「江戸城無血開城」に怒った幕府の武士たち「彰義隊」が、新政府軍に戦いを挑んだ「上野戦争」について、わかりやすく解説いたします。
なぜ上野「寛永寺」は戦場となったのか?
徳川家の菩提寺「寛永寺」に集まった彰義隊は、大村益次郎の作戦により、わずか1日で壊滅したのです。
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この記事を短く言うと
・上野戦争とは、「彰義隊」が明治新政府軍に抵抗した戦争のこと
・彰義隊とは、旧幕臣たち約3000人によって結成された部隊
・上野戦争は、長州藩の軍学者「大村益次郎」の作戦により、わずか1日で終わった
《上野戦争をわかりやすく解説》
「上野戦争」とは、1868年7月4日に行われた旧幕臣と新政府軍の戦闘。「戊辰戦争」における戦闘の一つです。
この上野戦争の約2か月前、「西郷隆盛」と「勝海舟」の会談によって、「江戸城無血開城」と「徳川慶喜の謹慎」が約束されていました。
明治維新・・・・・・江戸城無血開城が実現したとき、革命は成功した言えるでしょう。しかしそれに反発した「旧幕府の臣下」たちは、新政府軍へ抵抗の構えをみせました。
彼らは「彰義隊」という名前の部隊を結成し、「上野・寛永寺」に集結。新政府軍とぶつかることとなるのです。
《彰義隊とは何か?》
彰義隊とは、旧幕臣たちによる「反・新政府軍」のこと。当初の目的は「徳川慶喜の警護」。その数は最盛期に「3000人」以上だったと言われています。5000人以上という説もあります。
4月11日に、徳川慶喜が水戸へ移動すると、彰義隊は「寛永寺」に集結。
「彰義隊」・・・その名前の由来は「大義を彰(あきら)かにする」から。武士のみならず、やくざ者や町人も集まり、新政府軍へ抵抗の構えをみせていました。
「大村益次郎」・・・・医師・緒方洪庵の「適塾」出身の秀才。長州藩の軍事を担当していた人物です。もともとは医師でしたが、天才的な軍事能力を持っていました。
彰義隊は「勝海舟」に「解散」するよう説得されたものの「江戸城無血開城」を行った勝海舟を敵視。説得工作は失敗。軍事の天才「大村益次郎」によって、彰義隊は壊滅することとなるのです。
《どうして寛永寺が戦場になったの?》
どうして彰義隊は、寛永寺を本拠地としたのでしょうか?
理由は、「寛永寺」が「徳川家」の菩提寺だったためです。彰義隊は徳川家への忠節を表すために、菩提寺「寛永寺」を本拠地としたのでしょう。
徳川家には「増上寺」と「寛永寺」という二つの菩提寺があり、その二つの菩提寺には、初代「徳川家康」と3代「家光」15代「徳川慶喜」を除く、12人全ての徳川歴代将軍が眠っています。
増上寺には「②秀忠、⑥家宣、⑦家継、⑩家重、⑫家慶、⑭家茂」・・・・寛永寺には「④家綱、⑤綱吉、⑧吉宗、⑩家治、⑪家斉、⑬家定」。ちなみに初代「家康」と3代「家光」は日光東照宮。15代「慶喜」は「谷中霊園」に墓所があります。
上野寛永寺は、上野戦争で焼失するなど被害を負い、弾痕などの傷跡は、今も移築先の荒川区「円通寺」など、多数が残されています。
上野戦争の戦場となった「上野公園」には、現在「西郷隆盛」像が建てられています。西郷隆盛像が建てられた理由は、西郷隆盛が指揮した「上野戦争」の戦勝を記念してのことです。
《上野戦争の経緯!彰義隊の最期》
彰義隊は新政府軍への抵抗姿勢を崩さず、江戸市街で新政府の兵士と小規模の戦闘を行うなど、被害が出ていました。
新政府軍は「彰義隊」を敵とみなし、せん滅を決定。その作戦を担当したのが長州藩士「大村益次郎」。
「囲む師は必ずかく」という言葉をご存知でしょうか?
