3つの理由』の記事はコチラ

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信長の「石高推移」を年表でカンタン解説!

「織田信長」は、尾張国の半分を支配していた状態から始まり、【1582年】に亡くなるまでに、「28カ国」を支配するに至りました。

 

その推移を、年表でわかりやすく解説いたします。


1552年

父「織田信秀」死去、信長が家督を継承。「尾張国」の半分を支配

  • 【尾張国半分約28万石】

【領地合計28万石】

 

 

1565年

信長、犬山城主「織田信清」に勝ち、尾張統一を達成

【尾張国57万石】

信長、「滝川一益」の援軍を得て伊勢に侵攻。「神戸具盛」らを屈服させ、北伊勢を平定

  • 【伊勢国半分約28万石】

【領地合計85万石】

 

 

1567年

信長、美濃「斉藤龍興」を攻撃。稲葉山城陥落

美濃を平定

  • 【美濃国54万石】

【領地合計139万石】

 

 

1568年

9月、信長、「足利義昭」とともに上洛を開始。

これにより、信長は「南近江」や「山城」「大和」「摂津」「河内」など畿内の大部分を制圧

  • 【近江国半分約38万石】
  • 【山城国22万石】
  • 【大和国44万石】
  • 【摂津国35万石】
  • 【河内国24万石】

【領地合計302万石】

 

 

1569年

信長、北伊勢に続き、南伊勢・志摩も平定

  • 【伊勢国半分約28万石】
  • 【志摩2万石】

【領地合計332万石】

 

 

1570年

「飛騨国」の「姉小路頼綱」が信長に臣従

  • 【飛騨国4万石】

【領地合計336万石】

「1570年時点での戦国武将の勢力図・版図」
「引用元ウィキペディアより」

 

1573年

「槇島城(まきしまじょう)の戦い」で「足利義昭」を撃破。

信長は義昭を京都から追放。

これにより【1336年】から「237年間」続いた「室町幕府」滅亡。

8月、信長、「朝倉義景」を攻め滅ぼし、直後に「浅井長政」も攻め滅ぼす。

北近江・越前・若狭を支配

しかし「越前国」は、この直後に「一向一揆」に奪われてしまう。

  • 【近江国残り半分を支配し、全域77万石を征服】
  • 【越前国50万石】
  • 【若狭国8万石】

【領地合計433万石】


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1575年

「長篠の戦い」で「織田・徳川連合軍」が「武田勝頼」に圧勝。

8月、「越前一向一揆」討伐。一向一揆に奪われていた「越前国」を奪い返し、「柴田勝家」に与えられる

 

 

1576年

1月、「安土城」の築城開始。

 

 

1578年

3月13日、「上杉謙信」急死。享年49歳。混乱に乗じて、信長は「越中(富山県)」に侵攻。

 

 

1579年

「明智光秀」が「丹波・丹後」を平定。

「備前国」「美作国」の大名「宇喜多直家」が、「織田信長」に臣従。

  • 【丹波国26万石】
  • 【丹後国11万石】
  • 【美作国18万石】
  • 【備前国22万石】

【領地合計510万石】


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1580年

3月 相模国(神奈川県)の大名「北条氏政」、信長に従属を申し出る。信長の支配地域、関東まで拡がる。

「本願寺顕如」が「石山本願寺」から退去し「石山戦争」終結。「石山本願寺」があった「摂津国」の他「和泉」も平定

柴田勝家が「加賀国」を平定。「能登」「越中」への侵攻開始

羽柴秀吉が「播磨国」「但馬国」を平定

  • 【和泉国14万石】
  • 【加賀国35万石】
  • 【能登国21万石】
  • 【越中国38万石】
  • 【播磨国35万石】
  • 【但馬国11万石】

【領地合計664万石】

 

 

1581年

「第二次天正伊賀の乱」、「織田信雄」が「伊賀国」平定

秀吉が「因幡国」「淡路国」を平定

  • 【伊賀国10万石】
  • 【因幡国8万石】
  • 【淡路国6万石】

【領地合計688万石】

 

 

1582年

3月、「甲州討伐」、「武田勝頼」死去、武田家滅亡。(天目山の戦い)

「信濃」「甲斐」「下野」を攻略。「駿河国」は徳川家康に与えられる。

6月2日未明、「本能寺の変」勃発。織田信長、自害。【享年49歳】

  • 【信濃国40万石】
  • 【甲斐国22万石】
  • 【下野国37万石】

【領地合計787万石】

 

 

「織田信長の生涯年表」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『織田信長がしたことを年表にまとめて簡単解説!『天下の取り方』教えます』の記事はコチラ

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織田信長の「最大動員兵力」は20万人!

