1333年、源頼朝が開いた「鎌倉幕府」は141年目に滅亡しました。滅亡の原因・理由を、簡単に解説いたします。
鎌倉幕府を滅ぼしたのは「後醍醐天皇」ですが、鎌倉を攻撃して、直接滅亡させたのは「新田義貞」という武将です。
鎌倉幕府は「元寇」と「失政」によって、急速に支持を失い、「楠木正成」や「足利尊氏」、そして「新田義貞」らをひきいた「後醍醐天皇」に滅ぼされたのです。
しかし、鎌倉幕府が滅亡したあとに待っていたものは、「平和」ではなく「さらなる戦乱」でした。
「鎌倉幕府滅亡」は、その後に待ち受けていた「南北朝の動乱」という、戦乱の時代の序章に過ぎなかったのです。
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この記事を短く言うと
- 鎌倉幕府が滅亡したのは、「元寇」つまり「蒙古襲来」と、幕府のトップ「北条高時」による失政が原因
- 鎌倉幕府を滅ぼしたのは「後醍醐天皇」であるが、鎌倉を攻撃して、直接滅亡させたのは「新田義貞(にったよしさだ)」という武将
- 「鎌倉幕府」が滅亡したのち、後醍醐天皇による「建武の新政」という新しい政治が始まった。しかしこの「建武の新政」は、鎌倉幕府の政治よりもマズイものだったため、足利尊氏は後醍醐天皇に戦いを挑んだ
鎌倉幕府を滅ぼした人は誰?新田義貞と足利尊氏
鎌倉幕府を滅ぼしたのは誰なのでしょうか?
滅ぼしたのは「後醍醐天皇」と言うこともできますが、直接「鎌倉幕府」を攻め滅ぼしたのは「新田義貞」という武将です。
「新田義貞」・・・足利尊氏と同じく、「源義国」の血を引く「武士のトップ」となることができる名門の血筋。
鎌倉幕府は、2つの拠点をもっていました。
「京都・六波羅」と「鎌倉」です。
「足利尊氏」と「新田義貞」は協力して、この「京都・六波羅」と「鎌倉」を同時に攻撃したのです
「足利尊氏」は「京都・六波羅」を攻撃。
「新田義貞」は「鎌倉」を攻略したのです。
京都・六波羅を足利尊氏に攻め滅ぼされた鎌倉幕府は、すでに滅亡寸前の状態でした。
ですので、鎌倉幕府を滅ぼした人は足利尊氏ということもできるかもしれません。
滅亡寸前の鎌倉幕府に対して、新田義貞が大軍団をひきいて鎌倉を攻撃。
鎌倉幕府を支配していた「北条一門」は、トップである「北条高時」や「赤橋守時(足利尊氏の義兄)」が次々と死亡。
つまり新田義貞は、鎌倉幕府に完全にとどめを刺した人物なのです。
そういう意味で、鎌倉幕府を滅ぼした人物は、新田義貞といえるのではないでしょうか。
しかし、歴史学者・本郷和人先生は、これに異論を唱え、鎌倉幕府を滅ぼしたのは足利尊氏であるとおっしゃっておられました。
理由は、このときの新田義貞は、あくまでも足利尊氏の部下であり、足利尊氏の命令に従って、鎌倉を滅ぼしたから、とのことです。
日本最初の「武家政権」である「鎌倉幕府」は、141年の歴史を閉じたのでした。
鎌倉幕府滅亡の原因は「元寇」と「北条高時による失政」
鎌倉幕府が滅亡した原因は『元寇』と「失政」と言えます。
「元寇」・・・「文永・弘安の役」。すなわち「蒙古襲来」を撃退した鎌倉幕府でしたが、「防衛戦」であったため敵の領土を奪うことができませんでした。
そのため、戦った武士たち【御家人】にご褒美として「土地」を与えることができなかったのです。
そのため、武士たちは相当な被害をこうむり、疲弊をしてしまうことになりました。
そんな中、鎌倉幕府はトップである「北条高時」の失政によって、「御家人」を苦しめ続けます。
「承久の乱」で敗北するなど、鎌倉幕府に深い憎しみを抱いていた「朝廷」と「後醍醐天皇」は、「倒幕運動」を開始。
「足利尊氏」「新田義貞」「楠木正成」らを従えた「後醍醐天皇」は、「源頼朝」が開き141年続いた「鎌倉幕府」を滅亡させることに成功したのです。
