皆さんは「徳川慶喜」を、ご存知でしょうか?
実は「徳川慶喜」について、何した人なのか、どのような生涯をおくった人なのかについて、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。
この記事では「徳川慶喜」について、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
徳川慶喜が誕生してから亡くなるまでを、歴史的事件や有名人を交えて、ストーリー・物語のように解説してみました。
今は「慶喜」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、「徳川慶喜」に詳しくなれます。
この記事を読んで、「徳川慶喜」の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
【徳川慶喜の生涯】について、短く解説すると、以下のとおりです。
【1837~1865年】徳川慶喜誕生 ~ ペリー来航と幕末の始まり
慶喜誕生~元服(成人)
【1837年10月28日(天保8年9月29日)】(徳川慶喜・数え年1歳)
江戸・小石川の水戸藩邸で、水戸藩の第九代藩主・徳川斉昭の七男・徳川慶喜が誕生。母は有栖川吉子。幼名は七郎麿(しちろうまろ)
徳川慶喜は、江戸時代の末頃、日本が江戸幕府(徳川幕府)よって支配されていた時代に誕生しました。
江戸幕府とは徳川家康が開いた、いわば臨時の政府のことです。
慶喜は、その徳川家康の末裔に当たる人物です。
徳川家の分家である「水戸徳川家」で、慶喜は生まれたのです。
徳川慶喜は、幼い頃から天才的な能力を発揮したといわれています。
水戸徳川家が支配していた領地の水戸藩は、「大日本史」という歴史書の編纂を代々行ってきたため、歴史について学び続けていました。
そのため、学問がとても盛んな藩だったのです。
秀才が数多く輩出された水戸藩。
そんな水戸藩のなかで、徳川慶喜は父・徳川斉昭から熱心な教育をほどこされます。
そのため、慶喜は秀才・天才と呼ばれるほど優秀に育ったと考えられます。
ちなみに、徳川慶喜が生まれた3年後の1840年に、渋沢栄一が誕生しています。
渋沢栄一は、のちに「資本主義の父」と呼ばれることとる偉人です。
【1843年(天保15年・弘化元年)】(慶喜7歳)
6月21日(旧暦5月6日)、慶喜の父である水戸藩主・徳川斉昭が追鳥狩をおこなったことで疑いをかけられ、謹慎処分を受ける
徳川慶喜の父・徳川斉昭は、とても優秀な藩主でした。
この頃の日本は、世界の発展から取り残された状態でした。
なぜなら、200年以上も鎖国していたため、外国との交流がほとんどなかったからです。
その頃の世界は、イギリスが覇権国として世界に君臨していました。
アメリカはイギリスから独立したものの、まだまだ弱小国に過ぎない状態でした。
そんな中、徳川斉昭は水戸藩を、強力な藩にしようとします。
そのために、政治改革を次々と強行したのです。
その改革が、幕府から煙たがられたのです。
こうして斉昭は、幕府から謹慎処分を受けたのでした。
この謹慎処分は2年ほど続いたと考えられます。
【1847年】(慶喜11歳)
一橋徳川家の当主・昌丸が死去。水戸藩の徳川七郎麿こと徳川慶喜が、一橋家の養子となって、一橋家を相続
江戸幕府は、徳川家康の末裔が代々トップを務めてきました。
家康の末裔が、武士の棟梁(トップ)の位・征夷大将軍を代々務めていたのです。
その征夷大将軍が、幕府という国の政治をおこなう組織を支配してきたのです。
徳川本家の子孫が途絶えたときのために、徳川家には5つの分家が用意されていました。
- 尾張 徳川家
- 紀伊 徳川家
- 田安 徳川家
- 一橋 徳川家
- 清水 徳川家
この5つの家から生まれた男子以外は、征夷大将軍となる権利がないのです。
つまり徳川慶喜が生まれた水戸徳川家では、征夷大将軍になることができなかったのです。
この5つのうちの一つ、一橋徳川家で、後継者が断絶するという事件が起こりました。
そのため、一橋徳川家の血縁者であった水戸徳川家出身の徳川七郎麿(慶喜)が養子となり、一橋徳川家を相続したのです。
一橋徳川家を相続したことにより、将軍になれないはずの七郎麿(慶喜)にも、征夷大将軍になれる可能性が生まれたというわけです。
【1848年】(慶喜12歳)
徳川七郎麿が元服(成人)する。将軍・徳川家慶の一字をもらい、一橋慶喜(徳川慶喜)と名乗る
