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天璋院篤姫の生涯と最後!江戸開城したその後の一生と大奥の最期とは

13代将軍「徳川家定」の妻「天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)」について、「生涯」と「最期」を、わかりやすく解説いたします。

「江戸城無血開城ののち、彼女は徳川宗家『徳川家達』の養育につとめた」

同性愛者の3代「家光」のため「春日局」がつくった「大奥」の最期とは?


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

・篤姫とは、13代将軍「徳川家定」の妻にして、「江戸城無血開城」の後押しをした人物

・篤姫は、薩摩(鹿児島県)で生まれ、最期は大奥を出て「徳川家達(とくがわいえさと)」を養育した

・篤姫の功績は、「江戸城総攻撃を阻止し、無血開城に尽力」したこと。彼女は200年続いた「大奥」の最期を見届けた


天璋院篤姫とは、何をした人?江戸100万人を救った?

天璋院篤姫

徳川幕府13代将軍「徳川家定」の妻

薩摩藩・島津御一門四家の1つ「今和泉島津家」の当主「島津忠剛」の娘「篤姫」。

同時に篤姫は島津斉彬の養女であり、将軍家輿入れ前に格式をあげるため右大臣・近衛忠煕の養女ともなっています。

大河ドラマ「篤姫」では、女優「宮崎あおい」さんが演じ、大河ドラマ「西郷どん」では、女優「北川景子」さんが演じたお方。

彼女はどんな功績を残して、歴史に名を刻んだのでしょうか?



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篤姫の功績

篤姫の功績を一言で解説すると、次のようになります。

・和宮とともに江戸城無血開城に尽力し「江戸城総攻撃」による被害を未然に防いだ

徳川慶喜の助命嘆願に尽力し、徳川家を守った

・徳川宗家16代当主「徳川家達」を養育して、徳川宗家の命脈をつないだ

つまり、彼女の功績は一言で言えば「徳川家を最後まで守り通した」・・・ということです。

篤姫の生涯年表

1836年2月5日(旧暦天保6年12月19日)、天璋院篤姫・誕生

1853年(19歳)、島津斉彬の養女となり、このときより篤姫と名乗る。

1856年(22歳)、「近衛忠煕」の養女となる

同年12月、徳川家定と結婚

1858年(24歳)、徳川家定が他界。落飾して「天璋院」と名乗る

1862年(28歳)、孝明天皇の妹「和宮」が、14代将軍「徳川家茂」と結婚

1868年(34歳)、「江戸城無血開城」と「徳川家存続」に尽力。大奥を退去。

1883年(49歳)、千駄ヶ谷「徳川宗家邸宅」で死去。享年49歳(満年齢47歳9ヶ月15日)



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天璋院篤姫の生涯と最期

篤姫の生涯と最期を解説いたします。

生い立ち

鹿児島・薩摩藩の島津家・・・その分家である「今和泉島津家」の当主「島津忠剛」

1836年、「島津忠剛」の娘として「篤姫」誕生。幼名は「一(かつ)姫」・・・その後「市(いち)姫」へと改名し、後に薩摩藩主「島津斉彬」の養女となった際に「篤姫」へと改名しています。

1853年、篤姫は薩摩藩主「島津斉彬」の養女となります。養女となった目的は、当時の江戸幕府将軍「徳川家定」に輿入れするため。

「篤姫」の「将軍家輿入れ」は、「次期将軍に『一橋慶喜』を擁立するための内部工作」が目的と言われています。しかし実際には「将軍・家定が病弱で、世継ぎに恵まれなかったため、丈夫で子宝が期待できる女性」を将軍家が求めたためというのが、現在の定説です。

1856年、篤姫は自らの格式を上げるために、薩摩・島津家と血縁のある公家・右大臣「近衛忠煕」の養女となります。

京都・近衛邸で、年寄「幾島」から厳しい礼儀作法を叩き込まれたのです



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徳川家定と結婚

1856年11月、13代将軍「徳川家定」に輿入れ。

この日から、大奥へ入り「将軍の正室」つまり「御台所」に・・・。

家定との関係は・・・それほど良好ではなかったようです。「脳性麻痺」とも噂される「家定」。加えて「病弱」だった家定と篤姫の間に、子供が産まれる事はありませんでした。

