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徳川慶喜の生涯と静かな最期!最高の名君が世紀のバカ殿に落ちた理由

最期の将軍「徳川慶喜」、その「生涯」と「最期」を、わかりやすく解説いたします。

「徳川家康の再来」とまで呼ばれた「天才」のはずが、どうして「最悪のバカ殿」になってしまったのか。

「天皇を極端に恐れ、とても尊敬していたから、敵前逃亡して評価を下げてしまった」


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

・徳川慶喜は、徳川幕府で最期の征夷大将軍を務め、内乱を最小限に食い止めた人物だが・・・

水戸斉昭の七男として生まれ育ち、最期の将軍を務めた後は、引退・・その後、貴族院議員として一時的に政治に関与

・尊王思想が強かったため、「鳥羽伏見の戦い」で「錦の御旗」を前にして、戦意を喪失してしまった


徳川慶喜とは、一体何を成し遂げた人なの?功績は?

徳川幕府最期の将軍「徳川慶喜」

大政奉還」を行い、260年続いた徳川幕府を終わらせた人物

徳川慶喜
『引用元ウィキペディアより』

その生涯と最期を解説したいと思います。



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徳川慶喜の功績

徳川慶喜の功績を一言で解説いたします。

・戊辰戦争で敵前逃亡し、内乱の被害を最小限に抑えた

勝海舟に全権を託し、「江戸城無血開城」を後押ししたことで、江戸の街と100万人の民衆を救ったことも、大きな功績と言えます。

事実、慶喜は上野寛永寺に謹慎している際、「西郷隆盛」率いる東征軍が江戸に進軍する中で

「自らの命を差し出すので、江戸の民衆の命は助けてほしい」

と願い出ています。


「渋沢栄一」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。



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簡単な年表

1837年10月28日、水戸藩主「徳川斉昭」の七男として誕生。母は「吉子女王」・・・慶喜の幼名は「松平七郎麻呂(しちろうまろ)」

1838年

江戸から水戸へ移る

 

1847年

一橋家を相続。「一橋慶喜」と名乗る

 

1853年

黒船来航。

12代将軍「徳川家慶」死去。

 

1858年

13代将軍「徳川家定」死去。

14代将軍に「徳川家茂」が就任。

 

1859年

安政の大獄で「謹慎処分」となる

 

1860年

桜田門外の変・・・謹慎解除。同年、父「徳川斉昭」が死去。

水戸脱藩浪士による犯行「桜田門外の変」の直後だったため、井伊直弼の家臣による「暗殺」が噂された。

 

1862年

将軍後見職に就任

 

1863年

八月十八日の政変」で長州藩を京都から追放。

「参預会議」設置。しかし慶喜の工作で即座に崩壊

 

1864年

禁裏御守衛総督に就任。

禁門の変」で長州と交戦

 

1866年

征夷大将軍」に就任

 

1867年

大政奉還

 

1868年(慶応四年)

王政復古の大号令」・・・・「鳥羽伏見の戦い」「戊辰戦争」へ

同年(明治元年)、慶喜は大坂から江戸へと敵前逃亡。上野寛永寺に謹慎。

その後、「江戸城無血開城」が実現。

「徳川幕府」滅亡

「明治維新」

 

1869年

慶喜、静岡へ移住。

 

1897年

東京・巣鴨へ移動。明治天皇へ拝謁

 

1901年

小石川の屋敷に転居

 

1902年

公爵叙任。

「徳川慶喜家」を創設。

貴族院議員に就任

 

1910年

隠居

 

1913年(大正2年)

