幕末にアメリカへ渡った日本人「ジョン万次郎」
大河ドラマ「西郷どん」で、「劇団ひとり」氏が演じている「ジョン万次郎」
彼の英語発音や覚え方がすごい!
そして彼が作った教科書もすごかった!
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この記事を短く言うと
・ジョン万次郎は、漁の途中に漂流し、捕鯨船に救助されてそのままアメリカへわたった
・アメリカで数年を過ごしたのち、万次郎は帰国。薩摩藩主「島津斉彬」にむかえられた
・彼の英語学習方法は、「聞いて真似る」という方法だったと考えられる。現在日本の学校で行われている「読む書く」を重視する勉強法よりも「会話」を重視した学習方法だったため、より早くしゃべれるようになった。
・万次郎の教科書は、「COOL」を「こーる」、「WATER」を「わら」と、真似しやすいように発音を似た日本語に言い換えるものだった
ジョン万次郎とは何者?名前は本名なの?
「ジョン万次郎」の渡米
「ジョン万次郎」
1827年、幕末の日本・土佐で生まれた人物です。
彼の功績を簡単に言ってしまうと、鎖国された江戸幕府・日本から、偶然アメリカに渡った万次郎は、アメリカの最新知識を学んで日本へ帰国。その後、日米和親条約や明治の礎を築く手助けをしたのでした。
彼は、土佐国・現在の高知県で漁師の家に生まれました。
貧しかったため、読み書きが出来ず、幼い頃から漁師として仕事をして、家計を支えていました。
14歳の頃、4人の漁師仲間と共に海で遭難。
漂着した「伊豆諸島」の無人島で約5ヶ月生活したのですが、そのときに、偶然アメリカの捕鯨船「ジョン・ハラウンド号」が、5人を救助。
鎖国している日本に送り届けることも出来ず、「ジョン・ハラウンド号」は、ハワイへ寄港。
4人はハワイでおろされましたが、万次郎は船長に気に入られて、アメリカ本土へ。
彼は「ジョン・ハラウンド号」の船長に気に入られ、船長の養子となります。
万次郎はその後、アメリカで「オックスフォード学校」や「バーレットアカデミー」に入学、英語や数学のみならず、測量に航海術に造船術も学び、なんと主席で卒業。
その後、万次郎はゴールドラッシュを利用して金採掘で資金を稼ぎ、それを使ってハワイに置いてきた仲間と合流。
上海行きの船に、仲間や小舟「アドベンチャー号」と共に乗船して帰国へ。
1851年、彼は琉球に上陸し、即座に薩摩へと送られました。
万次郎は薩摩藩で取り調べを受けたわけですが、そのときに万次郎に興味を示したのが、名君の誉れ高き「島津斉彬」
斉彬は、万次郎の造船術や航海術を高く評価し、彼を厚遇。
その後、万次郎は長崎から土佐へ帰国。
実に11年ぶりに故郷・土佐へ戻ることに成功したのです。
帰国後の活躍
帰国後、万次郎は侍に取り立てられ、土佐藩校の教授に任命
「岩崎弥太郎」などを指導し、坂本龍馬とも面識があったと言われています。
幕末という時代に鎖国していた日本では、万次郎のような国際感覚を備えた人材は貴重でした。
その為、1853年に黒船が来航した際、徳川幕府は「万次郎」を旗本・・・つまり幕府直属の部下に大抜擢。
これは、当時の士農工商の身分社会において、異例の抜擢でした。漁師から幕府直臣となったのですから。
万次郎は、「中濱(なかはま)」の苗字を与えられ、造船などの後進育成にあたりながらも、日米和親条約締結の際には、アドバイスも行っています。
その後、日米修好通商条約の批准書をアメリカに届けるため、勝海舟とともに「咸臨丸」で渡米。
船長・勝海舟にかわって、実質・船長として船を指揮。
この時、福沢諭吉とともに、アメリカで英語辞書を買って帰国した事は有名です。
その後も、軍艦操練所の教授を務めたり、土佐藩校の教授などに就任。
1869年・明治2年には現在の「東京大学」英語教授に就任しました。
万次郎はその後も後進育成に力を注ぎ、1898年・明治31年に72歳で亡くなっています。
墓所は東京・雑司ヶ谷霊園。
偶然の遭難から渡米することとなった万次郎。幕末から明治にかけて、後進育成に力を注いだ彼は、後世まで名を残す偉人となったわけです。
「ジョン万次郎」という名前は本名?