徳川慶喜は、大変優秀でした。
そのため、12代目・征夷大将軍だった徳川家慶は、慶喜を自分の後継者にしようと考えていたのです。
実は徳川家慶の正当後継者だった嫡子・徳川家定は、能力に乏しい人物だったのです。
徳川家慶は、自分の後継者候補とするためなのか、七郎麿が元服(成人)したとき、みずからの名前の一時である「慶」の文字をあたえています。
「慶」の次をもらった七郎麿は、慶喜と名乗ります。
これ以降、彼は「一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)」と名乗ることとなったのです。
「徳川慶喜の生涯年表」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。
黒船来航~慶喜が将軍候補となる
【1853年】(慶喜17歳)
※アメリカの東インド艦隊司令官マシュー・ペリーが、軍艦4隻をひきいて浦賀へ来航。アメリカ大統領からの国書を受け取るように要求する
※12代将軍・徳川家慶死去
慶喜の弟・徳川昭武が誕生する
※徳川家慶の息子・徳川家定が、13代将軍に就任する
アメリカの艦隊司令長官・ペリーが4隻の黒船を率いて日本へやってきました。
この黒船来航から、幕末と呼ばれる時代が始まったとされています。
彼らの要求は開国。
つまり鎖国をやめて、自分たちアメリカの船に対して補給をしてほしいと要求してきたのです。
当時の日本はこの要求を拒絶しようとします。
しかし、拒絶できなかったのです。
もしもペリーの要求を拒絶したら、激怒したアメリカ艦隊と日本のあいだで、戦争になりかねませんでした。
黒船を見た江戸幕府とその首脳陣は、今の日本ではアメリカと戦争をしても、決して勝てないことを悟っていたのです。
ペリーは1年後に再びやってくることを予告して、日本を去ります。
その直後に12代征夷大将軍・徳川家慶が病死。
後継者は家慶が気に入っていた一橋慶喜ではなく、嫡子の徳川家定でした。
【1854年】(慶喜18歳)
※ペリーが軍艦7隻をひきいて江戸湾にあらわれる
※日米和親条約が結ばれ、下田・箱館が開港する
1年後に来ると予告していたはずのペリーが、わずか半年後に再び来日。
しかも、このときは前回の4隻よりも多い、7隻もの黒船をひきいていました。
日本はアメリカの軍事的な圧力に屈服します。
つまり「アメリカには戦争をしても勝てない。だから脅しに屈服して、開国するしかない」というわけです。
これにより、日本は「下田・箱館」を開港し、アメリカの船に対して補給することを約束します。
こうして3代将軍・徳川家光から始まった日本の鎖国は終わったのです。
【1856年】(慶喜20歳)
一橋慶喜が参議に補任される
アメリカの圧力に屈服したことで、日本人たちは危機感を抱きました。
「このままでは、日本はアメリカなどの西欧列強諸国に侵略されて、滅ぼされるのではないか?」と感じたのです。
実際、日本のとなりにあった清国は、西欧列強によって滅亡寸前に追い込まれていました。
1840年に起こった「アヘン戦争」において、清国はイギリスに敗北。
清国は領地を奪われて、見るも無残な状況におかれていました。
日本を外国勢力から守る必要があると、危機感を抱いた日本の人々は、「一橋慶喜」に目をつけます。
13代将軍・徳川家定の次の征夷大将軍を、天才・一橋慶喜にしよう。
慶喜の天才的な能力をつかって、日本を諸外国から守ってもらおう
と考えたわけです。
名君の誉れ高かった薩摩藩の藩主・島津斉彬は、養女・天璋院篤姫を、13代将軍・徳川家定の妻として送り込みます。
そして、次の征夷大将軍を一橋慶喜にするように、徳川家定を誘導しようと試みたのです。
「天才・一橋慶喜を、次の征夷大将軍にしようとする改革派」は、一橋派と呼ばれていました。
「徳川家茂を次の征夷大将軍にしようとする保守派」である南紀派と呼ばれました。
両派閥は、激しい権力争いを繰り広げることとなるのです。
「天璋院篤姫」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。
安政の大獄~桜田門外の変
【1858年】(慶喜22歳)
13代将軍・徳川家定の後継者問題(将軍継嗣問題)で、一橋慶喜ではなく、徳川家茂が次期将軍に決定する
慶喜の父・徳川斉昭とその息子・徳川慶篤、松平春嶽・徳川慶勝らが、条約を調印した井伊直弼に抗議するために、江戸城へ不時登城を強行する
