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源頼朝の子孫を現在まで完全網羅!家系図でわかりやすく解説

鎌倉幕府をつくった源頼朝みなもとのよりともの家系図と子孫を、画像つきで完全網羅いたしました。

征夷大将軍となり、日本最初の幕府である鎌倉幕府という、【武士が日本を支配する政府】をつくった源頼朝。

その子孫は、今も続いているのでしょうか?

頼朝の家系図を、画像つきで、世界一わかりやすく解説いたします。

実は頼朝の子孫は、すでに断絶しています。

しかし源氏の血筋は、武田信玄たけだしんげん足利尊氏あしかがたかうじを通じて、今も続いているのです。

→→→→→『鎌倉殿の13人』登場人物・関連記事まとめはこちら


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 源頼朝の子孫は、頼朝の孫の代で断絶しており、今の日本に頼朝の子孫はいない
  2. ただ、源頼朝と同じ源氏の一族は、足利尊氏武田信玄を通じて、今も続いている。徳川家康も・・・
  3. 頼朝の次男・三代将軍の実朝さねともは、頼朝の長男で二代将軍だった頼家よりいえの息子・公暁こうぎょうによって暗殺された
目次

源頼朝の家系図

源頼朝みなもとのよりとも

《源頼朝》
「引用元ウィキペディアより」

源頼朝とは、征夷大将軍となって、日本最初の幕府・鎌倉幕府をつくった人物です

1185年の壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした名将・源義経の兄でもあります。

そんな源頼朝の家系図をご用意いたしました。

《源頼朝の家系図》
家系図の引用などはご遠慮くださいませ

 

源頼朝みなもとのよりとも

伝説の名将・源義家の末裔にして、武家の名門・源氏一族の御曹司。源義朝の三男にあたる。

関東に、武士による政府・鎌倉幕府をつくりあげ、征夷大将軍に就任した武士の棟梁。

平治の乱において、父・源義朝が宿敵・平清盛に敗北し、死去。

頼朝はその後、罪人として伊豆へ流罪となる。

その後、伊豆の小豪族・北条時政の娘・北条政子と結婚し、北条氏を後ろ盾に、父親の仇である平清盛の一族・平家へ戦いを挑む。

義弟・北条義時や、実弟・源義経などの力を使い、ついには平家を壇ノ浦の戦いで滅ぼす。

その後は実弟・源義経や源範頼らを次々と粛清。奥州の覇者・藤原泰衡を討伐し、日本全土を制圧。

1199年、落馬直後に急死。その死の原因は、今も病死・事故死・暗殺・怨霊による呪死など、諸説ある

→→→→→→【源頼朝の死因】について詳しくはコチラ


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北条政子ほうじょうまさこ

源頼朝の妻。伊豆の豪族・北条時政の娘。北条義時の姉。

夫・源頼朝に嫁ぎ、頼朝による平家打倒を支えた。

嫉妬深く、夫の愛人であった亀の前の邸宅を破壊したという逸話もあるが、心優しい一面もあり、処刑されてもおかしくない窮地におちいっていた源義経の愛妾・静御前の命を救ったともいわれている。

頼朝が亡くなると、頼朝とのあいだに生まれた長男・源頼家や、次男・源実朝の後見人として、幕府の運営を補佐。

頼朝・頼家・実朝という三代の将軍が亡くなると、【尼将軍】と呼ばれるほどの権力をふるって、幕府存続に尽力した。

後鳥羽上皇と北条義時による承久の乱が勃発すると、歴史に残る名演説を行い、圧倒的に不利であった戦いを、圧勝へと導いた。

幕府を支配していた弟・義時が亡くなると、その子・北条泰時を幕府のトップに就任させるため、三浦泰村による謀反を未然に防いだ。

その直後に、弟・義時の後を追うかのように死去。

源義朝みなもとのよしとも

源頼朝・範頼・義経らの父。源氏の棟梁だった人物。

源氏は一族同士の争いが激しく、義朝は源氏のトップの座を巡って、実の弟である源義賢を死に追いやっている。(源義賢の子・木曾義仲は、このとき斎藤実盛という武将に救われ、信濃国へかくまわれている)

崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱で、平清盛と協力して、父・源為義や弟・源為朝を相手に戦い、勝利。

その後、ライバルの平清盛に戦いを挑んだ平治の乱において敗北。

京都から自らの本拠地であった関東へ逃亡する途中、部下に裏切られ、入浴中に討ち取られてしまう。

「せめて我に木太刀の一振りでもあれば」

と、裸で武装していなかった状態で討ち取られた無念を叫んで亡くなったという伝承から、愛知県の野間大坊にある義朝の墓には、今も木刀を納める風習が残る。

何の因果か、義朝の孫にあたる二代将軍・源頼家も、祖父・義朝と同じく入浴中に襲われて亡くなっている。

御白河法皇ごしらかわほうおう

治天の君と呼ばれた絶対権力者・鳥羽法皇の子。

鳥羽法皇による操り人形となる運命のもと天皇の座に君臨した人物だったが、権謀術数の達人で、権力闘争の名人であったため、数々の名将と権力闘争を繰り返すこととなる。

「山法師・サイコロ・鴨川、この3つ以外は全て私の思うがままだ」

と豪語した絶対的な権力者・白河法皇のひ孫にあたり、その名を継承している。

保元の乱において、信西や平清盛・源義朝らの実力者を従えて、実兄である崇徳上皇に勝利。

その後は、平清盛との権力闘争に明け暮れた御白河法皇だったが、清盛によって幽閉されてしまう。

これに激怒した御白河法皇の子・以仁王は、源頼朝や木曾義仲に平家打倒を呼びかけ、源平合戦が勃発する。

その後は、平宗盛・木曾義仲・源義経らを手玉に取って滅亡へと追い込み、源頼朝との権力闘争を開始。

最期の最期まで、源頼朝による征夷大将軍就任に反対し続けたものの、1192年に死去。

御白河法皇が亡くなると、その死を待ち望んでいたかのように、源頼朝は征夷大将軍に就任して、武家の棟梁となった。

源義経みなもとのよしつね

源頼朝の弟。源義朝の九男であり、絶世の美女・常盤御前の末の息子。

幼名は牛若丸うしわかまる遮那王しゃなおうと名乗ったとされている。鞍馬寺で天狗から武芸を学んだという伝説がある。

平家を滅亡に追いやった名将で、兄・頼朝に献身的に尽くした後、敬愛する兄・頼朝に裏切られて死へと追いやられた悲劇の天才・美男子武将・・・・・・とされているが・・・近年の研究では、そうではないとされている。