急性肺炎で死去。享年77歳



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妻たち・・・正室と側室

正室「一条美賀」の他にも、慶喜には数多くの側室がいました。

「一色須賀」

「新村信」

「中根幸」

他にも「お芳(およし)」さんという愛妾がいました。この「お芳」さんは、江戸の町火消「新門辰五郎」さんの隠し子だったと言われています。

父「徳川斉昭」は、女好きで有名な人でしたが・・・慶喜もその血を受け継いでいるようですね。

慶喜は後に、「新村信」と「中根幸」以外の側室を実家へ戻しています



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お墓の場所

お墓は「谷中霊園」にあります。

歴代将軍の菩提寺である「増上寺」ではなく「谷中霊園(寛永寺墓地)」に眠っています。

本人の希望で、皇室に敬意を表するため、葬儀は「仏式」ではなく「神式」で行われました。

尊皇思想の家「水戸家」出身の慶喜らしい配慮です。



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子孫と家系図

徳川慶喜は、「徳川宗家」とは別に「徳川慶喜家」という独自の家系を起こしています。

最後の当主であったコーヒー研究家「徳川慶朝」さんが2017年に亡くなられて、「徳川慶喜家」は断絶。

徳川慶朝さんには、離婚した奥様との間にお子様がいたということですが、家系を継承していません。

「家系図の引用などはご遠慮くださいませ」

「徳川慶喜家」・・・・由緒ある家系だと思うのですが・・・断絶は大変残念です。

ちなみに現在の徳川宗家は、会津藩主「松平容保」の子孫が養子入りして相続しておられます。

「家系図の引用などはご遠慮くださいませ」

現在の徳川宗家当主は「徳川恒孝」さんです。



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慶喜の生涯と静かすぎる最期

徳川慶喜の生涯と最期について、解説いたします。

生い立ち

1837年10月28日、慶喜誕生。水戸藩主「徳川斉昭」と皇室出身の正室「吉子女王」の間に産まれています。徳川斉昭の七男・・・幼名は「七郎麻呂」

慶喜は学問が盛んだった「水戸藩」で英才教育を施され、後に「徳川家康の再来」とまで言われるほどの人物に育つのです。

9年間、水戸藩で修行を積んだ慶喜は、その優秀さを父「斉昭」に認められ、通常「7男」なら他家へ養子に出されるところを、後継者の長男「慶篤」の後継者候補として、水戸家に残されました。



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御三卿の一つ「一橋家」当主に就任

しかし、優秀であるという噂が12代将軍「徳川家慶」の耳に入り、慶喜は「将軍職の継承権」を持つ家系「徳川御三卿」の一つ「一橋家」へ養子入り。

「一橋慶喜」と名乗ることになります。

12代「家慶」には、「家定」という後継者がいましたが、病弱で能力も乏しかったため、家慶は自らの後継者に「一橋慶喜」を考えていたようです。

しかし、当時の老中「阿部正弘」が、慶喜への相続に反対したため後継者は「徳川家定」に決定。

1853年、「黒船来航」の年、「徳川家慶」が病死。

「徳川家定」が将軍に就任。



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13代将軍「徳川家定」の後継者争い

家定が将軍に就任したものの、病弱だった家定に後継者が誕生する見込みは薄く、後継者問題が浮上。

「一橋慶喜」を推す「一橋派」と、紀州藩主「徳川慶福」を推す「南紀派」にわかれて後継者争いが激化。

1858年、薩摩藩の「島津斉彬」や「徳川斉昭」たちは「一橋慶喜」を推しましたが、「南紀派」の「井伊直弼」が大老に就任して、後継者は「徳川家茂」で決定。

1859年、一橋派だった「徳川斉昭」「松平春嶽」などの大名は、「安政の大獄」で謹慎・蟄居を申し付けられ失脚。

慶喜もまた、蟄居の命令が下されたのでした。

この時慶喜は

「将軍にはなりたくない」

という手紙を父・斉昭に送っています。

1860年、「桜田門外の変」で「井伊直弼」が暗殺

同年、慶喜の謹慎が解除されます。

ちなみにこの時、「一橋慶喜を将軍にすえる」ために活動し、後に江戸幕府を終わらせることとなる薩摩藩士「西郷隆盛」は、「安政の大獄」による弾圧を逃れるために、奄美大島で妻「愛加那」とともに潜伏生活を送っていました。

