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【大隈重信】生涯年表と経歴をカンタン解説!どんな功績を残したの?

「大隈重信(おおくま しげのぶ)」の「生涯年表」と「功績」が、簡単に理解できる記事です。

元内閣総理大臣「大隈重信」。「早稲田大学」を作ったり、「自由民権運動」を行ったりと、その功績は多大なものがあります。

義理人情に厚く、清廉潔白な「西郷隆盛」とは相性が悪かったようですが、それでも葬儀に「30万人」もおしよせたところを見ると、やはり国民から愛された政治家だったのでしょう。


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この記事を短く言うと

  1. 「大隈重信」とは、肥前佐賀藩出身の人物。幕末・明治に活躍し、内閣総理大臣を2度務めた
  2. 内閣総理大臣のみならず、外務大臣を5度、内務大臣を2度、農商務大臣を1度務め、早稲田大学を創設した
  3. 大隈重信の功績といえば「自由民権運動」「政党内閣」「早稲田大学創設」などがある

大隈重信の生涯年表

大隈重信(おおくま しげのぶ)

「佐賀の七賢人」と呼ばれて、現在も尊敬を集める元「内閣総理大臣」にして、「早稲田大学」を創った人物。

(「佐賀の七賢人」とは、鍋島直正、佐野常民、島義勇、副島種臣江藤新平、大木喬任、大隈重信)

《大隈重信》
『引用元ウィキペディアより』

1838年2月16日、大隈重信・誕生。幼名「八太郎」。父「大隈信保」、母「三井子」。

1844年、藩校「弘道館」へ入学。

1854年、「武士道とは死ぬことと見つけたり」で有名な書籍「葉隠」を使った「儒教」の教育に反発し、教育改革を訴える

1855年、弘道館を退学。そのころから「尊王思想」に目覚め、副島種臣や江藤新平とともに「義祭同盟」へ参加。

1856年、佐賀藩が設置した「蘭学寮」へ入学。

1861年、肥前佐賀藩主「鍋島直正」に対して、オランダ憲法を講義する。その後、退学した「弘道館」と「蘭学寮」が合併。合併した「弘道館」で「蘭学の教授」として教育を行うようになる

1865年、長崎にあった佐賀藩の英学塾「致遠館」で、校長「フルベッキ」のもと、副島種臣とともに「教頭」として生徒の指導を行う。その時「フルベッキ」から英語を学ぶ。

1867年、最期の将軍「徳川慶喜」に対して「大政奉還」をすすめるために佐賀藩を脱藩。しかし途中でつかまり、佐賀藩へ無理やり帰国させられる。1か月の謹慎処分



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1868年(明治元年)、「鳥羽伏見の戦い」「戊辰戦争」「江戸城無血開城」により「明治維新」が成立する

1869年、微士参与職と「外国事務局」の判事に就任。

同年、「三枝綾子」と再婚する。

1870年、「参議」に就任。参議とは「大久保利通」や「木戸孝允」「西郷隆盛」らが務めていた、明治政府の最高意思決定機関。

1872年、伊藤博文と協力して「富岡製糸場」を設立

1873年5月、大蔵省「事務総裁」に就任。

同年6月、「征韓論」の政府内対立が原因で、「西郷隆盛」「江藤新平」「副島種臣」らが政府を下野(辞職)した(明治六年の政変

同年10月、「参議」と「大蔵卿」を兼務。

1874年2月、「佐賀の乱」が勃発。盟友である「江藤新平」や「島義勇」らが亡くなる。この時、大隈は妻の「綾子」とともに、江藤新平の息子「江藤新作」を引き取って、育てることとなる。

1877年2月、「西南戦争」勃発。

同年9月、「西郷隆盛」戦死。西南戦争が終結。

1878年5月、「紀尾井坂の変」により「大久保利通」が暗殺される



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1881年、正確な統計が必要であると考え、「統計院」を設置。大隈は初代院長に就任。

同年10月21日、失策が原因で「参議」をクビになる。(明治十四年の政変)