母・常盤御前は、父・義朝の仇である平清盛の愛人となり、娘を産んだという。

幼くして母から引き離された義経は、京都・鞍馬寺にあずけられた。その後、元服(成人)して鞍馬寺を抜け出し、奥州の覇者・藤原秀衡のもとへ身を寄せる。

兄・頼朝が平家打倒に挙兵すると、義経は奥州から駆けつけたという。

その後、義経は頼朝から軍団を与えられ、木曾義仲を粟津の戦いで撃破したことをはじまりとして、平家を相手に

  • 一ノ谷の戦い
  • 屋島の戦い
  • 壇ノ浦の戦い

と、連戦連勝を重ねてついに平家を滅亡させる。

ところが、その後、義経は兄・頼朝から謀反人とされて全国を逃げ回り、奥州へ辿り着いた挙句に、藤原泰衡に討ち取られてしまう。

源範頼みなもとののりより

源頼朝の異母弟。源義朝の六男で、義経の異母兄にあたる。

兄・頼朝が打倒平家のために挙兵すると、それに参加して兄・頼朝を支えた。

弟・義経とともに平家討伐の軍を率いて戦い、各地を転戦する。

平家打倒に成功したものの、壇ノ浦の戦いで海中に没した三種の神器の一つである草薙の剣を捜索したものの発見できなかった。

その後も義経とは違い、兄・頼朝に忠実に仕えた。

頼朝が自らの後継者である源頼家をお披露目するためのイベント・富士の巻狩りにおいて、曽我兄弟の仇討ちと頼朝暗殺未遂が起こると、範頼の運命は暗転する。

「範頼がおりますので、ご心配には及びません」

頼朝が暗殺されたという噂が鎌倉で広まった際に、弱気になる北条政子を、範頼はこう言って励ましたという。

頼朝はその後、この言葉を謀叛の意思ありと受け止めて、範頼を幽閉。その後、範頼は刺客に暗殺されることとなる。

阿野全成あのぜんじょう

源頼朝の弟。義朝の七男で、義経や義円と同じく、常盤御前の子。

兄・頼朝が挙兵すると、兄弟の中で誰よりも先に駆けつけたという。

北条政子・義時の妹である阿波局を妻としており、阿波局が乳母をつとめた頼朝の次男・源実朝を推すようになる。

北条家と協力して実朝を擁立し、頼朝の長男・頼家を擁立する比企能員らと対立することとなる。

先手を打った頼家によって、謀叛の罪で捕われた阿野全成は、御家人・八田知家によって討たれた。

その後、息子の頼全や阿野時元も、殺害されることとなる。

余談だが、阿野全成の子孫にあたる阿野廉子は、後醍醐天皇の寵愛を受けて後村上天皇を産んでいる。

後醍醐天皇によって、鎌倉幕府は滅亡へと追いやられることになる。


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義円ぎえん

源頼朝の弟。父・義朝の八男であり、母は常盤御前。阿野全成は同母兄で、源義経は同母弟にあたる。

叔父である源行家が尾張国で挙兵すると、ともに立ち上がり、平家軍を相手に墨俣川で戦った。

夜襲に失敗して討ち取られたという。

兄・頼朝とは対面せず、叔父・行家と独自に挙兵したという説もある。

ただ、別の説によれば、兄・頼朝の命令で、叔父・行家の救援に出陣したともいわれており、その動向ははっきりとは分かっていない。

比企尼ひきのあま

源頼朝の乳母であり、鎌倉幕府の御家人・比企能員は甥にあたる。

平治の乱で頼朝が伊豆へ流罪になると、平家から睨まれるリスクを冒しながらも、20年ものあいだ頼朝へ仕送りを続けた。

また、娘婿にあたる安達盛長を頼朝の従者として仕えさせたという。

生没年は不明。

ただ、頼朝が弟・範頼を誅殺しようとすると、それに反対した。

比企尼の尽力もあって、範頼の子供二人は命を救われたという。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、比企能員の変で比企氏が滅亡すると一人生き延び、頼家の子・善哉ぜんざい(のちの公暁くぎょう)に対して呪いの種を埋め込んで、姿を消した。