残念ながら結婚の当初期待されていた「お世継ぎ誕生」は、叶わなかったのです。



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家定の死と、無血開城

1858年8月14日、13代将軍「徳川家定」が病死。

1858年8月24日、薩摩藩主「島津斉彬」も急死。

篤姫と家定の夫婦生活は、わずかに「21ヶ月」で終了。篤姫は「天璋院」と名乗ることになります。

そして、日本の近代化に強いリーダーシップを発揮していた「島津斉彬」が亡くなったことで、薩摩藩の近代化への動きも鈍ることになります。(斉彬がすすめた近代産業「集成館事業」は、斉彬の父「斉興」によって全て中止となった)

家定のあとを継いだのが「14代将軍・徳川家茂」。形式上「家定・篤姫」夫婦の養子となった「家茂」は、篤姫に優しく接します。

しかし、「公武合体策」の一手として家茂に輿入れした「孝明天皇」の妹「和宮」と篤姫は、公家・武家のしきたりの違いから衝突。

1866年8月29日、将軍「家茂」が大坂城にて、20歳の若さで急死。死因は脚気。

15代将軍となったのは、「大奥改革」を訴えて篤姫・和宮から嫌われていた「徳川(一橋)慶喜」

1867年、慶喜は幕府の政権を朝廷に返上する「大政奉還」を行って、薩長軍との開戦を回避しようとするが、大久保利通・西郷隆盛らの「王政復古の大号令」「辞官納地」によって追い込まれます。

1868年、「戊辰戦争」が勃発。鳥羽伏見の戦いに「旧幕府軍(大政奉還で幕府が消滅したので、「旧」の字がつく)」が敗北

新政府軍(薩長軍)は、和宮の元婚約者「有栖川宮熾仁親王」を総大将に、篤姫の輿入れを準備した薩摩藩士「西郷隆盛」を参謀に、京都から江戸城へ進軍。勝算がないと考えた徳川慶喜は、自発的に上野寛永寺に謹慎。

和宮は、朝廷や有栖川宮熾仁親王に働きかけて、江戸城総攻撃の中止と徳川家の存続を訴えます。

篤姫もまた、西郷隆盛への手紙で、「江戸城総攻撃の中止」と「慶喜の命乞い」「徳川家の存続」を訴えています。

徳川慶喜から、事態の収拾を任せられた全権者「勝海舟」は、西郷隆盛と会談し、「江戸城総攻撃」は中止。

篤姫や和宮の努力が実を結んだ形となったのです。



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江戸城無血開城の後

天璋院篤姫は、家定の母である「本寿院」とともに大奥を退去。大奥の最期を見届けた後、一橋邸へ移動。

その後、篤姫は故郷「鹿児島」へ帰ることも出来たのですが、あくまでも徳川家の人間として生きることを決意。

東京・千駄ヶ谷の「徳川宗家邸」で生活しています。

最期

1883年(明治16年)11月13日、千駄ヶ谷・徳川邸で倒れます。

同年11月20日、死去・・・・享年49歳(満47歳)

死因は「脳溢血」

墓所は上野寛永寺・・・・夫である徳川家定の隣に眠っています。

葬儀には、1万人もの人が集まったと言われており、その人徳が伺えます。



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篤姫が大奥を終わらせた?

篤姫は江戸城総攻撃を阻止するため、ありとあらゆる工作を行っています。

新政府軍の参謀である薩摩藩士「西郷隆盛」を、自らの手紙で説得。

幕府全権「勝海舟」と、「西郷隆盛」による会談後、江戸城無血開城が決まり、篤姫は大奥の退去を決心しています。

江戸城退去に際しては、逃げ出す幕臣もいるなかで、大奥の最期をしっかりと見届けています

1868年4月、江戸城無血開城が決定。同年4月9日に、和宮と「家茂」の生母・実成院が大奥を退去。翌日10日、天璋院篤姫と「家定」の生母・本寿院が大奥を退去。

彼女が直接的に「大奥を終わらせた」というわけではありませんが、「徳川家存続」を訴えて「江戸城無血開城」を後押しする形となった篤姫の行動は、大奥終焉の一助となっているでしょう。

元々大奥は、三代将軍「徳川家光」の養育係「春日局」が、同性愛者だったために女性嫌いであった3代将軍「徳川家光」の子供を残すために用意したもの。

その大奥・・・最期を見届けたのが「天璋院篤姫」・・・・。

彼女はその後、大奥関係者の「再就職」や「縁談」に力を尽くすこととなるのです。



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江戸城無血開城の後、篤姫の一生とは?

