井伊直弼の生涯と桜田門外の変での最後!なぜ安政の大獄を起こしたのか?

大老・井伊直弼の生涯と最期を、わかりやすく解説します。

どうして「安政の大獄」を引き起こしたのか?

なぜ「桜田門外の変」で殺害されなくてはならなかったのか?


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この記事を短く言うと

・井伊直弼とは、幕府「大老」、「日米修好通商条約」を締結した人物

・直弼は、彦根藩主の息子だが、兄が13人もいたため、彦根藩主になる可能性は低かったが、大老にまで上り詰めた

・安政の大獄は「大弾圧事件」だと思われがちだが、「戊午の密勅」への処罰という側面もある


井伊直弼の功績とは?何をした人なのか?

井伊直弼

『引用元ウィキペディアより』

幕末の徳川幕府・大老「井伊直弼」

井伊直弼とは、徳川四天王の1人「井伊直政」や、2017年大河ドラマ「おんな城主直虎」の主人公「井伊直虎」の子孫にあたる人物です。

幕末の動乱期において、幕府の臨時最高職「大老」を務め、「安政の大獄」という弾圧事件を起こしたお方。

最期は「桜田門外の変」で、水戸藩士17名と薩摩藩士1名(有村俊斎の弟・有村次左衛門)から襲撃を受けて亡くなりました。


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井伊直弼の功績

直弼の功績をそれぞれ一言で表すと、以下のとおりです。

・彦根藩主として、「吉田松陰」も絶賛するほどの善政を行う

・迅速に「日米修好通商条約」を締結する

・「戊午の密勅」に対して厳正に対処し、幕府の威信を守り通した

・14代将軍に「徳川家茂」を就任させた(一橋慶喜のほうが良かった可能性もあり)

決断して、その責任を負うことを恐れる人間が多い中、井伊直弼は責任を負うことを恐れず、積極的に状況打開を狙っていったのです。


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直弼の生涯と、桜田門外の変における最期

井伊直弼の生涯を解説いたします。

埋もれた青年期

1815年、井伊直弼は彦根藩主「井伊直中」の14男として誕生

兄が多く、しかも側室の子

養子としての貰い手もなかったため、陽の当たらぬ生活を余儀なくされました

直弼は自らの家を「埋木舎(うもれぎのや)」と呼び、陽の当たらぬ「埋れ木」のような自らの人生を悲観していたのです。

ところが、日々の修行を怠ることは無く、茶道や剣術などの稽古に明け暮れたのでした。

彦根藩主として

埋もれたはずの直弼の人生は、突如として開けます。

藩主だった兄「直亮」が亡くなって、他の兄たちも他家に養子に出ていたため、直弼は彦根藩主に就任

藩主に成ると、さっそく彦根藩の藩政改革に着手。

その全盛は彦根の民衆から慕われる、寛大なものだったと言われています。

後に井伊直弼によって処刑される「吉田松陰」もまた、井伊直弼を「名君」と評価するほどの善政を、彦根の民衆に施したのでした。


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幕政に参加

彦根藩主として結果を出した井伊直弼。今度は幕府の政治・・・つまり「国政」にも参画することとなります。

重大な事件が起こった際には「諮問」を受ける役職「溜詰(たまりづめ)」に就任して、本格的に幕政に参加したのでした。

この時の日本は、1853年の黒船来航などで、動乱の真っ只中。

「烈公」とあだ名された水戸藩主「徳川斉昭(最期の将軍・徳川慶喜の父)」は「攘夷」・・・つまり武力で外国を打ち払うべきと主張。

徳川斉昭
『引用元ウィキペディアより』

対して直弼は「積極的に貿易すべき」という、開国を主張。

ここで斉昭と直弼の意見が真っ向から対立。

更に直弼は、時期将軍に「徳川家茂」を推薦したため、自らの子である「一橋慶喜」を推薦した「徳川斉昭」と、真っ向から意見がぶつかることとなりました。

徳川慶喜
『引用元ウィキペディアより』

大老に就任

1858年、井伊直弼は次期将軍に「徳川慶福(家茂)」を推す一派「南紀派」の画策で、幕府の臨時最高職「大老」に就任

これまであらゆる問題が進まずにいた幕府において、直弼が絶対的な権力を握ると、あらゆることが決まり、動き始めるのでした。


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通商条約・将軍継嗣・安政の大獄

幕府に対して、アメリカ総領事ハリスが、日米修好通商条約への調印を強く迫ってきていました。

直弼は、朝廷の許可無く調印を結ぶことに、当初反対の立場を取っていました。

しかし、アメリカの圧力にあらがうことが出来ずに、結局は孝明天皇の許可を得ぬままに、「日米修好通商条約」へ調印。

更には、13代将軍「徳川家定」の後継者を、紀州藩主で「家定」の従兄弟に当たる「徳川慶福(後の徳川家茂)」に決定してしまいます。

アメリカ総領事ハリス
『引用元ウィキペディアより』

これに激怒したのが政敵「徳川斉昭」と、その部下である「水戸藩士」たち

さらに朝廷は、「日米修好通商条約」を締結した井伊直弼に怒り、朝廷とつながりの深い水戸藩へ「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」を発したのです