比企能員ひきよしかず

鎌倉幕府の御家人であり、源頼朝の長男・源頼家の乳母夫にあたる。

頼朝の乳母であった比企尼の甥であったが、比企尼に男子がいなかったため、比企家を継承した。

比企尼と頼朝の関係から、頼朝の信頼を勝ち取り、二代将軍・源頼家の後ろ盾として勢力を拡大させる。

頼家と比企のつながりは深く、頼家の乳母が比企というだけではなく、頼家に比企能員の娘である若狭局が嫁ぎ、長男・一幡が産まれている。

北条時政はこれに対抗して、頼朝の次男・源実朝の乳母に時政の娘である阿波局をつけた。

頼家・比企氏と、実朝・北条氏の争いは、比企能員が北条時政に騙し討ちされ、北条氏の勝利に終わった。

比企能員は、北条時政から自邸へ招かれ、無防備な状態で参上したところを打ち果たされたという。


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源為朝みなもとのためとも

源頼朝の叔父にあたる猛将。頼朝の父・義朝の弟であり、八男であったため、八郎と呼ばれた。

鎮西(九州)で暴れ回っていたため、鎮西八郎為朝ちんぜいはちろうためともと名乗った。

あまりにも乱暴者であったため、父・源為義に嫌われて、九州へと追放されたという。

その後、為朝は勝手に九州の支配者を名乗って暴れ回り、九州全土を支配してしまったという。

8人がかりでも引くことができなかったという強弓の使い手で、放った矢は人間を貫通し、後ろにいた人間に突き刺さったという。

後白河天皇と崇徳上皇が争った保元の乱で、父・為義とともに崇徳上皇側に味方した。

後白河天皇の側には、兄・源義朝が味方したため、兄弟で戦うこととなった。

夜襲を提案したが、藤原頼長に却下されてしまったため、超人的な活躍をしたものの、敗北。

その後、腕の腱を切られて伊豆大島へ流罪となったが、再び暴れ回り、御家人・工藤茂光に追いつめられて自害した。

二代将軍・源頼家の妻・辻殿は、源為朝の孫娘であるとされている。

木曾義仲きそよしなか

源頼朝のいとこであり、ライバルにあたる人物。源義高の父。源義賢の息子。

通称・旭将軍あさひしょうぐん

木曾義仲の父である源義賢は、兄・源義朝と家督争いをした挙句、義朝の長男・源義平によって討ち取られている(源義平は、源頼朝の兄にあたる)