1882年3月、「立憲改進党」を結成

同年10月、「東京専門学校(早稲田大学)」を創設。

1884年、「立憲改進党」を離党

1888年2月、「伊藤博文」内閣で「外務大臣」に就任。

同年、「黒田清隆」内閣で、外務大臣に留任。

1889年10月18日、「来島恒喜」による爆弾テロで、右足を切断(大隈重信遭難事件)

1896年、第二次「松方正義」内閣で、「外務大臣」に就任。(松隈内閣・しょうわいないかく)

1897年、外務大臣を辞職

1898年6月、「板垣退助」たちと協力して「憲政党」を結成。

同年6月30日、薩長藩閥以外で、初めての「内閣総理大臣」を拝命する。そして日本初の「政党内閣」を組閣。協力者である「板垣退助」の名前をとって「隈板内閣(わいはん内閣)」と呼ばれる

同年11月8日、「第一次大隈重信内閣」総辞職。党内の亀裂や、外交の失敗が「総辞職」の原因。大隈は「憲政本党」を率いることになる。
1907年、政界を引退し、「早稲田大学」の初代総長に就任。

「第一次護憲運動」が起こるとともに、政界へ復帰。

1914年、汚職事件「シーメンス事件」により「山本権兵衛内閣」が辞職。大隈重信がこの後をうけて「第2次大隈内閣」を組閣。

1916年7月、「第一次世界大戦」勃発、

同年8月23日、「日英同盟」を理由に、日本がドイツに対して宣戦布告。「第一次世界大戦」に参戦。

1917年1月、チャイナに対して「対華21ヶ条要求」を提出。

1916年7月14日、貴族院議員に就任。

1916年10月、第二次大隈重信内閣が総辞職。これにより「大隈重信」は、政界から完全に引退することとなる。

1922年(大正11年)1月10日、早稲田の自宅で死去。享年85歳。死因は「胆石症」

同年1月17日、「日比谷公園」で「国民葬」がおこなわれました。約30万人の一般市民が参列し、3週間後に行われた「国軍の父」こと長州藩の「山縣有朋」の参列者がまばらな葬儀と比べても、大隈重信には相当な人気があったことがうかがえる結果となりました。

墓所は二か所。故郷である佐賀の「龍泰寺」。もう一つが東京都文京区の「護国寺」。



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大隈重信の経歴!「佐賀の七賢人」と呼ばれ総理大臣に!

大隈重信とは、「佐賀の七賢人」と呼ばれている「幕末・明治」に活躍した「肥前佐賀藩」の偉人たちの一人。

ちなみに「佐賀の七賢人」とは、「大隈重信」に加えて

「鍋島直正」

「佐野常民(さのつねたみ)」

「島義勇(しまよしたけ)」

「大木喬任」

「副島種臣」

「江藤新平」

たちのこと。彼らは幕末・明治に活躍した「肥前藩」の偉人たち。



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大隈重信の経歴は?というと、簡単に言えば以下の通り

・幕末最強の技術大国「肥前佐賀藩」で、比較的裕福な武士の家庭に生まれた。

・蘭学に興味を持ち、葉隠れなどの儒学教育を毛嫌いしていた。

・長崎で、「フルベッキ」から英語を学んでいた

・明治新政府で「参議」を務めた。

・内閣総理大臣を2度務めた。

・外務大臣を5度、内務大臣を2度、農商務大臣を1度務めた。

いち早く、西洋の技術や知識を身につけていた大隈重信。その能力を「外務大臣」としていかんなく発揮していたのです。



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大隈重信の功績!早稲田大学を作った男!

