明治新政府に最期まで抵抗した徳川幕府の臣下「榎本武揚」。徳川幕府と、その宿敵「明治政府」両方に仕えた榎本武揚の人生とは、どういうものだったのでしょうか?
彼は「箱館戦争」で明治政府に降伏した後、敵であった政府につかえ「大臣」などを歴任しています。
そんな榎本武揚の子孫は、今何をしているのでしょうか?どうやら「東京農業大学」の教授をなさっておられるようです。
この記事では「榎本武揚」の子孫と、生涯について、わかりやすく簡単に解説いたします。
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この記事を短く言うと
・榎本武揚の子孫は、黒田清隆の子孫でもあり、「東京農業大学」の客員教授をしている
・榎本は、蝦夷共和国をつくり、土方歳三とともに「戊辰戦争」最後の戦闘「五稜郭の戦い(箱館戦争)」を戦っている
・「五稜郭の戦い(箱館戦争)」の後、榎本は明治政府で大臣などを歴任
榎本武揚の子孫と家系図
『榎本武揚』
榎本武揚といえば、幕末明治期の日本で、新政府軍に降伏した「徳川慶喜」に仕えながらも、「江戸城無血開城」に反対。
旧幕臣たちを率いて江戸を脱出し、箱館「五稜郭の戦い」で抵抗を続けた人物です。
そんな榎本武揚の末裔は、今どこで何をしているのでしょうか?
調査してみたところ、榎本武揚が創設した『東京農業大学』客員教授「榎本隆充」さんと、そのお子さんたちがおられました。
お子さんはお二人とも「昭和三十年代」に誕生しておられるので、確認は取れませんでしたが、おそらく今もお元気でしょう。
榎本武揚の息子「武憲」は、榎本武揚の命を救った盟友「黒田清隆」の娘「黒田梅子」と結婚しています。
つまり「榎本武揚」の末裔は、第2代内閣総理大臣「黒田清隆」の末裔でもあるということです。
『土方歳三』と『五稜郭の戦い』
榎本武揚は、江戸城無血開城に反対して、旧幕府の軍艦を使って仙台へ逃亡。
その時、仙台には「会津戦争」で大敗し、体勢を立て直して反撃を狙っていた元新選組副長「土方歳三」がいました。
二人はここで出会い、ともに新政府に徹底抗戦することを誓ったとされています。
奥羽越列藩同盟・・・・当初は「会津藩」と「松平容保」の降伏を後押ししていたこの同盟も、新政府軍の降伏を認めない強硬な姿勢に反発し、いつしか軍事同盟へと発展。
盟主であった「仙台藩」は、新政府に降伏し、榎本武揚や土方歳三が仙台に到着したときには、すでに戦えない状況となっていたのです。
土方歳三は、榎本武揚が率いていた軍艦に乗り、仙台から蝦夷地・箱館「五稜郭」へ移動。
榎本を総裁(大統領)とする「蝦夷共和国」において、土方歳三は「陸軍奉行並」に任じられています。
戊辰戦争最期の戦い「五稜郭の戦い(箱館戦争)」が勃発。
土方歳三は、明治2年5月11日(1869年6月20日)に腹部に銃弾を受けて戦死。
明治2年5月18日、榎本武揚もまた、黒田清隆の説得により降伏しています。
生涯と最期
榎本武揚
1836年、江戸の下谷御徒町・・・現在の東京都台東区浅草橋で生誕。
父は徳川幕府・徒目付「榎本武規」で、武揚は次男。
1851年、幕府の学問所「昌平坂学問所」に入門。2年後に終了するが、成績は最低評価。
1854年、箱館奉行に従って、箱館へ赴任し、蝦夷地と樺太を巡る。
1855年、昌平坂学問所に再び入学するも、翌年退学。
1857年、「勝海舟」や「五代友厚」も参加していた「長崎海軍伝習所」に入学。翌年修了。
1858年、ジョン万次郎の塾で英語を学ぶ
1862年、オランダへ留学のため、品川から出発。船の座礁や無人島への漂着などを経て、ナポレオン最期の地「セントヘレナ島」へ到着。
1863年、オランダ「ロッテルダム」に到着。戦争を見学、デンマークやフランス・パリ、イギリスなどを視察し、3年後にオランダから買い付けた「開陽丸」で帰国の途へ
1866年、留学を終えてオランダから出向。ブラジルを経由して、翌年「横浜」へ到着
1867年、幕府から開陽丸の艦長に任命される。
