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江戸城無血開城とは何がすごいの?篤姫や西郷隆盛が何をしたか解説!

「江戸城無血開城」とは、何がそんなにすごいことだったのか?

わかりやすく解説いたします。

「西郷隆盛」と「勝海舟」の会談で実現した「江戸城無血開城」。

「天璋院篤姫」も、「無血開城」に力を尽くしたのだとか。

「西郷」や「篤姫」は、何をしたのか?

「江戸城無血開城」の意味とは?


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この記事を短く言うと

・「江戸城無血開城」が実現したことで、江戸100万人が救われ、平和的な開国と、明治維新が成立した

西郷隆盛勝海舟は、徳川家の処遇について会談し、西郷は勝が提示した「骨抜き案」を丸呑みした

天璋院篤姫は、江戸城総攻撃が行われる直前、西郷へ「徳川慶喜を助けてほしい」と頼んでおり、それが効果を発揮して江戸城総攻撃は中止された



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≪江戸城無血開城とは、どんな事件だったのか解説≫

大政奉還」「王政復古の大号令」の後、「鳥羽伏見の戦い」から始まる官軍(新政府軍)と旧幕府軍の戦争である戊辰戦争。「錦の御旗」を掲げた薩長軍が江戸へ進軍を開始。

甲州勝沼の戦い(官軍の完勝)を経て、官軍は江戸に迫ります。

戊辰戦争は革命戦争であり、新政府としては、旧支配者である徳川家に対して、厳しい処分を断行すべきとする強硬論が主流であり、西郷隆盛大久保利通宛ての書状などで、徳川慶喜の切腹を断固求める旨を訴えていました。(慶喜を切腹させないと、源頼朝や後醍醐天皇のように再起して、明治新政府を倒してしまう恐れがあった)

官軍の目的は単に江戸城の奪取のみに留まらず、徳川慶喜への処罰、および徳川家の存廃が同一に語られるべき問題でした。

駿府に進軍した官軍は、軍議で江戸城総攻撃を1868年3月15日とします。

その一方で、幕臣の「山岡鉄太郎(鉄舟)」と「西郷隆盛」との下交渉を経て、徳川家サイドの最高責任者である会計総裁「大久保一翁」、陸軍総裁「勝海舟」と、大総督府下参謀「西郷隆盛」との江戸開城交渉が、田町(東京都港区)の薩摩藩江戸藩邸において、1868年3月13日・14日の2回行われました。

西郷は勝・大久保を信頼して、翌日の江戸城進撃を中止し、自らの責任で回答を京都へ持ち帰って検討することを約したのです。

ここに、江戸城無血明け渡しが決定されました。

そして、西郷は江戸城総攻撃中止命令を出したのです。

江戸城無血開城は下記の様な影響を与えました。

・江戸城総攻撃が行われていたら、当時世界最大規模と言われた江戸の町は火の海となり、100万人の江戸の住民の多くは焼け死に、家を失なっていました。江戸城無血開城により、江戸の町と多くの江戸の住民を救いました。

・江戸が無傷で新政府の手に入った結果、都市の生産性が維持され、日本の首都が江戸=東京となり、新国家建設に大きな役割を果たしました。

・日本の支配者であった徳川家が、明治新政府に対して完全降伏するという象徴的な事件であり、日本統治の正統性が徳川幕府から天皇を中心とする朝廷に移ったことを意味しました。

・諸外国は戦乱が貿易に悪影響となることを恐れていました。江戸が平和裏に新政府に引き継がれたことで新政府と諸外国とは良好な関係が維持できました。

何よりも、ときの権力者「徳川家」と、利権を持つ「武士」たちが、その「既得権益」をあっさりと新政府に譲渡したことが、かなり歴史的な行為なのです。

現代でも、既得権益を持つものは、その権益を手放すまいと必死の抵抗を見せます。「橋下徹」元大阪市長による「大阪都構想」が頓挫したことが、それを物語っています。

「徳川幕府の天下」という、「最大級の既得権益」を手放す際に、「戦争が起こらなかった」・・。「鎌倉幕府」が滅びるときには「鎌倉」「京都」で激戦が起こりましたし、「室町幕府」が滅びる際には、「足利義昭」が「武田信玄」らをそそのかし、「織田信長」に対して必死の抵抗を見せました。