この頃、安政の大獄を起こした「井伊直弼」が亡くなったので、潜伏する意味がなくなっていたのです。



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将軍後見職に就任!しかし・・・

1862年、薩摩藩主の父「島津久光」が、幕政改革を迫るために兵を率いて京都・江戸へ進軍(率兵上京)

この圧力に屈した形で「一橋慶喜」は「将軍後見職」に、「松平春嶽」が「政治総裁職」に就任し、200年以上続いた「参勤交代」が緩和されることとなります。

1863年、「八月十八日の政変」で、長州藩が京都から追放。攘夷運動の急先鋒だった長州藩が京都からいなくなったため「尊皇攘夷運動」は沈静化。代わりに「公武合体(朝廷と幕府が協力して国難に当たる政策)」が活発に。

後に「参預会議」と呼ばれる「一橋慶喜」「会津・松平容保」「福井・松平春嶽」「土佐・山内容堂」「宇和島・伊達宗城」「薩摩・島津久光」による合議制の政治機関が発足。参預会議は島津久光の側近「大久保利通」が考えた政治体制でしょう。

外様大名が幕政に介入することを嫌った慶喜は、あらん限りの手を尽くして、「参預会議」を潰します。

具体的には、酒宴の場で泥酔したふりをして、伊達宗城、松平春嶽、島津久光たちを目の前に

「彼らは天下の大愚物」

と罵倒・・・。この挑発にのってしまった「島津久光」は辞表を叩きつけて参預を辞任。久光は慶喜の罠にまんまとハマッてしまったのです。

この時、外様大名による政治介入を阻止され、参預会議を潰された「大久保利通(島津久光のブレーン)」の脳裏には、「一橋慶喜」という策謀家の名前が刻みつけられたことでしょう。



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禁門の変・・長州藩と戦闘

1864年、慶喜は「将軍後見職」を辞職し、「禁裏御守衛総督」に就任。

同年「禁門の変」で長州藩が京都へ進軍してくると、慶喜は自ら抜刀してこれを鎮圧。

「第一次長州征伐」の後、慶喜は「安政の五カ国条約」の許可を朝廷から得る活動を開始。

しかし、この時京都に近い港「兵庫」の開港だけは実現できなかったのです。



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14代「家茂」の死・・15代将軍に就任

1866年、「第二次長州征伐」が開始されますが、薩摩が長州と秘密同盟を締結(薩長同盟)。

薩摩が出兵しなかったこともあって、幕府軍は敗北。

更に将軍「家茂」が、大坂城において脚気で他界。

同年、徳川慶喜が「15代将軍」に就任。固辞し続けた後の就任でした。

慶喜はフランスからの支援を受けて、幕府軍を急速に近代化していきます。

この頃、参預会議で政権から放り出されていた「島津久光」「松平春嶽」「山内容堂」「伊達宗城」などによる「四侯会議」を、慶喜はまたしても無理やり解散へ追い込みます。

この「四侯会議」においても、慶喜は「外様大名」の政治介入を拒絶したのです。この時「大久保利通」は、徳川慶喜を新政府に加えるわけにはいかないと痛感したことでしょう。慶喜を新しい政府へ参加させれば、必ず旧幕府を優遇する政治をすると、危機感を抱いたのです。

薩摩と長州は、それまでの「公武合体」から、慶喜を倒す「倒幕」へと大きく方針転換していきます。



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大政奉還・・・真の狙い

1867年、薩長は朝廷に働きかけ「討幕の密勅(倒幕の秘密命令)」を引き出すことに成功。しかし同時に「慶喜」は「大政奉還」で幕府の政権を朝廷へ返上。

「倒幕」をしようとした「大久保利通」「西郷隆盛」「岩倉具視」の機先を制し、「幕府」という存在を消滅させたのです。

1866年12月に「征夷大将軍」となった徳川慶喜。「大政奉還」が1867年10月なので、慶喜が「征夷大将軍」という職についていた期間は、わずか10ヶ月。これは歴代将軍の中でも、最短です。ちなみに最長は「11代・家斉」の50年。14位が「初代・家康」の「2年2ヶ月」。