織田信長の最大動員兵力は、「最低でも20万人」であったと考えられます

 

当時は「1万石につき250人」という兵役が一般的だったといわれています。

 

先程解説しましたが「領地1万石」につき「米俵25000俵」を生産することができるのです。

 

これはつまり「米俵100俵につき1人」の兵役が課されていた、という計算になります。

 

信長の版図は「787万石」なので、「1万石250人」で計算してみると

 

「787万石」✕「250人」=「1,967,500人」

 

約「20万人」です。

 

しかし、おそらく信長の軍団は、こんなものではなかったでしょう。

 

なぜなら、信長の領地における兵役は、国によって異なるでしょうけれど、「1万石につき250人」以上であった可能性が高いからです。


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「明智光秀」は、自らの領地である「丹波・近江坂本」において、「1万石につき600人」という兵役を課していました。

 

つまり「1万石250人」という通常の2倍以上です。

 

そのため、明智光秀の領地34万石の最大動員兵力は「20,400人」となります。

 

ちなみに「光秀」の領地の兵役を「1万石250人」で計算してみると「8500人」です。

 

ということは兵役が2倍以上だったのが、「明智光秀」の領地のみであったとしても、信長の最大動員兵力は、「20万人」を超えることになります。

 

単純に計算して、信長が自らの領地に通常の2倍の兵役を課していたら、最大動員兵力は「20万人」どころか、その2倍以上の「40万人」ということになります。

 

とはいえ、そんな重税を信長が課すとは思えません。

 

信長がおこなった「政治・経済の政策」では、「減税」と「景気活性化」が基本方針だったため、重税はありえないのです。

 

信長の最大動員兵力は「20万人」前後であったと考えるのが、現実的で妥当な数字だと思います。

 

「織田信長の政治政策」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『織田信長の政治政策をわかりやすく解説!現代でも通用する方法だった』の記事はコチラ
『織田信長の経済政策をカンタン解説!「規制緩和」で大金持ちになった』の記事はコチラ

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信長は「日本の40%以上」を直接支配していた!

織田信長は、最盛期には日本全国の約「40%」を支配していました。

 

当時の日本は、全国合わせて「約1800万石」の生産力があったと考えられています。

 

そのうち信長は「787万石」を支配していたので、日本の半分弱を支配していた計算になるのです。

 

また、日本は当時「66カ国」に分類されていました。

 

信長はそのうち「28カ国」を支配していたので、国の数でも、「約40%」を支配していた計算になるのです。


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それだけではなく、信長は「北条氏政」や「徳川家康」、さらには「島津義久」たちを支配下においていたので、その領地も含めれば、「日本の半分以上を支配していた」ことになります。

 

残りの半分を屈服させるなど、2~3年もかからなかったかもしれません。

 

1582年】に「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれて亡くなったとき、信長は「天下統一」まで、本当にあと少しの状態だったのです。

 

どれほど無念だったか、想像を絶するものがあります。

 

「本能寺の変」と「明智光秀」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『【本能寺の変】の謎や真相をすべて解説!黒幕や動機について完全網羅』の記事はコチラ
『明智光秀の全てを徹底解説!年表からエピソードや性格まで完全網羅』の記事はコチラ

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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「織田信長」の領地の石高は、1582年】時点で、「787万石」の領地を支配していた

 

2,信長の「石高」は、1552年】に織田家の家督を継承した時点で、約「30万石」。そこから30年後の【1582年】に「787万石」に達した

 

3,織田信長の『最大動員兵力』は、約「20万人」

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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