MENU

【薩摩藩とは】その歴史を世界一わかりやすく解説!偉大な人物を一覧で紹介

戦国時代、九州をほぼ統一し、幕末には「明治維新」を成し遂げた「薩摩藩」の「歴史」と「薩摩の偉人」について、わかりやすく解説いたします。

「豊臣秀吉・徳川家康に敗れながらも、明治維新を成功させた薩摩藩」

猛将「島津義弘」、名君「島津斉彬」、英雄「西郷隆盛」など、偉人の宝庫


スポンサーリンク


歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 薩摩藩・島津家は、「源頼朝」の家臣「島津忠久」を祖としている
  2. 薩摩藩は、戦国時代に九州一帯を制圧したものの、豊臣秀吉徳川家康に敗北。幕末には「長州藩」と協力し「明治維新」をなしとげた
  3. 薩摩には「島津義弘」「島津斉彬」「西郷隆盛」「大久保利通」「小松帯刀」など、人材が豊富

薩摩藩以前、藩主・島津氏700年の歴史とは

《薩摩藩島津家家紋》
「引用元ウィキペディアより」

「薩摩藩」とは、大名「島津」氏のおさめた地域です。

「鎌倉時代」

「島津」氏の祖は、平安時代から鎌倉時代を生きた武将「島津忠久(しまづただひさ)」(1227年没)という人物。

忠久は祖母が「源頼朝」の乳母(養育係)だったために、そのまま頼朝に御家人として仕え、「平家」と戦った武人です。(一説には、忠久は頼朝の側室の子であり、頼朝の子であったとも言われています。)

「平家」との戦いの他にも、「源義経」をかくまった奥州藤原氏との「奥州合戦」で功績をあげ、その見返りに「薩摩」「大隅」「日向」と、九州南部三カ国(現在の鹿児島県・宮崎県)の守護に任命。

島津氏初代「忠久」と二代目「忠時」は、薩摩に行くことなく「鎌倉」で亡くなっています。

三代目「久経」は、「元寇(文永・弘安の役)」の守備のため、九州へ下ったことから、薩摩への土着が進んだと言われています。



スポンサーリンク


「南北朝時代」

1333年、「後醍醐天皇」が「足利尊氏」や「楠木正成」「新田義貞」らとともに、北条一門が支配していた「鎌倉幕府」を討伐。

それにより始められた「建武の新政」は、かなり時代遅れなもので、武士はもちろん庶民からも歓迎されないものでした。

「足利尊氏」は、全国の武士に担ぎ出される形で、「後醍醐天皇」に戦いを挑みます。

尊氏は後醍醐天皇を天皇の座から追放し、新しい天皇をたてます。しかし後醍醐天皇はこれを認めず、現在の奈良県「吉野」に逃れて「朝廷(南朝)」を興します。これが「南北朝時代」の始まり。

このとき島津氏は、足利尊氏の「北朝」に味方しながらも、追い詰められた時には後醍醐天皇の「南朝」にも味方するなど、かなりしたたかに、苦境を切り抜けています。



スポンサーリンク


「室町時代」

足利幕府(室町幕府)による「室町時代」、島津氏は内部抗争を繰り返すことになります。

内紛をおさめた島津氏は、「応仁の乱」に対して、京都へ軍を送ることはありませんでした。

しかしこの頃、島津の領内では次々と反乱が起こり、島津氏は弱体化。

薩摩・大隅・日向の三カ国のうち、「大隅」「日向」の二カ国を失った島津氏は、室町時代末期に当主「島津忠良」とその子「貴久」の代で巻き返していくことになります。



スポンサーリンク


「戦国時代(安土桃山時代)」

島津貴久の子「島津義久」は、優秀な弟たち「島津義弘」「歳久」「家久」たちと、優れた部下たちを駆使して、「薩摩」「大隅」「日向」三カ国の支配を復活させていくことになります。