※井伊直弼は、徳川斉昭らの不時登城を処罰し、隠居・謹慎を命じる
※13代将軍・徳川家定が病死
※朝廷から水戸藩に対して「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」がくだされる
※徳川家茂が14代将軍に就任する
徳川家定の次の将軍を、一橋慶喜にしようとする改革派「一橋派」に、強力なライバルが現れます。
大老・井伊直弼です。
井伊直弼は、14代目の征夷大将軍に、一橋慶喜ではなく、徳川家茂を就任させようとする一派「南紀派」でした。
大老・井伊直弼は、大老という最高位の権力をつかって、14代目の征夷大将軍を徳川家茂に決定してしまうのです。
さらに井伊直弼は、アメリカとのあいだで、日米修好通商条約という、貿易に関する条約を勝手に締結してしまいます。
この条約には、大きな問題がありました。
大きな問題というのは、この条約が日本とアメリカが平等に貿易をすることができない、不平等な条約であったことです。
この条約は、アメリカに大変有利な条約だったのです。
勝手に不平等条約を結んだ井伊直弼にも、言い分はありました。
アメリカの圧力に屈服してでも、日米修好通商条約という不平等条約を結ばないと、日本は滅ぼされかねない状態だったのです。
しかし、慶喜の父・徳川斉昭や松平春嶽たち一橋派からすると、外国の圧力に屈服した井伊直弼の弱腰な外交は、悔しくて屈辱的で、とてもじゃないですが受け入れられないものでした。
徳川斉昭や松平春嶽は、井伊直弼に抗議するために、無理やり江戸城へおしかけます。
ところがこの押しかける行為が、当時の法律では、犯罪にあたる行為だったのです。
井伊直弼は、犯罪行為をおかした徳川斉昭や松平春嶽を、法律にのっとって処罰します。
それだけではありませんでした。
井伊直弼の不平等条約締結に怒った朝廷が、徳川斉昭が藩主をつとめていた水戸藩に対して、戊午の密勅(ぼごのみっちょく)という秘密命令を下したのです。
戊午の密勅とは、「不平等条約なんて許さないぞ」という、朝廷からの抗議の命令のことです。
この秘密命令にかかわった人たちも、井伊直弼は処罰します。
これが「安政の大獄」と呼ばれる、弾圧事件の始まりだったのです。
そして病弱だった13代将軍・徳川家定は病死。
14代目の征夷大将軍には、一橋慶喜ではなく、徳川家茂が就任します。
【1860年】(慶喜24歳)
※桜田門外の変勃発。井伊直弼が暗殺される
慶喜の父・徳川斉昭が亡くなる
一橋慶喜、松平春嶽、山内容堂らの謹慎が解除される
当時の日本には、日米修好通商条約の締結や安政の大獄などを、力づくで行った井伊直弼にたいして、激怒した人々がたくさんいました。
特に、安政の大獄で隠居・謹慎という処分を下された徳川斉昭の地元・水戸藩は、井伊直弼に対して強烈な恨みを抱いていたのです。
実は徳川斉昭が処罰されたあと、その息子である一橋慶喜もまた、謹慎処分をうけていました。
激怒した水戸藩の侍たちは、江戸城にあった門・桜田門という場所で、大老・井伊直弼を襲撃。暗殺してしまうのです。(桜田門外の変)
これにより、井伊直弼の安政の大獄は終了。
一橋慶喜や松平春嶽らは、謹慎処分を解除されて、自由の身となります。
ところが、井伊直弼がなくなった直後、慶喜の父・徳川斉昭も病死してしまうのでした。
「安政の大獄」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。
公武合体~高杉晋作・登場
【1863年】(慶喜27歳)
※徳川家茂が京都へ。(このとき、徳川家茂を警護する名目で、壬生浪士組こと後の新選組が結成される)
当時の日本は、危機的状況におかれていました。
諸外国の圧力がとても強かったため、日本人全員が「外国から侵略されるのではないか」と危機意識を抱いていました。
そのなかでも、「外国勢力など、戦争をして追い出してしまえ」と、もっとも過激に主張していたのが、現在の山口県に位置していた長州藩です。
ところが、現実的に考えて、アメリカ・イギリス・フランスなどの西欧列強と戦争しても、日本には到底勝ち目などありませんでした。
長州藩や水戸藩などの「外国人など力づくで追い出せ」と主張する過激な人々(攘夷派)は、そもそも「日本に勝ち目がない」という現実が、まるでわかっていなかったのです。
征夷大将軍がひきいる幕府は、天皇がひきいる朝廷に対して、「協力して外国勢力から日本を守ろう」と提案します。(これを公武合体といいます)