「孫子の兵法」の一節で、「敵を完全包囲しては、死に物狂いの抵抗をされてしまうので、逃げ道は残しておくように」という意味です。
大村益次郎も、彰義隊を完全包囲せず、「根岸方面」に逃げ道を残して、アームストロング砲などの最新兵器を駆使して周囲から一斉射撃。
7月4日午前7時に始まった「上野戦争」は、わずか10時間後の午後5時には集結。
彰義隊はほぼ全滅し、生き残りは大村益次郎の予測通り「根岸方面」へ撤退。
彰義隊残党は、宇都宮・会津・北陸・東北方面へと撤退し、戊辰戦争は「東北戦争」へと局面を移すこととなります。
彰義隊の生き残りは、戊辰戦争最後の一戦「箱館戦争」まで、新政府に徹底抗戦を続けたのでした。
《『上野戦争』について、レビュー(評論)!》
上野戦争・・・・・・旧幕臣たちの抵抗戦争。
この戦争には、「新選組」の生き残りも参戦。10番組長「原田左之助」も、この戦いで戦死した・・・なんて説があります。
「駆けあがり、後ろを見たら、我一人」・・・・・・彰義隊ナンバー2の「天野八郎」が、後に語った戦闘中のエピソードです。
部隊を率いて階段を駆け上り、敵に攻撃を仕掛けようとしたら、自分以外誰もいなかった。
彰義隊には、決死の覚悟を決めた武士だけではなく、暴徒と化した江戸市民も参加していました。
もともと覚悟が定まった集団ではないので、逃亡・脱走が相次いだのです。
祭り好きな江戸市民は、新政府軍との戦争を「祭り」のような感じで楽しんでいたのかもしれません。
わずか10時間の戦闘で終わってしまった理由は、こういうところにあったのでしょう。
彰義隊・・・新政府軍に不満を抱く人々の受け皿となったの組織。この「彰義隊」という組織は、江戸で暴行や殺戮を繰り返したと言われています。もしも彰義隊という受け皿がなかったら、旧幕臣と新政府軍の間で、ゲリラ戦のような「泥沼の内戦」が起こっていたかもしれません。
彰義隊士のお墓は、1875年、上野に建立。2017年5月15日に百五十回忌が営まれています。
当初は「賊軍」とされていた彰義隊ですが、現在では立場の違いを超えての法要が行われているのです。
《まとめ》
本日の記事をまとめますと
・上野戦争とは、彰義隊と新政府軍の間で起こった戊辰戦争における戦闘の一つ
・戦闘は10時間で終了し、新政府軍の勝利で終わった
・彰義隊は、徳川家の菩提寺「寛永寺」を本拠地として、徳川家への忠節を表した
以上となります。
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コメント
コメント一覧 (2件)
彰義隊に参加した幕臣の子孫の知人を中心に、昨年暮れに「彰義隊子孫の会」を立ち上げられました。
今月創立総会を開かれたようですから、まだ出来たてのホヤホヤですね。
別の彰義隊士の子孫の方は、上野戦争で敵のアームストロング砲で重傷を負わされたそうで、今年ある歴史イベントでたまたま西郷隆盛の曾孫の陶芸家・西郷隆文氏と懇親の席で、自分の先祖がアームストロング砲で負傷させられた話をしたところ、反射的に「それは大変申し訳ありませんでした」と謝られたそうで、その知人は、「西郷隆盛の子孫に謝らせた。かたきを取ったと御先祖の仏壇に報告したとご満悦でした。
いつもお世話になっております!
大変貴重なお話をいただき、心より感謝申し上げます。
まさか、子孫同士でそのような話がされていたとは・・・。
大変興奮しております!!!
ありがとうございます!!!