その後、圧倒的な軍事力と戦闘能力で「大友宗麟」「龍造寺隆信」たち戦国大名を圧倒。

九州のほぼ全域を支配していくことになります。

1587年、豊臣秀吉による「九州征伐」開始。一度は豊臣軍を撃破するものの、圧倒的な物量の前に島津は降伏。

それまで保有していた九州一帯の領土ほとんどを失います。これにより、「薩摩」「大隅」と「日向国の一部」を領する大名へと落ちていくのです。

1592年・1597年、秀吉による「朝鮮出兵」・・・「文禄・慶長の役」が起こり、島津氏は「島津義弘」を中心にして出兵。朝鮮半島で死闘を演じることになります。

しかし、出兵の甲斐なく、1598年の「秀吉の死」によって、遠征軍は撤退。島津家は度重なる出兵の負担により、衰退。



スポンサーリンク


薩摩藩、江戸時代から、幕末まで

「関ヶ原の戦い」

1600年、日本を二分した大戦争がおこりました。「関ヶ原の戦い」です。

この時、島津を率いていたのが猛将「島津義弘」。義弘はこの時、「石田三成」が率いた「西軍」に味方し、「東軍」をひきいる「徳川家康」と戦う道を選択します

しかし、島津軍は「朝鮮出兵」でとてつもない損害をこうむっていたため、多数の兵を出陣させる余力もなく、関ヶ原の戦いで大敗。

後世「島津の退き口」と呼ばれる壮絶な撤退戦を戦い抜いた島津。たくみな交渉により、敗北した「西軍」の中で、唯一「領地を減らさず」に徳川家に降伏。

これにより、当主「島津義弘」の息子「島津家久」が初代「薩摩藩主」として認められ、江戸時代「薩摩藩」の誕生となります。


島津の退き口」について、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。

↓↓↓↓↓↓



スポンサーリンク


「江戸時代」

表向き70万石以上の生産力を誇る薩摩藩でしたが、実際にはその半分ほどの経済力しか持っておらず、「砂糖」の生産と、「琉球」を通じた「清」との密貿易により、富をつくりあげていました。

また、徳川将軍家との婚姻を繰り返し、外様大名ながら、幕府からも重く用いられ、政治への影響力を強めていきます。

ただし、8代藩主「島津重豪」による浪費により、薩摩藩は莫大な借金を抱えることとなります。

苦しい財政を改善させたのが「重豪」の孫にして10代藩主「島津斉興(しまづなりおき)」と、家老「調所広郷(ずしょひろさと)」。

様々な改革をなしとげた「斉興」と「調所広郷」は、「500万両(約2500億円)」の借金状態から、「200万両の貯金」に成功。

この財源が「明治維新」「徳川幕府打倒」を成功させる資金となるのです。



スポンサーリンク


「幕末」

1851年、「お由羅騒動」などの内紛の末に名君との評価が高い「島津斉彬(しまづなりあきら)」が薩摩藩11代藩主に就任。

西郷隆盛」や「大久保利通」ら優秀な人材を次々と採用し、藩政改革に乗り出します。

この頃、日本の周辺には西欧列強の船が多数出没。「琉球」を通じて「清」と貿易を行い、西欧列強からの情報を手に入れていた「島津斉彬」は、「アヘン戦争」で大国「清」が大敗北し、西欧に領土を奪われた現実を知っていたのです。