しかし、当時まだ幼かった義仲は、斎藤実盛という武将に救われて、信濃国・木曽谷へ匿われ成長する。

頼朝が挙兵すると、義仲も平家打倒のため信濃国で挙兵。

京都の平家を攻撃するために、背後に位置していた源頼朝に対して、息子の源義高を人質として送り、一時的に講和する。

京都から平家を追い出すことには成功したものの、兵士たちが京都で乱暴狼藉を繰り返したため、後白河法皇は源頼朝に対して、義仲を討伐するようにと命令を発した。

頼朝は、弟の範頼・義経を出陣させて、義仲を攻撃させた。

義仲の軍団は戦う前から離散しており、まともな戦いもできないまま、粟津の戦いで義仲は戦死した。

源義高みなもとのよしたか

木曾義仲の息子。源頼朝の娘・大姫の許嫁でもあった。頼朝からみると、いとこ甥にあたる。

父・義仲が頼朝と講和する際に、人質として鎌倉の源頼朝のもとへ送られた。

ただ、表向きとしては、頼朝の娘である大姫の許嫁として鎌倉へ来たという。

義仲が義経によって討たれると、義高の立場は一気に悪化。

頼朝はのちに災いの種となりかねない義高を討とうとするが、長女・大姫が密かに義高を逃亡させたという。

しかし、藤内光澄によって逃亡途中で打ち果たされてしまう。

大姫おおひめ

源頼朝と北条政子の長女。源義高の許嫁。

人質として鎌倉へ送られた木曾義仲の子・源義高と大変仲が良かったため、義高が亡くなると、病気がちになったという。

義高を密かに逃そうとするものの、失敗し、義高は亡くなってしまうと、倒れてしまったという。

激怒した北条政子は、義高を殺害した藤内光澄を処刑。

その後、後鳥羽天皇との婚姻を打診されるも、義高を忘れることができず、全て拒絶。

義経との仲を引き裂かれて、産んだ子供を殺害された静御前を気遣うなど、優しい一面を見せたものの、20歳の若さで病死。

現在は義高の首塚がある鎌倉の常楽寺に眠っている

辻殿つじどの

源頼朝の長男・源頼家の妻。御家人・足助重長の娘であり、頼朝の叔父・源為朝の娘。つまり為朝の孫にあたる。公暁の母とされている。

夫である源頼家が亡くなった数年後に出家。

息子の善哉も、母親が出家した翌年に出家している。いつ亡くなったのかは不明

源頼家みなもとのよりいえ

源頼朝の長男。母は北条政子。鎌倉幕府二代将軍であり、三代将軍・源実朝は弟にあたる。

父・頼朝の後継者となる運命を定められていたが、権力基盤は乏しく、不安定な立場にあった。

そのため頼朝は、頼家の乳母夫に、もっとも信頼を置いていた比企能員を指名し、比企を頼家の後ろ盾にしようとした。

頼家はさらに、比企能員の娘・若狭局に長男・一幡を産ませて、比企と頼家の関係はさらに深まった。

ところが、頼家と比企のつながりが強くなると、頼家の弟・実朝を擁立する北条氏との対立が激化することとなった。

頼家・比企と、実朝・北条の対立が深まる仲、頼家は突然重病で倒れ、意識不明となる。

もはや頼家は助からないと誰もが思った時、北条時政が比企能員を殺害し、頼家の妻・若狭局と息子の一幡も殺害してしまう。

妻も子供も後ろ盾も失ったあと、頼家は瀕死の状態から回復。目が覚めると、母・北条政子の実家である北条氏によって、全てが奪われていた。

絶望した頼家は、病気を理由に伊豆・修善寺へ流され、入浴中に北条氏の刺客に襲われて亡くなった。

奇しくも祖父・源義朝と同じ死に方だったという。


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若狭局わかさのつぼね

頼朝の長男・頼家の妻。頼家とのあいだに長男・一幡を産む。御家人・比企能員の娘。

一説によると、頼家の子・公暁の母親は、辻殿ではなく若狭局ともいわれている。

父・比企能員が北条時政に殺害されると、直後に息子の一幡とともに北条に攻められて亡くなったとされている。

しかし、歴史書・愚管抄によると、息子の一幡を抱いて逃亡に成功したものの、比企能員の変から約2ヶ月後に、北条義時の刺客によって、一幡もろとも殺害されたという。

公暁こうぎょう

源頼朝の孫。二代将軍・源頼家と、辻殿の子。猛将・源為朝の曾孫ひまごにあたる。一幡の弟。

幼い頃に父・頼家と兄・一幡を失い、叔父にあたる源実朝が鎌倉殿・征夷大将軍となったため、出家させられたという。

その後、祖母・北条政子による気遣いで、鶴岡八幡宮の別当という重要な地位へ就任。叔父の実朝の猶子となる。

一説によると、自分こそが次の鎌倉殿・次の征夷大将軍になるべき人間であると思い込んでいたらしく、実朝を呪い殺そうと千日に及ぶ祈祷を密かに行ったという。

ところが、実朝が自分の後継者として、後鳥羽上皇の皇子を鎌倉へ迎えるつもりだと知り、実朝暗殺を決意。

右大臣昇進の儀式を終えて、大雪が降るなか石段を降りる実朝と、源仲章を殺害

「親の仇はかく討つぞ(今こそ親の仇を討つ)」

と叫んで、実朝の首を落とし、逃亡。乳母夫であった三浦義村に

「自分こそが次の鎌倉殿にふさわしいので、そのように取り計らえ」

と使者を送ったという。実朝の首を、食事の間もそばから離さなかった。

ところが、三浦義村は実朝へ討伐の兵を送り、公暁は打ち果たされた。

曽祖父・源為朝に似たのか、三浦義村の兵を苦戦させたという。

竹御所たけのごしょ

源頼朝の孫。源頼家の娘。頼朝の血を引く最後の女性だった。

尼将軍・北条政子の後継者としての地位を約束された女性だったという。

兄弟が次々と亡くなるなか、最後まで頼朝の血を守る立場であり、29歳のときに13歳年下の4代将軍・藤原頼経と結婚。

夫婦仲は良かったが、33歳のときの出産で死産となり、難産の末に亡くなってしまう。

竹御所の死によって、源頼朝の血筋は完全に途絶えた。

頼朝の血筋が途絶えたのは、平家の呪いが原因ではないかと噂された。


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藤原頼経ふじわらのよりつね

鎌倉幕府4代将軍。源頼朝の妹・坊門姫の曾孫ひまごにあたるため、頼朝からすると甥と姪の孫ということになる。

三代将軍・源実朝が公暁に暗殺されたため、その後を継ぐために京都から招かれた。

幼かったため、政務は北条政子が代わりに行い、あくまでも権威の象徴つまりお飾りの将軍だったという。

ところが、時が経過するに連れて権威を増し、北条一族の対抗勢力に祭り上げられる存在となる。

息子の藤原頼嗣に将軍の位を譲ったのち、権力闘争に巻き込まれるが、北条義時の曾孫ひまごである5代執権・北条時頼によって鎌倉から追放された。(宮騒動)

一幡いちまん

源頼朝の孫。二代将軍・源頼家の長男。母親は比企能員の娘・若狭局。

本来であれば、三代将軍として父・頼家の後継者となるはずだった。

ところが、比企能員の変で外祖父・比企能員が、北条時政に討たれると、一気に事態は暗転する。

比企の館にいた一幡は、北条の兵に攻撃され、なんとか母・若狭局に抱かれて逃げ延びたものの、数ヶ月後に北条義時の刺客によって命を落とした

三幡さんまん

源頼朝の次女。母は北条政子。

姉の大姫が亡くなり、後鳥羽天皇への輿入れが頓挫すると、大姫に代わって三幡が後鳥羽天皇への輿入れを計画されたという。

ところが、三幡は若くして病死し、天皇の外祖父となって平清盛を超えるという頼朝の計画は失敗に終わった。

源実朝みなもとのさねとも

源頼朝の次男。鎌倉幕府の三代将軍。母は北条政子。兄は二代将軍・源頼家。

母・北条政子の妹である阿波局を乳母とし、北条家の館で育った。

比企を乳母として比企の館で育った兄・頼家と、対立する運命におちいってしまう。

比企氏と兄・頼家 vs 北条氏と弟・実朝

この対立は比企能員の乱で、比企一族が滅ぼされ、兄・頼家が暗殺されたため、北条が勝利し、実朝は三代将軍に就任した。

その後、政治は祖父・北条時政が主導し、時政が牧氏事件で追放されると、叔父・北条義時が主導した。

歴史書・吾妻鑑によると、和歌に没頭し、巨大な船を建造して進水式に失敗するなど、実朝は失政を繰り返す暗君であることが記されているが、近年の研究では自ら政治を主導する卓越した人物であるとされている。

当時最高の権力者・後鳥羽上皇を後ろ盾に、鎌倉幕府を支配し、権威を高めていった実朝だったが、右大臣就任の儀式から戻る最中で、甥であり猶子でもあった公暁に暗殺されてしまう。

妻・西八条禅尼との間に子供がいなかったため、頼朝の男系の血筋はこれにて断絶。

実朝については、なぜ子供ができなかったのか、暗殺の黒幕は誰なのかなど、数々の謎がある。

実朝は、まだ20代のうちから、「自分には子供ができない」と言っていたという。

なぜ子供ができないと、自分でわかっていたのか。同性愛者であったのか、それとも身体的に一目で「子供ができない」とわかる特徴があったのかは不明だが、実朝は早くから自分の後継者として、後鳥羽上皇の皇子を養子としてもらうことを計画していたという。

→→→→→【源実朝の家系図と子孫】について詳しくはこちら

→→→→→【源実朝の最期と死因】について詳しくはこちら

信子のぶこ西八条禅尼にしはちじょうぜんに

源頼朝の息子・実朝の妻。後鳥羽上皇のいとこにあたる人物。

実朝の妻として京都から鎌倉へ下り、実朝に輿入れする。

実朝からは大事にされたらしく、実朝は側室を持つようなことはなかったという。

子供はおらず、夫が暗殺されると翌日すぐに出家して京都へ戻っている。

のちに承久の乱で兄が幕府に処罰されそうになると、助命嘆願をして兄の命を救った。

モンゴル帝国による日本襲来すなわち元寇が起こった1274年に死去。享年82歳。


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坊門局ぼうもんのつぼね

後鳥羽上皇の女房。後鳥羽上皇のいとこでもある。実朝の妻・西八条禅尼の姉妹。

夫・後鳥羽上皇とのあいだに道助入道親王を産んでいる。

御白河法皇ごしらかわほうおう

源頼朝の宿敵。平安時代末期の日本に君臨した最高権力者。後鳥羽上皇の祖父にあたる。

父は実力者・鳥羽法皇。頼朝から【日本一の大天狗】と呼ばれた。つまりペテン師ということ。

権謀術数と権力闘争の達人で、崇徳上皇・藤原頼長・平清盛・平宗盛・木曾義仲・源義経などを手玉に取り、それら全てを破滅へと追いやった人物。

元々は天皇になれるはずのない立場の人物だったが、乳母夫だった学者・信西の画策により、父・鳥羽法皇から天皇に選ばれ即位することとなる。

絶対権力者・鳥羽法皇が亡くなった食後の保元の乱で、兄・崇徳上皇と戦い、平清盛や源義朝を味方にして勝利。(崇徳上皇は、兄ではなく、後白河天皇の大叔父だったという説もある)