この「大政奉還」・・・徳川慶喜の「ギブアップ宣言」と言われているようですが、慶喜はギブアップするつもりなど全くなく、これは「反撃の一手」だと考えられます。

慶喜は政権を朝廷に返上したものの、朝廷は政治など、数百年行っていないため「司法・行政・立法」の機関として全く無力だったのです。どうせ「政権を返します」と言っても、朝廷はまた慶喜を頼るしか手立てがなかった・・・それを慶喜はよくわかっていたのです。

現代に言い換えると「大政奉還」とは、ときの内閣総理大臣が、天皇陛下に対して「政権をお返しします」と言って、国会議員も霞が関の官僚たちも全てを解体してしまった・・・ようなもの。政治を円滑に行うなんて不可能です。

現代風に言ってしまうと、「大政奉還」とは、いわゆる「ストライキ」のようなもの。

幕府・将軍・幕臣が、職場放棄をして朝廷サイドを脅したのです。

その証拠として、慶喜サイドは大政奉還の直後、あらゆる権限について朝廷に伺い立てて、「政治は続けて慶喜が執り行うように」という許可を取り付けているのです。

ちなみに「大政奉還」は、本拠地「江戸城」ではなく、京都「二条城」で行われています。この時慶喜は京都を離れるわけにはいかなかったのです。

なぜなら京都を離れたら「天皇」を薩長に握られて、慶喜は「賊軍」となってしまうから。「賊軍」となってしまったら、慶喜にはほとんど勝ち目はありません。日本の歴史において賊軍となって天皇に勝利した人物は「足利尊氏」の他には誰もいないのですから。

「大政奉還」で「討幕の密勅」の意味を失わせ、倒幕できなくなった大久保利通・西郷隆盛たちは、次の手を講じることになります。

それは「王政復古のクーデター(王政復古の大号令)」



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王政復古のクーデター

1868年、朝廷は「王政復古」を宣言し、「幕府」「将軍」などの官位をすべて廃止。新政府の樹立を宣言したのです。

とはいえ、新しい政府の樹立を宣言しても、新政府に行政の力などなく、「山内容堂」や「松平春嶽」は、慶喜の新政府への参画を強く要請。

慶喜はというと、旧幕府の組織力・軍事力を背景に、王政復古の大号令の後も全国統治を暗にほのめかし、朝廷もまたそれに対して許しを与えてしまう有様。

薩長や岩倉具視は朝廷に働きかけ、徳川慶喜に対して「辞官納地」・・つまり慶喜がついていた「内大臣」という官位を辞任して、徳川家の領地を返上せよ・・・と命令。

これは一種の挑発行為。慶喜は旧幕府軍と薩長軍の偶発的な戦闘(暴発)を抑えるため、薩長が目の前にいる京都・二条城から距離を置き、大坂城へ退去。この時・・・・慶喜は天皇を薩長に奪われてしまいます。これが致命的なミスとなり、後に旧幕府軍と慶喜は「賊軍」となってしまうのです。



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戊辰戦争・・・江戸城無血開城

江戸での焼き討ちなど、薩摩藩による相次ぐ挑発行為により、慶喜は暴発を抑えることはできず「鳥羽伏見の戦い」が勃発。

戊辰戦争が始まります。

薩長軍に敗北した旧幕府軍は、未だに戦力を保持し、再戦すればほぼ間違いなく勝利できたにもかかわらず、慶喜は敵前逃亡し、江戸城へ一人退却。

錦の御旗」を掲げた薩長軍は「官軍」として旧幕府軍を追討することとなります。

西郷隆盛が参謀を務め、徳川家茂の妻「和宮」の元婚約者「有栖川宮熾仁親王」を総大将にした新政府軍の東征軍が江戸へ進軍。

慶喜は自発的に「上野寛永寺」へ謹慎。

全権を任された「勝海舟」が「西郷隆盛」と会談して、江戸城無血開城が決定。

慶喜は生まれ故郷である「水戸藩」へお預かりとなり、続けて謹慎することになりますが、その後「駿府」へ移動し続けて謹慎。

旧幕臣を中心とする「彰義隊」は、徳川家の菩提寺「上野・寛永寺」を拠点にして新政府軍に抵抗を続けましたが、長州の天才軍学者「大村益次郎」の手により、一日で壊滅します。(上野戦争

