幕末、「長州藩」が京都から追い出された事件「八月十八日の政変」とは、どういう事件だったのか、わかりやすく解説いたします。
「異国を追い出そうと、過激な行動をくりかえす問題児『長州藩』を、薩摩・会津が京都から追い出した事件」
これが原因で「禁門の変」が起こるのです。
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この記事を短く言うと
・「八月十八日の政変」とは、「攘夷派」の長州藩が「京都」から追放された事件
・新選組の池田屋事件が起こったため、長州藩では過激派の主張が勢力をまして、軍を率いての上京が実現した
・上京した長州藩は、会津藩・薩摩藩に「禁門の変」で敗北した
八月十八日の政変をわかりやすく簡単に解説
八月十八日の政変とは何か?
「八月十八日の政変」とは、1863年9月30日(文久三年八月十八日)に京都で起こった「長州藩が、会津藩と薩摩藩によって、京都から追い出された」事件のことです。
当時、日本は諸外国からの圧力に押され、無理やり開国させられた幕末。
日本は外国勢力と不平等条約を締結させられ、存亡の危機に瀕していました。
「尊皇攘夷」という言葉をご存知でしょうか?
天皇をトップに祭りあげ、武力で諸外国を打ち払う・討伐することを意味する言葉ですが、その「攘夷」を誰よりも強く主張していたのが、「長州藩」です。
長州藩は、「攘夷」を強く主張していたものの、長州だけでは攘夷など不可能。
そのため、日本全国が協力して攘夷に当たらなくてはならないと考えました。
なぜ八月十八日の政変は起こったの?
八月十八日の政変が起こった理由は、孝明天皇が長州藩を嫌い、攘夷を強行する長州藩を危険視したためです。
日本全国が一致団結して「攘夷」を実行するためには、「孝明天皇」が「攘夷」を幕府と諸藩に命令することが必要です。
長州藩は、「天皇」による「攘夷」命令が下されるように政治工作を繰り返しますが、「下関砲撃事件」など、強引で過激な攘夷を行う長州藩に対して、孝明天皇は嫌悪感を示していました。
攘夷を望んではいたものの、過激な長州藩を嫌っていた孝明天皇
その孝明天皇に忠実に仕えていた「会津藩・松平容保」と、「公武合体派」だった「薩摩藩」・・・。
会津と薩摩が協力して、長州藩と、それを支持する「七卿」と呼ばれる公家を、京都から追放した事件・・・・・それが「八月十八日の政変」なのです。
「八月十八日の政変」から「池田屋事件」へ
「八月十八日の政変」で、長州藩は京都から追放。
長州藩は、政局への影響力を失いました。
それまで長州藩が主張していた「攘夷」論は衰退していきます。
「公武合体」・・・・・「攘夷」に代わって主流となった政策です。「公武合体」とは「朝廷」と「幕府」が協力して諸外国に対応するという「挙国一致体制」を目指す政策のこと。
京都から追い出され、「攘夷」論が衰退していく中で、「長州藩」は焦りました。
その局面を打開しようと、長州藩の過激派は、凄まじいことを計画します。
「京都御所に放火し、一橋慶喜と会津藩主・松平容保を暗殺。
混乱の中で、孝明天皇を長州藩へ連れ去り、攘夷の旗頭とする」
この計画は、会津藩の指揮下にあった「新選組」に漏れてしまったのです。
新選組局長・近藤勇や副長・土方歳三は、この機会を「新選組の名前を売る絶好の機会」ととらえ、長州藩士たちが集結する「池田屋」へ突入。
長州藩の作戦は失敗。吉田松陰の弟子にして「久坂玄瑞」や「高杉晋作」と並び「松下村塾三秀」の一人に数えられた秀才「吉田稔麿」がこの事件で死亡。
このとき、木戸孝允(桂小五郎)は、運良く逃れています。
貴重な人材を失った長州藩士たちは激怒。過激派の発言力が一気に増し、「禁門の変」へ向けて走り出すこととなります。
禁門の変(蛤御門の変)勃発
池田屋事件で過激派が主導権を握ることとなった「長州藩」は、朝廷・天皇に対して「長州藩は無実」であるということを主張するため、2000人の軍を率いて京都へ。
しかし京都では、一橋慶喜・会津藩・薩摩藩など「2万」の軍団が御所を警護していました。このとき、薩摩軍を率いていたのは「西郷隆盛」。
久坂玄瑞をご存知でしょうか?
吉田松陰の義弟で、師でもある松陰から、長州一の秀才と呼ばれた人物です。
長州軍の久坂玄瑞は慎重論を主張したものの、「来島又兵衛」たち過激派が「即時開戦して力づくで天皇へ無実を訴えるべき」と主張。
来島の主張が通り、京都市内で「長州藩」と「会津・薩摩」の軍が激突。
長州藩は敗北し、久坂玄瑞や来島又兵衛は死亡。
御所に向けて発砲した長州藩は「朝敵」とされてしまいます。
長州藩は、この「禁門の変(蛤御門の変)」で戦った薩摩や会津を激しく憎み、「薩賊会奸(さつぞくかいかん)」と履物の底に書き、踏みつけていたのだとか。
後に、長州藩と薩摩藩は接近し「坂本龍馬」「中岡慎太郎」の斡旋もあって「薩長同盟」を締結。
しかし会津藩との関係は改善されず、「会津戦争」における「白虎隊」の悲劇など、凄まじい惨劇に繋がってしまうこととなります。
『八月十八日の政変』について、レビュー(評論)!
「八月十八日の政変」・・・・長州藩の立場からすれば、かなりショックだったはず。
なぜなら、長州藩は「天皇が望んでいた攘夷を、誰よりも率先して行っていただけ」なのですから。
とはいえ、長州藩は過激すぎました。下関海峡で外国船を突然砲撃したり・・・・ちょっとやりすぎです。
孝明天皇は、長州藩をかなり嫌っていたと言われています。天皇は攘夷派望むものの、性急で過激な長州を、煙たがったのでしょうね。
この「八月十八日の政変」をきっかけに、「池田屋事件」「下関戦争」「禁門の変」「第一次長州征伐」と、長州は踏んだり蹴ったりの状態に追い込まれます。
それにしても・・・これだけ負けまくったのに、よく立ち直れましたね長州藩。
やはり薩摩の支援が効いたのか・・・。後に長州は、高杉晋作たちの活躍により「第二次長州征伐」で幕府軍に勝利することとなるのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・八月十八日の政変とは、攘夷派急先鋒の「長州藩」が「会津藩」「薩摩藩」により、京都から追放された事件
・その後、「池田屋事件」が起こり、長州藩の過激派が実権を握る事となる
・「禁門の変」で敗北し、長州藩は「朝敵」となってしまう
以上となります。
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