これに応じた孝明天皇は、自分の妹である和宮を、征夷大将軍・徳川家茂に嫁がせます。
孝明天皇と徳川家茂は、婚姻で親戚関係となり、関係強化を図ります。
同時に、外国人が嫌いだった孝明天皇は、「外国勢力を力づくで追い出せ」と、徳川家茂に迫ります。
この孝明天皇からの「攘夷(外国人を力づくで追い出すこと)」の要求に屈服した徳川家茂は、攘夷つまり外国人に対する攻撃を約束してしまうのです。
攘夷(外国勢力を追い出すこと)を約束したため、幕府は全国の藩に対して、「外国勢力を攻撃して追い出せ」と命令を出します。
しかし「外国勢力と戦争しても勝てない」ことなど、わかりきっていたため、どの藩も攻撃などしませんでした。
ところが、一つだけ、激しく外国勢力を攻撃した藩がありました。過激な攘夷派・長州藩です。
長州藩は、本州と九州のあいだにある関門海峡を通るアメリカ・フランス・オランダの船を砲撃。
さらに薩摩藩も、生麦事件で揉めていたイギリスとのあいだで薩英戦争をおこなって惨敗します。
あまりにも過激な長州藩のやり方に、さすがの孝明天皇もまずいと思ったのかもしれません。
孝明天皇は、薩摩藩と会津藩に命じて、長州藩を京都から追放してしまうのです。(八月十八日の政変)
【1864年】(慶喜28歳)
一橋家の家老・平岡円四郎が、京千本通で暗殺される
禁門の変(蛤御門の変)により、長州藩が敗北。久坂玄瑞・入江九一らが亡くなる。このとき一橋慶喜は、禁裏御守衛総督という役目を負って、幕府軍を指揮していた
第一次長州征伐が開始される。
一橋慶喜が天狗党の乱を鎮圧するために出陣する
八月十八日の政変で京都から追い出された長州藩は、怒りに震えました。
なぜ日本を守ろうとする自分たち長州藩が、孝明天皇から京都を追い出されなくてはいけないのか?
ただ自分たちは、愛する日本を守りたいだけなのに。
天皇が抱いている誤解を解くために長州藩は、軍団をひきいて再び京都へ向かいます。
ところが、軍をひきいてやってきた長州藩の行く手を、薩摩藩・会津藩が塞ぎます。
長州藩は、この薩摩・会津の妨害に怒り、戦争が始まってしまうのです。(禁門の変・蛤御門の変)
このとき、一橋慶喜は長州藩を撃退するために、幕府軍の指揮を取っていました。
長州藩は敗北。
吉田松陰の義弟で、松下村塾で最も優秀だった久坂玄瑞は死亡。
「日本を守る」という久坂玄瑞の願いは、盟友であった高杉晋作に託されるのでした。
禁門の変で大敗した長州藩は、薩摩と会津に対して、強烈な恨みをいだくこととなります。
幕府は、京都で戦争を起こした長州藩に激怒。
長州藩という反乱軍を討伐するために、第一次長州征伐が開始されます。
ところが、このとき薩摩藩の実力者・西郷隆盛が長州藩をかばいます。
西郷の助けもあって、第一次長州征伐は中止。
幕府に対して謝罪した長州藩は、軽い処分のみで許される事となったのです。
泣きっ面に蜂といえばいいのか、禁門の変・長州征伐と、敗北続きの長州藩は、さらにどん底に叩き落されます。
以前、関門海峡で砲撃したアメリカ・フランス・オランダ・イギリスなどからの仕返しをくらって、下関を占領されてしまうのです(下関戦争)
【1865年】(慶喜29歳)
※高杉晋作が功山寺挙兵し、クーデターに成功する。長州藩が倒幕派に支配される
※天狗党の乱が鎮圧され、首謀者であった武田耕雲斎や藤田小四郎が処刑される
- 禁門の変
- 長州征伐
- 下関戦争
長州藩は敗北を重ねて、すでに「外国勢力から日本を守る」という意思を失っていました。
「外国に屈服するばかりで、まったく頼りにならない江戸幕府など倒してしまえ」と言っていた過激な長州藩の首脳陣は、すでに幕府に屈服しようとする有様だったのです。
弱腰になった長州藩に対して、激怒した男がいました。
吉田松陰の弟子・高杉晋作です。
高杉晋作は、弱腰な幕府を滅ぼし、日本を新しい強い国に創り変えるべきだと、誰よりも強く思っていたのです。
そのためには、幕府に屈服しようとする弱腰な長州藩の首脳陣(俗論派)を、まとめて一掃する必要がありました。
高杉晋作は功山寺というところで、長州藩の弱腰な首脳陣(俗論派)を一掃するために挙兵します。
伊藤博文・山県有朋などを従えた高杉晋作は、長州藩の弱腰な首脳陣(俗論派)を一掃することに成功します。(この勝利は、絶対にありえないほど、信じられないほど奇跡的な勝利だった)
こうして敗北続きの長州藩は、高杉晋作の活躍によって再び立ち上がります。