そして、新政府軍は東北へ進軍・・・会津戦争などを始めとする「東北戦争」が勃発し、甚大な被害を被ることとなるのです。

ちなみに大村益次郎は、西郷隆盛のことを全く評価していませんでした。

それどころか

「東(幕府)は倒した・・・次は西(薩摩)だ」

と考えていたようです。冷徹な現実主義者だったのです。



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江戸城退去後の人生

1869年(明治2年)に謹慎を解除。

その後は静岡で平穏に暮らし続けました。

特に「写真」「狩猟」などの趣味に没頭し、「武士を率いて反乱を起こすつもりだ」という噂を徹底的に無視し続け、不平士族による内乱で、担ぎ出されないように注意していたみたいです。ちなみに、同じように不平士族から担がれてしまったのが佐賀の乱を起こした「江藤新平」や西南戦争を起こした「西郷隆盛」・・。徳川慶喜は、それを生涯に渡って回避し続けました。

1897年、東京巣鴨へ移住し、明治天皇に拝謁

1901年、小石川へ移住

1902年、公爵に叙任され、貴族院議員に就任。「徳川宗家」とは別に「徳川慶喜家」という家を起こすことを認められ、「維新の功労者」として天皇から正式に認められることとなります。朝敵の汚名を払拭したのでした。

1910年、引退。後継者は七男「慶久」



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西郷の息子「寅太郎」への祝辞

ちなみに、慶喜は西郷隆盛の嫡男である「寅太郎」が、「伯爵」の爵位を与えられた時、わざわざ寅太郎の自宅まで出向いて、祝辞を述べています。

慶喜にとって、西郷は「徳川幕府」を滅ぼした宿敵。しかし同時に、「慶喜の命を救った恩人」でもあるのです。

また、「西南戦争」を起こして、「逆賊の汚名」を受けた西郷に対して、「鳥羽伏見の戦い」で「逆賊の汚名」を受けた自分と、同じ境遇に落ちた連帯感のようなものがあったのかもしれませんね。

それとも、「将軍職」というプレッシャーから開放してくれた西郷に感謝していたのか?

2018年の大河ドラマ「西郷どん」の最終話「敬天愛人」にて、「松田翔太」演じる「慶喜」が、西郷の死を聞いて

「なぜだ・・・。逃げればよかったじゃないか」

と絶句していました。ドラマでもそうですが、西郷という大きな男の死を、史実における慶喜もまた、惜しんでいたのです。



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最期

1913年(大正2年)11月22日、風邪から肺炎を起こして亡くなりました。

享年77歳

亡くなる前に、こんな言葉を残したと言われています。

「家康公は日本を統治するために幕府を開かれた。

私はその幕府を葬り去るために将軍になったのだ」

幕府という古い政治機構を、内部から崩壊させたことで内乱の被害を少なくした・・・これが慶喜の功績と言えるのではないでしょうか。

慶喜・・・最後の将軍にしては静かすぎた最期でした・・・。



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最高の名君だったのに、なぜバカ殿に落ちたのか?

幼い頃は優秀として有名で「家康公の再来」とまで呼ばれた徳川慶喜

しかし、その評価はかなり低い・・・というのが実情でしょう。

なぜか?

理由は簡単で、「鳥羽伏見の戦いで、敵前逃亡」しているから。

なぜ慶喜は「敵前逃亡」してしまったのか?