徳川幕府の既得権益の放棄・・・・それこそが「江戸城無血開城」の本質であり、「歴史上稀に見る大事件」と見ることができるのではないでしょうか

とはいえ、「全く血が流れなかった」というわけではありません。江戸城明け渡しに反対していた「旧幕臣」は徳川家の菩提寺「上野寛永寺」に立てこもり「彰義隊」を結成。

長州藩の大村益次郎は、佐賀藩の圧倒的な軍事力を使って、彰義隊3000名をわずか一日で撃破しています。(上野戦争

その後、戊辰戦争は「東北」へと舞台を移し、「会津戦争」での悲劇を招くこととなるのです。

戊辰戦争の犠牲者は「約8000名」と言われていますが、その三分の一は「会津戦争」によるものです。江戸の惨事は避けられたものの、悲劇はこれからだったのです。



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≪西郷、勝海舟は、何をしたのか?≫

西郷隆盛

『引用元ウィキペディアより』

勝海舟

『引用元ウィキペディアより』

西郷は江戸総攻撃の強硬論者でした。

しかし、西郷は勝海舟からの使者と聞いて山岡鉄舟と会談を行い、山岡の真摯な態度に感じ入り交渉に応じました。

この時、江戸城総攻撃の回避条件として、西郷から山岡へ初めて条件提示があったのです。

その後まもなく、徳川家側の最高責任者である会計総裁「大久保一翁」、陸軍総裁「勝海舟」と、大総督府下参謀『西郷隆盛』との江戸開城交渉が行われました。

その交渉会談では、西郷が山岡に提示した降伏のための要求内容を骨抜きにした代案を、勝が西郷に返しました。

通常なら交渉決裂となりそうなものですが、西郷はそれを受け入れて江戸総攻撃は中止されます。

西郷と勝は1864年9月に大坂で面会して以来の旧知の仲であり、西郷にとって勝は、幕府の存在を前提としない新政権の構想を教示された恩人でもありました。

西郷は勝・大久保を全面的に信頼して決断したのです。



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≪篤姫は、江戸無血開城のために何をした?≫

第13代将軍・徳川家定の室であり、薩摩島津家出身である篤姫は、その時「大奥の責任」でした。

天璋院篤姫

『引用元ウィキペディアより』

官軍の江戸総攻撃が目前に迫る中、14代将軍・徳川家茂正室の和宮とともに、徳川家存続のために動きます。

自身の出身薩摩藩の家来筋であり、旧知の官軍参謀である西郷隆盛に宛てて歎願書(徳川慶喜の助命、徳川家の存続、江戸攻撃中止)を記し、自らの教育係にして西郷とも面識があったであろう女性「幾島」を使者にしています。

篤姫の使者(幾島)は西郷隆盛と面会し、西郷から篤姫に嘆願を受け入れる旨の連絡がありました。

篤姫の歎願は西郷隆盛に心理的影響を与えたに違いなく、江戸城無血開城は篤姫が、西郷隆盛に送った嘆願書の功も大きかったと言われています。

また、14代将軍「徳川家茂」の妻にして、孝明天皇の妹「和宮」も活躍しています。

新政府軍の総大将は、和宮の元婚約者だった「有栖川宮熾仁親王」。婚約者を徳川に奪われて恨み骨髄のお方。

和宮はその「有栖川宮熾仁親王」に嘆願をしています。

和宮・篤姫、二人の活躍により、江戸城無血開城は実現したのかもしれません。



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≪まとめ≫

本日の記事をまとめますと

・江戸城無血開城は100万人の江戸住民を救うと共に、江戸が無傷であったことが新国家建設に大きな役割を果たし、諸外国の信頼も得ました。

・西郷隆盛と勝海舟の会談で江戸総攻撃を中止とする交渉がまとまりました。それはお互いの信頼関係に基づくものでした。

・篤姫は自分の出身である薩摩藩での旧知である西郷隆盛に嘆願書を送り、西郷の心を動かします。江戸無血開城の一因となりました。

現代日本が首都を東京として繁栄してこれたのも、江戸無血開城に遠因があるのかもしれませんね。勝海舟が言ったように、西郷隆盛は江戸の大恩人です。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


西郷隆盛」「勝海舟」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

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