また、平治の乱では信西を失ったものの、平清盛に救われている。

その後、平清盛と対立し、幽閉されてしまうが、そのことがきっかけで源頼朝や木曾義仲が挙兵。

平清盛が亡くなると、その子・宗盛と対立。

木曾義仲・源義経らを手玉にとって、対抗勢力を滅亡へと追いやっている。

征夷大将軍の位を望む源頼朝の要求を最後まで拒み続けたが、1192年に死去。

同年、頼朝は征夷大将軍に就任し、幕府をさらに盤石なものとした。

高倉天皇たかくらてんのう

御白河法皇の息子。安徳天皇や後鳥羽上皇の父。母親が平清盛の妻の妹であったため、清盛の義理の甥にあたる。

清盛の娘である徳子を妻として、安徳天皇が誕生。

また、藤原殖子ふじわらたねことの間には、後鳥羽上皇が誕生している。

父・御白河法皇が清盛により幽閉されると、自ら政治を行ったが、直後に息子である安徳天皇に位をゆずって、院政を開始した。

ところが、わずか19歳で病死してしまう。

のちに安徳天皇は三種の神器とともに都落ちし、壇ノ浦の戦いで祖母にあたる平時子(清盛の妻)に抱かれ、入水した。


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後鳥羽上皇ごとばじょうこう

御白河法皇の孫であり、当時最高の権力者である治天の君ちてんのきみ(上皇は天皇と違って、一度に何人もの上皇が並び立つこともあったため、上皇たちの中でも最高位の上皇を治天の君と呼んだ)

異母兄・安徳天皇が三種の神器をもって都落ちしたため、三種の神器無き即位をした。

これが生涯にわたる後鳥羽上皇のコンプレックスとなったという。三種の神器がない状態で即位の儀式を行った天皇は、当時の風習では正式な天皇とは認められていなかった。

そのためか、後鳥羽上皇は数々の技をみがき、己を鍛え上げた。

和歌や学問のみならず、武芸にも秀でた人物で、歴代天皇のなかでも最高の能力を持つ人物だったという。

当時、鎌倉幕府を支配していた将軍・源実朝を飼い慣らし、幕府という組織をも自らの支配下におこうとしたが、実朝が公暁に暗殺されてしまったため、幕府乗っ取り計画は失敗。