そして長州藩は、幕府を倒して新しい日本をつくる(倒幕)へと、本格的に動き出すのです。
「高杉晋作」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。
【1866~1867年】徳川慶喜が征夷大将軍に就任
薩長同盟の成立
【1866年】(慶喜30歳)
※坂本龍馬の仲介により、薩摩藩と長州藩のあいだで薩長同盟が成立する
※第二次長州征伐が開始
14代将軍・徳川家茂が死去。一橋慶喜が徳川宗家を相続するが、将軍就任は拒絶する
※第二次長州征伐が事実上幕府の敗北に終わる
高杉晋作のクーデターが成功し、幕府を倒すことを目指した長州藩でしたが、問題がありました。
それは、「長州藩の力だけでは幕府に勝つことなどできない」ということでした。
この問題を解決したのが、坂本龍馬です。
龍馬は、強力な薩摩藩と同盟することを、長州藩に提案します。
ところが、これは長州藩からすると、絶対に受け入れられないものだったのです。
長州藩は、2年前の禁門の変で薩摩藩に大敗北していました。
そのため長州藩は、薩摩藩を心の底から恨みぬいていたのです。
ところが坂本龍馬は、怒りに燃える長州藩を説得し、薩摩藩と秘密同盟を結ばせるのです。(薩長同盟)
薩摩藩の支援を受けて、瀕死だった長州藩は蘇ります。
長州藩は、再び幕府と戦う準備を整えられるようになったのです。
一方、一橋慶喜はというと、若い将軍・徳川家茂にかわって幕府を指揮する立場にいました。
慶喜は、長州征伐のあとも幕府に対して反抗的な態度を取り続ける長州藩に対して、二度目の長州征伐を行います(第二次長州征伐)
ところが、この第二次長州征伐の真っ最中に、征夷大将軍・徳川家茂が病死してしまうのです。
また、高杉晋作・大村益次郎らの活躍もあって、第二次長州征伐は幕府軍の敗北で終わってしまうのでした。
一橋慶喜は、15代目の征夷大将軍に就任するようにと、周囲から説得されるものの、これを断り続けます。
慶喜は、周囲からの将軍就任の頼みを断り続けることで、将軍就任はまわりから頼まれたので仕方なく引き受けたのだという、まわりの人間に恩を着せられる形をとったのでした。
徳川慶喜が15代将軍に就任する
【1867年】(慶喜31歳)
徳川慶喜が第15代征夷大将軍に就任する
※孝明天皇が崩御。明治天皇が即位
徳川慶喜の弟・徳川昭武が、パリ万国博覧会に参加するために日本を出発する。これに渋沢栄一も同行
1867年11月9日(慶応3年10月14日)、討幕の密勅が薩摩と長州にくだされる
討幕の密勅がくだされたその日、徳川慶喜が大政奉還を発表。大政奉還によって幕府が消滅し、それにより討幕の密勅が無意味となる
1867年11月10日(慶応3年10月15日)、徳川慶喜が朝廷に参内して大政奉還し、朝廷はこれを受理。
朝廷は徳川慶喜に対して、「大政奉還のあとも、引き続き政務をとりおこなうように」と通達する
1867年12月9日(慶応3年11月14日)、朝廷で小御所会議が開かれ、徳川慶喜に対して辞官納地(将軍を辞職して領地を返納すること)を要求
※1867年12月10日(慶応3年11月15日)、近江屋事件が発生。坂本龍馬・中岡慎太郎が、京都市中見廻組の佐々木只三郎に暗殺される。暗殺命令を下したのは会津藩主・松平容保
一橋慶喜は、徳川宗家を継承し、15代目の征夷大将軍に就任します。
このとき慶喜は、徳川宗家を継承すると同時に、一橋家の当主という立場を失ったので、一橋慶喜ではなく徳川慶喜となります。
ところが、慶喜が将軍となった直後、これまで幕府の後ろ盾となって協力してくれていた孝明天皇が病死してしまうのです。(この頃、高杉晋作も病死している)
そして、息を吹き返した長州藩と薩摩藩は、外国勢力に対して弱腰で頼りにならない幕府を倒すために、天皇と朝廷から「幕府を倒せ」という秘密命令をもらおうと画策するのでした。
この長州と薩摩の動きを、慶喜は見抜いていました。
そのため、薩摩・長州が、朝廷から幕府を倒せという秘密命令(討幕の密勅)をもらった翌日、徳川慶喜は「大政奉還」という、はなれ技をつかうのです。
大政奉還とは、政治を行う権限を幕府から朝廷に返すこと。
つまり政治をおこなう組織である江戸幕府を、消滅させることでした。
薩摩・長州は焦りました。
幕府という弱い組織を力づくで倒そうと思っていたら、その前に慶喜みずから幕府を解体し、倒すべき幕府がなくなってしまったのですから。