結論から言えば、「ジョン万次郎」という名前は、彼の本名ではありません。
あくまでも彼の本名は「中濱万次郎」
ジョン万次郎という名前は、【1938年(昭和13年)】の直木賞作品「ジョン萬次郎漂流記」で使われたあだ名です。
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ちなみに万次郎は、渡米した際の船「ジョン・ハラウンド号」の名にちなんで、「ジョン・マン」と船員たちから「あだ名」を付けられていたみたいです。
彼を「ジョン万次郎」と呼んだ日本人は、当時一人もいなかったのではないでしょうか。
ちなみにこの「ジョン万次郎漂流記」、とてもおもしろかったです。
ジョン万次郎の英語の覚え方とは?
万次郎は、読み書きが全くできませんでした。
にも関わらず、オックスフォードなどで勉強に努め、首席で卒業しています。
どうやって英語を覚えたのか?
万次郎は日本語の読み書きができない上に、相手は日本語がわからないアメリカ人。
どうやって学んだのか、不思議です・・・と言いたいところですが、答えは極めて単純だと思います。
彼は、「日本語を学んだ方法と全く同じ方法で英語を学んだ」のではないでしょうか。
つまり「聞く」「真似る」を繰り返して身につけたのではないでしょうか。
例えば、「トイレに行きたい」という言葉を英語で耳にしたとしましょう。
その「トイレに行きたい」という言葉を口にしていた人間は、ほぼ全員が、その言葉を口にした直後にトイレへ直行するはず。
それをみた万次郎は、おそらく
「あの言葉は、『トイレに行きたい』という意味なんだ」
と閃いたことでしょう。
つまり、赤ん坊が言葉を覚えるように、万次郎は英語を耳で聞き、口で真似して覚えていったのでしょう。
これならば、日本語の読み書きが出来なくても、ましてや通訳や教師がいなくても、英語を身につけることができるはず。
「日本語を学んだ原点に立ち返った」
それが万次郎の「英語学習法」だったのではないでしょうか。
彼が作った教科書が面白い
万次郎は、帰国後に英語教授として後進育成に励みました。
彼が作った教科書や、採用した教育方法が、極めて面白いものだったと言われています。
彼は英語を耳で聞き、それをそのまま発音していたため、現在のような「発音記号」などを利用していませんでした。
例えば「COOL」は「こーる」
「WATER」は「わら」
「SUNDAY」は「さんれぃ」
「にゅうよぅ」は・・・・・・・「NEW YORK」
のように、耳で聞いた音を、そのまま自分の口で再現する・・・・・これらの文字をそのまま教科書に表記して、繰り返し練習させる・・という方法で、後身を育成していたみたいですね。
万次郎の英語学習方法は、現在の英会話教室でも採用されているのだとか。
噂によると「ABCの歌」を日本へ持ち込んだのは「ジョン万次郎」だとも言われています。
そんな英語教育の元祖だった万次郎・・・・長い日本での生活は、彼から英語能力を奪ったらしく、晩年は英語が話せなくなっていたようです。
今ならば、世界中どこにいてもテレビやラジオ、DVDなどで「日本語」「英語」に触れる機会があるので、言語を忘れるなんてことはないでしょう。
しかし、英語と触れる機会が乏しい明治の日本でなら、それもあり得るはず。
それでも彼の教育方法は現在でも利用されています。
もしかしたら、現在日本で行われている英語教育よりも、万次郎式英会話のほうが、英会話能力が磨かれるかもしれませんね。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・ジョン万次郎は、漂流しているところを捕鯨船に助けられ、図らずも渡米を果たした
・彼の英語学習方法は、赤ん坊と同じく、「聞く」「真似る」というものだった
・万次郎が作成した教科書は、英語発音をそのまま日本語表記したもので、英会話能力向上にとても役立っていたらしい
以上となります。
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