武田勝頼の評価が上昇している理由は?天目山の最後が見事だったから!

武田勝頼の後世の評価が上がっている理由は何?

天目山での最期は見事だった?

武田信玄の息子・武田勝頼について、簡単に短く解説!


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

・武田勝頼は、信玄時代の最盛期以上の最大版図を築き上げた、名将と言って良い人物

・織田信長・徳川家康と渡り合い、見事な最期を遂げた

・「御館の乱」への介入に、失敗したことが明暗を分けた・・・


武田勝頼の評価とは?

武田勝頼

戦国時代屈指の名将「武田信玄」の四男にして、名門・武田家の実質的な最後の当主。

後世、武田勝頼の評価は非常に低いものがありました。

長篠の戦い」で、日本最強と讃えられた「武田騎馬軍団」を1万以上失い、挙句の果てには「名門・武田家」を滅ぼしているのですから、当然といえば当然です。

しかし、相手はあの「織田信長」と「徳川家康

ともに天下を取ったと言っていい「名将の中の名将」

その2人に敗北したからと言って、「勝頼は愚か者」という評価はあまりに残酷。

武田勝頼は、「長篠の戦い」で織田・徳川に大敗したとはいえ、その後、「武田家」を更に拡大させています。

上野国(群馬県)」をほぼ制圧

北は「越後国(新潟県)」現在の糸魚川市辺りまでを支配下に

南は「駿河国(静岡県東部)」

遠江国」のほとんど

三河国」の一部。

本拠地である「甲斐国

信濃国」のほぼ全域。

1579年頃、勝頼は父・信玄の最盛期を追い抜き、武田家の最大版図を獲得していたのです。

決して保守的な人物ではなく、結果を出していることからして、評価できる人物ではないでしょうか。

織田信長も、勝頼のことを

「油断できない大将」

と評価していますし、長篠の戦いや、天目山の戦いにおいて、信長は勝頼を露骨に恐れています。

決して愚将ではありません。


長篠の戦いの真実」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。

↓↓↓↓↓


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天目山の戦いでの最期は、見事なものだった?

勝頼が亡くなったのは、1582年の「天目山の戦い」

息子である「武田信勝」に家督を譲り、ともに自刃しています。

大河ドラマ「真田丸」の序盤。「平岳大」さんが演じる武田勝頼の、哀愁漂う名演技が話題となり、武田勝頼の人気が一気に高まったことがありました。

「真田丸」の次の大河ドラマ「おんな城主直虎」でも、イケメン俳優「奥野瑛太」さんが演じて、話題になっています。

名作大河ドラマとの呼び声高い「真田丸」で、勝頼は最期に父「武田信玄」の霊を目の当たりにし

「叱ってくだされ」

と涙ながらに許しを請うシーンがあります。

これは創作でしょうけれども、その後も武田家は密かに命脈を保っています。

名将「織田信長」や、後の天下人「徳川家康」・・名門「北条」「上杉」と互角以上に渡り合った勝頼の最期・・・。

見事だったのではないでしょうか。


武田勝頼の子孫」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。

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武田勝頼の最大の失敗とは?

最大版図を築き上げた武田勝頼・・・・にも関わらず滅びてしまった、勝頼の最大の失敗とは、何だったのでしょうか?

それはおそらく「上杉家の跡目争い」への介入にしくじった、ということでしょう。

越後の上杉家では、1578年に「上杉謙信」が亡くなり、残された2人の養子「上杉景勝」と「上杉景虎」が家督を争っていました。

景勝は、謙信の甥。

景虎は、相模国主「北条氏政」の実弟で、謙信の養子。

景虎は、元々は北条家から和睦の証として上杉謙信の人質として差し出された人物でした。

この時、武田勝頼は「北条氏政」と同盟関係にあったため、「上杉景虎」に味方して越後へ出兵。

しかし勝頼は、突然「上杉景勝」に乗り換えたため、景虎は敗死。

実弟「景虎」を裏切った「武田勝頼」に、激怒したのが「北条氏政」

氏政・景虎の妹「北条夫人」は、同盟の証として「武田勝頼」の妻となっていましたが、北条氏政はそれを無視して、織田・徳川と協力し武田を攻撃。

1582年、東西南と三方から攻められた武田は滅亡したのでした。

この「御館の乱」で、徹底的に「上杉景虎」を支援していれば、最終的には「上杉」「武田」「北条」の三国同盟が成立していたはず。

そうすれば、上杉景虎と協力して、織田と戦えたはずなのです。

とはいえ、勝頼の「景勝」支援は、仕方ないかもしれません。

何といっても、この時「北条家」と織田信長は、良好な関係を築いていた可能性があるのですから。

信長と北条家が同盟したら、下手したら上杉景虎まで同盟に加わり、「織田信長」「徳川家康」「上杉景虎」「北条氏政」と・・・勝頼は、四方全てを敵にしていた可能性もあります。

勝頼の「景勝」への乗り換えは、最悪のケースを回避するためだったのかもしれないのです。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

・武田勝頼は、信玄の時代を越えて、最大版図を築いた名将

・勝頼の最期は、恥じぬものだった

・勝頼の最大の失敗は、「御館の乱」への介入で、「景虎」に加担すべきだったこと

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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