同年、榎本武揚は艦隊を率いて大坂湾へ移動。
1868年1月2日、薩摩藩の船「平運丸」を攻撃。1月4日に薩摩藩との「兵庫沖海戦」で勝利。しかし旧幕府軍は、直後に「鳥羽伏見の戦い」で敗北。1月7日、榎本武揚は大坂城に入城
同年1月7日、徳川慶喜は、榎本武揚が江戸から持ってきた「開陽丸」に乗り、1月8日夜に江戸へ。
榎本は旧幕臣や新選組隊士を艦隊に収容し、大坂から江戸へ撤退。
同年8月、江戸城無血開城により、徳川家存続が決定し、16代宗家「徳川家達」の駿府入り完了を見届けた榎本武揚は、艦隊を率いて「奥羽越列藩同盟」を援助するため、仙台へ。
同年9月、仙台藩が降伏。榎本は新撰組副長「土方歳三」と仙台で合流。10月20日に箱館へ上陸
同年11月1日に「五稜郭」へ入城
同年12月15日、蝦夷地平定を宣言し、選挙によって榎本武揚は「蝦夷共和国」の総裁へ
1869年6月20日、陸軍奉行並「土方歳三」戦死。
同年、榎本武揚ら蝦夷共和国が降伏。榎本武揚は東京の牢獄に収監・投獄される。
黒田清隆や福沢諭吉の助命嘆願によって、死罪を免れる。
1872年、特赦により出獄。直後に明治政府の「開拓使」として出仕。
1874年、「駐ロシア特命全権公使」に任命。翌年「海軍中将」に任命
1875年、ロシアとの間で「樺太・千島交換条約」を締結
1880年、「海軍卿」に就任。翌年「退役」
1882年、「駐清特命全権公使」に任命
1884年、清との間で「天津条約」を締結。翌年、日本へ帰国
1885年、逓信大臣に就任
1889年、文部大臣に就任
1891年、後の「東京農業大学」を設立。
同年、外務大臣に就任。
1894年、農商務大臣に就任。しかし1897年に「足尾銅山鉱毒事件」に何も手を打たなかったことで、事実上の引責辞任。
1898年、隕石からとれた鉄「隕鉄」でつくった日本刀「流星刀」を皇太子に献上。
1908年10月26日、腎臓病で死去。享年73歳。墓所は東京文京区の吉祥寺
『榎本武揚』について、レビュー(評論)
榎本武揚は、江戸幕府滅亡に際して「徹底抗戦」を主張し、勝海舟と対立。最終的に「幕臣」達を率いて「蝦夷共和国」を設立し、新政府に抵抗した最後の勢力となります。
しかし、黒田清隆の説得に応じて降伏。特赦によって獄から出た後は、明治政府の要人となっています。
福沢諭吉・・・・今でいう政治評論家のような方ですが、榎本武揚の助命に奔走した福沢諭吉は、明治政府に出仕した榎本武揚を痛烈に批判しています。
「幕臣だった榎本武揚と勝海舟が、敵である明治政府に出仕するとは!自決して果てるべきだ」
この批判に、榎本武揚は沈黙したまま返事をしませんでした。
どうして榎本武揚は、明治政府で要人を務めたのか?
例えば勝海舟は、主君である「徳川慶喜」の「朝敵」汚名を返上するために、新政府要人として奔走していました。
おそらくですが、榎本武揚もまた、徳川家のために新政府で力をふるったのではないでしょうか。
旧主「徳川慶喜」の名をおとしめないために、幕臣であった「榎本武揚」が新政府で結果を出す。
それが榎本の志したことなのではないでしょうか。
1902年、徳川慶喜は最高の爵位「公爵」に任命されていますが、その祝いの席に榎本も出席。慶喜一家と集合写真を撮影しようとしますが、榎本は辞退。理由は
「主君と一緒に写真撮影など、失礼でできない」
とのことです。榎本は「徳川家」への忠誠心を忘れていなかったのではないでしょうか。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・榎本武揚の子孫は、内閣総理大臣「黒田清隆」の血を受け継ぎ、「東京農業大学」の教授をなさっておられる。
・土方歳三とともに、新政府に徹底抗戦し、「五稜郭の戦い」で敗北。政府軍に降伏した。
・降伏し、2年半を獄中で過ごしたのち、明治政府に仕えた。その後は「外務大臣」や「農商務大臣」を歴任。
以上となります。
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