さらには実朝亡き後の征夷大将軍・鎌倉殿の地位を巡った権力闘争が京都へも飛び火し、内裏だいり(天皇の住まい)が焼失するという事態が起こる。

内裏の再建を全国に命じたが、うまくいかなかったという。

この内裏消失は、もともとは鎌倉幕府内での内輪揉めが原因であったにもかかわらず、幕府の実質的指導者である北条義時も、内裏再建には消極的だったという。

怒りを爆発させた後鳥羽上皇は、北条義時を討伐せよという命令を全国に発するが、逆に幕府軍に敗北し、隠岐島へと流罪になってしまう。

その後は、京都への帰還を夢見ながら和歌と仏道修行に明け暮れ、隠岐で亡くなった。

順徳上皇じゅんとくじょうこう

後鳥羽上皇の子。土御門上皇の弟にあたる。

承久の乱において、父・後鳥羽上皇とともに積極的に幕府を倒そうとした人物。

過激な性格だったらしく、父以上に倒幕に熱心で、その準備のため自らの子・仲恭天皇に位を譲ったという。

戦後、鎌倉幕府により佐渡へ流罪となった。

のちに自分の息子である忠成王が天皇に即位する可能性が浮上したが、鎌倉幕府や北条泰時に強く反対されたことを知り、京都へ戻る希望がないことを悟り、絶食。

絶食により自ら命を絶ったともいわれている。

土御門上皇つちみかどじょうこう

後鳥羽上皇の子。順徳上皇の兄にあたる。

弟・順徳上皇とは違い、とても温和な性格だったという。

承久の乱の際には、父や弟とは違い、倒幕に反対しており、乱には実質的に関わっていない。

しかし、父・後鳥羽上皇が隠岐へ流罪となると、父が流罪となるのに自分が京に残るのは忍びないと、自ら土佐への流罪を望んだ。

その後、幕府は土御門上皇を、土佐よりも京都に近い阿波へ移したが、その地で亡くなった。

のちに土御門上皇の子・後嵯峨天皇が即位し、土御門上皇の系統が続くことになる。

この後嵯峨天皇が、後継者をハッキリ決めなかったため、皇位継承問題が勃発し、のちに両統迭立りょうとうてつりつ南北朝なんぼくちょうの動乱の引き金となってしまう。

北条時政ほうじょうときまさ

源頼朝の妻・北条政子の父親。頼朝の舅であり、北条義時の父でもある。

二代将軍・源頼家や、三代将軍・源実朝は、北条時政の孫にあたる。

平治の乱で敗北し、伊豆へ流罪となった源頼朝を監視する役目を受け持っていた伊豆の小豪族。

最大動員兵力はわずかに50名だったが、頼朝が平家打倒のため挙兵すると、全力でそれを助けた。

その後、頼朝が亡くなると、鎌倉幕府での権力闘争を繰り返すことになる。

比企能員の乱で、最大のライバルだった比企能員と、自らの曾孫ひまごにあたる一幡を殺害。

さらには、無実の罪で【武士の鑑ぶしのかがみ】とたたえられた娘婿・畠山重忠を殺害。

それのみならず、時政は孫の源実朝を廃して、娘婿の平賀朝政を鎌倉殿にしようと画策。

これに激怒した北条政子・義時によって、時政は出家させられ伊豆へと追放。

追放された約10年後に病死したという。

北条義時ほうじょうよしとき

源頼朝の妻・北条政子の弟。数々の権力闘争を勝ち抜き、稀代の帝王・後鳥羽上皇すらも打ち倒した、鎌倉の王。

鎌倉幕府二代執権ではあるが、父の時政が追放されたためか、歴史書・吾妻鑑では、義時が北条の初代とされている。

もともとは伊豆の小豪族の次男であったが、姉・政子が源頼朝に嫁いだため、運命が変わり始める。

頼朝とともに平家討伐に貢献し、日本最初の武家による政府・鎌倉幕府の成立と土台固めにも尽力。

頼朝が亡くなると、二代将軍・源頼家と比企能員を倒し、父・時政とともに幕府の実権を握る。

さらに、父・時政が御家人から睨まれると、父をも追放して、実質的に幕府のトップに君臨することとなる。

三代将軍・源実朝が公暁に暗殺されると、これをきっかけに後鳥羽上皇との関係が一気に悪化。

ついには後鳥羽上皇に、北条義時追討の命令を出され、絶体絶命の状況に追い込まれる。

大江広元らの助言もあって、後鳥羽上皇相手に闘うことを決め、息子・泰時と弟・時房を出撃させるが、落雷が自邸に落ちたことで恐怖し、大江広元に助言を求めたという逸話が残っている。(このとき大江広元は、落雷の直後に勝利した奥州合戦を例に挙げ、落雷は吉であると義時を励ました)

この承久の乱に圧勝した義時は、幕府のみならず朝廷も支配する立場に立つこととなる。

承久の乱ののち、病死。その死は妻・伊賀の方の暗殺とも噂されている。

死後、いとこでもある三浦義村による反乱が噂されたが、姉・政子の説得により、義村の反乱は未然に防がれた。

北条時房ほうじょうときふさ

源頼朝の妻・政子の弟。義時の弟でもある。

政治力に優れた人物で、京都での生活も長く、蹴鞠に優れた才能を発揮したという。

承久の乱においては、甥・北条泰時とともに主力の東海道軍を率いて奮戦。

中山道軍の主将・武田信光の裏切りを察知し、褒美をちらつかせて裏切りを未然に防いだ逸話は有名。

兄・義時が亡くなると、甥・泰時を補佐して、鎌倉幕府の屋台骨を支えた。

ところが、決しておとなしいだけの人物ではなく、泰時をよく補佐はしたものの、泰時との政治の主導権争いを繰り返し、ライバルであり最高の補佐役でもある人物だったという。


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北条宗時ほうじょうむねとき

源頼朝の妻・北条政子の兄。義時・時房の兄でもある。

頼朝の挙兵を誰よりも強く支援し、打倒平家の急先鋒となった。

ところが、初戦の石橋山の戦いで敗北した際に、戦死する。

三浦義村みうらよしむら

源頼朝の御家人の一人。和田義盛のいとこであり、北条義時のいとこでもある。

権謀術数に優れた陰謀家。

いつでも北条義時の味方で居続けたが、歴史上数々の事件の黒幕なのではないかと噂された人物でもある。

和田合戦

実朝暗殺事件

承久の乱

伊賀氏の変

などなど。三浦義村は数々の事件で黒幕とされながらも、最後の最後まで北条義時の味方で居続けた人物だった。

和田合戦では同族の和田義盛を裏切り、「友を喰らう犬」と罵倒されながら北条義時の味方をし

実朝暗殺事件では、公暁からの知らせを真っ先に義時に知らせて公暁を討ち取り

承久の乱では義時追討の院宣を押収して幕府圧勝のきっかけをつくった。

義時の死後、伊賀の方とともに鎌倉幕府の実権を握るために謀反を起こすという噂が流れたが、北条政子の説得を受け、謀反は未然に防がれたという。

北条泰時ほうじょうやすとき

源頼朝の義理の甥にあたる。鎌倉幕府3代執権。北条政子の甥。父は北条義時。

3代執権として、鎌倉幕府の土台作りに尽力した人物。頼朝からはとても可愛がられ、頼朝から一字をもらい、頼時と名乗っていた。泰時と改名した理由は不明。

頼朝は、幼い泰時に対して馬を降りて挨拶しなかった御家人に対して激怒したという。

和田合戦や承久の乱で、父に代わって兵をひきいて戦い、北条一族に勝利をもたらした。

承久の乱では、叔父・時房や息子・時氏とともに、わずか18騎で鎌倉を出撃。

最終的には、19万の大軍団に膨れ上がり、後鳥羽上皇の軍団を打ち倒した。

その後は、朝廷を監視する役職である六波羅探題を、叔父の時房とともに務めたが、父・義時が急死すると、鎌倉へ戻り執権に就任した。

叔母・北条政子を後見人として幕政を主導。

朝から熱心に法律を勉強し、無法な状態となっていた武家社会に、初めての武家の法律である御成敗式目を制定して、訴訟においても強いものが勝ち、弱いものが負けるという悪しき慣習を防いだ。

人格者であり、武家公家双方から信頼を集めたものの、一部の公家から憎まれ、平清盛のような悪と断じられたという。

もともと父・義時の正室の子ではなく、弟・朝時が後継者となるはずだったためか、立場が弱く、弟や妹に多くの領地を分け与えた。

伯父にあたる頼朝から、とても大切にされ、歴史書・吾妻鑑においては、泰時を頼朝の正当な後継者とされている。

長男・次男そして娘をも先に亡くしてしまったのち、熱病で死去。その死に様は平清盛のように、熱に苦しんだ末のものだったという。

泰時が亡くなった季節が、北条義時・北条政子・大江広元などが亡くなった時期と同じ6〜7月であり、この季節は承久の乱において後鳥羽上皇ら三上皇が流罪となった時期であったため、後鳥羽上皇の祟りで亡くなったと噂されたという。

