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徳川慶喜を年表で簡単に紹介!天才・慶喜が日本を守るためにやったこととは

皆さんは「徳川慶喜」を、ご存知でしょうか?

実は「徳川慶喜」が、いつ何をした人なのかについて、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。

この記事では「徳川慶喜の年表」を、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。

特に「徳川慶喜の誕生」から、「江戸城無血開城をして引退生活を送るまで」のあいだに、一体何があったのかを、年表形式でくわしく解説いたしました。

ちなみに、【徳川慶喜の生涯】を、ザッと年表にすると、以下の通りとなります。

  • 【1837年】、徳川慶喜誕生
  • 【1853年】、幕末の始まり「黒船来航~薩長同盟」
  • 【1867年】、慶喜が将軍に就任「大政奉還~明治維新」
  • 【1869年】、慶喜引退「戊辰戦争終結」
  • 【1913年】、徳川慶喜・死去

今は「徳川慶喜」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

これを読めば、誰かに説明できるほど、「徳川慶喜」に詳しくなれます。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,徳川慶喜の生涯とは、どんなものだったのか?

慶喜は、幼い頃から天才と呼ばれ、西欧列強の日本侵略が迫る中で、周囲から征夷大将軍になってもらいたいという希望が絶えないほど優秀だった。

危機におちいった日本を救ってもらおうと、誰もが慶喜にトップに就任してほしいと願ったが、本人は将軍になりたがらなかった

結局、慶喜征夷大将軍となり、倒幕派や外国と戦いながら、日本を守ろうとしたが、江戸幕府を守ることはできず、内戦を回避するために降伏し、政権を新政府へと引き渡した。

 

2,徳川慶喜の生涯を、超カンタンに言ってしまうと?

1837年に誕生

1867年に15代・征夷大将軍に就任し、同年に大政奉還した。

1868年(明治元年)王政復古の大号令鳥羽・伏見の戦い戊辰戦争)、江戸城無血開城明治維新などが起こり、それ以降慶喜は歴史の表舞台から姿を消した。

1913年(大正2年)、77歳で亡くなった。

 

3,徳川慶喜の功績とは何か?

慶喜の功績といえば、大政奉還江戸城無血開城だろう。

大政奉還とは、幕府がもっていた政治をおこなう権限を朝廷へと返還した行為のこと。

江戸城無血開城とは、幕府が戦うことなく、朝廷に対して完全降伏したこと。

大政奉還は、のちに明治天皇から功績として認められ、慶喜は表彰されている。

慶喜が大政奉還と江戸城無血開城をおかげで、日本の内戦は最小限におさえられた。

徳川慶喜の生涯年表(ダイジェスト・省略版)

徳川慶喜の生涯について、くわしい年表で解説する前に、まずはカンタンにその生涯を理解できるように、ダイジェスト年表をご用意いたしました。

徳川慶喜
『引用元ウィキペディアより』

これを読むだけでも、慶喜の生涯がザッと理解できると思います。

ちなみに、すでにご存知かもしれませんが、年表に登場する「一橋慶喜」とは、徳川慶喜の別名です。


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【1837年10月28日(天保8年9月29日)】(徳川慶喜・数え年1歳)

徳川慶喜誕生

 

 

【1858年】(22歳)

大老・井伊直弼日米修好通商条約を結ぶ

13代将軍・徳川家定が病死し、徳川家茂が14代将軍に就任

井伊直弼による安政の大獄が始まり、徳川斉昭一橋慶喜(徳川慶喜)が隠居・謹慎処分

 

 

【1860年】(24歳)

桜田門外の変勃発。井伊直弼が暗殺される

慶喜の父・徳川斉昭が亡くなる

一橋慶喜の謹慎が解除

 

 

【1864年】(28歳)

禁門の変(蛤御門の変)に、長州藩が敗北。このとき一橋慶喜は、禁裏御守衛総督という役目を負って、幕府軍を指揮し、長州藩を撃退

 

 