江戸城退去の後、篤姫は徳川家の女性として、人生をまっとうしています。

後に勝海舟が篤姫の性格について

「貞女というか烈婦」

と称するほど、過激な行動も取っています。

彼女は江戸城退去後、新政府軍に抵抗を続ける「奥羽越列藩同盟」の盟主「輪王寺宮公現法親王」と「仙台藩」に対して、「逆賊・薩長軍の討伐」を頼む手紙を送っています。

江戸城を出た後、平穏に暮らしていたかのように考えられていた「篤姫」・・・地元である「薩摩藩」を「逆賊」と罵り、討伐すべきであると主張していたのです。

奥羽越列藩同盟は、会津戦争などの激戦で崩壊。旧幕府軍は「箱館戦争」で敗北することとなります。

その後も篤姫は、徳川家存続のために尽力しています。徳川宗家16代「徳川家達」の養育に専念し、イギリス「イートン・カレッジ」への留学も経験させるほど熱心に教育。

更には自らの養父「近衛忠煕」の孫「泰子」と徳川家達の婚姻をすすめていたとのこと。

1882年、帰国した徳川家達(20)と泰子(15)は婚姻。1884年には長男「家正」が誕生しています。

以下の家系図・・・徳川家達は、慶喜の息子ではありませんので、ちょっとわかりにくいかもしれませんが・・・徳川宗家の家系図となっております。

「家系図の引用などはご遠慮くださいませ」

生涯かけて徳川家の存続に身を捧げた篤姫。特に大奥の女性たちの再就職や縁談を、強く支援していました。

時にはお出かけすることもあったようです。勝海舟に連れられて、芝居見物や吉原見物。旅行へはほとんど行かなかったようですが、それなりに自由を楽しんでいたと考えられます。

とはいえ、実家「薩摩藩」を「逆賊」とまで言っていた篤姫。最期まで薩摩藩からの金銭的援助を拒み続け、死後に残された金銭はわずか3円(6万円ほど)。

よほど徳川将軍家を終わらせた薩摩藩を憎んでいたのでしょう。「烈婦」と称されるその気概が伺えます。



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西郷隆盛との関係

2018年のドラマ「西郷どん」で、西郷隆盛と篤姫が、まるで心を通わせるかのようなシーンがあります。

史実上、西郷と篤姫の間に、そんな関係はありません。大河ドラマ「篤姫」でも、小松帯刀と篤姫が婚約していたかのようなシーンがありますが、それもフィクション。

西郷や小松帯刀は、下手したら篤姫と話をしたこともなかったかもしれません。

それだけ身分に大きな差があったのです。



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和宮との関係

家茂の妻「和宮」

家茂の養母「篤姫」と「和宮」は、嫁姑の関係。

2人は「武家」と「公家」の習慣の違いから、当初は仲が悪かったようですが、後に関係改善に成功。

協力して「江戸城総攻撃」の中止に尽力しています。

和宮は1877年、脚気で他界しています。享年32歳

和宮は「箱根」で静養していたのですが、篤姫はお見舞いに行っています。

しかし見舞いが間に合わず和宮は他界。篤姫は生涯初めての遠出が、この「箱根へのお見舞い」だったと言われていますので、よほど和宮を心配していたのでしょう。

間に合わなかった悔しさを、篤姫は歌に残しています

「君が齢(よわい) とどめかねたる 早川の 水の流れも うらめしきかな」

江戸城退去後、勝海舟と和宮、そして篤姫は頻繁に顔を合わせていたと言われています。

親しい戦友が亡くなったことが、悔しかったのかもしれません。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

・篤姫の功績は「江戸城総攻撃」の阻止に尽力したこと

・江戸城無血開城のとき、篤姫は大奥の最期を見届けた

・その後も徳川家の人間として生活を続けた

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


篤姫」「徳川家定」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

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この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (1件)

  • 篤姫の生涯年表では、1835年一姫・誕生とある。しかし、生い立ちで1836年「島津忠剛」の娘として「篤姫」誕生とある。
    島津家の系図と和泉家系図のどちらを根拠にするのかだとは思うが、天保6年12月19日は1835年か1836年かを合わせて説明してほしい。

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