【王政復古の大号令とは】世界一わかりやすく簡単に5分で解説!

教科書にも登場する歴史的事件「王政復古の大号令(クーデター)」ですが、これが何を意味する出来事なのかご存知ですか?

「王政復古の大号令」とは、「新しい政府をつくります」という宣言のことであり、「徳川慶喜」を排除するための罠だったのです。

「王政復古の大号令」の意味と、「大政奉還」との関係など、世界一わかりやすく、簡単に解説いたします。

これを読むだけで「王政復古」と、その周辺の歴史の流れが全部わかります!


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この記事を短く言うと

・「王政復古の大号令」とは、「新政府」をつくることを全国に伝えた宣言のこと

・「王政復古」の目的は「徳川慶喜」を新政府から排除(仲間はずれ)にすることだった

・しかし「王政復古のクーデター」は失敗し、西郷隆盛たちは「鳥羽伏見の戦い」「戊辰戦争」により、力づくで「江戸幕府」を滅ぼした


王政復古の大号令とは何か?大政奉還との関係

「王政復古の大号令」とは何か?

簡単に言ってしまうと

「それまでの政治のやり方をすべて廃止し、新しい政府を樹立する!」という宣言

「新政府の誕生宣言」

のことです。「王政復古」・・・つまり「王様(天皇)が政治をする体制に復古(もどる)」ということ

1868年1月(慶応三年一二月)、それまで「江戸幕府」という機関が政治を行ってきたわけですが、薩摩長州が中心となって朝廷に働きかけ

幕府制度の廃止」

「摂政関白の廃止」

「三職(総裁・議定・参与)という新しい役職の設置」

などを発表し、「新政府」の樹立を宣言しました。


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「大政奉還」について

「討幕の密勅」と「大政奉還」について・・・・「王政復古の大号令」が行われる二か月前に話を戻します。

朝廷は「討幕の密勅」、すなわち『「江戸幕府を倒せ」という秘密命令』を薩長に出していました。黒船来航以降「諸外国の圧力」に屈し、不平等条約を締結するような「弱い幕府」のような政治機構を除こうとしたのです。

しかし、それを未然に察知した幕府のトップ「徳川慶喜」は、坂本龍馬らが画策した「大政奉還」で「政権を朝廷に返上」することにより、「幕府」というものを消滅させます。

「大政奉還」とは、今でいえば

「内閣総理大臣をやめさせるために、デモを行おうとしたら、デモの直前に総理大臣が自分からやめたため、デモをやる理由がなくなった」

というようなもの。

討幕を狙っていた薩長は焦ったはずです。「やっと朝廷が『討幕の密勅』を出してくれた!これで幕府を倒せる!」と思った矢先、「大政奉還」で幕府が消滅したのですから。「討幕」しようにも、倒すべき「幕府」自体がなくなってしまっては、倒しようがありません。

この「大政奉還」・・・慶喜のギブアップ宣言と勘違いされがちですが、慶喜はこれっぽっちもギブアップしていません。むしろ「大政奉還」は強烈な反撃の一手なのです。慶喜は「政権を返上」しても、どうせまた自分に「政治を行う権限」が戻ってくることを確信していました。

「幕府」から「政権を返します」と言われたものの、当時の朝廷には政治を行う能力などありません。そのため朝廷は、「大政奉還」をされたものの、徳川慶喜に「続けて政治を行うように」と命じていました。

西郷隆盛大久保利通は、大政奉還したものの、それでも政治に強く介入する「徳川慶喜」を危険視します。

徳川慶喜
『引用元ウィキペディアより』

なんとかして「徳川慶喜」を排除しなくては、旧幕府と変わらない政治体制が続いてしまう。そうなると、「近代的な国家」を作り上げることができない。

そこで行われたのが「王政復古の大号令」なのです。


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王政復古のクーデターは、徳川慶喜を倒す秘策

王政復古の大号令」とは、「新政府樹立の宣言」。大久保や西郷、岩倉具視はこの宣言で、「徳川慶喜」を排除した「新政府」を樹立しようとしたのです。

しかし、土佐藩「山内容堂」や福井藩「松平春嶽」らが、「徳川慶喜」を新政府に参画させるべきと、強く要求。

≪松平春嶽≫
「引用元ウィキペディアより」

「短刀一本あれば、済む話です(刺殺して口を封じろ)」

西郷隆盛はこのように言って、「慶喜擁護」を口にする山内容堂を脅して黙らせます。

「王政復古の大号令」・・・その目的は、「徳川慶喜」を新政府に参加させない(政治から排除する)ための「クーデター」。

「王政復古の大号令」を現代に例えて言うなら

「【古い会社の社長(慶喜)】のやり方が気に入らないから

新会社をつくって

【古い会社の社長】を除く全員が、新会社に移動した」

ということになると思います。


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クーデター、天才「慶喜」により失敗

実はこの「王政復古の大号令」・・・実質的に失敗に終わっています。

「王政復古」で樹立を宣言された「新政府」ですが、政治の素人集団である新組織に政治を行う能力などありません。政治を行える実績があるのは「徳川慶喜」のみ。それがわかっていた「山内容堂」や「松平春嶽」は、「慶喜の政治参加」を強く主張。朝廷もそれを認めざるを得なくなるのです。