【1866年】(30歳)

薩長同盟が成立

徳川家茂死去

 

 

【1867年】(31歳)

徳川慶喜が第15代征夷大将軍に就任

討幕の密勅薩摩と長州にくだされる。同日、徳川慶喜大政奉還を発表

 

 

【1868年(慶応4年・明治元年)】(32歳)

王政復古の大号令が発せられる

鳥羽・伏見の戦いが勃発し、慶喜ひきいる旧幕府軍が敗北戊辰戦争開始)

徳川慶喜が、旧幕府軍に対して徹底抗戦を命令しておきながら、自分は大阪城から江戸へ逃亡

朝廷が徳川慶喜を朝敵に指名。徳川慶喜が江戸城を出て、上野寛永寺で謹慎

江戸城無血開城が決定

無血開城が行われると同時に、徳川慶喜は寛永寺を出て水戸へ、さらに駿河へ移動し、謹慎を続ける

 

 

【1869年(明治2年)】(33歳)

箱館戦争が終結し、戊辰戦争が終わる

徳川慶喜の謹慎が解除されるが、慶喜は続けて静岡で生活を続ける。これ以降、慶喜は趣味に没頭し、歴史の表舞台から消える

 

 

【1913年(大正2年)】(77歳)

11月22日徳川慶喜死去。享年76歳(数え年77歳)


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徳川慶喜の生涯年表(詳細バージョン)

徳川慶喜の生涯について、有名な歴史的事件もふくめて、さらにくわしい年表をご用意いたしました。

これを読めば、徳川慶喜が生きていた時代に、何が起こっていたのかが、カンタンに理解できると思います。

のマークは、徳川慶喜と直接関係のある歴史的事件につけられております。

【1837年】、徳川慶喜・誕生

【1837年10月1日(天保8年9月2日)

徳川家慶が、第12代・征夷大将軍に就任

 

 

【1837年10月28日(天保8年9月29日)】(徳川慶喜・数え年1歳)

江戸・小石川の水戸藩邸で、水戸藩の第九代藩主・徳川斉昭の七男・徳川慶喜が誕生。母は有栖川吉子。幼名は七郎麿(しちろうまろ)

大塩平八郎の乱が勃発する

 

 

【1838年】(2歳)

徳川慶喜が、江戸から水戸へ移動。水戸で養育されることとなる

 

 

【1840年】(4歳)

渋沢栄一誕生

清国でアヘン戦争が勃発する

《渋沢栄一》
「引用元ウィキペディアより」

【1841年】(5歳)

水戸藩で藩校・弘道館が創設される

 

 

【1842年】(6歳)

高島秋帆(たかしま しゅうはん)が外国人と交友した罪により牢獄へ入れられる(のちに冤罪が認められる)

イギリスの船・サマラン号が、八重山に上陸して、無理やり測量をおこなう

異国船打払令から薪水給与令へと変更される


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【1843年(天保15年・弘化元年)】(7歳)

阿部正弘が老中に就任する

6月21日(旧暦5月6日)慶喜の父である水戸藩主・徳川斉昭が追鳥狩をおこなったことで疑いをかけられ、謹慎処分を受ける

漁の最中に遭難したジョン万次郎が、アメリカに上陸する

徳川斉昭
『引用元ウィキペディアより』

【1844年】(8歳)

フランスの船・アルクメール号が、那覇に入港して通商を求める

 

 

【1845年】(9歳)

慶喜の父である水戸藩主・徳川斉昭の謹慎が解除される

アメリカの船・マンハッタン号が、漂流民を乗せて浦賀へ入港し、通商を求める

イギリスの船・サマラン号が、浦賀へ入港する


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【1846年】(10歳)

仁孝天皇が崩御

孝明天皇が即位

アメリカの東インド艦隊司令長官・ビットルが、浦賀に入港して通商を求める

 

 

【1847年】(11歳)

一橋徳川家の当主・昌丸が死去

水戸藩の徳川七郎麿こと徳川慶喜が、一橋家の養子となって、一橋家を相続

 