これは慶喜の弱点である「天皇」という存在が関係していると考えられます。慶喜はその生涯において「天皇」という存在にだけは、徹底的に逆らえていないのです。

なぜかというと、慶喜が「水戸徳川家」出身だから。水戸藩とは「尊皇思想が強い家柄」です。つまり慶喜は幼い頃から「天皇とはとても尊く偉い存在であり、逆らうなどとんでもないことだ」と叩き込まれて育ったのです。

その天皇から「官軍(天皇の軍隊)」と認められた薩長軍が、鳥羽伏見の戦いにおいて「錦の御旗」を掲げて進軍・・・これを受けた旧幕府軍は「賊軍(天皇・日本国民の敵)」となってしまいます。

慶喜がこれに抵抗すれば、旧幕府軍の旧幕臣たちは全員「賊軍」となります。しかし、慶喜が全軍に「撤退」を命令したとしても、薩長軍より圧倒的な兵力と武力を有している旧幕府軍は従わないでしょう。

旧幕府軍を抵抗させないためには、慶喜自身が率先して逃げるしかなかったのです。

これにより、旧幕臣達は「朝敵」となることなく、「慶喜」とその他の一部が「朝敵」とされるにとどまります。

更には「内乱」を最小限に食い止めることが出来るでしょう・・・。

慶喜は敵前逃亡することで、旧幕府軍と新政府軍による衝突を未然に回避。

これにより、日本は幕末の内乱被害を最小限に食い止めることとなります。何よりも「旧幕府軍」と「新政府軍」の泥沼の内戦を回避できたのは、大きいです。「東北戦争」での被害は甚大ではあったものの、大都市「江戸」は無傷を保ち、明治新政府は首都「東京」の「復興」に力を使わずに済みました。



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慶喜は「幕府」という組織のトップとしては、部下を残して敵前逃亡するという、暴挙を犯していると言えます。

しかし、「日本」のトップとして慶喜を見れば、幕府を内側から崩壊させ、新政府軍と幕府軍の全面戦争を未然に防いだ功労者と言えるのです。

今に例えて言うなら、德川慶喜は「内閣総理大臣」兼「大企業の社長」だったのです。

「内閣総理大臣」として「日本」を守るために、自らが経営する「幕府」という企業をわざと倒産させた・・・。日本国民は慶喜総理大臣に感謝し、支持するでしょう。しかし失業した「幕府の社員」は、慶喜社長を酷評します。

徳川慶喜は確かに、幕府のトップとしてみると「バカ殿」かもしれませんが、日本の未来を見すえて古い統治機構を改革した「総理大臣」又は「革命家」としてみれば、かなり優秀なのではないでしょうか。



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『徳川慶喜』についてレビュー(評論)

徳川慶喜は、「称賛すべき人」なのか?

それとも「非難すべき人」なのでしょうか?

どちらなのでしょうか?

拙者は、あえて「非難」すべきと申し上げたい。つまり、あまり「尊敬できない人物」ということです。



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確かに、すでに申し上げた通り、内戦を最小限に食い止め、日本という国を外国勢力から守った実績は、素晴らしものだと思います。

しかし、慶喜には「歴史の偉人たち」に備わっている「あるもの」が、決定的に欠けている気がするのです。

それは「」。

同じ「幕末」という時代を生きた偉人たち「坂本龍馬」「西郷隆盛」「大久保利通」「吉田松陰」「高杉晋作」「勝海舟」たちには、「幕府サイド」「薩長サイド」を問わず「日本を外国から守りたい」「日本を外国に負けない強い国にしたい」という強烈な「信念」「志」が感じられます。

しかし「徳川慶喜」には、個人的な印象ですが、その「信念」「志」が感じられないのです。

大河ドラマ「西郷どん」で、江戸へ逃げ帰った慶喜が、「遠藤憲一」さん演じる「勝海舟」に向かって

「日本が諸外国から侮られ、攻められるようなことがあってはならない」

と、初めてその志を吐き出すシーンが有りました。しかし、史実を見ると、日本を守ろうとしている割には、薩摩や土佐などの「四侯会議」「参預会議」などの「国政介入」を、徹底的に排除しているのです。