死後、孫の北条経時が4代執権に就任する。

歴史家・坂井孝一氏は、根拠の薄い説と認めつつも、泰時の母親である阿波局とは、頼朝の最初の妻であった伊藤祐親の娘・八重姫ではないかという説をとなえている。

であれば、頼朝と八重姫の子・千鶴丸は、泰時の異父兄ということになる


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矢部禅尼やべぜんに

北条泰時の妻。三浦義村の娘。

泰時との間に長男・時氏を産んだが、泰時と離縁している。原因は不明。

その後、佐原盛連と再婚している。佐原盛連は妻が産んだ時氏が京都へ向かう際に、共をしている。

ところがこの佐原はかなりの乱暴者で、京都で暴れた挙句亡くなっている。

のちの宝治合戦で、佐原氏は三浦に味方してほとんど滅亡したが、矢部禅尼の子は北条に味方して生き残った。

5代執権・北条時頼は、祖母である矢部禅尼が亡くなると、喪に服したという。

北条時氏ほうじょうときうじ

北条泰時の息子。母は矢部禅尼。北条義時・三浦義村の孫にあたる。

承久の乱において、父・泰時とともにわずか18騎で鎌倉を出撃。

苦戦を強いられた宇治川の戦いで、流れの急な宇治川を渡りきり、戦いを勝利へ導いた。

その後、父・泰時は六波羅探題に就任して京都へ赴任したが、祖父・義時が亡くなって泰時が鎌倉へ戻ると、時氏が六波羅探題に就任した。

将来を期待されていたが、糖尿病が原因で、わずか28歳で亡くなり、父・泰時を悲しませた。

息子の経時と時頼は、それぞれ鎌倉幕府の4代5代執権を務めた。

元寇に対処した8代執権・北条時宗は、孫にあたる。

源頼朝の子孫は、今も続いているの?

頼朝の子孫なのですが、残念ながら断絶してしまっています。

孫娘の竹御所が亡くなった時点で、頼朝の血筋は断絶しているのです。

余談ですが、源頼朝の叔父に、源為朝(みなもとのためとも)という人がいます。

日本の歴史上でもトップクラスの猛将だった源為朝には、数々の伝説があります。

源為朝の子孫は、あの西郷隆盛の二人目の妻・愛加那あいかなであるといわれています。

この伝説が本当ならば、西郷隆盛と愛加那の子供で、京都市長をつとめた西郷菊次郎さいごうきくじろうは、源為朝の末裔であるということです。

→→→→→【愛加那】について詳しくはこちら

→→→→→【西郷菊二郎】について詳しくはこちら

源頼朝には、複数の子供がいました。

二代将軍・源頼家みなもとのよりいえ

三代将軍・源実朝みなもとのさねとも

頼朝にはその他にも、姫が何人かいましたが、全員が若くして亡くなっており、子孫は続いていません。

頼朝の孫・公暁こうぎょうは、自分の叔父にあたる三代将軍・源実朝を暗殺しています。

公暁は実朝を暗殺した直後に、将軍を暗殺した犯人として、執権の北条義時らに殺害されています。

ちなみに、頼朝の最初の妻だった八重姫とのあいだに産まれた息子・千鶴丸は、幼くして祖父・伊東祐親いとうすけちかに殺害されています。

→→→→→【八重姫とはどんな人?】について詳しくはこちら


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源頼朝の生涯と功績をカンタンにザッと解説

源頼朝は、1147年に源義朝の三男として誕生。

頼朝の幼名は、鬼武者おにむしゃといいました。

頼朝は若い頃、伊豆で幽閉生活をおくっていましたが、その後は日本最初の武家による政府・鎌倉幕府をつくり、サムライの国・日本の土台をつくりあげたのです。

1160年、平治の乱へいじのらんと呼ばれる戦争で、頼朝の父・源義朝が、ライバルの平清盛に敗れて亡くなりました。

義朝の息子・頼朝は、命を助けられたものの伊豆へと送られて、幽閉生活をおくることになります。

平清盛の一族である平家へいけが権力を独占し、日本中の武士からの反発をうけていたとき、頼朝は伊豆で平清盛を倒すために立ちあがります。

頼朝は、父・源義朝のカタキである平家を倒すために立ちあがったのです。

源義経や源範頼みなもとののりよりら、弟たちに軍を預けた頼朝は、ライバルだった猛将・木曽義仲きそよしなかや、宿敵だった平家を討伐することに成功します。

その後、敵対した弟・源義経を討伐する名目で、奥州の覇者だった藤原泰衡をも討伐することに成功しました。

  1. 木曽義仲
  2. 平家
  3. 源義経
  4. 藤原泰衡

これらのライバルをすべて倒した頼朝は、日本全国を支配することに成功したのです。

1185年、頼朝は全国に守護しゅご地頭じとうを任命する権利を手に入れ、日本全国を支配させることに成功。自分の本拠地の鎌倉に、幕府ばくふとよばれる臨時政府をつくり、日本最初の【武士による武士のための政府」をつくることに成功。

その後、約700年つづく武士の世の基礎をつくったのでした。

→→→→→【源頼朝とはどんな人か】について詳しくはこちら

源氏の子孫は、足利・武田などを通じて、今も続いている

源頼朝の子孫は、すでに断絶していますので、現在の日本には源頼朝の子孫はいません。

しかし、源頼朝の祖父の祖父にあたる源義家みなもとのよしいえから始まる源氏げんじの血筋は、今も続いています。

たとえば、1336年に室町幕府をつくった足利尊氏あしかがたかうじは、先祖をたどれば、源頼朝とおなじ源義家です。

そして、その源義家の弟・源義光(別名・新羅三郎義光しんらさぶろうよしみつ)の子孫は、戦国時代の猛将・武田信玄たけだしんげんであるといわれています。

足利尊氏・武田信玄、彼らの子孫は今も続いているので、源頼朝と先祖を同じくする【源氏の血筋】は、今も続いているといえます。

また、江戸幕府を開いた徳川家康も、足利尊氏と同じく源義国みなもとのよしくにを先祖としている・・・・と自称しています。

まぁ・・・家康は系図をでっちあげたといわれているので、家康の末裔は源氏の血を引いてはいないかもしれませんが・・・。

→→→→→【足利尊氏の家系図】について詳しくはこちら

→→→→→【武田信玄の子孫】について詳しくはこちら


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源頼朝は何した人なの?頼朝がしたことをわかりやすく解説

頼朝は【鎌倉幕府をつくった人】

源頼朝が、何をした人なのかというと、【鎌倉幕府という、武士による臨時政府をつくった人】といえます。

どうして源頼朝は鎌倉幕府をつくったのでしょうか?