 

【1848年】(12歳)

徳川七郎麿が元服(成人)する。将軍・徳川家慶の一字をもらい、一橋慶喜徳川慶喜)と名乗る

慶喜が、一条忠香と婚約する

 

 

【1849年】(13歳)

イギリスの軍艦マリナー号が、浦賀・下田に来航して、測量をおこなう。伊豆代官の江川英龍が、これに退去を命令する

江川英龍が、伊豆・韮山に反射炉(はんしゃろ・金属を精錬するためのもの)を建設する

 

 

【1851年】(15歳)

土佐藩から漂流してアメリカへわたっていたジョン万次郎が、琉球へ上陸する

 

 

【1852年】(16歳)

ジョン万次郎が土佐へ帰郷する

オランダの商館長・クルチウスが、アメリカ艦隊が翌年日本をおとずれることを通告する


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【1853年】、幕末の始まり「黒船来航~薩長同盟」

【1853年】(17歳)

アメリカの東インド艦隊司令官マシュー・ペリーが、軍艦4隻をひきいて浦賀へ来航。アメリカ大統領からの国書を受け取るように要求する(黒船来航

12代将軍・徳川家慶死去

ロシア使節・プチャーチンが軍艦4隻をひきいて長崎へ入港。国書の受け取りを要求する

牢獄へ入れられていた高島秋帆が、冤罪を証明されて牢獄から出される

慶喜の弟・徳川昭武が誕生する

徳川家慶の息子・徳川家定が、13代将軍に就任する

ジョン万次郎が、幕府に採用される

一橋慶喜一条忠香の婚約が破棄される(婚約破棄の理由は、一条忠香が疱瘡にかかったため)

一橋慶喜一条忠香の養女・美賀子と婚約

マシュー・ペリー
『引用元ウィキペディアより』

【1854年】(18歳)

ペリーが軍艦7隻をひきいて江戸湾にあらわれる

日米和親条約が結ばれ、下田・箱館が開港する

吉田松陰が、ペリー艦隊へ忍び込んで密航をこころみるが失敗し、とらわれる

 

 

【1855年】(19歳)

一橋慶喜一条美賀子が結納を交わす

安政の大地震が発生する。水戸藩士・藤田東湖が、母親をかばって亡くなる

 

 

【1856年】(20歳)

一橋慶喜一条美賀子とが結婚

一橋慶喜が参議に補任される

長崎に海軍伝習所が設置される

アメリカの総領事ハリスが下田に着任する

薩摩藩主・島津斉彬の養女・天璋院篤姫が、13代将軍・徳川家定に嫁ぐ

天璋院篤姫
『引用元ウィキペディアより』

【1857年】(21歳)

13代将軍・徳川家定の後継者として、一橋慶喜が有力候補となる

阿部正弘が病死

吉田松陰が、叔父・玉木文之進から松下村塾を受け継ぎ、講義を始める


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【1858年】(22歳)

井伊直弼大老に就任する

13代将軍・徳川家定の後継者問題(将軍継嗣問題)で、一橋慶喜ではなく、徳川家茂が次期将軍に決定する

井伊直弼が、朝廷からの許可なく、日米修好通商条約を結ぶ

慶喜の父・徳川斉昭とその息子・徳川慶篤松平春嶽徳川慶勝らが、条約を調印した井伊直弼に抗議するために、江戸城へ不時登城を強行する

井伊直弼は、徳川斉昭らの不時登城を処罰し、隠居・謹慎を命じる

13代将軍・徳川家定が病死

薩摩藩主・島津斉彬が病死

朝廷から水戸藩に対して「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」がくだされる

徳川家茂が14代将軍に就任する

井伊直弼による安政の大獄が始まり、梅田雲浜橋本左内たちが捕らわれる

 

 

【1859年】(23歳)