「西郷隆盛」も「大久保利通」も「木戸孝允」も、志半ばで命を落としました。

「吉田松陰」にいたっては、何一つ成し遂げることもなく、辞世の歌に記されているように、30歳の若き命を「武蔵の野辺」に散らしています。

慶喜はというと、77歳までの余生を、趣味に没頭することで終わらせています。長寿っぷりは歴代徳川将軍の中でも最年長です。

短くとも、吉田松陰は偉人として、現代日本においても尊敬を集め、その教えは今に至るまで人の心を震わせています。

「大政奉還により内戦を防いだ」「徳川幕府の権威を一時的にでも回復させた」などなど、数々の実績を誇るにもかかわらず、なぜ慶喜の評価は、何も成し遂げていない「吉田松陰」ほど高くないのか?

やはりその理由は「志」ではないでしょうか。

「日本を守る」・・・その「志」に30年の短い生涯を全力で注ぎ込んだ「吉田松陰」先生。その生涯は短くとも、そして何も実績がなかったとしても、後の世を生きる我々の心を震わせて止まないのです。

徳川慶喜・・・・・「家康公の再来」と呼ばれるほど優秀なのはわかるのですが、いかんせんそれを支える「志」がなかったことが、とても悔やまれます。

そして何よりも、「死に場所を得られなかった」というのが、慶喜においては悔やまれることだったのではないでしょうか。

「西南戦争」で散った西郷、「紀尾井坂の変」で命を落とした大久保、「安政の大獄」で亡くなった吉田松陰。後世に名を残す偉人たちの命の終わり方は、ほとんどが壮絶なものなのかもしれません。

 

「吉田松陰」の「辞世の歌」について、わかりやすく解説いたします。よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

・徳川慶喜は、最期の将軍であり、鳥羽伏見の戦いの後、敵前逃亡した人物

・敵前逃亡した後、慶喜は静岡で隠遁生活を送った

・慶喜は「幕府」という組織のトップとしては、やってはいけないことをやっていたが、「日本」のトップとしてはかなり優秀だったのではないだろうか

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


徳川慶喜」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

↓↓↓↓↓↓


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この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (6件)

  • 管理人さん☀️❗️☀️❗️☀️❗️☀️❗️☀️❗️慶喜さんってカリスマ性がある&滅茶苦茶頭が良いわよ馬を飼っていたのかしら⁉️趣味に没頭する考え方が進んでいるわよ♥️現代日本にも、慶喜さんの様な人がいたら、良いのに・・・

  • NHKを見ています。最後の将軍、あまりにも荷が重い責任重大な方でしたよね。

    • 貴重なお言葉を頂きましてありがとうございます。
      おっしゃることごもっとも。
      偉大な歴代将軍の遺構を背負い、その上で日本のために英断をくだした人物かもしれません。
      またぜひ、当サイトへお越しくださいませ。
      ありがとうございました。

  • こちらこそ、コメントのコメント、有り難く感じます。また、寄らせてください。

  • 管理人さんの「志がない」という評価を見て、今読み直しているよしながふみさんの「大奥」における家定の慶喜への評価「心がない」を連想しました
    自身の命と引き換えに江戸の民をというのは立派ですし、頭の良い有能な人物であったのはを否定する人はいないと思いますが、見る人によって評価が分かれる毀誉褒貶の多い人という印象です
    内乱にさせなかったのも意図したものとも、単なる結果論とも取れますし
    再度マンガの話で申し訳ありませんが、著者が亡くなったため未完となった大作「風雲児たち」が完結していたら大政奉還の流れはどのように描かれていたのかなと今更ながら残念に思います
    歴史の流れ、特に幕末から明治にかけてのような大きな時代のうねりの中では、天才であろうと強運の持ち主であろうとたかだか人間一人や二人の思惑通りには進まないものだと改めて思いました

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