徳川家康の再来」・・・・こう呼ばれていた天才「徳川慶喜」は、王政復古の大号令が行われたのちも、保有していた「旧幕府」の財力・組織力・軍事力を背景に、全国の統治を続けることをほのめかします。しかもそれに「朝廷」が許可を出してしまう有様。

西郷と大久保は焦りました。このままでは「慶喜を中心とした政府」が出来上がってしまう。

《西郷隆盛》
『引用元ウィキペディアより』

《大久保利通》
『引用元ウィキペディアより』

慶喜中心の政府が出来れば、これまでの「幕府」と変わりなく「武士」という特権階級が優遇され、「平等」で「近代的」な政府ができない・・・。

西郷隆盛は、もはや手段を選んでいられない状況に追い込まれ、旧幕府勢力を「挑発」するという、鬼のような行動に出るのです。


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「鳥羽・伏見の戦い」へ

「王政復古の大号令」は、慶喜の策略によって「骨抜き」となり、慶喜ら旧幕府勢力の日本支配は続きました。

西郷は考えます。

「こうなったら無理やり口実を作ってでも、徳川慶喜と戦争をし、力づくで慶喜を排除するしかない」

「挑発」・・・薩摩藩は、江戸でゲリラ的な放火などの破壊活動を実施。これに怒った旧幕府勢力の庄内藩が、「薩摩藩江戸藩邸」を放火。

徳川慶喜の部下たち「旧幕府勢力」は、挑発を繰り返す「薩摩討伐」を主張。怒りに燃えた旧幕府勢力は、すでに止められない状況となっていました。


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1868年1月27日、「王政復古の大号令」から24日後、京都の「鳥羽街道」で、街道を封鎖していた「薩摩軍」と「旧幕府軍」が接触。薩摩の挑発にのった旧幕府軍との間で戦闘開始。

鳥羽伏見の戦い」が勃発。旧幕府軍は敗北します。

1868年1月30日、徳川慶喜は、圧倒的な軍を持ち、再戦すれば勝利できたにも関わらず、松平容保らを連れて大坂城から江戸へ退却。

翌日、旧幕府勢力が「朝敵(朝廷・天皇・日本の敵)」として認定。ちなみに朝敵となり、天皇に勝利した者は「足利尊氏」以外、歴史上誰もいません。

その後「戊辰戦争」が勃発。西郷隆盛が率いる新政府軍が江戸へ進軍。幕府全権「勝海舟」と会談し「江戸城無血開城」が実現。

≪勝海舟≫
「引用元ウィキペディアより」

「徳川慶喜」は、勝海舟や「天璋院篤姫」に説得された西郷により、命を救われて謹慎。260年以上続いた「江戸幕府」はこうして完全に滅亡したのです。

余談ですが1869年、「戊辰戦争・北陸戦線」で、西郷隆盛の次弟「西郷吉二郎」が戦死しています。


なぜ「慶喜」は、圧倒的な軍事力を持ちながら、一人退却したのか?その理由については、以下のリンク記事で詳しく解説しております。

↓↓↓↓

「徳川慶喜の生涯と静かな最期!最高の名君が、世紀のバカ殿に落ちた理由」の記事はコチラ

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まとめ

本日の記事をまとめますと

・「王政復古の大号令」とは、「新政府」樹立の宣言のこと

・西郷隆盛や大久保利通は、「王政復古の大号令」で「徳川慶喜」を新政府から排除しようとした

・結局、王政復古の大号令は失敗。西郷は「鳥羽伏見の戦い」「戊辰戦争」により、力づくで「徳川慶喜」を排除した

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

↓↓↓↓↓↓

「徳川慶喜の生涯と静かな最期!最高の名君が、世紀のバカ殿に落ちた理由」の記事はコチラ
「大久保利通の生涯と壮絶な最後!西郷隆盛と並ぶ『憎まれた英雄』の真実」の記事はコチラ
「大政奉還はなぜ二条城という場所で行ったの?行われた部屋の秘密とは」の記事はコチラ

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