トーマス・グラバーが来日し、長崎にグラバー商会を設立。のちにグラバー商会は、倒幕派へ武器・弾薬を売りさばくこととなる

一橋慶喜が、安政の大獄により隠居・謹慎処分を受ける

安政の大獄により、橋本左内吉田松陰らが処刑される

《吉田松陰》
『引用元ウィキペディアより』

【1860年】(24歳)

桜田門外の変勃発。井伊直弼が暗殺される

慶喜の父・徳川斉昭が亡くなる

一橋慶喜松平春嶽山内容堂らの謹慎が解除される

 

 

【1861年】(25歳)

武市半平太武市瑞山)が土佐勤王党を結成する

孝明天皇の妹・和宮が、徳川家茂へ降嫁することが決まる


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【1862年】(26歳)

坂下門外の変勃発

和宮徳川家茂が結婚

薩摩藩主の父・島津久光が、兵をひきいて入京し、幕政改革を迫る

寺田屋騒動(寺田屋事件)により、薩摩藩の攘夷派が一掃される。有馬新七らが亡くなる

一橋慶喜が将軍後見職に、松平春嶽が政治総裁職に任命される

松平容保が京都守護職に任命される

生麦事件勃発。島津久光ら薩摩藩の一行が、イギリス人4名を殺傷する

 

 

【1863年】(27歳)

イギリス公使館焼き討ち事件高杉晋作らが焼き討ちを強行する

徳川家茂が京都へ。(徳川家茂を警護する名目で、壬生浪士組こと後の新選組が結成される)

このとき一橋慶喜は、徳川家茂よりも先に京都へ向かい、朝廷と攘夷(外国人への攻撃)について協議を開始

徳川家茂が、攘夷決行を孝明天皇と約束する

長州藩が下関で外国船への砲撃を開始

高杉晋作奇兵隊を結成する

伊藤博文井上馨たち長州ファイブがイギリス留学へ出発

生麦事件の報復として、薩英戦争勃発

八月十八日の政変により、長州藩が京都から追放される

薩英戦争の講和が成立し、薩摩とイギリスが接近する


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【1864年】(28歳)

天狗党の乱が始まる

池田屋事件により、吉田稔麿が亡くなる

長州ファイブの伊藤博文井上馨が帰国する

一橋家の家老・平岡円四郎が、京千本通で暗殺される

馬関戦争により、英仏蘭米の四カ国連合軍に、長州藩が敗北する

禁門の変により、長州藩が敗北。久坂玄瑞入江九一らが亡くなる。このとき一橋慶喜は、禁裏御守衛総督という役目を負って、幕府軍を指揮していた

第一次長州征伐が始まるが、西郷隆盛の尽力により、長州藩は降伏する

一橋慶喜天狗党の乱を鎮圧するために出陣する

 

 

【1865年】(29歳)

高杉晋作功山寺挙兵し、クーデターに成功する。長州藩が倒幕派に支配される

天狗党の乱が鎮圧され、首謀者であった武田耕雲斎藤田小四郎が処刑される

土佐勤王党が弾圧され、武市半平太武市瑞山)が切腹

高杉晋作
『引用元ウィキペディアより』

【1866年】(30歳)

坂本龍馬の仲介により、薩摩藩と長州藩のあいだで薩長同盟が成立する

第二次長州征伐が開始

徳川家茂が死去。一橋慶喜が徳川宗家を相続するが、将軍職は拒絶する

第二次長州征伐が事実上幕府の敗北に終わる

坂本龍馬
『引用元ウィキペディアより』

【1867年】、慶喜が将軍に就任「大政奉還~明治維新」

【1867年】(31歳)