理由はカンタンです。

「自分たちにとって都合の良い政治をおこなうため」

なのです。

平安時代、鎌倉幕府がつくられる前の日本では、お公家さんが権力を独占し、お武家さんはそのボディーガードにすぎませんでした。

武家が権力を握るなど、夢のまた夢だったのです。

お公家さんは、【自分たちにとって都合の良い政治】をおこなうことにより、ますます力を強めていきました。

対して武家は、いくら頑張っても、出世できなかったのです。

そんななかで、平清盛という人物が、武士として初めて、日本で最高の身分である太政大臣だいじょうだいじんに就任したのです。

最高の身分となった平清盛は、自分と血のつながっている自分の一家である【平家へいけ】で権力を独占し、平家一族の繁栄を実現させたのです。

しかし、この権力は非常に壊れやすいものでした。

なぜなら、いくら平清盛が出世しても、あくまでも天皇と上皇が、平家の上に君臨していたので、天皇と上皇に邪魔されて、清盛が好きなように政治ができたわけではないのです。

そこで源頼朝は、絶対権力者である天皇や上皇に邪魔されず、自分の好きなように政治をおこなう方法を考え出します。

それが幕府をつくることだったのです。

では、幕府とは、何なのでしょうか?

幕府とは、いってみれば【臨時の政府】のことです。

政府とは、日本を支配して、日本を運営・経営する組織・集団のことをいいます。

頼朝は、京都にある朝廷ちょうていという、【天皇や上皇をトップにする本来の政府】とは別に、【武士たちによる臨時の政府】を鎌倉につくったのです。

この【武士たちによる武士たちのための政治をおこなう政府】が【鎌倉幕府】なのです。

鎌倉幕府は、まさに

武士たちの、武士たちによる、武士たちのための政治をおこなうための臨時の政府

でした。

そこには天皇や上皇の邪魔も入りません。

自分たちにとって都合の良い政治をおこなうことで、武士たちはさらに強力な力を得ていくのでした。

→→→→→【幕府とは何か】について詳しくはこちら

→→→→→【鎌倉幕府を作った人】について詳しくはこちら

→→→→→【鎌倉幕府滅亡の原因】について詳しくはこちら

幕府を滅ぼした後醍醐天皇と、復活させた足利尊氏

しかし、この武士のための臨時政府(幕府)をこころよく思わない人たちがいました。

お公家さんです。

それまで自分たちのための政治をやっていたお公家さんたちは、鎌倉幕府と非常に仲が悪かったのです。

そのため、朝廷のトップだった後鳥羽上皇は、鎌倉幕府のトップをつとめていた北条義時に対して戦いを挑んだのでした。(承久の乱じょうきゅうのらん

この承久の乱で、幕府のトップだった北条義時が、朝廷のトップ・後鳥羽上皇に圧勝したため、それまでの日本で認められていなかった幕府という臨時政府が、誰からも文句をいわれることのない確固たるものになったのです。

つまり、承久の乱の勝利によって、鎌倉幕府が日本を支配することに、誰も文句を言えなくなったのです。

ところが、それでも武士による臨時政府を認めたがらない勢力は、滅びてはいませんでした。

後醍醐天皇ごだいごてんのうをご存知でしょうか?

鎌倉幕府をよく思わない公家たちは、この後醍醐天皇を中心に、鎌倉幕府に戦いを挑むこととなるのです。

鎌倉幕府が誕生してから約140年後の1333年、鎌倉幕府は後醍醐天皇や足利尊氏あしかがたかうじ楠木正成くすのきまさしげらによって滅ぼされます。

こうして武士による武士のための政治が終わって

お公家さんによるお公家さんのための政治(建武の新政けんむのしんせい

が始まったのです。

ところが、所詮はお公家さんによるお公家さんのための政治でしかありませんでした。

足利尊氏ら武士たちは、まったく政治に参加できず、利益を得ることができません。

これに不満を抱いた武士たちは、武家のトップだった足利尊氏をボスにまつりあげて、もう一度【武士による武士のための臨時政府】を誕生させます。

それが室町幕府むろまちばくふです。

室町幕府は、【お公家さんのための政府】をつくろうとした後醍醐天皇と、血で血を洗う死闘を繰り返し、武家による政権を守り通すこととなるのです。

→→→→→【室町幕府をつくった人】について詳しくはこちら

→→→→→【織田信長が室町幕府を滅ぼした理由】について詳しくはこちら

→→→→→【足利義昭の最期】について詳しくはこちら

→→→→→【足利尊氏と後醍醐天皇の争いの原因】について詳しくはこちら

→→→→→【後醍醐天皇の性格】について詳しくはこちら

→→→→→【承久の乱】について詳しくはこちら


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 源頼朝の子孫は、孫の代で断絶しているので、現在の日本に源頼朝の子孫はいない
  2. しかし、源頼朝と同じ源氏の血筋は、足利尊氏や武田信玄を通じて、今に続いている。徳川家康の子孫も・・・。
  3. 源頼朝の次男・三代将軍の実朝は、長男で二代将軍の頼家の息子・公暁に暗殺された。北条政子は、その後も権力を握り続けた。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

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鎌倉時代に活躍した歴史上の人物等

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