鎌倉幕府が滅亡した後の混乱!建武の新政と南北朝時代
失政の連続だった「鎌倉幕府」が滅亡し、後醍醐天皇による新しい政治「建武の新政」が始まりました。
鎌倉幕府を滅ぼした武士たちは、後醍醐天皇の政治で「良い国になる」「平和になる」と信じていました。
しかし、世の中は全く良くなりませんでした。
それどころか、鎌倉幕府の時代よりも、遥かに悪化していったのです。
その原因は、後醍醐天皇の政治「建武の新政」が、「鎌倉幕府」の政治よりも、遥かにマズイものだったこと。
武士が嫌いだった後醍醐天皇は、全国にある武士たちの土地を、何の理由もなく取り上げはじめたのです。
挙句の果てに後醍醐天皇は、完全な「独裁政治」を開始。
この独裁政治により、鎌倉幕府を滅ぼした武士たちは、次々と大切な「領地」「土地」を失うこととなるのです。
後醍醐天皇の独裁政治に激怒した「武士」たちは、武士のトップである「足利尊氏」をリーダーに祭り上げて、後醍醐天皇に戦いを挑むのです。
鎌倉幕府を倒すために、後醍醐天皇に協力した足利尊氏でしたが、後醍醐天皇を裏切って、戦うこととなってしまうのです。
「新田義貞」や「楠木正成」など、鎌倉幕府討伐に功績があった武士たちは、「後醍醐天皇」に味方して、「足利尊氏」らに対抗。
しかし、武士たちの圧倒的な支持を得ていたカリスマ「足利尊氏」には、名将「楠木正成」も「新田義貞」も、まったく歯が立たず。
楠木正成も新田義貞も、次々と戦死。
後醍醐天皇を京都から追い出した足利尊氏は、「武士たちの、武士たちによる、武士たちのための政治」をおこなうため、「京都」に「室町幕府」を開きます。
尊氏に敗北した後醍醐天皇は、奈良県「吉野」に「南朝」という、京都の「朝廷」とは異なるもう一つの「朝廷」を開いて、足利尊氏に戦いを挑むのです。
ここに、50年以上も続く動乱の世。2人の天皇が存在する異常な時代「南北朝時代」が始まったのでした。
この「南北朝時代」は、三代将軍「足利義満」が「南朝と北朝を統一」するまで続くこととなるのです。
新田義貞についてひとこと言いたい!
新田義貞・・・・鎌倉幕府を滅亡させた武将。
足利尊氏のライバルとして描かれることが多い武将ですが、その実力は、とてもではありませんが足利尊氏のライバルと呼べるものではありませんでした。
名将「楠木正成」は、500名の兵で、数十万の鎌倉軍と互角に戦った名将です。
この楠木正成が「新田義貞」を、かなり酷評しているのです。
足利尊氏が、京都へ向けて進軍してくる際、楠木正成は「後醍醐天皇」に対して「勝ち目がない」ことを伝えます。
戦っても勝てないのなら、足利尊氏に対して「新田義貞」の首を渡して「仲直り」したほうが良い・・・と、楠木正成は進言しているのです。
「新田義貞を殺害せよ」
そんなことを言っている事実からしても、楠木正成が新田義貞を、酷評していたことがよくわかります。
新田義貞・・・・「戦下手」「ビギナーズラックで鎌倉幕府を滅亡させた武将」などなど。
現代、新田義貞への評価は、こういった「酷評」が多いのが現実なのです。
ただ、「後醍醐天皇」への忠誠心だけは素晴らしかった「新田義貞」。
「明治維新」の後、その功績は「楠木正成」とともに再評価されています。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 鎌倉幕府が滅亡した原因は、「元寇」つまり「蒙古襲来」と、北条高時の失政(北条高時は、北条時宗の孫)
- 「鎌倉幕府」を滅ぼしたのは、新田義貞という武将
- 幕府滅亡後の「後醍醐天皇」による政治「建武の新政」は、北条高時の失政よりはるかにマズイ政治だった。そのため、足利尊氏ら武士は後醍醐天皇に戦いを挑み「室町幕府」を成立させた
以上となります。
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