徳川慶喜が第15代征夷大将軍に就任する

孝明天皇が崩御。明治天皇が即位

徳川慶喜の弟・徳川昭武が、パリ万国博覧会に参加するために日本を出発する。これに渋沢栄一も同行する

徳川慶喜が、松平春嶽山内容堂伊達宗城島津久光らと二条城で四侯会議をひらく

高杉晋作が病死

1867年11月9日(慶応3年10月14日)討幕の密勅が薩摩と長州にくだされる

討幕の密勅がくだされたその日、徳川慶喜大政奉還を発表する

1867年11月10日(慶応3年10月15日)徳川慶喜が朝廷に参内して、大政奉還し、朝廷はこれを受理。

朝廷は徳川慶喜に対して、「大政奉還のあとも、引き続き政務をとりおこなうように」と通達する

1867年12月10日(慶応3年11月14日)、朝廷で小御所会議が開かれ、徳川慶喜に対して辞官納地(辞職して領地を返納すること)を要求

1867年12月10日(慶応3年11月15日)近江屋事件が発生。坂本龍馬中岡慎太郎が、京都市中見廻組の佐々木只三郎に暗殺される。暗殺命令を下したのは会津藩主・松平容保


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【1868年(慶応4年・明治元年)】(32歳)

岩倉具視らの画策により、王政復古の大号令が発せられる

徳川慶喜が、英仏米蘭伊普の行使に対して、今も自分が政権を担当していると宣言

薩摩藩による放火・暴行などの挑発行為に激怒した庄内藩が、薩摩藩江戸藩邸を襲撃する

鳥羽・伏見の戦いが勃発。戊辰戦争開始。錦の御旗をかかげた薩摩軍が鳥羽・伏見の戦いに勝利

徳川慶喜が、旧幕府軍に対して徹底抗戦を命令しておきながら、自分は大阪城から江戸へ逃亡

朝廷が徳川慶喜を朝敵に指名

徳川慶喜が江戸城を出て、上野寛永寺で謹慎。これにより、調停に対して降伏する意思を示した

幕府の全権を任された勝海舟西郷隆盛の会談により、江戸城無血開城が決定

五箇条の御誓文が発布される

江戸城無血開城が行われる。これに不満を抱いた旧幕府軍・榎本武揚らが軍艦をひきいて江戸から脱出。徳川慶喜は寛永寺を出て、ふるさとである水戸・弘道館で謹慎を続ける

会津戦争北陸戦争上野戦争が勃発し、全て新政府軍の勝利に終わる

徳川宗家の領地約200万石が没収され、その代わりに駿河70万石がくだされると、徳川慶喜も水戸から駿河へ移動し、謹慎生活を続ける

10月23日(旧暦9月8日)、同年1月1日にさかのぼって、元号を明治と改元(明治維新

箱館戦争開始


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【1869年】、慶喜引退「戊辰戦争終結」

【1869年(明治2年)】(33歳)

新選組の元副長・土方歳三箱館戦争で戦死

榎本武揚黒田清隆らの説得により降伏。箱館戦争が終結し、戊辰戦争が終わる

版籍奉還がおこなわれる

明治2年9月徳川慶喜の謹慎が解除されるが、慶喜は続けて静岡で生活を続ける。これ以降、慶喜は写真や絵画・狩猟など趣味に没頭する生活を続ける。慶喜渋沢栄一などの旧幕臣とは交友を続けたという

《土方歳三》
「引用元ウィキペディアより」

【1871年(明治4年)】(35歳)

廃藩置県が行われる

岩倉使節団を派遣される

 

 

【1872年(明治5年)】(36歳)

学制が発布される

新橋・横浜間の鉄道が開通

琉球王国が消滅し、琉球藩へ

 

 

【1873年(明治6年)】(37歳)

徴兵令が公布される

地租改正がおこなわれる

明治六年の政変により、西郷隆盛江藤新平副島種臣らが政府を辞める

 

 

【1874年(明治7年)】(38歳)

佐賀の乱勃発。首謀者だった江藤新平が処刑される

渋沢栄一が、第一国立銀行の頭取に就任する。これ以降渋沢栄一は個人で、または第一国立銀行を通じて、500社もの会社設立にたずさわることとなる


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【1875年(明治8年)】(39歳)

ロシアとのあいだで千島樺太交換条約が結ばれる

 

 

【1876年(明治9年)】(40歳)