斉彬は「集成館事業」と呼ばれる、近代的な工業を行います。「西洋式の帆船」「蒸気船」などを作り始めるのです。

1853年、アメリカのペリー提督が「黒船艦隊」を率いて浦賀に来航。(黒船来航

それまで「鎖国政策」ととっていた日本に「開国」を迫ります。日本は「日米和親条約」を締結して開国。

その後、大老井伊直弼」の独断により、日本は「日米修好通商条約」を締結。この「不平等条約」に、日本は50年近くも苦しむ事となるのです。

島津斉彬は養女「篤姫」を、将軍「徳川家定」に嫁がせるなど、国政への影響力を強めようとします。

しかしそんな時、名君「島津斉彬」は突然死去。暗殺された・・・という説もあります。

息子がことごとく夭折していた斉彬のあとを継いだのは甥「島津忠義」。薩摩藩の実権は忠義の父「島津久光」が握ることになります。


島津斉彬」の「暗殺疑惑」について解説させていただきます。以下のリンク記事をお役立てくださいませ。

↓↓↓↓↓↓



スポンサーリンク


「倒幕」へ

兄「島津斉彬」の意志を継ぎ、日本の国政へ介入しようとする「島津久光」

「四侯会議」「参預会議」などの政治改革を幕府に行わせたものの、「一橋慶喜」に改革を潰されます。

激怒した久光は、「幕政改革」を目指すことをやめ、「倒幕(幕府を倒す)」方針へ転換。

1866年、薩摩藩は「坂本龍馬」の仲介により「長州藩」と「薩長同盟」を締結。薩摩という後ろ盾を手に入れた「長州藩」は「第二次長州征伐」で幕府軍を撃破。

1868年「鳥羽伏見の戦い」をきっかけに「戊辰戦争」が勃発。「鳥羽伏見の戦い」で幕府軍を倒した薩摩軍は、その勢いで「江戸城無血開城」を実現。

「関ヶ原の戦い」から268年後・・・。その「関ヶ原の戦い」で薩摩とともに敗北した「長州藩・毛利家」と協力し、ついに「徳川幕府」を倒すことに成功。

戊辰戦争は「箱館戦争」を最期に終結。「明治維新」に成功し、日本は「明治」の時代を迎えることとなります。


明治維新」とは何か?わかりやすく解説させていただきます。よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。

↓↓↓↓↓↓



スポンサーリンク


明治時代・・「廃藩置県」と「西郷隆盛」の死

1871年、薩摩藩出身の「大久保利通」は、「西郷隆盛」「木戸孝允」らと協力し、「藩」と呼ばれる日本全国に300近くある実質的な「独立国」を廃止。府県を設置して「知事」を送り込む「廃藩置県」を断行。

これにより、「島津家久」から始まる「薩摩藩」は12代「島津忠義」を最期に消滅することになります。

島津忠義の父「久光」は激怒。この廃藩置県に断固反対し、連日打ち上げ花火をあげ続けたと言われています。

大久保利通は、その後も「秩禄処分」「廃刀令」など、次々と武士の特権を廃止する改革を断行。

これに起こった不平士族(元サムライ)は、戊辰戦争を勝利に導いた英雄「西郷隆盛」を首領として、「西南戦争」という士族反乱を起こすのです。

1877年(明治10年)2月、「西南戦争」勃発

「大久保利通」は政府軍を率いて、兄弟のように育った盟友「西郷隆盛」を討伐。

同年9月、「西南戦争」終結。「西郷隆盛」切腹。ちなみに西南戦争を最期に、日本では「内乱」は起こっていません。

西郷を死に追いやった大久保利通は、その死を嘆きながらも日本の近代化に邁進。

しかし翌1878年、大久保利通は「紀尾井坂の変」で命を落とすこととなります。


「大久保利通」の暗殺事件、「紀尾井坂の変」について、わかりやすく解説させていただきます。よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。

↓↓↓↓↓↓↓



スポンサーリンク


薩摩藩出身、歴史に名を残した『偉大な人物』たち

・島津忠久(不明~1227年)
島津氏の祖。源頼朝にしたがって各地を転戦。一説には「頼朝の子」とも言われている

 

・島津義久(1533~1611)
戦国時代の島津家当主。優れた弟たち「義弘」「歳久」「家久」を率いて九州統一を目指す。

 

・島津義弘(1533~1619)
義久の弟。「鬼島津」と呼ばれるほどの戦果をあげた猛将。関ヶ原「島津の退き口」で名を轟かせる。

 

・島津歳久(1537~1592)
義久・義弘の弟。豊臣秀吉に最期まで抵抗した智将。実は秀吉の九州征伐の直前まで「和平」を主張していた。

 

・島津家久(1547~1587)
義久・義弘・歳久の異母弟。優れた采配力を持ち、猛将「龍造寺隆信」や豊臣軍「仙石秀久」を打ち破った。兄「義弘」の三男も同名「家久」を名乗っている。

 

・島津豊久(1570~1600)
家久の息子。伯父・義弘とともに「関ヶ原の戦い」に参戦。猛将「井伊直政」に重傷を負わせたものの、壮絶に戦死。



スポンサーリンク


・島津斉興(1791~1859)
薩摩藩10代藩主。破綻寸前の薩摩藩の財政を再建させた。「斉彬」「久光」の父

 