例えて言うなら、内閣総理大臣をやめさせようと、デモ行進を計画していたら、デモを行う前に内閣総理大臣が自分から辞めてしまったようなもの。
「慶喜が辞めたなら、それでいいじゃないか」と思うかもしれませんが、それは違います。
幕府が無くなったとはいえ、幕府の軍は消滅することなく、そのまま慶喜の命令を待っている状態です。
さらに、それまで政治を行っていた幕府という優秀な行政組織も、無傷で残っているのです。
いつまた旧幕府軍が、その圧倒的な武力をつかって、「日本を支配する」と言い出すかわからない状態だったのです。
薩摩・長州にとって、さらに悪いことが起こります。
朝廷と天皇が、政治を行う権限を返したはずの徳川慶喜に対して、「今後も続けて政治を行いなさい」と命令してしまったのです。
このままでは、弱腰で頼りにならないはずの幕府が、名前を変えただけで再び日本を支配してしまいかねない。
そうなったら日本は、強い西欧列強の外国に屈服し、滅ぼされてしまいかねない。
実はこれすべて、権力闘争の天才・徳川慶喜の計算でした。
大政奉還しても、朝廷は再び自分に政治をやりなさいと言ってくる・・・。天才・慶喜はそのことがわかっていたのです。
権力闘争の天才・徳川慶喜に危機感を抱いた薩摩の大久保利通や長州の木戸孝允(桂小五郎)は、岩倉具視という公家と協力して、徳川慶喜の排除を計画します。それが王政復古の大号令です。
「大政奉還」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。
【1868~1913年】江戸幕府・滅亡 ~ 徳川慶喜の最期
王政復古の大号令~江戸城無血開城
【1868年(慶応4年・明治元年)】(慶喜32歳)
※岩倉具視らの画策により、王政復古の大号令が発せられる
徳川慶喜が、英仏米蘭伊普など各国の行使に対して、今も自分が政権を担当していると宣言
※薩摩藩による放火・暴行などの挑発行為に激怒した庄内藩が、薩摩藩江戸藩邸を襲撃する
鳥羽・伏見の戦いが勃発。戊辰戦争開始。錦の御旗をかかげた薩摩軍が鳥羽・伏見の戦いに勝利
徳川慶喜が、旧幕府軍に対して徹底抗戦を命令しておきながら、自分は大阪城から江戸へ逃亡
朝廷が徳川慶喜を朝敵に指名
徳川慶喜が江戸城を出て、上野寛永寺で謹慎。これにより、調停に対して降伏する意思を示した
※幕府の全権を任された勝海舟と西郷隆盛の会談により、江戸城無血開城が決定
江戸城無血開城が行われ、265年続いた江戸・徳川幕府が滅亡。これに不満を抱いた旧幕府軍・榎本武揚らが軍艦をひきいて江戸から脱出。徳川慶喜は寛永寺を出て、ふるさとである水戸・弘道館で謹慎を続ける
徳川宗家に駿河70万石がくだされると、徳川慶喜も水戸から駿河へ移動し、謹慎生活を続ける
※10月23日(旧暦9月8日)に、同年1月1日へさかのぼって、元号を明治と改元(明治維新)
慶喜に大政奉還をやられた岩倉具視や大久保利通は、王政復古の大号令をおこないます。
王政復古の大号令とは
幕府や征夷大将軍という制度を廃止して、新しい政府を樹立する
という宣言のことです。
岩倉・大久保は、新しい政府の樹立を宣言し、その新しい政府から徳川慶喜を排除しようとしたのです。
ところがこの王政復古の大号令は、またしても天才・徳川慶喜の画策によって失敗に終わります。
なんと越前藩前藩主・松平春嶽や土佐藩前藩主・山内容堂が、王政復古の大号令で樹立した新しい政府に、徳川慶喜も参加させるべきだと主張したのです。
これにより、慶喜の新政府への参加が決定。
大久保利通たちの「慶喜を新政府から排除する」という作戦は、完全に失敗しました。
さらに、慶喜は諸外国の代表たちに対して、「今も日本の代表は自分である」と高らかに宣言してしまいます。
王政復古の大号令に失敗した大久保利通や西郷隆盛は、ついに最終手段をとります。
無理やり戦争を開始して、力づくで徳川慶喜を排除しようとしたのです。
そのため、西郷隆盛は相楽総三など後に赤報隊という部隊をひきいる武士たちを使って、散々に旧幕府軍を挑発したのでした。
慶喜は、日本を真っ二つに分断する内戦は、避けなければいけないと考えていました。
なぜなら、西欧列強が日本を侵略しかねないからです。
欧米諸国の海外侵略のやり方には、一つの法則がありました。
「侵略先の国で内戦を起こさせ、その混乱に付け入って、侵略する」
これが欧米諸国が得意とする侵略のやり方だったのです。
日本が旧幕府軍と薩摩長州軍に分裂して、内戦を起こすことが、日本滅亡の一歩となってしまう。