廃刀令が公布される

萩の乱勃発。首謀者・前原一誠処刑され、松下村塾の玉木文之進が切腹

 

 

【1877年(明治10年)】(41歳)

木戸孝允桂小五郎が病死する

西南戦争勃発。首謀者・西郷隆盛が亡くなる

西郷隆盛
『引用元ウィキペディアより』

 

【1878年(明治11年)】(42歳)

紀尾井坂の変により、大久保利通が暗殺される

 

 

【1879年(明治12年)】(43歳)

琉球処分により、沖縄県設置

 

 

【1881年(明治14年)】(45歳)

開拓使官有物払下げ事件が起こり、黒田清隆五代友厚らが批判を浴びる。この事件をきっかけにして明治十四年の政変が起こり、伊藤博文により大隈重信らが政府から追放される


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【1889年(明治22年)】(53歳)

大日本帝国憲法が発布される

 

 

【1890年(明治23年)】(54歳)

第一回衆議院議員総選挙が行われる

 

 

【1891年(明治24年)】(55歳)

大津事件により、ロシア皇太子ニコライが負傷する

 

 

【1894年(明治27年)】(58歳)

日清戦争勃発

 

 

【1895年(明治28年)】(59歳)

清国と下関条約を結び、日清戦争が終わる。日本は遼東半島を手に入れる

ロシア・ドイツ・フランスの三国干渉により、日本は遼東半島を手放す


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【1897年(明治30年)】(61歳)

11月、徳川慶喜は静岡から東京・巣鴨へ転居

 

 

【1898年(明治31年)】(62歳)

有栖川宮威仁(たけひと)親王の仲介で、徳川慶喜明治天皇に謁見

 

 

【1901年(明治34年)】(65歳)

徳川慶喜が、東京・小石川の屋敷へ転居する。

 

 

【1902年(明治35年)】(66歳)

日本とイギリスのあいだで、日英同盟が結ばれる

徳川慶喜が公爵に任じられ、貴族院議員に就任する。また、徳川宗家とは別に、徳川慶喜家という家を起こすことが許される

 

 

【1904年(明治37年)】(68歳)

日露戦争勃発

 

 

【1905年(明治38年)】(69歳)

小村寿太郎がロシアとポーツマス条約を結び、日露戦争が終わる

ポーツマス条約でロシアから賠償金が取れなかったことに激怒した民衆が、日比谷焼き討ち事件を起こす


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【1908年(明治41年)】(72歳)

大政奉還を功績として認められ、徳川慶喜明治天皇から勲一等旭日大綬章を授与される

 

 

【1909年(明治42年)】(73歳)

伊藤博文が暗殺される

《伊藤博文》
『引用元ウィキペディアより』

【1910年(明治43年)】(74歳)

日韓併合条約が結ばれる

徳川慶喜が、貴族院議員を辞職し、七男・慶久に家督をゆずる。再び趣味に没頭する生活をはじめる

 

 

【1911年(明治44年)】(75歳)

日米通商航海条約が改正され、関税自主権を回復する。これにより1858年に大老・井伊直弼が結んだ不平等条約が、完全に撤廃された

【1913年】、徳川慶喜・死去

【1912年(明治45年・大正元年)】(76歳)

明治天皇崩御。大正天皇即位。元号が明治から大正と改元される

乃木希典明治天皇に殉じ、亡くなる。

ストックホルムオリンピックが開催され、初めて日本代表が参加する。日本からは金栗四三三島弥彦が参加。嘉納治五郎が日本選手団団長をつとめた

《乃木希典》
「引用元ウィキペディアより」

【1913年(大正2年)】(77歳)

11月22日徳川慶喜が死去。死因は風邪と急性肺炎の併発。享年76歳(数え年77歳)