・島津斉彬(1809~1858)
薩摩藩11代藩主。「幕末四賢侯」の一人。松平春嶽から「真の賢侯」と呼ばれたほどの名君。

 

・島津久光(1817~1887)
薩摩藩12代藩主「島津忠義」の父。「大久保利通」「西郷隆盛」らを使い「明治維新」を成し遂げた。

 

・調所広郷(1776~1849)
「島津斉興」につかえ、薩摩藩の財政を再建した。最期は「密貿易」の罪をかぶって服毒自殺。



スポンサーリンク


・西郷隆盛(1828~1877)
「江戸城無血開城」を実現し、「徳川幕府」を滅亡させた「戊辰戦争の英雄」。圧倒的人気を誇ったが「西南戦争」で戦死。

 

・大久保利通(1830~1878)
「西郷隆盛」の盟友。現代日本の基礎をつくりあげた大政治家。

 

・小松帯刀(1835~1870)
薩摩藩家老。優れた能力を駆使して「西郷隆盛」「大久保利通」という人材を使い、「倒幕」「明治維新」を実現させた

 

黒田清隆(1840~1900)
第2代内閣総理大臣。義理人情に厚く、箱館戦争で敵将「榎本武揚」を助け、盟友となる。

 

西郷従道(1843~1902)
西郷隆盛の実弟。要職を歴任したが、兄「隆盛」が反乱を起こしたことを理由に「総理大臣」だけは固辞し続けた。

 

大山巌(1842~1916)
西郷隆盛の従兄弟。西南戦争で西郷隆盛と戦い、日露戦争で日本軍を勝利に導いた。

 

・東郷平八郎(1848~1934)
西郷隆盛の弟「西郷吉二郎」から習字を学んだ軍人。日露戦争でロシア「バルチック艦隊」に完勝した歴史上屈指の名将。

 

・松方正義(1835~1924)
第4・6代内閣総理大臣。日本銀行を創設した。

 

・山本権兵衛(1852~1933)
第16・22代内閣総理大臣。10歳で「薩英戦争」15歳で「戊辰戦争」に参戦した、生粋の軍人。



スポンサーリンク


『薩摩藩』について、レビュー(評論)!

薩摩藩・・・優れた人材を次々と生み出した「郷中教育」などの教育制度で有名です。

幕末に存在感を発揮したのは「長州藩」と「肥前」などの藩でしょう。

「長州藩」は「村田清風」の財政改革により、藩の財政が比較的うるおっていました。また「吉田松陰」という秀才が短期間で育て上げた「木戸孝允」「高杉晋作」らの異才が活躍。

「肥前」は名君「鍋島閑叟(なべしまかんそう)」の改革により「日本最強の軍」を保有する藩でした。

薩摩はというと、郷中教育を採用し、優れた人材を次々輩出。大久保利通・小松帯刀などの人材が、藩を導き「近代的日本」を作り上げることに成功しています。

やはり「教育」というものが、国を優れた方向へ導く原動力なのでしょう。

優れた功績を残している「ユダヤ人(ユダヤ教徒)」たちは、教育に出費を惜しまないと言われています。

「薩摩に暗君なし」と呼ばれるほど、薩摩の君主は誰も彼もが優れているのだとか。

これもまた、「武芸」を奨励(軍備増強)し、教育に力を注いだ、薩摩の政策による結果なのでしょう。

現代日本も「軍備増強」をし、教育制度を見直さなくては、戦後の急成長による貯金を食いつぶすことになりかねない気がします。薩摩藩の歴史から学ぶことは、多そうです。



スポンサーリンク


まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 薩摩・島津家は、源頼朝に仕えた武士「島津忠久」を祖とする
  2. 薩摩は、鎌倉時代・室町時代に浮き沈みを経験したものの、戦国時代に豊臣秀吉・徳川家康に敗北。その後明治維新を成功させた
  3. 薩摩には「島津義弘」や「島津斉彬」、「西郷隆盛」「大久保利通」のような、優れた人材が多い

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

↓↓↓↓↓↓


スポンサーリンク
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次