慶喜はそのことを誰よりもよくわかっていたのです。
ところが、大久保利通・西郷隆盛は、その慶喜が恐れていた「日本滅亡の第一歩」に向けて、大きく踏み出してしまいます。
西郷隆盛がひきいた薩摩軍は、挑発行為に激怒した旧幕府軍と、ついに戦闘を開始。
鳥羽・伏見の戦いです。(戊辰戦争)
実は、徳川慶喜が心配していた「日本の内戦につけいって、外国が日本を侵略する」という危険性に、大久保利通も気がついていました。
しかし、大久保は外国から侵略されかねない危険を犯してでも、それでも慶喜を倒さなくてはいけないと考えていたのです。
なぜかというと、徳川慶喜が新しい日本のトップに就任したら、大久保が目指した四民平等の近代的な日本をつくれない可能性があったからです。
権力闘争の天才・徳川慶喜のことですから、少しでも政治参加の権限を与えようものなら、あれよあれよという間に政治のトップに君臨してしまいかねません。
徳川慶喜は、武士という階級のトップ・征夷大将軍だった人です。
そんな武士の中の武士だった徳川慶喜を日本のトップにしたら、士農工商という4階級のうち、士だけを優遇する不平等な政治を行いかねません。
新しい日本は、西欧列強のように、国民が平等な国でなくてはならない。
大政治家・大久保利通は、そう考えていたのです。
そのため大久保は、外国から侵略される危険性を犯してでも、徳川慶喜という天才を、排除しなくてはならなかったのです。
この戦いで大久保利通は、天皇の軍団を意味する「錦の御旗」をかかげます。
そうすることで、敵である徳川慶喜たち旧幕府軍が、日本国全ての敵を意味する「賊軍」であることを宣言したのです。
これに徳川慶喜は焦ります。
慶喜は幼い頃から
「天皇に敵対するなど、とんでもないことである」
と、父・徳川斉昭に叩き込まれて育っていたからです。
また、このとき慶喜は
「薩長軍とのを長く続けてはいけない。
短期決戦にしないと、日本が海外に滅ぼされてしまう」
と考えていました。
海外からの侵略をさせないためには、この内戦を即座に終わらせなくてはいけません。
そのためには「敵を秒殺する」しかないわけですが、強力な薩長軍を相手にしては、いくら強力な旧幕府軍でもできません。
それならば、日本を救うために慶喜にできることは、たった一つ。
戦う前に白旗を挙げて、降参してしまうことです。
鳥羽・伏見の戦いに敗北した慶喜は、大久保利通たちが犯した失敗の尻拭いをするような形で、みずから降伏しようとします。
それもこれも全て、日本を外国の侵略から救うためです。
ところが、降伏するためには、一つの難題がありました。
暴発寸前にまで怒りをためこんだ、旧幕府軍の存在です。
鳥羽・伏見の戦いで、薩長軍に敗北していた旧幕府軍は、怒りに震えていました。
敗北したとはいえ、15000人の大軍団だった旧幕府軍にとって、損害は軽かったのです。
その怒りは凄まじく、放っておけば暴走して、薩長軍と再び開戦してしまいかねない程でした。
慶喜は、薩長を相手にして怒りに燃える旧幕府軍の戦意を、うまく失わせる方法を考えます。
さらに、天皇に対して戦う意思などないことを示す方法も考えます。
- 旧幕府軍の戦意を失わせる
- 天皇に対して戦うつもりがないことを示す
その2つを一度に叶える方法が一つだけありました。
それは、慶喜一人だけが戦場から逃亡し、江戸へと帰ってしまうことです。
慶喜自身がいなくなってしまえば、旧幕府軍は呆れて戦意を失う。
戦場から一人で離脱することは、戦意のない証ですので、天皇に逆らう意思がないことにもなります。
なんと徳川慶喜は、部下たちに徹底抗戦を命令しておきながら、一人で大阪から江戸へと逃げ帰ってしまうのです。
そのあいだに、朝廷は徳川慶喜を、朝敵に指定します。
朝敵とは、つまり「日本国全体の敵」を意味します。(天皇から朝敵として指名されて生き残ったものは、足利尊氏など、ごく少数しかいない)
江戸へ一人で逃げ帰った慶喜は、西郷隆盛がひきいていた新政府軍に対して降伏します。
慶喜の命令を受けた勝海舟は、西郷隆盛と会談して、戦うことなく江戸城を明け渡して降伏することを伝えます。
こうして、1603年から265年つづいた徳川幕府は滅亡。
徳川慶喜はその後、上野寛永寺・水戸・静岡と引っ越しを繰り返して、謹慎生活を続けるのでした。
戊辰戦争・終結~徳川慶喜・死去
【1869年(明治2年)】(慶喜33歳)
※榎本武揚が黒田清隆らの説得により降伏。箱館戦争が終結し、戊辰戦争が終わる