大隈重信の功績を、短く解説いたしますと

・明治新政府で「富岡製糸場」などを設立し、富国強兵に力を尽くした

・「板垣退助」たちとともに「自由民権運動」を起こした。

・初の「政党内閣」を組閣した

・名門「早稲田大学」を創設した

 

ちなみに「自由民権運動」とは、「薩摩藩」と「長州藩」に独占されていた「政治」を、国民に取り戻そう・・・という運動のこと。

「憲法制定」「議会創設」「減税」「言論・集会の自由」などを主張した運動のことです。



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日本で最初に「政党内閣」を組閣したのは大隈重信です。

 

「政党内閣」、つまり選挙で選ばれた政党の議員が、内閣の閣僚となるのは、今では当たり前のことですが、当時としては画期的でした。

今では「選挙で選ばれた第一党の議員から、政府が誕生する」というのが当然ですが、当時は、「選挙で選ばれた第一党」とは別に「政府」が存在していたため、民意が十分に反映されていなかったのです。

そこから「政党内閣」を誕生させたのが「大隈重信」というわけです。

 

そして大隈重信といえば「早稲田大学」の創設者。

実は大隈重信、犬猿の仲だった「慶応義塾大学」の創設者「福沢諭吉」から「学校の創設」をすすめられて、早稲田大学をつくったのだそうです。

政治家「大隈重信」と、教育者であり批評家でもあった「福沢諭吉」は、とても仲が悪かったのですが、酒の席で顔を合わせて意気投合。それ以後はとても仲の良い間柄となったそうです。

大隈重信最大の功績は、この名門「早稲田大学」を創設したことではないでしょうか。

創設から100年以上。今も優秀な人材を輩出し続けています。



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オリンピックとの関わりについて

大隈重信といえば、2019年放送の大河ドラマ「いだてん」にも登場しております。俳優の「平泉成」さんが「大隈重信」を演じていますね。

その大隈重信とオリンピックとは、いったいどういう関係があるのでしょうか?

実は大隈重信、初めて「始球式」を務めた人物として有名ですね。メジャーリーグチームと早稲田大学野球部の試合で、始球式を行った「大隈重信」は、スポーツにも理解のある人だったのです。

そして、何よりも大隈重信は、当時「早稲田大学」の総長をしていたお方。

早稲田大学の優秀なアスリートを、スポーツ界に送り出すために協力していたのでしょう。



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『大隈重信』について「ひとこと」言いたい!

大隈重信・・・清廉潔白な「西郷隆盛」と仲が悪かったことで有名なお方です。

国民から圧倒的な人気を得て、「西南戦争」という反乱を起こしたにもかかわらず、わずか12年で汚名を返上して英雄扱いをされている「西郷隆盛」・・・。

大隈重信は、そんな西郷隆盛とは、真逆なところにいた人物でした。

なんといえばよいのか・・・・大隈重信は、「清廉潔白」というわけではなく、「清濁併せ?む」というか、短所も人並みにある「とても人間味のある好人物」だったのではないでしょうか。

西郷と同じく清廉潔白で、温和な教育者「福沢諭吉」は、もともとは大隈重信を批判していた人物でした。しかし、大隈重信と顔を合わせてみると、その魅力に引き寄せられたのか、あっという間に意気投合して仲良くなってしまいました。



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当時、大隈重信と付き合いがあった「渋沢栄一」は、大隈重信について、こんなことを言っています。

「大隈さんと会った時に、こんなことを言われた

『君も私も書生として勉強中なのだから、仕事も書生のように仲良く愉快にやろうじゃないか』

それを聞いたときに、ふと肩の力が抜けて、愉快な気持ちになったものだよ」

大隈重信・・・確かに失敗も多い人でした。爆弾で吹っ飛ばされた「足」を「ホルマリン漬け」にして、お客様に見せていたなんてエピソードもある、すごい人です。

しかし、それでも死後30万人もの人に見送られたのは、その人間味あふれる魅力があったからこそでしょう。

西郷隆盛や福沢諭吉とは異なった種類の魅力を持つ、とても人情味にあふれた人物だったのではないでしょうか。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 大隈重信とは、「佐賀の七賢人」の一人に数えられる元「内閣総理大臣」
  2. 大隈重信は、「内閣総理大臣」を2度、「外務大臣」を5度も務めた大政治家
  3. 「自由民権運動」「政党内閣」「早稲田大学を創設」など、明治中期頃から、日本に大きく貢献している

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

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