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徳川慶喜が【歴史に残した功績】とは何かをカンタン解説

徳川慶喜が歴史に残した功績は、「大政奉還」と「江戸城無血開城」でしょう

大政奉還については、のちほどくわしく解説いたしますが、その意味を短く簡単に言ってしまうと、それまで幕府がもっていた政治を行う権限を朝廷に返上した行為のことです。

一方、江戸城無血開城とは、すなわち戦争を回避して、多くの命を救った行為のことです。

江戸城無血開城によって、江戸の街に住む100万人の人々は戦火をまぬがれました。

さらに無血開城が成功したことで、明治新政府は東京という、世界的に有数の巨大都市を温存し、その生産力を新しい国造りに活かすことができました。

簡単に言ってしまうと、徳川慶喜がやったことは

無駄な抵抗をすることなく新しい日本をつくろうとする勢力(薩長)に降伏したこと

です。

権力者は、その権力を維持するために、死にものぐるいで抵抗するものです。

鎌倉幕府最後の権力者・北条高時は、新田義貞の大軍団に攻撃されても、死ぬまで抵抗しました。

室町幕府最後の将軍・足利義昭は、非力ではあったものの、織田信長に徹底抗戦しています。

ところが江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜は、西郷隆盛にあっさり降伏し、無駄な犠牲を出していません。

筆者個人としては、鳥羽・伏見の戦いで部下を見殺しにして敵前逃亡した徳川慶喜を、まったく評価していません。

しかし、無駄な犠牲を出さなかったという点だけは、見事な功績だったのかもしれません。

 


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『大政奉還』とは、いったい何なのかをカンタンに解説!

大政奉還とは、臨時政府である「江戸幕府」がそれまで持っていた「政治を行う権限」を、本来の政府である朝廷に対して返還したことです。

この大政奉還がおこなわれた結果、日本は近代的な国へと生まれ変わることができました。

大政奉還が行われるまでの日本では、政治を行う権限は「幕府」と呼ばれる「臨時の政府」が持っていました。

1185年源頼朝が鎌倉幕府という臨時政府をつくりあげて、本来の政府である朝廷から、政治を行う権限をゆだねられたことが、ことの始まりです。

それ以来、日本国は

  • 鎌倉幕府
  • 室町幕府
  • 江戸幕府

という3つの臨時政府が政治を行い、支配してきたのです。

この「政治を行う権限」、すなわち「日本を支配する権利」を、徳川慶喜は朝廷と天皇に返したのが、大政奉還という歴史的事件の意味なのです。

大政奉還により、江戸幕府という臨時政府は消滅することとなりました。

 


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,徳川慶喜の生涯とは、どんなものだったのか?

慶喜は、幼い頃から天才と呼ばれ、西欧列強の日本侵略が迫る中で、周囲から征夷大将軍になってもらいたいという希望が絶えないほど優秀だった。

危機におちいった日本を救ってもらおうと、誰もが慶喜にトップに就任してほしいと願ったが、本人は将軍になりたがらなかった

結局、慶喜征夷大将軍となり、倒幕派や外国と戦いながら、日本を守ろうとしたが、江戸幕府を守ることはできず、内戦を回避するために降伏し、政権を新政府へと引き渡した。

 

2,徳川慶喜の生涯を、超カンタンに言ってしまうと?

慶喜1837年に誕生し、1867年に15代・征夷大将軍に就任し、同年に大政奉還した。

1868年には、王政復古の大号令鳥羽・伏見の戦い戊辰戦争)、江戸城無血開城などが起こり、それ以降慶喜は歴史の表舞台から姿を消し、1913年(大正2年)に77歳で亡くなった。

 

3,徳川慶喜の功績とは何か?

慶喜の功績といえば、大政奉還江戸城無血開城だろう。

大政奉還とは、幕府がもっていた政治をおこなう権限を朝廷へと返還した行為のこと。

江戸城無血開城とは、幕府が戦うことなく、朝廷に対して完全降伏したこと。

大政奉還は、のちに明治天皇から功績として認められ、慶喜は表彰されている。

慶喜が大政奉還と江戸城無血開城をおかげで、日本の内戦は最小限におさえられた。

以上となります。

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