「戊午の密勅」とは、「秘命」・・・つまり「秘密裏に出された天皇の命令」

この秘密命令は、3つのことを水戸藩に命令内容となっていました。

・なぜ天皇の許可なしに「日米修好通商条約」に調印したのかを説明せよ

・諸藩は公武合体を推進して、異国を打ち払うように協力せよ(攘夷に全国一致団結せよ)

・公武合体推進と攘夷を、水戸藩が諸大名へ伝達せよ

これは、朝廷が幕府の頭を越えて、幕府の家来である水戸藩へ直接命令した、ある意味で「越権行為」。

これを許しては、幕府は朝廷と水戸藩を敵に回すこととなり、更には諸藩が幕府の命令に従わなくなり、勝手に「攘夷」を行われかねません。

そうなったら、幕府VS諸藩の内乱が勃発。「攘夷」が結構されたら、さらに『欧米諸国』と戦争にもなりかねません。

そのため、井伊直弼は「戊午の密勅」に関わった人間を次々と処罰。

流石に朝廷を処罰することは出来なかった井伊直弼は、この密勅を「水戸藩が朝廷を騙して引き出した不当な命令」と断じて、この命令に関わったものを、水戸藩士のみならず、次々と弾圧していくのでした。

これが「安政の大獄」

徳川斉昭や、その息子「徳川慶篤」「一橋慶喜」は蟄居などの処分を

13名が「死罪」「獄死」となり、さらに100名以上のものが謹慎などの処分を受けることとなったのです。

この時「橋本左内」や「吉田松陰」といった若く将来有望な人材が、次々と命を散らしたのでした。

吉田松陰
『引用元ウィキペディアより』

橋本左内
『引用元ウィキペディアより』


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桜田門外の変

「安政の大獄」に怒ったのが水戸藩士たち

水戸藩士は、水戸藩を脱藩して、「井伊直弼暗殺」を画策

そして、1860年3月3日、江戸には大雪が降っていました。

江戸城桜田門・・・現在の「東京警視庁前」を駕籠に乗って井伊直弼が通ったところ、水戸藩脱藩浪士たち17名と、薩摩藩の「有村次左衛門(有村俊斎{海江田信義}の弟)」が襲撃

井伊直弼は、「太ももへの銃撃」が致命傷となり、首を討たれてしまいます。

享年46歳

実はこの直前、井伊直弼の館に襲撃を警告する文書が投げ込まれていました。

しかし、直弼はこの文書の内容を気にかけること無く、警備も増やすこと無く館を出てしまったのです。

もしかしたら、死を覚悟していたのかもしれません。


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なぜ弾圧事件を起こした?実は弾圧ではなく、ただの処罰

どうして井伊直弼は「安政の大獄」を起こしたのでしょうか?

上の説明をお読みいただけたらわかっていただけると思いますが、実は直弼、単純に自分に反対した人間を弾圧するために「安政の大獄」を起こしたわけではありません。

あくまでも「戊午の密勅」という越権行為を行った人間を処罰しただけ。

「大獄」なんていい方をすると、まるで数百人が処刑された、大弾圧のように感じるかもしれませんが、実際に亡くなったのは13名のみ。

そのうち処刑された人間は、「橋本左内」「吉田松陰」など、7名のみ。

「梅田雲浜」や、西郷隆盛とともに入水して亡くなった「月照」の弟「信海」は服役中に亡くなっています。つまり処刑ではなく「獄死」

一般的なイメージとしては

「日米修好通商条約を勝手に調印した、独裁的な井伊直弼

それに反発する水戸藩士を始めとする人達

それを強引に黙らせるために「安政の大獄」を起こした・・・」

と考えられています。しかし実際にはそうではないのです。これでは井伊直弼はひどい独裁者にされてしまいますし、実際そう思われてしまっています。

「日米修好通商条約調印」と「安政の大獄」の間に「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」というものがあったのです。


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戊午の密勅とは、「朝廷から水戸藩」へ送られた「幕府の頭越しの命令」のこと

これを許したら、幕府の権威は失われ、諸藩が一斉に幕府の命令に逆らい始めることになるでしょう。

幕府大老として、これは許しておけない。だから安政の大獄で処罰したのです。

井伊直弼、実際にはただの独裁者というわけではありません。

理由もなく、自分に逆らったというだけで弾圧したわけではなく、理由があって処罰したのです。

実際、安政の大獄で謹慎処分となった「福井藩主・松平春嶽」は後年、井伊直弼を評価しています。

責任を一手に引き受けて亡くなった井伊直弼。内乱も戦争も防ぎきったその功績は、偉人と呼ぶに相応しい人物なのではないでしょうか。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

・井伊直弼は、幕末の大老にして彦根藩主。「日米修好通商条約」に勅許なしに調印した人物

・井伊直弼には13人も兄がいたが、それでも修行を続け、最期は「大老」にまで登りつめた

・安政の大獄は、ただの弾圧ではなく「戊午の密勅」に対する処罰という側面がある

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


井伊直弼」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

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