明治2年9月、徳川慶喜の謹慎が解除されるが、慶喜は続けて静岡で生活を続ける。これ以降、慶喜は写真や絵画・狩猟など趣味に没頭する生活を続ける。慶喜は渋沢栄一などの旧幕臣とは交友を続けたという
徳川慶喜が降伏したあとも、旧幕府軍と薩長軍の戦争は続いていました。
幕府の部下だった榎本武揚や、新選組の副長だった土方歳三たちは、新政府軍に対して抵抗を続けていたのです。
会津戦争や北陸戦争と続いた、この戊辰戦争は、箱館戦争で旧幕府軍が敗北し、終結します。
そのころ徳川慶喜はというと、謹慎先の静岡で謹慎を解除されていました。
それ以降は毎日やることもなく、写真や絵画など、趣味に没頭する生活をおくることとなります。
この頃、侍たちは明治維新という大改革によって、それまでの特権を次々と失い、不満を抱いていました。
徳川慶喜は、そんな不満を抱いた侍たちによって担ぎ出され、反乱をおこすのではないか?と心配されていました。
たとえば源頼朝は、平清盛に命を救われて伊豆へ流罪となったあと、挙兵して平家を滅ぼしています。
源頼朝という前例があったからこそ、大久保利通は慶喜を殺害しようと躍起になっていたわけです。
ところが慶喜は、そんな反乱など少しも考えず、ただただ静かに余生をおくっていたのでした。
明治の改革に不満を抱いていた元武士たちは、徳川慶喜ではなく、明治維新の英雄だった西郷隆盛をまつりあげて、1877年に西南戦争を引き起こし、新政府へ戦いを挑むのです。(その結果、西郷隆盛は戦死し、元武士たちの反乱は鎮圧された)
【1898年(明治31年)】(慶喜62歳)
有栖川宮威仁親王の仲介で、徳川慶喜が明治天皇に謁見
慶喜は、崇拝していた明治天皇に謁見。
天皇を崇拝していた水戸藩で生まれ育った慶喜は、誰よりも天皇を尊敬していたため、この謁見をとても喜んだといわれています。
【1902年(明治35年)】(慶喜66歳)
※日本とイギリスのあいだで、日英同盟が結ばれる
徳川慶喜が公爵に任じられ、貴族院議員に就任する。
また、徳川宗家とは別に、徳川慶喜家という家系を起こすことが許される
このとき、慶喜は最高の爵位である公爵の位を与えられ、貴族院議員に就任しています。
これにより慶喜は、35年ぶりに政治に携わることとなりました。
同時に慶喜は、徳川家達が継承していた徳川宗家とは別に、徳川慶喜家というみずからの家系を起こすことを許されています。
令和の現在、徳川慶喜家は断絶しています。
徳川宗家は徳川恒孝さんが継承しています(徳川恒孝さんは、会津藩主・松平容保のひ孫に当たる人物)
【1908年(明治41年)】(慶喜72歳)
大政奉還を功績として認められ、徳川慶喜が明治天皇から勲一等旭日大綬章を授与される
徳川慶喜は、明治天皇から大政奉還を功績と認められて表彰されています。
大政奉還は、源頼朝が開いた鎌倉幕府以来700年ものあいだ武家が独占していた政治を行う権限を、朝廷に返還した行為のことです。
慶喜は、もともと権力闘争の一手として、権力争いを有利に運ぶために大政奉還を行ったわけですが、それを功績として認められてしまったのです。
なんとも皮肉な話です。
【1910年(明治43年)】(慶喜74歳)
徳川慶喜が、貴族院議員を辞職し、七男・慶久に家督をゆずる。
再び趣味に没頭する生活をはじめる
慶喜は8年務めた貴族院議員を辞職し、またしても趣味に没頭する生活を開始します。
この頃、日本は日露戦争で勝利し、西欧列強にも負けない強国として、世界にその名を轟かせていました。
さらに日本は、井伊直弼が締結した不平等条約も改正して、世界標準に追いついていたのでした。
【1913年(大正2年)】(慶喜77歳)
11月22日、徳川慶喜が死去。
死因は風邪と急性肺炎の併発。
享年76歳(数え年77歳)
慶喜のお墓は東京・谷中墓地。
崇拝していた明治天皇に敬意を払うためなのか、仏式で葬られた徳川歴代将軍とは違い、神式で葬られています。
同じ谷中墓地には、慶喜の家来だった渋沢栄一のお墓も存在しています。
「徳川慶喜の功績」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。
「渋沢栄一の生涯年表」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。
まとめ
本日の記事をまとめますと
以上となります。
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